荊の墓標 21

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「あら? どうしたのユージーン侯爵」
「……どうしたもこうしたも……」
 むしろこちらが聞きたいくらいだ。人選を間違えたような気が、今からひしひしとしている。
 その部屋に入った瞬間、クルスは反射的に回れ右で帰りたくなった。膝の上に細身の少女を乗せて戯れていたバートリ公爵エルジェーベトの姿に、用件も告げる前からさよならをするところだった。
「失礼しました」
「ちょっとは落ち着きなさいよ坊や。別に私だって最近大変だったのだし、少しぐらい息抜きしたっていいじゃない?」
 ふう、とわざとらしく気だるげな溜め息をついて、この国一の剣の使い手、バートリ公爵エルジェーベトが身を起こす。半裸の奴隷少女を下がらせて、呼び鈴を鳴らすとまともな給仕がようやくやってきた。
 ここはシアンスレイトに近い、リステルアリア城の一室だ。エルジェーベトがその美貌で結果的にたぶらかした貴族から譲り受けた城の一室で、クルスは彼女と向かい合う。
「イスカリオット伯がおかしい?」
 あまりにも薄着だったエルジェーベトは上着を一枚羽織り、目の毒だったその肌を隠した。ようやくお互いの話し合う体勢が整ったと思えるところで、クルスはその問題を切り出す。
「あの男がおかしいのは、いつものことじゃなぁい?」
「いえ、あの、そういうことではなくて」
 あんまりな言葉と言えばあんまりな言葉だが、対象がイスカリオット伯なだけにこれまた反射的に頷きそうになってしまったクルスは慌てて首を横に振ると、自らが気になった部分を率直に告げることにした。
「先日、森でローゼンティア王族の……人たちと戦ったでしょう。その時に、どこか彼が手を抜いていたような気がして」
「そう……かしら?」
「はい」
「ユージーン候、剣聖と言われるあなたがそう言うのなら、そうなのでしょうね。私は特に何も感じなかったけれど……」
 バートリ公爵が考え込む様子になります。とはいえその実力があるだけに常に強敵を引きうけることの多い彼女に、そこに気づくだけの余裕を持てというのも酷な話であるとはクルスも重々承知している。
「イスカリオット伯のことは、今の時点では僕と、一部の人だけが気づいていることだと思います」
「その一部っていうのは?」
「……ロゼ王妃です」
 その名を口に乗せると、瞼の裏に、彼の紅い眼差しがすっと浮かび上がった。
 ――話があるんだ。ユージーン候。
 ――なんでしょう? 王妃様。
 ――この前のことなんだけど、イスカリオット伯について、何か感じなかったか? 俺は、彼について違和感を覚えたんだけれど。
 そもそも、クルスが今日ここ、バートリ公爵の元を訪れた理由はロゼウス王子のその言葉にある。あの時、彼の言葉を聞くまでクルスはまだ伯爵の異変に気づいてはいなかった。
「言われてみれば、確かにって思うんです。伯は八年前のリヒベルク絡みの事件から人格が変ったともともと言われている人ですけど、ここ最近特に様子がおかしいと思うんです。それで」
「それで?」
「……身辺調査をしてみようと、思うのですが」
「誰が?」
「僕が、です」
「誰の?」
「イスカリオット伯爵ジュダ卿の」
「ちょっと待ちなさいよユージーン候。一体どうしたらそんな大胆な行動を考え付くわけ?」
 エルジェーベトは柳眉を歪めて問いかけてきた。クルスは自分でも性急に過ぎる結論を出そうと焦っていることは自覚しているが、それでも逸る気持ちを抑えられない。
「確かにイスカリオット伯は信用のならない人間よ? だけど、彼の陛下への執着は本物でしょう? 何しろあなたと彼とで協力して、先代国王陛下――ジョナス王を謀殺するように仕向けたのだから」
「……はい」 
 エルジェーベトの言う事はもっともだ。他の誰でもないクルスと彼の二人でシェリダンをこのエヴェルシードの玉座につけたのだ。それを今更、裏切りだなんて。
 だけど。
「もしもその疑いが本物であれば、シェリダン様の憂いは誰よりも、この僕が取り除かなければ」
「ユージーン候?」
 確かにロゼウスの力が凄い事は認める。先日の騒ぎでは高貴な方々を前にしてクルスに発言権こそなかった。しかし隣国王家の家庭事情に口を挟むわけでもないが、居合わせてしまった成り行き上、ロゼウスこそが本当のローゼンティアの王太子であったことも知ってしまった。魔族であるヴァンピルの国家体制における認識は彼ら人間とは違い、吸血鬼たちが彼らより遥かに血筋と言うものを重んじるのだということもわかっている。
 だからロゼウスの能力が他の誰よりも優れていることも頭では理解できているのだ。だけれど。
「ユージーン侯爵クルス卿、もしかしてあなた、王妃様に嫉妬してる?」
「……そう、なのかも知れません」
 彼を見ていると、胸の奥が言葉にできない焦燥でぐらつくのを感じる。ロゼウス自身はほとんど何もしていないのに、どうしてこんなにも追い立てられるように居心地が悪くなるのか。
「……僕は、シェリダン様の臣下です。あの方の役に立つことだけが存在意義。存在理由。けれど、ロゼウス様といると、それが奪われるような気がして」
 それも、こちらは絶望しながら手を伸ばしているのに向こうは軽々とそんなクルスたちをくぐり抜けていってしまうような気がして。
「あー……まあ、この前の話はね。私もいろいろ考えたんだけどぉ」
 エルジェーベトはそんなクルスの内面を見透かしたように、わかりやすく言葉でまとめてくれた。
「要するにロゼ王妃は、エリート中のエリート、天才、なのよ。しかもそれを鼻にかけない、無自覚の天才ってやつ? ローゼンティアの元第一王子が嫉んでいたのも、要はそういうことでしょう」
 いい意味でも悪い意味でも彼は人を惹きつける。
 そしてそれがクルスは怖い。
「バートリ公爵は、感じませんか?」
「何が?」
「あの方は――ロゼウス様は、いつかシェリダン様を連れて行ってしまうのではないかと」
「え?」
 彼女はきょとんとしていた。クルスも、自分が何を言っているのかわからない。わからないけれど。
「とにかく、僕は、シェリダン様のお役に立ちたいのです。ロゼウス王子だけでなく、僕だって、僕らだってあの方の臣下、あの方を支える事ができるのですから」
「……そうね」
「ですから、イスカリオット伯の動向を探ります」
 クルスは宣言した。それが例え、ロゼウスから指摘されたという事実に基づいていても、実際にイスカリオット伯爵の行動を探れるのは王城に缶詰めのロゼウスではなく、クルスの方だと思うのだ。
 ――陛下、イスカリオット伯のことなのですが。
 ――奴が勝手をしているのはいつものことだろう。良い。放っておけ。
 ――しかし。
 ――ロゼウスからも同じことを聞かされた。だが証拠があるわけでもない上に、動機がまったくもって不明だろう。今は身内で争っている場合でもない。
 実はここに来る前に、すでにシェリダンに話は通してある。けれど、シェリダンの中には、それをさして重要ではないと思う意識があるようで、何も言わせてもらえなかった。
 ロゼウスのことだけでなく、何かが心の琴線に引っかかる。
「一つだけ忠告しておくわ。ユージーン候。焦りすぎないのよ。いい?」
 引かないクルスに、バートリ公爵エルジェーベト卿は呆れたように溜め息をついた。そして母のように姉のように、彼女は言う。
「はい。バートリ公爵、僕に何かあったらその時はよろしくお願いします」

 ◆◆◆◆◆

「ロゼウス王子! 久しぶり!」
「久しぶりって、まだ十日しか……」
 シアンスレイト城の中、一つ前の曲がり角を曲がった時にロゼウスは何故か嫌な予感を覚えたのだった。そういうときの自分の勘は、信用しなくてはならないのだと思い知る。それを裏付けるかのように、現れたのは薄茶色の髪と灰色の瞳を持った黒の国の少年王。
 ロゼウスは彼が苦手だ。
 やけに陽気な声で彼はロゼウスに飛びかかってきた。しかも、うっかり本名を叫んでいる。周囲に人がいないことを確認してほっと息をついた。
「わー! 奇遇だねぇ! ずっと外に出てるのを見なかったから、どうしてるのかなーとは思ったんだけど」
 ……いやちょっと待て。ここは安心していいところじゃない。
「ここで会ったのも何かの縁ということで。俺の部屋行こっか」
 ヴィルヘルムは、その手をさりげなくロゼウスの腰に回す。行く行かないの前に、これは問答無用で連れていこうと言う動きだろう。
誰も人がいないということは、当然何かあったときに見かねて助けてくれる相手もいないというわけで……。
「どうしたの? ロゼウス王子」
 びたんと必死で壁に張り付いたロゼウスを怪訝そうな顔で見て、無理矢理引きずっていこうとしていたヴィルヘルムは唇を尖らせる。
「お、王子とか、本名とか、呼ぶの、やめてください」
 皇帝にバレているのはもう仕方ないとして、国王と言う立場の割りにやけに口が軽そうなこの人に知れているのは問題かもしれない。そのことを話題に出すと、ヴィルヘルムはあからさまにどうでもいいという顔をした。
「えー? 別にエヴェルシードの事情なんて俺の知ったこっちゃねぇし」
「だったらなんであんたまだこの城にいるんだよ!?」
 しまった。思わずツッコんでしまった。
 ロゼウスの今現在の立場は元ローゼンティア王子にしてエヴェルシードの捕虜。ヴィルヘルムはセルヴォルファスの王。しかもドラクルの友人だ。彼自身とその国がどういった立場でロゼウスたちローゼンティアの問題に関わってくるのかはともかく、ここでヴィルヘルムを敵に回すのはマズい。
 シェリダンならいざ知らず、相手はまがりなりにも一国の王。年齢的にはかろうじてこちらの方が一、二歳年上だろうが、立場としては圧倒的にヴィルヘルムが上だ。
 エヴェルシード内でも複雑な立場のロゼウスが彼に何か無礼を働くわけにもいかず、他に誰もいないこの場では……耐えるしか、ないのだろうか。
 細かいことは知らされておらず、ただドラクルの友人の『ヴィル』とだけ聞いていた時とは違い、今のロゼウスにこの王の言葉を拒否する権利はない。だからこそ上手く言葉でかわしてよけて煙に巻いて、口八丁手八丁ならぬ口八丁そのまた口八丁でなんとかしなきゃいけない。のに!
「し、失礼しました」
「んー。別にいいけど」
「セルヴォルファス国王陛下」
「ヴィルでいいよ」
 にっこりと笑う少年の、人懐こい犬のような顔には隙がない。というか犬じゃなくて狼だが、彼らはただの狼ではない。
 人狼族。
 ロゼウスたちローゼンティアの吸血鬼と同じく、この地上で生活する魔族の一種。ワーウルフ。
 もともと戦闘な種族ではないヴァンピルとは違って、彼らは戦いの専門家だ。それは人間のような戦術や連携というものではなく、ただ個々人の身体能力の高さを示している。彼らは人間よりも獣に近い。
 不自然にならない程度に体に回された彼の手をやんわりと押しのけようとしたロゼウスは、その腕に込められた力の強さに愕然とする。外れない。
 ロゼウスだってローゼンティア王族だ。それも、不本意ながら知ってしまった真実の中では、もっとも王の血筋に近い……直系の嫡子にして長男。純粋な腕力で人に負けることなんてながくあり得なかったのに、軽く力を込めた程度ではヴィルヘルムはびくともしない。
「無駄だよ」
 ヴィルヘルムはまだあどけなさの残る端正な顔を近づけて、くすくすとロゼウスの耳元で笑いかける。
「ひょっとして落ち込んじゃった? でも、俺はワーウルフだから。元が夢を介する淫魔の眷属の一種であるヴァンピルと、牙と爪で竜族とも渡り合えたワーウルフとじゃ根本的な体のつくりが違う……ほら、だから」
 壁際に逃げたつもりで、いつの間にか追い詰められていた。体を押し付けて虫の標本のように貼り付ける腕に、さらに力が込められる。シェリダンやエチエンヌ相手にはよほど強く掴まれてももっと直接的に皮膚を切りつけるようなことをされなければ痛まない手首が、はっきりとした苦痛を伴って軋んだ。
「あっ……」
「あの時も思ったけど」
 耳に熱い吐息がかかる。
「ロゼウス王子って、痛みに顔を歪めてる時が一番色っぽいよね」
 思わずのけぞって晒すことになった首に、楽しげな彼の唇が迫る。軽く吸い上げてから、首筋に舌を這わされた。背筋が震える、ぞくりとした感触。
「ひっ……」
「んー……」
 砂糖菓子をゆっくりと含むように、じわじわと口づけて責め立てていく。
「や……めろ」
 もう、丁寧な対応など心がけていられない。
「やめろ……っ!」
 この男は自分の敵だ。
「やめる? どうして? 俺は俺がやめたいと思った時にしかやめないよ」
「だったら力尽くでどいてもらう!」
「へぇ? できるの? 細くて可愛いロゼウス王子、あなたに。俺はワーウルフで、お前はただの――」
 ただ見た目が美しいだけのヴァンピルだろう、と、言いかけたセルヴォルファス王の瞳がすっと細まる。
 ロゼウスは彼が掴んでいる両腕に力を込めた。
「それは、戦闘状態に身を置いていない時のヴァンピル、だろう」
 いくらワーウルフとヴァンピルで基本的な身体能力に差があるとは言え、自分だって、本気を出せばこのくらい――。
 だけれど、やはり今一歩のところで戸惑ってしまう。ロゼウスがここでセルヴォルファス王と争いになれば、不利になるのはシェリダンだ。
 しかも、彼の方はロゼウスのその躊躇いを知ってとって、だからこそ余裕の態度なのだ。
「できるの? 本当に? やってみればいいさ。俺は戦いも好きだよ? 見た目の綺麗さについつい目が行っちゃうけど、ロゼウス王子って本当は相当強いんだよね? ドラクルから聞いた事がある。そう……だからじゃあ、殺しあってみる?」
 そんなことできないと知っていながら、この少年はそうして笑うのだ。
 ロゼウスは唇を噛んだ。強さじゃない、腕力じゃない、戦闘能力じゃない、この場を純粋に支配する、この世の柵という力の差が憎い。
 けれど、救いの主は現れた。
「誰だっ!」
 ロゼウスと睨み合っていた時とは比較にならない鋭さで、セルヴォルファス王は廊下の奥を振り返った。カツカツと立つ規則正しい足音は女物の靴でなければ出ない音。
「ごきげんよう、セルヴォルファス国王陛下。それにロゼ。シェリダンが呼んでたから来たんだけど」
「ロザリー」
 常人なら思わずひれ伏してしまいそうになるほどの気迫を湛えて、やってきたのは妹のロザリーだった。ロゼウスは思わず顔を輝かせる。
「いい度胸じゃないか、ローゼンティアの姫君。この俺に、あんな殺気を向けるなんてね」
 ロザリーはにっこりと優雅に、普段は使わないとっておきの王族スマイルで笑った。
「まぁ。おかしなことを仰りますのね。黒の王陛下。殺気なんて、目に見えますの?」
 それが剣を直接向けられたとでも言うのならともかく、さっきのは向けられた害意になまじ実力があるものだから鋭すぎるセルヴォルファス王が勝手に反応しただけ。ロザリーはそう言いたいのだ。
 セルヴォルファス王ヴィルヘルムは舌打ちする。
「ほんっとうに、いい度胸だな」
「お褒め頂いて光栄です。それでは、あに……姉を返していただきますね」
 ロザリーはつかつかとロゼウスの元に歩み寄ると、有無を言わせず腕を引いて連れて行く。
「ろ、ロザリー」
「来てよ、ロゼウス。別にあの王から助け出す口実ってだけじゃなくて、シェリダンが呼んでるのも本当だから」
「シェリダンが?」
 その頃にはロゼウスの意識は、背後で恨みがましい視線を送ってくるセルヴォルファス王からシェリダンへと移っていた。