荊の墓標 20

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「なっ、結局何なの!?」
 事態は大混乱だった。ミザリーの疑問にロゼウスとロザリーと二人して答える。
「ジャスパーがドラクルに斬りかかったのと同時にユージーン候がそれを止めようとするルース姉上に斬りかかった」
「で、乱戦になったのを見かねて手を出そうとしたヘンリー兄様をイスカリオット伯が止めて、同じく動こうとしたウィルをバートリ公爵が止めたの」
「そ、そうですか……」
 そういうミザリーは咄嗟の反応だったらしく、その腕の中にミカエラとエリサを庇っていた。
 アンはこの大混戦に一瞬で参加できるほどの身体能力はない。一人、固まってしまっている。アンリは動こうとしたようだけれど、さすがに他の兄妹が迷いなく飛び出したのに比べれば反応が出遅れてしまい、やはりその場でたたらを踏んでいる。
 ロゼウスとロザリーの腕を掴んで止めているのはシェリダンだ。
「動くな。お前たちは一体どういった立場に立とうとしている?」
「シェリダン! だって……」
「私を敵に回すのか? それならそれで構わないぞ。ロザリー」
 見据えられたロザリーがきゅっと唇を噛む。ロゼウスのようにはっきりと寝返りじみた姿勢を見せるわけではないが、根が優しいロザリーはシェリダンたちエヴェルシードの面々と正面きって敵対することも、ドラクルたちローゼンティアの兄妹を冷酷に切り捨てることもできないようだ。
「全く、こんなところで登場だとはな」
 ドラクルがジャスパーに斬り伏せられることはなかった。
 シェリダンがその光景を睨む。ロゼウスも、他の皆も、彼の発言に釣られたように、一時的に目の前の相手との対戦をやめてそちらへと視線を集中させる。
「世話をかけてくれるね。ドラクル王子」
「ああ、すまないな。ハデス卿」
 ハデスの手に押さえ込まれているジャスパーを酷薄な目で見下ろしながら、ドラクルが言った。
 あの一瞬、剣を振り上げたジャスパーの元に一瞬でハデスが現れた。
 大預言者、冥府の王と呼ばれる彼は暗黒魔導の達人だ。ロゼウスたち魔族とはまた別の理で使われるその術なら、遠く離れた場所から様子を窺うことも、空間を移動して一瞬で姿を現すことも簡単だろう。
 だが、そのハデスの姿は血に濡れていた。
「ハデス卿? その姿は」
「ちょっと姉弟喧嘩」
「皇帝陛下と?」
 ハデスがデメテル皇帝と争った? 返り血ではなく、彼自身の血で濡れているハデスは平然とした顔でいるが、いつもの黒衣の下は怪我でもしているのだろうか。
「それはともかく、駄目じゃないか大公閣下。ここでこの子にあっさり殺されたりしたら、これまでの計画はどこにいっちゃうわけ?」
「まさか。いくら私が本当の王子ではなく、このジャスパーが国王の血を引く王子だとしてもさすがに負けはしない」
「そう? 君たちヴァンピルは血統によって大きく能力が左右されるんじゃなかったの?」
「それはあなた方人間だって同じことでしょう? 黒の末裔の方。家系による力の強さは確かにあるが、直系ではないとはいえ私の父は王弟フィリップ。ジャスパーの母はライマ家程度の生まれ」
「ふーん、じゃあやっぱり君の最大の敵は確かに王の子であり、母方の血筋も申し分のないロゼウスってわけ」
 ジャスパーの前髪を掴むようにして、ハデスがその頭を上げさせた。武器を奪われ、目に見えた怪我はないが何か痛めつけられた様子のジャスパーの顔が苦痛に歪む。
「ああっ!」
「ジャスパー!」
「にいさま!」
「ふん、さすがにまだ僕の方が強いか」
 捕まれているのは髪なのに、ジャスパーは喉の辺りを掻き毟っている。何かの魔術だ。
「――選定者の能力は、主の力の満ち方に関係する。ならば次代皇帝の覚醒は、まだもう少し先。デメテルの力も、衰えるのはもう少し先か……」
 その様を薄笑いを浮かべながら見て、意味のわからないことをハデスは呟いた。もがき苦しむジャスパーの頬に手を当て、耳元で小さく囁くのが聞こえた。それはロゼウスや兄妹の皆みたいなヴァンピルにだからこそ聞こえる囁きで、きっとシェリダンやクルスたちのような、人間には聞こえなかっただろう。
「言いなよ、宝石王子。どうしてドラクル王子を狙ったの? 君の立場ならドラクルとロゼウス、どちらを選ぶのかは明白。でも、それだったらドラクルを殺す意味、ないよね?」
「あ……僕、は……」
「ロゼウスには別の役目があるんだから、けしてローゼンティアの王にはならないし、なれない。君も同じだしミカエラ王子は病弱で話にならない……逆にここでローゼンティアの後継者を奪ったら大変」
 薄っすらと開かれたジャスパーの紅い瞳に、逡巡と後悔と寂寞と、それよりも強く澱んだ哀しい感情が見える。
「だって…………に、なったら、ロゼ兄様は……いられ、な、だから!」
 ジャスパーの途切れ途切れの言葉はロゼウスには理解不能だったけれど、ハデスには伝わったようだ。
「だからロゼウスを、……にさせるくらいなら国王として繋ぎ止めたくてドラクルを殺そうと? 君って考えが極端だねぇ」
 憐れむような眼差しでジャスパーを見て、ハデスは囁いた。その指先がジャスパーの首にかけられようと――。
「君の役目はここで終わりだ」
「ジャスパー!」
「ロゼウス!?」
 ロゼウスは飛び出して、ハデスに攻撃を仕掛けた。解放された途端、ジャスパーは気を失ってその場に崩れ落ちる。
 魔力を行渡らせて鋭く尖らせた爪をハデスに向かって突き出す。
「ぐっ!」
 いくら彼が無敵の魔力を持っていても、術を発動する暇さえ与えなければ――。
 ヴァンピルの身体能力に人間は勝てるはずがないのだから。
「がはっ!」
 男物の服で助かった。これなら自由に動ける。鳩尾に見舞った一撃で鈍い感触と共に骨の折れる音、何か――内臓の潰れる音がして、彼はごぼりと血を吐いた。
 そうだ。素手でも負けるはずがない。人間相手に、――人間如きに。
「くっ」
 呻く声に反応すれば、シェリダンがドラクルと剣を合わせていた。
「殺すなよロゼウス! 皇帝に貸しを作るわけには行かない!」
「わかってる!」
 叫び返す隙に反撃をしようとしたハデスの手をかわし、魔術で空気中に氷の刃を作り出したその一撃も避ける。
「ドラクル!」
「ロゼ!」
 それぞれの陣営が入り混じって戦局は混乱を見せる。誰が敵で誰が味方なのかももうわからない。
 アンとヘンリーは完全にドラクルにつくことを決めたらしくエルジェーベトを相手にしている。ルースを押さえる役目には、クルスとジュダだ。
 まだ迷っているのはアンリとエリサを守ろうとするウィル、ミカエラを抱いたミザリーは泣いている。
 横合いから援護の手が入った。
「ロゼウス! 大丈夫!?」
「ロザリー! 上だ!」
 ロザリーという援軍を得て、ロゼウスも先程より動きやすくなった。さらなる追撃に、さすがの帝国宰相ハデスの顔にも焦りが生まれる。流れた血が飛び散って視界を遮る。繰り出した蹴りを受けとめた腕ごと折った。ハデスが苦痛の声をあげる。
 その時だった。
「はいはい。そこまでにしてね」
 女性の声がした。
「っ! 姉さ……っ!」
 ハデスが顔色を変えて空を見上げると、月を背景に黒の女が微笑んで眼下の混戦状況を眺めていた。登場した時からハデスが血まみれだったのに比べて、こちらは掠り傷一つ負っていない。
「この私の目を一瞬でもくらますなんて、腕を上げたものねぇ、ハデス」
 これが世界皇帝の力と言うものなのか。
「でも悪戯は駄目よ。ハデス、ヴラディスラフ大公、シェリダン王。そして――」
 最後に、彼女はロゼウスの方を見た。その手に黒い光球を浮かべて。
「っ、全員伏せろォ――!!」
 彼女はその強大な力の塊をロゼウスたちに向かって投げつける。

 世界を揺るがす爆音が轟いた。

 ◆◆◆◆◆

 轟音は死を覚悟させるほどのものだったが、ロゼウスたちに実質的な被害はさほどなかった。
「まあ、こんなものかしら」
 デメテル陛下のそんな言葉と共に、彼らは皆して一斉に顔をあげる。
 森は焼け野原と化し、緑が消滅していた。地面は黒く焦げ付いて、服も手も、正面に見える相手の頬にも煤がついて黒い。
 一体どういう風に術を使うとこうなるのか、小さな怪我と汚れ程度なのに、大きな傷は誰も負っていない。結界と言うよりは、全員に守護の術でもかけたのだろうか。皇帝陛下の実力について、ロゼウスはよく知らない。
「う……」
「シェリダン、無事か?」
 ロゼウスは咄嗟に腕の中に庇った相手の無事を確かめる。
「……お前に庇われるなんて屈辱だ」
「ヴァンピルの方が丈夫だから……それより」
 見知った顔は幾つか減っていた。
「皇帝陛下、これはどういうことですか?」
「悪戯っ子たちにちょっとお仕置きしようと思ったんだけどね。逃げられちゃったみたい」
「逃げられた……って」
「シェリダン様、ロゼ様、私はあのドラクルという青年が、何か生き物を呼び出してこの場から脱出したのを見ました」
 ロゼウスの疑問に答えたのは、ミザリーを庇った格好のエルジェーベトだった。ミザリーの腕の中にはさらにミカエラがいる。
 それぞれジュダはエリサとウィルを庇い、アンリとロザリーはお互いに身を寄せ合っていた。
 そしてドラクル、ハデス、ルース、ヘンリー、アン、そしてジャスパーの姿は消えていた。
「後の奴らは、お前ではなくドラクルについていったようだな」
「……うん」
 ドラクルの衝撃的な告白により、ローゼンティアは二極化した。もともとそれぞれの王位に対する熱は弱かったから、兄妹たちは皆、すぐに自分がどちらの陣営につくのか決めたようだ。
 もっともそれは主にドラクル側の兄妹たちで、ロゼウスと共にここに残った妹弟たちと兄姉は、まだ迷っているようだけど。
 焼き尽くされた森の残骸に立って、月を眺める。
 誰も、何も声をかけてくる者はいなかった。口を開きかけたロザリーを、アンリが止める気配がした。振り返らなかった。
 けれど、すぐ側に近寄ってくる足音、体温の低いヴァンピルではない、温かな人間の気配。
「ロゼウス」
 手に触れるように、そっと滑り込まされたその指を握りこんだ。言葉が出ないのは彼も同じで、ロゼウスは吸血鬼の体温からすれば熱があるのではないかと感じるほどに熱いそのぬくもりに縋った。
 ドラクルの去っていった方角を眺め続ける。
魔術の爆発により一度は乾いたはずの頬が、また濡れる。
 はらはらと零れるのは、零したのは涙。
「……そんなに泣くと、涙の池で溺れるぞ」
 嗜めるように言って、シェリダンのロゼウスの手に握られていないもう片方の手が頬に伸びた。白い指先が涙を拭う。
 兄様。
 去って行った人のことを考えると、涙で溺れそう。
 俺は泣いていました。今までなんのために泣いていたのですか。俺は誰のために泣いていたのですか?
 それはあなたのためだと思っていた。でも。
 夢の中で自分が囁くのだ。
 ――だってお前は現に今、こうして自分の《涙》で溺れかけているじゃないか?
 流しても流しても枯れることのない涙が湖となって、溺れかけていた。苦しくてもがいて、必死で伸ばした手を《誰か》が掴んでくれた。
「兄様」
 幼子のように漏らすと、腕の中の指にきゅっと力が込められた。触れた手から、苛立ちとも切なさともつかない感情が伝わってくる。哀しい心地よさを共有したまま、ロゼウスは瞼の裏の湖に潜る。
 透明な湖の底に深く沈みこんで、ようやくそこに誰かがいることに気づいたんだ。救われたくてあがけばあがくほど、尚更水の中奥深く、俺は溺れていったんだ。
 そこにあなたはいた。そこにあなたがいた。
 兄様だけでなく、父上も母上も兄妹たちも皆。
 ああ、そうか。
 俺たちローゼンティアの王族はとっくに狂っていたんだ。誰も彼もが涙を流して、その涙が湖となって、湖の底で溺れていた。
 涙の湖底で溺れる王家。
 きっとエヴェルシードの侵略など一つのきっかけにすぎない。シェリダンですら、ドラクルに利用されていた。兄だと思っていた人の欲望は実の父親すら殺させ、それまで実父だと信じていたはずの義父すらも手にかけさせ、母親もそれ以外の大勢の民も殺させるほどのものだった。隣国を巻き込んでまで謀反を起こしたドラクルの狙いは――復讐。
 帝国宰相をも味方につけてのそれはきっと、復讐相手であるロゼウスを徹底的に破滅させるまでは終わらない。
 焼け付いた森の匂いが届く。
 祖国を亡くしたあの日は、もっと酷い匂いだった。焼かれた死体があげた最後の悲鳴のようだった。
 あの惨劇を生み出したのは自分なのだ。
 俺は――俺が生まれてきたからこそドラクルを狂わせた。
 兄様。
 俺はあなたを追い詰める気など、なかったのに。
 ごめんなさい。ごめんなさい。
 謝っても謝りきれないけれど、それでも。
「ごめんなさい……」
 蚊の鳴くような声で呟いた。
 この世に生まれたこと、あなたを追い詰めたこと、あなたにローゼンティアを滅ぼさせたこと、あなたの手をとらなかったこと。
 そして何よりも、あなたと共に生きることを選べないことを。
 いつの間にか東の空が白み始めて夜明けが近い。月は白く消え行こうとしている。
「ロゼウス」
「……シェリダン?」
 キュッと、爪の先が当たってちりりと皮膚が痛むくらいに強く、シェリダンはロゼウスの手を握った。
「―――殺してもいい兄妹を選べ」
 あたりから動揺の声があがった。
「シェリダン!?」
「何を言ってるの!」
「シェリダン様!」
「エヴェルシード王!?」
 彼は冷静に答えた。
「ここにいない奴らは皆、ドラクルの味方でありお前の敵となった。ここにいる奴らはまだお前につくともわからない相手が多い。さぁ、どれほどの兄妹なら、お前は殺し、そして生かす?」
「……戦えと言うのか。俺に、兄妹たちと」
「ああ、そうだ」
 もう、それ以外の道はないのだと。
「事態はもうお前と兄だけの問題ではなくなった。お前が真実ローゼンティアの第一王子だと言うのなら、そしてあの男が王位簒奪者だと言うのなら」
 エヴェルシード王であるシェリダンはローゼンティアを滅ぼした。そのはずだった。だから現在はローゼンティアはエヴェルシードの占領下に置かれており、ドラクルがローゼンティアの王位を狙うと言う事は、彼がエヴェルシードを打倒してローゼンティアを取り戻すということ。
「ドラクル=ヴラディスラフは、我らエヴェルシードにとっても敵だ」
 王位を奪おうとする敵、そしてエヴェルシードを滅ぼそうとする敵。
「皇帝陛下、あなたとハデスは……」
「んー、私は好き勝手に動くわ。ハデスのことも好きにして頂戴。こちらの不利益は止めるけど、そうでないならねぇ。あの子も自分のやったことの責任は自分でとらなくちゃ」
 ハデスも敵に回った。そして。
「ロゼウス兄様、あの――」
「カミラ殿下もあの大公と繋がっていますよ」
 ミカエラが何か言いかけたところで、ジュダが言葉を挟む。
「ジュダ?」
「接触されたんですよ。自分の復讐に協力しろって」
「あんた、彼女とグルだったんじゃ!」
「そうよ! 思いっきり匿ってたじゃない!」
 アンリとミザリーが驚きの声をあげる。残りの面々、ミカエラやウィルもイスカリオット伯の涼しげな笑みを凝視していた。
「二重スパイって奴ですよ。ちなみにその通り、これまでこの王家の方々を匿っていたのは僕です。彼女と協力して、ね」
「イスカリオット伯!」
 咎めるようなクルスの声に彼は肩を竦める。
 本音を見せない道化じみた仕草をする、彼は果たして敵か味方か……
「お返ししますよ、ですから。まあ、ここにいるのは最初の時の三分の二になっちゃいましたけど」
「…………わかった」
 この場で彼の言葉の真偽を図ろうにも全員が疲労しすぎている。とりあえずは王城に戻らねばならないとシェリダンはその話題を一度納めた。
 煤を払って全員が立ち上がる。
 皇帝陛下が一足先に魔術で姿を消した。
 朝日が昇ろうとしている。陽光に当たると力の弱まるヴァンピルにそれはきつい。一刻も早く戻らないと。
 だけど、シェリダンがロゼウスの服の袖を掴んで止めた。
「戦争を起こすぞ、ローゼンティアと、再び」
「あ――」
 ドラクルがローゼンティアの玉座を狙い、その国土と民を手に入れるためにエヴェルシードの崩壊を狙うならば確実にその道を選ぶのだろう。
「だが、それでもお前は私のものだ」
「シェリダン」
「次の国王が私のものなのだから、やはりあの国も私のもの。あんな男になどやるものか」
 言って、彼はロゼウスの頬に手を伸ばす。
「絶対に、誰にも渡しはしない」
 それはローゼンティアという国について言っているのか、それとも――。

 皇帝が破壊の力を向けたあの瞬間、ロゼウスはロザリーでも他の兄妹でもなく、ドラクルでもなく、この少年の手を取っていた。
 その理由はきっと、ただ単に一番近くにいたのが彼だったからなんて理由ではなくて。