荊の墓標 20

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 真実がこれほどに残酷なものなら、いっそ夢に溺れていたかった。
 でも、それならきっと、俺よりもあなたの方が。
「兄様……」
 ロゼウスはドラクルを見上げる。ロゼウスとよく似た顔立ちの青年は、酷薄に笑んで返す。
 おそらくロゼウスも彼も父親似だということなのだろう。ローゼンティア国王ブラムス陛下と、その弟であるヴラディスラフ大公フィリップ閣下はよく似ていた。
 その二人とも、もういない。
 ドラクルの策略によって、エヴェルシードに殺されたことは確定情報とされている。フィリップ大公がどのような最期を迎えられたかは不明だが、ロゼウスは父の最期を知っている。
 ロゼウスと剣を合わせていたシェリダン、その肩越しに、エヴェルシードの将軍が父を殺した瞬間をこの眼で見た。足元の地面が崩れていくように感じて、もう戦えなかった。
 あの惨劇は全て、ドラクルが仕組んだものだったのだと言う。
「兄ではないと言ったはずだ」
「それでも、兄様です。ドラクル。あなたは俺の、兄様です。……十七年間、そう思って生きてきました」
 兄上、兄上、兄上。
 誰よりも大好きな兄上。
 どんな目に遭わされてもそれに不満を覚える自分の方がおかしいのだと痛みを押し殺し、精神防衛を歪な愛情にすり替えてまで側にいて欲しかった兄上。
 愛していると錯覚し、愛して欲しいと切望したのは父上でも母上でもない、ただあなたに、だ。
 けれど。
「私はお前を弟だと思ったことはない」
 あまりにも穏やかにそんなことを言う。
「兄上」
「違う、ロゼウス。私はお前の兄などではない。そしてお前は私にとって」
 墓標。
 はかじるし。
 どれだけ兄妹の数が多くとも、玉座を継ぐべきはたった一人だ。ロゼウスたちはみんなずっと、それはドラクルなのだと思っていた。
 けれど、そう思われていた当の本人、ドラクルにとっては違ったのだ。
 正妃の息子であり、本当のブラムス王の子。ロゼウスが生まれた瞬間からドラクルには存在意義が亡くなったというのなら。
 紛れもなく、ロゼウス=ローゼンティアはドラクル=ヴラディスラフの墓標。
 自らの墓石を見る目ならば、彼がロゼウスを見るたびにどこか切なく憎悪の入り混じった目をしていたのにも頷ける。
 さぞや忌々しかったでしょう。
 ドラクルはロゼウスから視線を少しずらし、いまだロゼウスを抱きしめている腕の主に告げる。
「何故、私が国を滅ぼそうとしたか、これで納得がいったかい? シェリダン王」
「……ああ」
 煌々と燃える炎のような瞳でシェリダンはドラクルの笑みを睨み付けた。
「最初は父上が私にくれると言っていたものを、くれないとわかった。だから自分で貰いに行ったんだよ」
「なるほどな」
「あなたにはわからないかな? シェリダン王。軍事国家にして男尊女卑の傾向が強いエヴェルシード王国では、正妃の血筋など男児であることの二の次――カミラ姫もお可哀想に」
 正妃の血筋を厚遇するローゼンティアとは違って、エヴェルシードではまず第一に男児である事が王位継承の決め手になる。庶民の王妃から生まれた息子であるシェリダンが王になるなど、これがローゼンティアだったら考えられないことだ。正妃の子どもであるカミラを差し置いてなんて。
 ドラクルの口から出たその名に、ロゼウスとシェリダンはハッと同時に顔を上げた。そういえばあの御前試合の折、カミラはアンリたちと共謀するように登場したのだった。だったら彼女までもが、ドラクルと……。
「カミラも貴様と手を組んでいるというわけか」
 答えるように、ドラクルがその笑みを深くした。ドラクルとその他の兄妹、ハデスにカミラ。一体どれほどの人間が、吸血鬼が、それぞれの思惑で手を組んだのか。
 ローゼンティアの王位を奪う事が目的だと言い放ったドラクルと、皇帝陛下を害することを企んだハデス。それにシェリダンとロゼウスに恨みを持っているカミラが加わって、一体何を成そうとしているのか。
「その通り。何せ私と彼女とは、目的が同じものだからね」
「目的?」
「ああ」
 シェリダンがロゼウスを抱く腕に力を込める。彼の怒りや動揺や、そんな様々な感情の揺れがロゼウスにも直接伝わってくる。
 当たり前だ。今までの話から言えば、ドラクルは自らがローゼンティアの玉座につくために隣国であるエヴェルシードを、その王たるシェリダンを、上手く利用したことになる。シェリダンはその彼の手のひらの上で躍らされていただけに過ぎないなどと、恐ろしく矜持の高いシェリダンに認められるわけがない。
 歯噛みするのを堪えるシェリダンに向けて、ドラクルは言った。
「そう。私と彼女の共通の目的」
 彼は優雅に、嫣然と笑む。
 笑って笑って笑いすぎて、この世と自分を嘲り笑いすぎてそれ以外の表情を忘れてしまったかのような笑み。
 そして禍々しく青い薔薇のような満月の闇夜に浮かぶ白い手を、すっとこちらに向けて差し出した。

「ロゼウスを返してもらおうか? シェリダン=エヴェルシード王」

 ロゼウスは咄嗟にシェリダンの胸にしがみついた。ドラクルはそんなロゼウスの様子でさえ笑ったまま見つめている。
「いきなり何を言い出す? ローゼンティアの王位が欲しいだけならば、もはやお前にとってロゼウスは不要どころか邪魔なだけの存在だろう?」
 抱きしめたロゼウスの体を離さないまま、一度は収めた剣をシェリダンが再び抜いてドラクルへとその切っ先を向けた。多少距離があるため威嚇程度にしかならないが、攻撃の意志を伝える分には十分だ。
「そんなこともないよ。シェリダン王。そこまでしなければ、私の復讐は完成しない」
「復讐」
 鸚鵡返しに呟いたロゼウスへと、ドラクルが視線を向ける。
「そう、復讐だ。私があの方に奪われたものを、あの方のれっきとした息子であるロゼウス――お前から返してもらう」
「奪われたもの、って……?」
 ロゼウスは思い出していた。
 白い背中に穿たれた蚯蚓腫れ。明らかに鞭で打たれた傷。彼の部屋で待っている時に何度か見たその光景。
「私があの方の息子でないことは、あの方自身をも追い詰めたようだ。だからって、こんなのは理不尽だろう?」
 私だけが辛い思いをするなんて。だから与えられた痛みを世界に返してやろうと思って。
 そしてこの十七年、ロゼウスにとっての世界がドラクルであったのなら。
「私の親愛なる他人殿――ブラムス国王陛下に」
 ドラクルの世界は父上だったのだ。
「ドラクル」
「おいでロゼウス」
 差し出された白い手をロゼウスは凝視してしまう。狂的な澱んだ光をその血の色の瞳に湛えて、ドラクルは甘い声で誘う。
「本当の第一王子、王位継承者であるお前が私のものとなるならば、ブラムス王にとってこれ以上の皮肉はない」
 一歩踏み出そうとしたロゼウスの体を、シェリダンが引きとめる。
「シェリダン!」
「どこへ行く気だ! お前はまたあの男に虐待されて偽りの愛に縋りながら生きていくつもりなのか!?」
「……っ!」
 言葉が胸を裂いた。
「で、も」
「でももだってもない。お前はすでに私のものだ。離れることなど許さない」
 朱金に輝く、炎そのものの瞳がロゼウスを睨む。
「でも、シェリダン……ドラクルが……」
 堪えていた涙が、とうとう堰を切って零れ落ちる。その雫は透明な雨粒となってぽつぽつと下生えを濡らす。長靴についた泥を洗う。
「駄目だ」
 復讐だと兄は……否、兄だと思っていた人は言った。ロゼウスの父親、ローゼンティア王への復讐だと。彼はもういないのに。
 相手が死してなおその憎しみに囚われているあの人を、どうしたら。
「俺の……俺が……」
 どうしたら、自分に彼の傷を癒す事ができるんだ。

 あなたの涙の湖に沈む王家。
 涙の湖の底の王家。
 どれだけ泣けば、救われるのでしょうか。
 そんな日は、永久に来ないのでしょうか。

「ドラクル、幾つか質問に答えてもらおうぞ」
 その時、割り込んだのは女の声だった。

 ◆◆◆◆◆

「なんだい、アン。君も親愛なる他人殿よ」
ロゼウスに差し出していた腕を戻して、ドラクルは唐突に声をあげたアンに顔を向けた。ドラクルより一つ年下の姉上は、大公ではなく王の娘。すなわち確実にロゼウスの姉である人だ。
 そしてドラクルからすれば従姉妹姫にあたる。
「そなたはロゼウスを手に入れることが父上への復讐になると言ったんじゃな。手に入れる、とは、具体的にどうする?」
「アン?」
「姉上?」
「アン姉様!?」
 これまでの会話の流れをぶった切る、突拍子もない問に他の兄妹たちも素っ頓狂な声をあげた。
「具体的に、か。そこの王様と同じことだよ?」
「同じこと?」
 指差されたシェリダンが、眉根を寄せる。同じこと、の意味が彼もロゼウスたちも咄嗟には理解できない。
 何かに思い当たったらしいアンリが、半信半疑と言った様子で口を開く。
「それってつまり……女装させて妻にするとか、そういう」
「そういうこと、だよ」
 こともなげに頷いたドラクルに、驚愕の視線が集まる。
「薔薇の王国にとって、ロザリア=ローゼンティアの血は絶対。王の血筋は維持しないと、ね」
 皮肉気に笑む彼がそれをさらさら尊重する気などないと丸分かりの態度で告げると、アンは臆する様子もなく彼にと歩み寄っていった。
「そうか。つまり、王の血の証明が欲しいのじゃな?」
「ああ。全くの無から始めるには、我等が祖国は信心深過ぎる」
「王家の姫を娶ってその子を生ませれば、王の血を存続したままそなたの生の意味を、その血を混ぜることができる。それが例え見せ掛けだけでも」
「ああ」
 狂ったとしか思えないことを言うドラクルと、同じような表情で微笑んでアンは言った。

「ならばこの胎、貸してやろうか? ドラクル」

「姉上っ!」
「アン!?」
 ドラクルがパチリと瞬いた。
「正気かい? もと妹殿……第一王女アン殿下」
「もちろん正気だとも。何、わらわはただ、これからも王族に戻りたいだけよ。名目だけの第二夫人であろうと、市井にあるよりはそなたの妾として反乱後の王家に収まったほうがいい暮らしができるであろうからな」
 何故か嘘だと、その目を見ていればわかってしまった。
 ああ、そうかアン姉様、あなたはドラクルのことが……。
「アンお姉様!?」
「ちょっと! 何よそれ!」
 ミザリーとロザリーが憤慨したように叫ぶ。その二人とはまた違った様子で、ルースが密やかに顔を顰めるのも目に入った。
「アン……」
 男兄弟の反応も様々で、ヘンリーは蒼白になっている。アンリはただただ呆然とし、まだ幼いウィルやエリサにはその言葉の意味すらわからなかったようだ。
「良い提案じゃろう? ドラクル兄上よ。単にロゼウスに女の召し物を着せて人形のように妻とするだけでは埋められない部分を、このわらわが埋めてやると言うのじゃ」
 そうすればローゼンティアの血筋は、名だけでなく実も共にドラクルのものになる、と。
 男であるロゼウスがドラクルの妻になる代わりにその子として子どもを生んでやると言った第一王女アンは、第三王女ミザリー程ではないもののその美貌で知られた顔に笑みを浮かべる。
 ドラクルが身を折った。先程の冷笑とはまた別の意味で笑っている。
「くくく、はははははっ! 面白いよ、アン。まさか君がそれほど愉快な性格だったとはね」
「何とでも言えばよかろう。わらわはただ王家の暮らしに戻りたいだけよ。いつまでも逃げ隠れるようなことも、粗末な日常にも耐えられぬ。それに、どうせわらわはそなたからすれば従姉妹なのであろう? 関係を持ったところで、問題はないはずじゃろ?」
「確かにそうだね。私はヴラディスラフ大公と侍女の子どもで、君はブラムス王とテトリア家の王妃の娘。何も問題はない」
「だったら」
「待ちなさいよ!」
 さくさくと話を進めようとする二人に水を差すために、ロザリーが声を張り上げる。制止の意味を力強く叫んだ。
「第一王女アン殿下! お姉様、あなた本当にローゼンティアを、お父様たちを裏切ってドラクルにつくつもりなの!?」
「ロ、ロザリー」
「止めないでよミザリー姉様! だって、ドラクルにつくってのはそういうことでしょう!?」
 辺りの兄妹一同を見回して、ロザリーがそう確認する。
「ねぇ、みんな冷静になってよ! あたしたちはローゼンティア王族なのよ! ずっとそう信じて、そうであるために生きてきたんでしょ!?」
 王家の者として国民の血税で生かされる代わりに、その分だけの利益を国に還すために。本来王族とはそうあるべきだと。
「別にその王家が、何もかもブラムス王のものでなければならないという規則もないと思うがな。民にとってはその指導者が優秀ならばそれで問題はない」
「アン姉様!」
「言いたいことをはっきりさせるか? ロザリー=ローゼンティア。そなたはこう聞きたいのであろう? ロゼウスとドラクル、どちらにつくのか、と」
「!」
 アンリの、ヘンリーの、ミザリーとミカエラの、ウィルとエリサの、そしてロザリーとアンの視線が一斉にロゼウスの方へと集まる。ついでドラクルを見て、最終的にはその間で迷うように揺れる。
「確かにローゼンティア家の血統を維持するのならば、本当の第一王子であるロゼウスが国を継ぐべきじゃな。だが、本当にその実力が、ロゼウスにあるのか?」
「姉様……」
「悪いがわらわには、幾ら誰とも知れぬ母を持つとはいえドラクルにその能力があることは認めてもロゼウスのことは血統だけで、後は認められない。わらわはロゼウスが帝王学のどこまでを実践できるかなどさっぱり知らぬからな」
「……一理、ありますね」
「ヘンリー兄様! ロゼウスは!」
「わかっているよロザリー。確かにロゼウスは優秀かもしれない。けれど、私たちは幼い頃からドラクルが次期王になる、それだけを信じてここまで来てしまったんだ」
「でも、そんな……っ、だってロゼウスは……!」
 自分よりかなり年上で優秀な兄姉の意見に押されかけ、ロザリーが泣きそうになる。
「ロザリー、大丈夫だ。別に俺は構わない」
「ロゼウス!」
 すぐ下の妹の顔がくしゃりと歪む。今にも泣き出しそうなその顔に、ロゼウスは微笑みかけた。
 ああ、大丈夫。まだやっていける。
 彼女だけはいつも、ロゼウスの味方でいてくれる。助けられてばかりで、ロゼウスの方が不思議になるほど献身的にロザリーはロゼウスを守ってくれた。兄妹の幾人かが本当の兄姉ではないのだと知れても、ロザリーに関しては同じ父を持つ妹だった。……ロゼウスはそれだけで、もう十分だ。
 また何事か言いかけたロザリーが、ふとロゼウスの手元を見て口を閉じる。
「ドラクル。俺はローゼンティアはいらない」
 空いていた右手に、するりと滑り込んできた手のひらの感触が挫けそうになる意志を支えてくれる。
「そして、あなたと共に行くこともできない」
 親愛なる兄上よ。
 できれば、他の誰でもない自分の手であなたを救いたかったけれど。
「俺はもう、選んでしまったから」
 この手を。今、震えそうになる体を支えて立つこの手。先ほど、光に寄せられる蛾のように何も考えずドラクルの元へ下ろうとした自分を引き戻した、冷たく熱く強く、その上で脆く切ないこの指先。
 繋いだ手の先でシェリダンは小さく頷く。
 それに背中を押されるように、ロゼウスは宣言した。
「ドラクル=ヴラディスラフ大公爵。私、ロゼウス=ノスフェル=ローゼンティアはその王位継承権を放棄します」