荊の墓標 22

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 世界なんて変わらない。
「陛下、お手が止まっております」
「あ……すまない、バイロン」
「いいえ。それより、ご気分でも優れませんか? なんでしたら、今日の執務はこれで終わりにしましょうか」
「いや、構わない。続けてくれ」
 執務中だと言うのに、うっかりとぼんやりしすぎていたようだ。傍らで彼自身の仕事を片付けていた宰相のバイロンにそれを指摘されて、シェリダンは我に帰る。
 ここで悠長なことをしている場合ではない。ローゼンティアのヴラディスラフ大公ドラクルと一戦構えるために、通常の政務はさっさと終わらせておくべきだ。理性はそう言い聞かせているのだが、どうしても気が逸れてしまう。
「まだまだ未熟だな、私は」
 わかっていることをあえて再認識しようと、シェリダンは自分に言葉を突きつけた。
「そんなことは……陛下はまだ御歳十七歳であられるのですから、何も一足飛びに全てのことをこなせるようにならなくても良いのですよ」
 その分軍事的な才能には優れておられるではありませんか。バイロンの慰めに、苦笑を返す。
 未熟だと自分で自分を貶めてはみたものの、そもそもシェリダン自身、もとより熟達した人間になる気などなかったのだから当たり前だ。
 この国の玉座を手に入れる前からシェリダンが欲しいのはただこの身とこの世の破滅。国を良く治め民を正しく導く気などなかったのだから、未熟も何もそれを論じる以前の問題だ。
 ペンを走らせながらまたもや思考が沈んでいく。
「……か」
「え?」
「いや、なんでもいい」
 答えは出たのだろうか。
 ロゼウス。
 そう呼べるのも、もうあと少し。彼がローゼンティア奪還と復興のためにドラクルと対立する道を選べば、シェリダンはそれを擁立という形で支援する。
 ならば奴を立てなければならないだろう。ローゼンティア王太子、ロゼウス殿下、と。
 あのように何の垣根も……とは言わないが、気安く話せるのももう少しだ。
 わかっている。今のこれが茶番だと言う事は。もともと、シェリダンはロゼウスと長く共にいるつもりはなかった。ロゼウスと、長く「この世に」共にいるつもりはなかった。
 破滅への道連れ。
 ローゼンティアを滅ぼし、この国を滅ぼし、そうして死ぬための道連れならば、その寿命が我々人間と違うことも何も、関係がなかった。
 一緒に死んでしまえばもう置いていかれることもない。
 それだけしか考えていなかったから、何も気にする事はなかったのだ。いくらロゼウスが女顔だからと言っていつまでも周囲を誤魔化しておけるわけでもないが、元々短い間しか共にいる気がなかったからどうでもよかった。あの頃は。
 では、今は?
 自分で自分に問いかける。白銀と紅の残光が瞼の裏に舞う。
 二つの国を滅ぼし、民を虐殺し、そうしてロゼウスを殺して自分も死ぬ気だった。
 だが。
「お茶をお持ちいたしました」
 ノックの音が聞こえて、リチャードが執務室に入ってきた。入れ替わりに立ち上がったバイロンが外へと出て行こうとする。
「陛下、それでは私はこちらの書類を届けてまいります」
「ああ。頼む」
 シェリダンは机からそれを見送り、リチャードがワゴンを押したまま一礼した。規則正しい足音をさせてバイロンが出て行くと、リチャードは部屋の隅に設置された、休憩用を兼ねた応接テーブルにお茶の用意を始める。
「すぐにお茶になさいますか?」
「いや、この束を片付けてからにする」
 目の前に積まれた書類の山の、一つがもうすぐ終わろうとしている。これを片付けてからの方がきりがいい。
 あと二つほど山は残っているが……。
「そういえばシェリダン陛下」
「何だ? リチャード」
「ロゼウ……王妃様とのことは、どうなりましたか? ローゼンティアと再び戦うことは……」
 書類にサインする手が思わず止まる。すぐに何事もないような顔をして仕事へと戻るが、会話に意識は持っていかれている。
「……ロゼウスの返答待ちだ」
「そう……ですか」
「他の王族の世話、まだしばらく任せる」
「かしこまりました。それは良いのですが」
 リチャードが意味ありげに言葉を区切る。顔を上げると、心配そうな瞳があった。
「陛下」
「何だ?」
「陛下は、どうなさるおつもりなのですか?」
「どうするも何も、ロゼウスがローゼンティアの復興を選ぶつもりならば支援するが?」
「ですがそうしたら、あなた方は」
「リチャード」
 シェリダンは気を回しすぎる侍従の言葉を遮る。
「確かにロゼウスを薔薇の国の王に立てるならば、私たちは必然的に離れ離れになるな」
 仕方がない。一国の王がそう簡単にいつも一緒にいるというわけにはいかないし、何よりそんな友好は不自然だ。
 それに何より。
「その方がいいんだ」
「シェリダン様」
「私の側にいたら、ロゼウスはいつか破滅するぞ。いや、別の意味ではもうしているか」
「シェリダン様……それは」
「だから、その方がいいんだ」
 自分たちの関係はけして穏やかなものではない。
 それは死に逝く道の道連れだ。だから。
「殺したくないんだ」
 一度はその心臓に刃を刺したくせに何を言うのかと思われても、今はそう思うのだから仕方ない。眠り続ける彼の人形のような寝顔を眺めながら絶望的な気分で目覚めを待った、あんな想いをするのはもうたくさんだ。
 だが自分と共にあれば、ロゼウスにはまたその道がつきまとうだろう。
「生きていて、欲しいんだ」
 一度は殺し、初めから殺すつもりだったにも関わらずシェリダンはロゼウスの生を願った。
 生きて欲しいんだ。
 本来ならシェリダンたち人間よりよほど頑丈で長命な種族だ。放っておけば当然シェリダンより長生きする。
 だけれどシェリダンの道は、荊のような破滅の十字架を立てたはかじるしにしか繋がらないから、生きていてほしいと願うなら、離れるしかないのだ。
「だから、これでいいんだ」
 後は、ロゼウス自身がシェリダンにその答を突きつけるのを待つだけだ。

 ◆◆◆◆◆

「あら? ロザリー、珍しいわね。あなたがこっちに来るなんて」
「ああ、うん、ちょっと……」
 みんなが集まっている部屋に顔を出すと、ミザリーがそう言ってロザリーに話しかけてきた。
「最近はずっと、あの王に絡んでたじゃない。今日はもういいの?」
 ミザリーの言葉に一瞬どきりとする。
「う、うん。今日はなんか、忙しいみたいだし。あんまりシェリダンの仕事の邪魔しても――」
「ちっ!」
「……姉様?」
「あんな男、私たちの国を侵略した野蛮人じゃない。エヴェルシードの人間の暮らしなんて知ったことじゃないわ。せいぜい邪魔してやればいいじゃないのよ」
 ミザリーの言葉に、困ったような引きつり顔でアンリが嗜め冷静な口調でミカエラが補足する。
「……ミザリー、俺たちが今この城に世話になっている以上、衣食住全部そのエヴェルシードの血税から賄われているんだけど……」
「だいたい、シェリダン王はこれから僕たちがドラクルと戦うのに必要なパトロンだしね」
「それはそうだけど」
「……まあ、それもロゼウス兄様のお心次第ではあるけれど」
 ロゼウス。
 出てきたのは大事な名前で、ロザリーはまたもや心臓が跳ねるのを感じる。
 アンリの隣に腰を降ろして、ロザリーは物思いに沈む。
「……ロザリー、どうした?」
 彼女の様子が普段と違うのをどう受け取ったのか、アンリが心配そうに顔を覗き込んでくる。
「ロザ姉様?」
「おねえさま、元気ない?」
 ウィルとエリサまで、ロザリーの両脇から擦り寄ってきた。
「何でもないの。ちょっと考え事してただけ。ウィル、エリサ。今日は剣の稽古しないの?」
 この二人が時々剣を持って、外で稽古をしていることは知っている。知っているというか、だってその監視役は名目上自分の夫であるエチエンヌがしているわけだし。
 エチエンヌは最近ずっと忙しそうだ。いきなり客人であり、もしかしたら敵に回るかもしれない可能性のある人間が増えて、信頼できる手駒の少ないシェリダンの周辺は小姓から貴族までみんなが忙しそうにしている。つまり、ロザリーたちローゼンティアのせいなのだが。
 ロザリーはロザリーで、ここ数日は先ほどミザリーにも指摘されたとおりシェリダンの元で彼と話し合いをするために押しかけていた。
 全っ然相手にしてくれないけどね! あの男!
「……ろ、ロザリー?」
「姉上。顔が険しいです」
「あ? え? な、なんでもないわよ! 気にしなくていいわ!」
「そうか?」
「ええ!」
 シェリダンのせいだわ。全部あの男がいけないのよ。
 ロザリーは八つ当たり気味にそう考える。元はと言えばあの済ました様子のシェリダンがドラクルに乗せられて私たちのローゼンティアに戦争なんか仕掛けるから悪いんじゃないのよ!!
 それなのになんで脳裏を、あの素っ気ない横顔が浮かぶのか。
 何故、柔らかく俯くと藍色の髪が頬に落ちる様子とか、さりげなくこちらが困っている時に手を貸す素振りなんかを思い出すのだろうか。
 何故自分は、あの朱金の瞳がロゼウスのことばかりを追いかけているのを、遠くから眺めているのか。
「……ああもう!」
「ロザリー? やっぱり今日のあなた、変よ?」
「わかってるわよ姉様。気にしないで!」
「って言われても……」
 ミザリーはアンリと顔を見合わせて眉を寄せた。しばらく二言三言言葉を交わすと、急に二人は立ち上がる。
「兄上? 姉上?」
「ごめん、ミカエラ。みんなも。俺たち、またちょっと出かけてくるな」
 最近、何故かアンリとミザリーが二人で出かけることが多くなった。兄妹の中では特に仲が良い場面を見たわけでもないけれど、その分仲の悪いわけでもない二人が連れ立って出かける様子は、どことなく違和感がある。
「いってらっしゃーい」
「うん。行ってくる」
「じゃあ、僕たちもそろそろ中庭で修行してきます」
「おねえさま、おにいさま、いってきまーす」
 アンリとミザリーに加え、ウィルとエリサも各々の得物を携えて部屋を出て行った。
 気づけば、今この部屋にはロザリーとミカエラしかいない。
 賑やかさを求めてこの部屋に来たはずなのに、なんだか期待はずれと言うか。
「みんな行っちゃった……」
「ロザリーのせいだよ」
「なによミカエラ」
「ロザリーが難しい顔と言うか、一人で百面相してるから皆気まずくて出て行っちゃったんじゃないか」
「私のせい!?」
「そうだよ」
 私のせい? そうなの?!
「ねぇ、ロザリー……姉上」
 また少し体調が悪くなったらしく、小さく咳き込みながらミカエラが言った。
「珍しいじゃない。あんたが私を姉上だなんて呼ぶのは」
 ロザリーとミカエラは同じ両親から生まれているし、歳も一つしか違わない。だからミカエラは、いつも姉であるロザリーを遠慮なく名前で呼び捨てていた。というか、兄弟のだいたいはそうなのだが。ドラクルのことは皆平然とドラクルって呼んでいるし。
「まぜっかえさないでくれる? それより、一度聞きたいと思ってたんだよね。ちょうどいいから、今聞くけど」
「何よ」
 いつもロザリーと、ロゼウスを取り合って喧嘩ばかりしていた弟はふいに大人びた目を。
 憐れむような苛立たしいような、そんな感情全てを孕みながら押さえ込んだ目をしてロザリーに言った。
「ロザリーは、シェリダン王が好きなの?」
「なっ……!」
 あまりの言葉に、ロザリーは唖然としてしまう。
「何を言ってんのよ!」
「違うっていうの?」
「決まってるじゃない! 何を根拠にそんなこと!」
「根拠。根拠ねぇ」
 一度視線を彷徨わせてから、ミカエラはロザリーを半眼で見つめて告げる。
「そんなもの、ちょっと様子を見ていればわかるよ」
「あんたねぇ!」
「で、どうするの?」
「……どうって?」
 弟の質問の意味が掴めず、ロザリーはミカエラの顔を見返した。
 ミカエラは国王と第三王妃の間に生まれた王子。ロザリーとちゃんと二親血の繋がった兄妹。だからこそ遠慮も何もないけれど、異母兄のロゼウスとはまた違った意味で、大好きで大事なのにどこか掴めない。
 けほけほと小さな咳をして、ミカエラはロザリーを詰るように見つめながら言葉を吐いた。
「シェリダン王は、敵だよ」
「ミカエラ」
「一時的に手を組んだとしても、あの人が何の下心もなしに協力してくれるなんてありえない。一度友好関係を崩した事実は消えないんだから、あくまでも僕たちは敵同士。今はちょっと協定を結ぶだけ――心を許せる相手じゃ、ないんだよ」
 ちくん、とその指摘はロザリーの胸を刺す。
「……わかってるわよ」
「そう? それならいいけど。ロザリー=テトリア=ローゼンティア殿下。あなたは王女だ。それも、今回の騒ぎでもその継承権が正統であることを証明された正真正銘の王女。そのあなたがシェリダン王に恋なんかした日にはどうなるか、ちゃんとわかってるよね?」
「――わかっているわ」
「エヴェルシード国王にローゼンティアの王女が嫁いだりしたら、それこそ奪還を果した後のローゼンティアはエヴェルシードに実質的に支配権を握られてしまう。姉上、それが今回のことで王族の数が減って、継承順位が上がったあなたであれば尚更のこと」
「わかって、いるわよ」
「本当だね」
「本当よ」
「ならよかった」
 本当にそう思っているわけではなく、そうなるように仕向ける強制力を持った笑みで、ミカエラはロザリーに言い含める。
「ロザリー、あなたはローゼンティアの正統なる王族だ。どうかその自覚を持って、最期まで王族らしくいて」
「……ミカエラ?」
「僕も、頑張るから。最期まで、王子として存在するから」
 何故か、その笑みはその瞬間儚く見えた。
「でも」
 気づけば言葉が口をついていた。
「でも、ロゼウスは」
「ロゼウス兄様は――……あれは、」
 ミカエラが言いよどむ。ロザリーはここに来る前に、たまたま通りがかった国王の執務室前……嘘だ。シェリダンに会うために足を向けたその部屋の前でヴァンピル特有の聴覚の強さでもって図らずも聞いてしまった言葉を思い出した。

 ――生きていて、欲しいんだ。

 胸を衝く切ない祈り。それはロザリーではなく、ロザリーの兄に――唯一ロゼウスに向けられたもの。
 あんな切ない響で彼はロゼウスに祈る。その生を願う。
 彼は間違いなくロゼウスを想っている。それが酷く、寂しいことのようにロザリーには思えた。
 入れない。混ざれない。二人の間には。
 ロゼウスにももう手が届かない。ロゼウスはいつも、どこか哀しげな瞳で世界を見ていた。なのに、この国に来てからは。
「ねぇ、ミカエラ、ロゼウスは……」
 彼女たちのこれからはロゼウスの一存によって決まる。
「ロゼウスは……私は……」
 私たちは。
 ミカエラがそっと瞳を伏せた。吐息と共に囁く。
「どこへ……行くんだろうね」