荊の墓標 21

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 王城からさほど離れているわけではない、物静かな風の吹く屋外。冴え冴えとした石が敷かれている道を通って、哀しげな色をした花の咲くその広場へと出る。
 どこか寂しげな顔でロザリーが去って行った後、ロゼウスは言われたとおりその場所に辿り着いた。
「来たか、ロゼウス」
 その場所には一度しか来ていないけれど、覚えがあった。
「シェリダン……どうして……」
 《焔の最果て》
 それは、墓所。エヴェルシード王家の墓が整然と立ち並んでいる。
「お前とここにこうして来るのは二度目だな」
 今日の彼は喪服ではない。いつも通りエヴェルシードの色である深紅の軍服を着て、並ぶ墓石を嘲笑うような眼差しで睥睨している。彼が正面に立つその一際新しい早桶の墓碑銘は、確かに今思い返せば眩暈がするようなもので。
 カミラ=ウェスト=エヴェルシード
 死んだと思っていた、シェリダンの妹姫。ロゼウスが初めて愛した少女。
 ロゼウスが不用意に与えた血は彼女に予想以上の効果をもたらした。ただ生き返らせるだけのつもりだったカミラに、不死と吸血鬼の身体能力まで与えてしまったのだ。
 今思えばそれも、ロゼウスが国王の直系の第一王子だったからなのだろう。一般的に、ヴァンピルの能力は先に生まれた子どもの方が高い。幾つか例外はあるけれど、親から子どもへと受け継がれる魔力の《もと》には限りがあるのだ。
 先に生まれた子どもほどその力は多く受け継がれ後に生まれた子どもは力が弱い。だから王族の継承順位争いは、いつの時代も年長者であればある程悲惨だった。
 それならば親は一人の子どもに全ての魔力を注ぎ込むつもりで一人の強い子を作ればいいのではないかと思われるが、そうしたところで生き物はいつ何時、どんな理由で亡くなるかわからない。王族ともなればある程度子どもの人数は必要で、しかし子どもが多すぎれば一人ひとりの力は弱くなる。受け継がれる力の調整などできるはずもない。
 いくつタルタロスの理を諳んじたところで、彼らもしょせんは生き物の一種であるという枠組みの中からは逃れられない。
 しかしそのロゼウスたち吸血鬼が地上に在って一種異常な生き物とされるのは、彼らにとっては通常でも他の生き物にとっては信じ得ないできごとを引き起こしてしまうと言う事。
 ロゼウスはあの薔薇園で、カミラを死なせたくはなかった。だけれど、彼女に人に過ぎた能力を与えるつもりはなかった。
 人の命は儚いからこそ美しいのだ。その領分を越えた生を手にした途端、醜くなる。少なくともロゼウスはそう思う。昔絵物語か何かで読んだのだろうか、理由はよくわからないのに、何故かロゼウスの中にはそういう考えがずっとある。
 永遠に何の意味があるのだろうか。ロゼウスはそれを知らない。知らないからこそ、欲しいとは思わない。知らないものは怖い。今まで知らなかった新しいこと、それも今度のことのように、まったく自分が予期していなかった残酷な真実を突きつけられるのは怖い。
 だから、ロゼウスはいらない。俺は俺のわかる、俺が知っている、俺の手に入るものしかいらない。
 カミラを狂気に突き落としたのは間違いなく自分だろう。
「滑稽だな」
 十字の墓標を見ながらシェリダンが口元を歪めた。紅を引いたような唇は、皮肉な笑みを刻む。
「誰が」
「カミラも、そして私とお前もだ」
 これまでロゼウスと目を合わせていなかったシェリダンは、ようやく虚ろな墓石から視線を外してロゼウスの方を振り返った。
 二人は向き合う。
 シェリダンはロゼウスを見ている。ロゼウスもシェリダンを見ている。
 だけれど、彼らが纏うのは死者の安らかな眠りを祈るための喪服ではなく、シェリダンは緋色の軍服でロゼウスは白いドレス。それは多分、今生きている自分たちが一番自分らしくいる時の色だ。
「かつてお前は言ったな」
 思えばここが始まりだった。
「私と共に破滅の道を行く、と」
 カミラを殺して、その命を踏みにじって生きるロゼウスたちはあまりにも愚かしく醜く、その関係を一言でくくるならば共犯者じみていると皮肉に自分と相手を嘲った。
 なのに、カミラは死んでいなかった。ロゼウスとシェリダンが彼女にした事は消えないけれど、それでも。
 この墓の中に眠る者がいるのといないのとではまったく意味合いが異なる。あれから状況は大きく移り変わって、今では予想と全然違った展開が繰り広げられている。
 それを、自分は喜べばいいのか。
 悲しめばいいのか。
「ああ、言った。約束したよ、シェリダン。他の誰でもないお前に」
 ――私が欲したのは、子を成し、日々を紡ぎ、未来を望むための妻ではない。孤独に慣れ憎悪に親しみ、絶望を孕んで破滅を望む――だから、お前がいい。
 その決意はあまりにも固く、宣言は切なかった。確かに同じ孤独をもっていることを、その寂しい背中を後から抱きしめながら感じた。顔を見なければ涙も流せた。
 ――あんたたち人間の方が、俺たちヴァンピルよりよっぽど吸血鬼みたいだ。
 あの頃のロゼウスたちが欲しかったものは、手足を浸す毒にも似た、蜜よりも甘い破滅。
 だから言った。
 ――俺はあんたを愛したりしない。一生、好きにはならない。
 その狂おしい破滅願望の行き着く先を見届ける、と。一番近くでその絶望を見て、共に果てるところまでつきあってやる、と。
 ロゼウスも絶望していたから。兄に捨てられて自棄になっていて、だけれど首を括るには重過ぎるこの王族という身分のために、死ぬための理由付けを求め続けていた。
 でもふと気づけば、今この肩に乗っているものは、もっと重い。あの時はただ単にロゼウスしか王族が残っていなかったからという理由で背負わねばならなかった民の命と生活が、次代の第一王位継承者であると判明した今この時には、本当の意味でロゼウスにのしかかっている。
 予感がある。それは漠然とした絶対的予感。何故わかるのかはわからないのに、その予感が当たっていることだけは確信が持てるというそんな予感。
 ロゼウスは、ローゼンティア王にはならない。なれない。
 けっして、あの愛しき祖国の王になることはないだろうと。ではどうなるとまではまだ、言えないのだけど。
「あの時の……」
 空の墓標を眺めながらふと気を抜けば沈みがちになりそうな意識を、シェリダンの声が引き上げる。引き止める。この場所に。
 彼は真摯な眼差しでロゼウスを見ていた。あの頃、初めて出会った頃の、たまたまそこにいて縋り付くのにちょうど良い相手がロゼウスだったみたいな様子ではなくて、心臓の奥の魂まで見透かしているかのような、深い感情を宿した瞳で自分を……ロゼウス=ノスフェル=ローゼンティアという存在を彼は見つめている。
「あの時の誓いは、まだお前の中で生きているか?」
 共に堕ちていってやると告げた言葉は、それを放った心はまだここにあるのかと。
 問いかけながら燃える朱金の瞳でロゼウスを射抜き、シェリダン……シェリダン=ヴラド=エヴェルシードは言った。
「もしもお前があの言葉を撤回すると言うのなら、私はお前を我が妻ではなく、一人の人間と……正式なローゼンティア第一王子、ロゼウス殿下として扱おう」
 どくん、と心臓が跳ねる。
 それは、遠回しな決別の勧めだった。

 ◆◆◆◆◆

 白の国、薔薇の国、吸血鬼の王国。
 ローゼンティア。
 それは国の名であり、土地の名であり、そしてその土地を支配する一族の名でもある。
 アケロンティスという、この世界を纏め上げる神の使者《皇帝》の名の下に統治された世界と言う名の一つの帝国。その所領の一つであるローゼンティア地方を治める公爵の一人が、ローゼンティアを名乗る歴代の王だ。
 帝国においては公爵の一人でも、自らの支配する所領ではれっきとした王であるその立場。
 帝国に仕え、自らの民を治めるその役職。そう……役職。王という仕事は、やめることができるのだ。何故ならこの世は世界の観察者であり、万象の審判者たる《皇帝》が最高権力者であるのだから。
 昔はこうではなかったらしい。
 王というのはその国の最高権力者で、国の中にそれ以上の権力を持つ者はおらず、国の外の他の国家には表向きには干渉されない独自の権力を持つ。つまり、諫める者がいないので場合によっては王の独裁により一つの国がまるまる苦しむこととなるのだ。
 そしていずれは自らの国を越えて他の国々とも争い、世界に混乱を引き起こすだけ引き起こしていずれ滅ぶ。滅んだところで全てが元通りになるわけはなく、その尻拭いは誰がするのか? それが問題。いや、その前に無用な争いが生まれることがすでに無駄であって、ならば王という役職にも監視機構は必要だろうと、そのために《帝国》は建国された。
最高権力者は王でなく、王ですら頭を垂れてひれ伏さねばならないのは《皇帝》という存在。では世界に不利益だけをもたらすだけの暴君が皇帝として立った場合はどうすればいいのか。世界まるごとすべてが一つの国で王が皇帝であるならば、愚王を諫めることは誰にもかなわない。けれど、その心配だけはいらなかった。
 《皇帝》とは《神》の手によって、選定されるものだからだ。
 神が選んだ神の使者。それが傍目にどんな暴君に見えようと決して帝国の不利益になるようなことはできないのが皇帝だ。そんな人物が地上の最高権力者として皇位につくからこそ、アケロンティスの歪な平穏と均衡は今日も保たれている。
 創始者、最初の皇帝の名はシェスラート=エヴェルシードという人間だった。彼は人間でありながら五百年の時を生きたという伝説のある人物で、その頃に何があったのか人々は知らない。
 知らないけれど、名前を見ればわかるとおり、彼は始皇帝であると同時に、エヴェルシードの始祖王でもある。
 世界はもともと神々のものであった。原初の神、創世神は世界を小さな国々にわけてそれぞれの神に与えた。その国はやがて、神々から人間や他の種族へと下げ渡された。
 けれど、乱立する小国家はそのうちに争い、奪い合うようになった。幾つもの国が存在していると、自国の危機を理由に余所から奪うことをいつまでたっても人々はやめない。世界は疲弊した。国の権力者たちが勝手にとりつけた戦争に駆り出され、巻き込まれ、住む場所をなくした人々は嘆き悲しみ世界には混迷と慟哭が満ちていた。その状況を打破し、当時一つの大陸をほぼまるごと支配していた暴虐の大国を打ち倒そうと立ち上がったのが解放軍と呼ばれる面々。その党首こそが、後の皇帝シェスラート=エヴェルシードらしい。
 ラ・ディヴァーナ・トラジェディア――神聖なる悲劇。
 人と魔族が手を取り合って、神が創りたもうた原初の小国国家乱立制度を廃止し、新たなる支配制度、世界《帝国》を確立したその動乱の事変を神聖悲劇と言う。
 神聖悲劇の中には、ローゼンティアの祖先も登場する。ロゼッテ=ローゼンティアという人物がシェスラート=エヴェルシードに力を貸していた。けれどそれは、今はどうでもいいことだ。
 神聖悲劇によって、世界は神に選ばれた《皇帝》によって統治される《帝国》となった。この世の誰よりも権力を持っている皇帝は各国の王の動向を監視する役目を持っている。行動の一から十まで全てを制限するわけではないが、それが世界の均衡を乱すものだと判断される行動をとった場合には粛清がくだされる。そして、王を任命するのも皇帝の仕事。
 けれど、何も四六時中その問題に目を光らせるわけにはいかない多忙な皇帝にとっては、そんなもん自分らでちゃんと決めろというのが本音。らしい。
王の任命は皇帝の仕事だが、何もわざわざ相応しい人物を世界の端から探し出してくるわけじゃない。立候補者がいるならばそれに越したことはない。
 だからこそ。
「ドラクルの狙いがローゼンティアの玉座を簒奪することにあるならば、その目的を封じるにはお前が王として立つしかない」
「俺が?」
「そうだ。ローゼンティア王家、正式な第一王子、ロゼウス=ノスフェル=ローゼンティア」
 現皇帝デメテル陛下にとって、ローゼンティアとエヴェルシードの問題がたいした重みを持たないものであれば、彼女がこれを止めてくれることはないだろう。そして両国は、戦争になる。
 それは果たして、誰が望んだことであったのか。確かにシェリダンはローゼンティアに戦争を仕掛けた。しかしそれは少なからず、ドラクルやハデスに踊らされた面がなかったとは言わない。
 でも原因を突き詰める前にまず、やらねばならないことがあるのだ。簒奪を防ぐには、相応しい人物が玉座につくことだと、シェリダンは言う。ドラクルがローゼンティア王になることは、エヴェルシードにも甚大な不利益をもたらす。彼はこの国の王としてそれを防がねばならない。以前、世界の破滅を願う言葉を口にしたこととは矛盾しているようだが、他人の手のひらの上で踊らされる事がゆるせないというシェリダンの感覚はまあ、ロゼウスにもわかる。
 世界はとても繊細な均衡でもって平穏を保ち続けている。エヴェルシードのローゼンティア侵略はその均衡に一石を投じて乱した。それを目論んだドラクルが揺れる水面に付け込んでローゼンティア皇位を簒奪すれば、真っ先にエヴェルシードが報復されるのは必至。
 なんとしてでもそれを避けたいシェリダンにとって最も有効な策が、次の王の擁立なのだという。すなわち、ロゼウスが七代目ローゼンティア王になること。
 そうすれば、エヴェルシードの先の侵略を帳消しにして余りある効果が得られるのだと。隣国の王位継承問題に口を出すこと自体が褒められたものではないが、それでも、正当なる王の擁立を促したとすれば言い訳としては立つ。
 だけど、その道を選べば、シェリダンの望みは永遠に叶わない。道化のように、国家のための王を演じ続けることは、果たして誰の望みなのだろうか。
「……シェリダン、お前、何がしたいんだ?」
「さぁな」
 ロゼウスをカミラの、空ろな墓標の前に連れて行ったシェリダンは、口ではその取引を持ちかけながら本当何を考えていたのだろう。答えてはくれなかった彼の言葉の続きを、ロゼウスはシアンスレイト王城に戻ってきてからもずっと考え続けている。
 ローゼンティアの再興。
 ドラクルの玉座簒奪の阻止。
 ロザリーたち、他の王族の解放。
 ハデスの皇位簒奪の妨害。皇帝への恭順。
 エヴェルシードの統治と安寧。
 そして――破滅。
 全てを成り立たせるのは不可能だ。幾つかは並立しても最後の一つが全てをぶち壊す。だから、選ばねばならない。
 望みは、どこにある? シェリダンの望みは。そして自分の望みは。
 何がしたいのかと相手には問いかけたけれど、その質問は自分にも跳ね返る。
 考えろ。ロゼウス=ノスフェル=ローゼンティア。お前は何がしたい。
 本当はドラクルがローゼンティアの王位について、きちんと国を再興してくれればそれが一番なのだと思っている。エヴェルシードと事など構えずにただヴァンピルはヴァンピルの国だけで大人しくしていてくれれば、それでいい。勝手なことだとは思うけれど、それでもできる限り争わずにいてくれれば。
 俺は――俺はたぶん、王には向いていないと思う……。
 各国の王たちと渡り合いお互いの動向を探り合って駆け引きするなんて無理だ。そのための術はすべて他でもないドラクルから学んだけれど、実際にロゼウスがローゼンティア王になっても、何一つ良い事はないだろう。何故かロゼウスの中にはそう言った確信がある。
 ロゼウスは、皇帝陛下をまず敬えない。その者の王としての自覚が高ければ高いほど皇帝には畏怖を覚えるものだという。連綿と続く、神聖悲劇の幕開けから皇帝に仕えた者たちの血に流れる本能がそうさせるのだという。王は、皇帝には逆らってはならない。呪詛のように、それは例えばローゼンティアやエヴェルシード、他の国々の王族の血に細胞に刻み込まれている。
 呪い。
 ロゼウスが皇帝を……デメテル陛下を敬えないのは、ロゼウスに王の資質がないという何よりの証拠ではないのか。
 たぶん自分には、争いのない世界を作る事はできないだろう。もしも権力を一手に握る事があったなら、嬉々として奈落に落ち、全てを巻き込んで破滅するだろう。胸の奥底に秘めた焔のような狂気がそう叫んでいる。この声に耳を傾けてはいけない。世界は自分の思い通りになどならないのだから。ドラクルとカミラのことで、それを嫌と言うほど思い知ったのにまた繰り返すわけにはいかない。ああ、本当に自分には王としての、統治者としての才能なんてない。
 だって。
 だって、俺の望みは――。
「父上……」
 いつもとは違う部屋。答が出るまで距離を置いた方がいいのではないかと、シェリダンがわざわざ用意した別室。一人きりのその部屋の寝台の上で、膝を抱えてロゼウスは考え続ける。思い出す。小さい頃の王宮での記憶。
 父は王としては高い能力の持ち主だったと思う。そして、息子であるロゼウスにとっては。
「あの方は、優しい人だった」