荊の墓標 21

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 そもそもあの人は、完全に信用するにはその言動の全てに含みがありすぎる。
 年齢が離れているからとか、それだけではない。クルスにとって、あの人は確かに異質だった。理解できなかった。薄気味悪くて近寄りたくない。これでも貴族の一員として、社交の一環として表面上笑顔を浮かべていても、それでも胸中では怯えていた。
 いつも、疑っていた。信用するべき場面でさえ、心のどこかであの人を避けていた。
 あの日、決闘に負けたその後。
 剣を合わせている間は実感しなかったその体格差。真実の強さの前に大人も子どももないとはいえ、あまりにも無慈悲に、彼はクルスを組み伏せた。
 ジュダ=キュルテン=イスカリオット伯爵。
 彼は、クルスにとって限りなく敵に近い仲間。そういう距離だった。それでもどんな思惑でも、彼がシェリダンのために動くと言うのならば、まだ我慢ができた。だけれど。
「やれやれ。ドラクルの人遣いの荒さにも困ったものだよね」
 薄茶色の髪に灰色の瞳。そして何より目立つのは、獣の耳と尾。極一般的な人間の国であるエヴェルシードでは通常見るはずのないその姿。だけれど、クルスは彼を知っている。
「つまり、今度はあなたが彼との連絡役というわけですね。ヴィルヘルム王」
 イスカリオット伯の問いかけに、少年が頷いた。
「そう。ドラクルが帝国宰相ハデス卿と通じてるのがバレた以上、彼を使うわけにはいかないからね。それで、イスカリオット伯だっけ? あんたの眼から見てどうなんだ状況は?」
 この会話はなんだ。
 二人の話はまだ続いている。こんなにも無防備でいいのかというくらい、あっさりと、本来繋がるはずのない二人が繋がっていた事実に、クルスの思考は停止する。
 そして何よりも、彼らの言葉の中に出てくるドラクルという名前。それこそが、あのロゼ王妃の兄であり、今回の騒乱を引き起こした原因たる人物ではなかったのか?
 駄目だ。これ以上ここにいてはまずい。
 本能が警告を発している。好奇心めいた興味が、二人の会話が他に何か重要な情報を落としはしないかとこの身を引き留めようとする。でも。
 ここにいてはいけない。
 これ以上長く留まれば、イスカリオット伯に気づかれる可能性がある。あの日の大敗を忘れはしない。ワーウルフの国セルヴォルファスの王を名乗るあの少年の実力がどれほどのものかは知らないけれど、少なくともイスカリオット伯は自分より強い。
 あの日、いやというほど、それを思い知ったのだ。同じ過ちを繰り返したくはない。
 今日、この屋敷に忍び込んだのだってぎりぎりの選択で賭けだった。誰かに見つかる危険はもちろん、本来は味方であるはずの人を疑って疑って、それでも何も出なかったらどうしようと。
 その結果がこれならば、後は無事に帰るだけ。早く足を動かせばいいのに、ついつい握った拳に力がこもる。悔しさに唇を噛んだ。
 予想なのか予感なのか、彼を疑った自分は正しいとクルスは今この場で知った。だけれど、本当は知りたくなどなかったのだ。あんな風に、我らが主への叛意を苛烈ではなくとも、確かにはっきりと表明する彼を。
 どうしようもなくそれが辛かった。
 それほど好きな相手ではない。シェリダンに仕える上で、必要だから協力しているだけだ。彼の持っている力や情報網とクルスの持つそれは違う。お互いを有効利用すれば、できないことなどないはずだった。
 それすらも勘違いだったと今はわかって、それでこの胸が、少しだけきりきりと刻まれたように痛いのは何故なのか。
「戻らなきゃ……」
 戻って、陛下に――シェリダン様に報告せねばならない。あなたの部下の一人、イスカリオット伯爵ジュダ卿は裏切り者なのです、と。
 全ての事情を聞いたわけではないが、シェリダンの手足としてあの場に一緒にいたクルスには、ローゼンティア王家の複雑な事情も、その中で翻弄されているロゼウスの立場も、それを受けてなお彼を側に置きたいシェリダンの気持ちもわかっている。
 先日の御前試合の折、死んだと思われていたカミラが姿を見せたことを考えれば、あのローゼンティアの元第一王子の下には他にも数々の有力者が集っているのだろう。その証拠の一つがここで繰り広げられている会話。人狼の国セルヴォルファスの王。ヴィルヘルム=ローア=セルヴォルファス。一体何故、彼がこんなところで、イスカリオット伯とドラクル王子と手を結んでなどいるのか。その理由までは、まだ聞けていない。何となくわかるようなわからないような、そんな感じの会話を二人は繰り広げている。
「俺は、ロゼウス王子が欲しいんだよ、イスカリオット伯」
 彼はどこまで本気なのだろうか。セルヴォルファス王の瞳には、事態をひたすら面白がるような光が浮かんでいる。口にする言葉の全てが道化のそれで、彼は本音など何一つ語っていないかのように見える。
 そしてそんなヴィルヘルム王の思惑こそいまだ曖昧なままだが……イスカリオット伯の想いは……。
「――……奇遇ですね、陛下」
 私はシェリダン様が欲しい。
 そして、あの方のすぐ近くにいるロゼウスが疎ましい。
 語られる伯爵の声は、言葉は、狂おしいまでに真剣だった。
 クルスは早くここから去るべきだったのだ。彼の、こんな声を、言葉を、聞く前に。イスカリオット伯がセルヴォルファス王と、ひいてはドラクル王子と繋がっていることだけを確認して、さっさとこの屋敷を誰にも見咎められないうちに脱出するべきだった。
 そうすれば、こんな事態にはならずともすんだのに。
「で? さっきからそこで聞き耳立てている奴はだぁれ?」
 一体何が悪くて気づかれたのか、それとももしかしたら、この人物ははじめからわかっていたのかも知れない。
 捕らえた獲物を引き裂く獣の残酷さで、セルヴォルファス王の視線が潜んでいたクルスの方へと向いた。その視線を追って気づいたイスカリオット伯も、もともときりりとしていた表情を引き締める。
「クルス=ユージーン侯爵!」
「っ……!」
 例え見つかったとしても、捕らわれなければ大丈夫なのだ。このエヴェルシードでまずいことを目論んでいるのは二人であって、クルスではない。彼らがシェリダンに仇なす前にそのことを彼に伝えることができれば、こちらのもの――。
 しかし、クルスのその思惑は封じられた。
「おや? 顔の割にはいい筋肉ついてるね。一見柔らかそうなのに、食べてみたら硬くてまずそうだ」
 身体が動かない。全身を地に伏せさせられ、見下ろされる。
 ワーウルフは人間などよりよほど獣に近く、身体能力が発達し戦闘に特化した一族。魔族。
 いっそ呆気ないほど簡単に、クルスはセルヴォルファス王の一撃を受けて、地面に倒れふしたのだ。
 ざくざくと足音をさせて近づいてくる人影も見える。イスカリオット伯が、複雑な表情でこちらを見ている。
「……残念ですね。クルス君」
 それは一体、どういった意味なのか。
 彼は明かさないままにクルスの処遇を決めた。
「あなたをシェリダン様の元へ返すわけにはいきません。しばらく、この屋敷の地下牢で大人しくしてて頂きましょう」
 そのイスカリオット伯の瞳にどうしてか憐憫にも似た情が湛えられているのが不思議だったが、クルスの中ではすぐさま憎悪に置き換えられた。
 二対一。しかも、それぞれが相当の武芸者。クルス一人ではイスカリオット伯にすら勝てないのに、この能力未知数の異国人を相手に闘うこともできない。
 シェリダン様――。
 唯一と心に誓った主の、朱金の瞳が脳裏をよぎる――。

 ◆◆◆◆◆

 帰ってこない。
「マズイわね……」
「どうなさったのですか?」
「公爵閣下?」
 両脇に侍らせた少女たちが怪訝な顔をする。
 エルジェーベトは今、領地であるヴァートレイトから移動したリステルアリア城にいる。ここの方が王都シアンスレイト、つまりはシェリダン陛下のお膝元に近いから何かと都合が良いかと思ったのだが。
「困ったわ」
「バートリ公爵?」
「ユージーン侯爵、いるでしょう。あのクルスくん……出かけてったっきり、帰って来ないのよ~~」
「ユージーン侯爵?」
「ああ、あのお顔の可愛らしい方……」
 ついついバートリ領にいるときのくせで毛足の長い絨毯など敷いて居心地をよくしたソファの上、お気に入りの奴隷少女たちを構いながら、エルジェーベトは脳裏に一人の青年を思い浮かべる。
 ここでこの状況を見たとき、固まっていたクルス。何故あのシェリダンやイスカリオット伯と親しげなのかわからないほど、今どき珍しいくらい純粋で潔癖な青年侯爵。青年と言う呼称ですら世間一般的にはようやくそういう年頃に入っただろうという程度で、エルジェーベトから見ればまだお子様、少年の域だ。
 そして汚れなき侯爵は、この王国において最も王に対する忠誠心が厚い。
 シェリダン陛下のためなら火の中水の中、を当然の如く行う青年は、今回火の中水の中など比べ物にならない魔境へと足を運んでいる。
「…………ね」
「バートリ公爵?」
 白い腕をエルジェーベトに預けていた少女の一人が、独り言を聞き咎めて怪訝そうに首を傾げる。
「なんでもないわ」
「わかりました」
 さすがにそこまで彼女たちに言えるわけもなく、エルジェーベトはその先の問を封じた。声に出さず胸のうちで、あらためて先ほどの言葉を呟く。
 イスカリオット伯が裏切るなんてね。
 ありえないとは言わない。思わない。だけれど、どうしてもそれはないと思ってしまうのはエルジェーベトの勝手だろうか。
 クルス=クラーク=ユージーン侯爵は今年十九歳で、シェリダン王は十七歳。まだまだお若い二人にはあの男は飄々とした道化、得体の知れない役者に思えるのだろうが、幸か不幸かエルジェーベトは彼の昔を知っている。
 それはエルジェーベトだけではなく、もう一人……シェリダンの筆頭侍従であるあの青年、ユージーン侯爵とは違ってこちらは本当に青年と言うべき年頃のリヒベルク家の次男坊もそうだ。リチャードと言う名の彼はイスカリオット伯と同い年で、八年前の問題に直接関わった人間のうちの一人だった。
 八年前、あの事件があるまで、イスカリオット伯爵ジュダ卿は本当に普通の青年だった。いいや、普通どころか、今のユージーン侯爵に負けず劣らず純粋で高潔で、理想に溢れていた。
 エルジェーベトは彼の想い人であったヴィオレットと知り合いだった。だから、なおさらそう思うのかもしれない。彼女を失って、彼は変ってしまった。彼女と彼女の息子の死は、イスカリオット伯を絶望に突き落とし、その心に限りない悲しみと狂気を植えつけてしまった。
 今の彼を見たら天国の彼女がどう思うのか……なんて、馬鹿なことは言わない。死んだ人間は帰ってこないし、彼らに今生きているエルジェーベトたちができることはない。けれど、だけれども。
 あまりにも酷いその変化。
 そもそもジュダは高潔な人柄で、自らの叔母に当るヴィオレットに恋したことを除けば後は本当に普通の青年だった。胸に秘めるだけの禁じられた恋を大事にその胸に抱え、彼は触れられないならなおのこと彼女とその息子を別の方法で愛そうと、彼女たちの支えになることを密に誓うような青年だった。その頃の彼の年齢は今のユージーン侯爵クルスと同じく二十歳前。
 エルジェーベトはあの二人が皮肉な、強固な警戒心を挟んだようなやりとりをするのを見るたびに不思議な気持ちになる。今でこそ国内でも特に対極の位置に立つとはいえ、もともと彼らの性格は似通っているはずだ。それが、あんなことになって。
 ジュダがクルスに何かしたという話も聞いたことがあるが、そちらに関してはエルジェーベトにも真偽はわからない。これが何の因縁もなければ、また気遣う必要もないただの貴族なら皮肉交じりにわざわざ持ち出してやるところだけれど、シェリダンのお気に入りで、あのクロノス=ユージーンの息子であり現ユージーン侯爵家を継ぐクルスに下手な手出しはできない。何より本人があの性格なのだ。下手につついて過去の傷を刺激してやるのも可哀想だな、なんて思ったのだが。
「聞いておけばよかったかしらねぇ……」
「バートリ公爵?」
 何故彼はあんなにも、イスカリオット伯爵を恨んでいるのか。
「……そりゃあ、あの子の性格からすれば今のジュダ卿は生理的に受け付けないとか言われても仕方のない相手かもしれないけど、でも、それでも信用の一片すら見せないで躊躇うことなく疑うってのは、妙ね。いつもよりはやり過ぎている気がするわ。と言っても、クルス卿のいつもなんて、厳密には私も知らないわけだし……」
 奴隷少女たちが脇からするりと抜けだした。ソファの正面に直立して身構える。
 彼女たちはエルジェーベトの言葉を真に理解し、その命令を実行する大事な大事なお人形。下手に身分が低いものだからなまじ裏町を歩いていても誰も気にしない。奴隷なんかと嘲笑う奴らを幾人、彼女たちの手によって葬ってきたことか。
 まあそれはともかくとして、今回もそろそろ、彼女たちも含め自分もどうやら動き出さなければいけないようだ。
「先触れを、シェリダン陛下へ」
「かしこまりました」
「それと、イスカリオット伯を……いえ、屋敷に出入りする者の姿がないかどうかだけ確認してくれればいいわ。無茶をしない程度にあの屋敷を見張って」
「お屋敷ですか? 伯爵本人ではなく」
「ええ。たぶん、今の時点でイスカリオット伯に手を出すのはまずい」
 過去を知っているのだから、彼がかつてどのような才能を培っていたのかも知っている、自分は。だからこそ惜しいものだと思う。彼はあのまま道を間違えなければ、さぞや素晴らしき王国の忠臣となっただろうに……。
 奴隷少女たちが各々に与えられた任務をこなすために部屋を出て行った。
 人気のなくなった部屋で思考の波紋を広げながら、エルジェーベトはソファに横たわって一人ごちる。
「……私も、そういえば同じか」
 過去がある。それは望もうと望まざると今の自分たちを間違いなく形づくる素養。過去が今を形づくり、過去の歪みは現在に影響する。
 彼には癒えない傷があった。
 そして彼だけでなく、クルスにも、シェリダンにも、先日衝撃の事実を突きつけられたロゼウスにも、このエルジェーベト自身にすら。
 誰だって重苦しい、息苦しい、思い出したくもない思いの一つや二つ抱えているもの。平民ならまだしも、自分たちは貴族なのだからなおさらだ。
 だからそれを言い訳に王国を……国王陛下シェリダン様に仇なすつもりがジュダ卿にあるのならば、いくら相手が彼でも私は容赦しない。
「……さぁ、何が待っていることやら」
 エルジェーベトは起き上がり、王城へ行ってシェリダンへこの事を報告するために身支度を整え始める。

 ◆◆◆◆◆

 華奢でたおやかで可憐で儚げで。
 そういう、花のような子だと思っていた。
 はっきり言おう。自分は彼を侮っていた。
 何もできない子どもだと。ただ、優れた兄姉たちの足手まといになるしかできない病弱な王子だと。
 今も熱で赤い顔をしながら、しかし彼は言う。
「……の、……伯と、取引を……それから、リザァドの街の富豪に、話をつけ……」
「ミカエラ王子」
 ルイは彼の手を握った。苦しい息の中、儚げな風貌をさらに消えそうに淡いものにしたミカエラは、ルイの手を握るというより爪をかけて無理矢理指をとどめようとするような弱い力加減で縋り、熱に潤む深紅の瞳で見上げてきた。
「頼む……ルイ、これを……」
 震える指が枕元を指差して、丁寧に蝋で封じられた幾つもの手紙の存在を示す。ルイはそれを見つめた。貴人らしい流麗な書体は、初めて見るミカエラの字だ。
「届けて……兄上様たちに、許可はとっている……シェリダン王にも……だから……」
「どうして君は……」
 可愛いだけの、ただの子どもだと思っていた。ローゼンティアを侵略したのは確かにエヴェルシードだけれど、彼らの平穏に慣れきったやわらかな様子は見ていて微笑ましいものと共に、この国に住む者たちの心を抉った。
 エヴェルシードは争乱に生きる国。他国との交流をさほどせず自国の中だけで穏やかに完結して緩やかに時を刻むローゼンティアは、すぐ近くで手が届きそうだが絶対不可侵の領域という神秘性を誰もが感じていて。
 羨ましくて憎らしかったのだろう。シェリダン陛下が即位後真っ先にローゼンティアを侵略したのは、向こうのドラクル元王太子に唆されたり、手近な隣国だったというよりも他に理由があったのだろう。
「ミカエラ王子……ミカちゃん」
 彼の嫌う愛称を呼んだのに今はルイを睨み返す気力もないようで、ミカエラは儚げな瞳を潤ませたまま、ルイを見上げる。
「人を観察するのは……得意、なんだ……いつも、寝台の中で……世界、を……ただ、眺めてたから……」
 森でドラクル王子たちと相対した後、彼はまた具合を悪くした。
 もともと体が弱く、ルイたちがヴァートレイトに拘束していた時もほとんど動けなかったミカエラだ。元気があるときには相手をしてもらうこともあったけれど、姉であるエルジェーベトから彼の監視をしろと言いつけられルイの役目は、ほとんどその寝顔を眺めているだけだった。
 兄妹だと信じていた人々が実はそうではなかった。それも、自分たちの父母の薄暗い思惑の上で全てが回っていた。一番仲が良いというわけでも同母の兄妹というわけでもなかったけれど、兄の一人が他国(この場合ルイたちのエヴェルシード)を使ってまで、自分たちの祖国を滅ぼした……。
 精神的な負荷がかからない方がどうかしている。ローゼンティアの他の面々も顔色を悪くしていたが、ここまで酷くはない。
「可哀想な子だね、君は」
 ルイの言葉に反応して、ミカエラが瞳を瞬かせた。
 不謹慎な言い方だけれど、こういうときの彼の姿は酷く色っぽい。二十五にもなって十五歳の少年にそういう気分になるのはやっぱり犯罪だよなぁとは思うけど、気になるものは気になるんだから仕方ない。
 白い敷布の上に横たえられた、淡く上気した桜色の身体。瞳は濡れた深紅で、唇も乾いて禍々しいほどに紅い。汗ばんで皮膚に張り付く白い髪は、エヴェルシードにはない色彩だから余計目を引く。触りたくなる。
 乱れて頬にかかる髪を払いのけてやった。
「可哀想な子だね、君は」
 再び告げると、ミカエラは嫌がるどころかにこりと笑った。いつもの、吼える子犬のような彼らしくもなく。
 その笑みは不吉なほどに、儚い。
「知ってる」
「って……」
「僕は、宮廷の役立たずだ」
「……」
 ローゼンティアがどのような国なのか、はっきり言ってルイは知らない。だから推測するしかない。彼の他の兄妹たちを見ていればわかることを、改めて確認するだけ。
 ヴァンピルはワーウルフほどではないが、身体能力に優れた種族だ。一度や二度死んだところで生き返るという彼らの中で、病弱だというのはなんとした異端で矛盾だろう。
 いかにも儚げな美女であるミザリー姫でさえ、現実は女将軍であるエルジェーベトと張り合うほどのタフさだ。第四王女のロザリー姫に関しては、一人でシェリダン、リチャード、エチエンヌ、クルスを瀕死に追いやったこともあるという。
 その異常な強靭さのなかで、ただ一人本当に弱い王子。剣術の能力自体は平均的らしいが、何しろ剣を持つほどの体力もない日が多いのでは仕方がない。
 もしかしてこの子は、自国で相当肩身の狭い思いをしていたのではないだろうか。ふとそんな考えが頭を過ぎる。病弱な王族の政略的な使い勝手の悪さは、人間の国でもよく言われることだ。
 口さがない人々の悪意の込められた噂だって、さぞや聞いてきたことだろう。だから、可哀想だというのだ。幾つもの矛盾の中で、無力さに歯噛みしながら無為な生を繋ぎとめ続ける。彼らがとても哀れに思えた。
 ミカエラは、寝台に寄せていたルイの指をそっと握る。
「知ってるよ……自分が、どれだけ無力かなんて……」
 ルイは彼の枕元の手紙の束に手を伸ばし、宛先を確認した。そこには、エヴェルシードと他国の一部だけだが、ルイが知る限りでも信用に足る人物だと言える人々の名がかかれている。人を見る目だけはあると豪語していたのは伊達じゃない。
「僕に、できるのはここまでだ」
「ミカ」
「本当はもう少し……ロゼウス兄様のお役に立ちたかったけれど」
 ルイ、と。
 名を呼ばれた。
 顔を上げる。彼の方を向く。二人の視線が絡む。彼の唇が動く。

「僕は、きっと近いうちに死ぬ」

 美しく微笑んで告げられた絶望的なその言葉。
「―――ミカエラっ!?」
「事実だ……自分の身体のことだから、わかるんだ……でも、今すぐじゃないよ」
「そんなこと……」
 ない、と言ってやりたいがどうなのだろう。ルイはローゼンティアについてあまりにも知らない。
「でも、君たちヴァンピルは生き返れるんだろう!?」
「うん……死んだ人間の中にまだ命……魔力が十分に残っていれば……天命の途中で死んでも、誰かに生き返らせてもらえれば……生き返る」
 だが。
「僕にはもう、それが残ってない……寿命を終えた生き物を復活させたとき……ノスフェラトゥ……死人人形となるように、僕をもう一度生き返らせようとしたら……そうなるだろう……」
 絶句した。言葉が出てこない。
「それまではどうか……兄様のお役に……」
 握る指先から力が抜ける。すぅ、と彼は唐突に眠りに落ちた。喋る力が尽きたのだろう。
 その最後まで喋っていたのは、ずっとロゼウス王子のこと。ああ、君は本当に、あの兄上が好きだね。
 とくまでもなく離れた彼の指を毛布の中に戻してやってから、ルイはその寝台を離れる。彼がしたためた手紙を協力者の貴族たちに届けるために。自分は自分ができることを、このエヴェルシードのために、そして彼のためにしよう。
 それだけが、死に逝く者への唯一の餞だと。

 この頃のルイは、そう思っていた。
 あの言葉に込められたミカエラの真意まで深く考えず。
 もしもこの時に、彼の壮絶な決意を一つでもわかっていたなら。
 未来は、変えられただろうか。