荊の墓標 22

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 いつまでもこんなところにいるわけにはいかない。
「シェリダン様に、お伝えしないと……」
 地獄より酷い目を見たことで逆に決意が固まった。なんとしてでもこの屋敷から脱出し、王城へ向かわなければ。シェリダンにイスカリオット伯の裏切りを報告し、彼を排斥して、この国に平和を……
 イスカリオット伯爵本人でなければ、見張りなど取るにたらない相手だ。素手で、片腕でも何とか倒すことができた。
 鉄格子を抜けるために、一時的に肩の関節を外した。いつもは少し複雑な気持ちになる小柄な体格はこんな時に役に立つ。関節をはめなおして、尋常でなく痛む下半身に力を入れて立ち上がる。
 早く、早く、戻らないと。
 クルスは重たい身体を引きずりながら、何とか歩き出す。
 早く……あの方に……。
 報告をしなければという意識の他に、あの方に会いたいという感情が強かった。
 全身が軋む。一度はずした肩も硬い床に転がされていた背中も。
 陵辱された部位は特に酷く苦痛を訴える。日頃鍛えているおかげで何とか走れはするが、脂汗が止まらない。
 シェリダン様。
 一刻も早くこの事を伝えて、そして。
 とにかく顔が見たかった。
 誰よりも、何よりも大切な主君。自分が命を懸けるに足る存在。あの方を貶めることなど許せるはずがない。
 だからシェリダンを手に入れたいなどと、イスカリオット伯の傲慢な物言いが耳についた。
 赦せない。そんなことは許されない。
 一階は見張りの数が多かった。しかしさすがにこの身体で二階の窓から飛び降りるのは無理だろう。地下から脱出するための出口付近で状況を把握したクルスは、そのまま警備の手薄な箇所を狙って屋敷の外に出ることにする。無茶な移動と警備との戦闘を秤にかけて後者を選択する。
 地下牢の見張りは呆れたことに武器を持っていなかったので、ちょうどいいからそれもこちらで拝借しよう。足音に咄嗟に身を隠す。
「お前……うわっ!」
 二人組で見回っている男たちの片方に狙いを定めて、物陰から飛び出して鳩尾に膝を叩き込んだ。
「どうした! なにが―――ぐ!」
 もう一人の見張りも首筋に手刀を落として昏倒させる。帯剣している彼らの得物を奪い、もう一度念入りにその脇腹に一撃を見舞ってからその場を離れる。
「ぐ……」
 激しく動いたことで、クルス自身の身体にも先ほどとは比べ物にならない負担がかかった。
 眩暈がし、その場に膝を着く。どこもかしこも鈍く痛み、吐き気がする。冷や汗と脂汗がじっとりと背中や脇の下を流れる。
 だけどこれで剣が手に入った。命を奪うのは本意でないが、この場合は緊急事態だ。昏倒させるために全力で体技を繰り出すより、相手の柔らかな喉首に刃を突き立てるほうが力はいらない。奪った剣も安物かどうかはともかく、普段クルスが使っている侯爵家縁のものより断然軽かった。
 これなら、いける。楽な道のりではないが、なんとか王城に戻れる。
 馬に乗るのは辛いけれど、まさか徒歩と言うわけにもいかないし馬車を借りることもできない。だから、馬も剣と同じく奪うことにした。
 早くしないと先ほど倒した見張りの姿がないことに気づかれて追っ手をかけられるだろう。厩舎によって、のんびりと草を食んでいる馬の首を軽く撫でて反応を見る。すぐにこの手に馴染んでくれた一頭を選び、厩舎から出そうとした。
 その瞬間、軽い足音と視界を過ぎった人影にぎくりとする。反射的に振り返って、動きを止める。
 瞬間に覚えた違和感の正体はすぐにはっきりした。足音が軽いのはそれが体格のがっしりとした男性のものではなく、華奢で可憐な風情の少女のものだったからだ。
 だけれどその花の顔は、どんなむくつけき大男よりもクルスを動揺させる。
「カミラ殿下!?」
「お久しぶりね、ユージーン侯爵」
 命より大切な主君の妹にして王位を争う敵。カミラ姫はかつてのクルスが知る彼女には見なかった妖艶な笑みを浮かべてそこに立っていた。
「何故……」
「何故? だってあなたは知ってしまったのでしょう? イスカリオット伯がシェリダンを裏切るつもりだって。だったら私がここにいてもおかしくはないわ」
 イスカリオット伯爵ジュダはシェリダンの敵。カミラもシェリダンの敵。だけれど、そもそもこの二人に接点は――。
「まさか」
「そのまさかよ」
 くすくすと笑いながら告げられた言葉にクルスの思考は一時的に凍結し、瞼の裏でちかちかと光が瞬いた。
 一瞬の動揺が去ると、これまでばらばらだったパズルのピースがぴたりと上手く合わさって一枚の絵を描く。
「あなたたちは、全員が繋がっていたのか!」
「今更ね。ユージーン侯爵」
 これまでの状況から、例えばイスカリオット伯がセルヴォルファス王と協力していることがわかった。彼らの会話から、それぞれがまたドラクル王子とも手を組んでいる事が知れた。そしてそれでいて各々の利害のために少しずつ相手を裏切っていることを。
 だけれど、結局のところは変らない。
 シェリダンの敵であるところの彼らは、それぞれが手を組み合っていたのだ。結局倒すべき勢力はドラクル王子に繋がるただ一つ。
 ジュダも、セルヴォルファス王も、アンリ王子たち以外のローゼンティア王族も、帝国宰相ハデスも、このカミラも。
 全てはドラクル王子の協力者であり、倒すべき敵であることに変わりはない。
 事態はクルスたちが思っているより複雑で、けれど蓋を開けてみればよっぽど簡単なことだったのだ。
「そういえばあなたには、最初に裏切られた恨みがあったわね」
「っ――っ!!」
 そうだ、カミラ姫はあの御前試合のときにバートリ公爵を倒すほどの力を見せて……。
 それがどのような経緯で得たものかはわからないが、今の彼女を以前のようなかよわい少女だと侮ってはいけなかったのだ。
 情けないことに自らの身に何が起こったのかもよく理解しないまま、クルスの視界は暗転する。
 確かにクルスは彼女に恨みを買っていた。こんなことが起こる前から異母兄であるシェリダンを敵視しその玉座を狙っていた彼女を排斥するために、クルスはシェリダンから命じられたとおりに彼女のもとへ潜入し間諜を務めた。
 カミラにとって、彼女を直接罠にかけたと言えるクルスはさぞや憎い相手だろう。
 シェリダンは清廉潔白な人間でも完璧な人間でもないことを知っている。だから、こうして人の恨みを買い憎しみを受ける。その王に従うクルスもまた、数多の憎悪と殺意を向けられて当然なのだ。
 よもやこんな最悪の場面で、こんな形でそれをつきつけられるとは思っていなかったけれど。
「がはっ」
 痛みに意識が途切れ、大切な主君の名を呼ぶ暇もなくクルスの意識は闇に落ちた。

 ◆◆◆◆◆

「通せない? どうして?」
 エルジェーベトは先ほどから埒の明かない押し問答をシアンスレイトの衛兵と繰り広げていた。
「あなたの眼は節穴なわけ? 私は、バートリ公爵エルジェーベトよ。わかったらさっさとそこをどきなさい」
 なんでこんなくだらない争いをしなければならないのか。エヴェルシードでも有数の貴族であるこのエルジェーベト卿を王城に入れない上に国王陛下と謁見させないなんて、たかだか一介の兵士に許されることではないわよ。
 けれど今日はどういうわけか、周囲がどうあってもエルジェーベトをこの先に通そうとしない。
 どうやら後手に回ってしまったようだ。こんなことならクルスともう少し綿密な話をして、早めに動き出せばよかった。
 その場にいた全ての衛兵がエルジェーベトを取り囲み、持っていた武器を一斉に向けた。
「残念ですがバートリ女公爵。貴殿には、ここで死んでいただきます」
 衛兵の一人が言い放つ。嘲笑を隠そうともしない態度。
「――やれるものならやってごらんなさい」
 そして、彼女は剣を抜いた。

 ◆◆◆◆◆

 ロゼウスはシェリダンを探していた。
「あ、ロザリー、ミカエラ。シェリダン見なかった?」
「今日は見てないけど……ロゼウス? また女装?」
 廊下でばったり出会ったロザリーがロゼウスのこの服装を見て、首を傾げた。ここ数日は男装に戻していいと言われていたにも関わらず、今のロゼウスがしっかりと姫君の扮装をしていることに違和感を覚えたらしい。まあ、当然だろう。
「うん、まあ」
 適当に頷いて、見てないならいいと二人に手を振ってその場を離れる。エチエンヌやリチャードにも会ったけれど、誰もが知らないと首を振った。
「シェリダン様の居場所、ですか? 執務室の方は?」
「今日の政務は休みだってバイロン宰相が」
 最後の頼みの綱、ローラにも尋ねてみるが芳しい返答は得られない。
「おかしいですねぇ。どこに行ってしまわれたのでしょうか……ところでロゼ王妃? といいますかロゼウス王子? なんで今日はその格好なんですか?」
 またもや問いかけられたその言葉に、ロゼウスは笑って返す。
「ああ、最後だから」
「え?」
 ローラが翡翠の瞳を零れ落ちそうなほど大きく瞠った。
「そ……ですか。ローゼンティア再興のこと、答を、決めたんですね」
「ああ。だから、その返答をしにシェリダンのところに行こうと思って」
 ローラは僅かに肩を震わせた。複雑な顔でロゼウスを見上げる。
「す……すみません。私には、シェリダン様がどこにいらっしゃるのかまでは、ちょっと……」
「そう。ありがとうローラ。もう少し探してみるよ」
 とはいえ、王城内の心当たりはこれでもう全て回った。ローラと別れて、足を階下へと向ける。城門へと向かい、城を出る。
 残る心当たりはあの場所だけだ。
「シェリダン」
 こちらが黒いドレスを纏うなら向こうもお誂え向きに何故か今日は黒い服を着て、彼は果たしてその場所に立っていた。《焔の最果て》と呼ばれるエヴェルシード王家の墓所の前に、黒薔薇の花束を持って静かに佇んでいる。
「ロゼウス?」
 振り返りロゼウスの姿を認めて、シェリダンは今までの人々と同じように軽く目を瞠った。けれどローラたちと違うところは、彼がそれについて何も言わなかったところだ。
 だからロゼウスの方から切り出した。
「最後だから、もう一度だけこの格好で」
「……そうか。そんなところだろうと思ったが」
 シェリダンは薄く笑みを浮かべると、墓標の前に花束を置いた。中身のないその墓石にはカミラの名が刻まれている。様々に交錯する運命に翻弄されて、死ぬはずだったのに死ななかった少女。
 そしてそれゆえ歪んでしまった――ロゼウスが初めて愛した少女。
 彼女の偽りの死、そしてこの場所からロゼウスとシェリダンの物語は始まったのだ。
「答が出たよ、シェリダン」
「ああ」
 ロゼウスは彼から三歩ほど離れた場所で立ち止まる。ドレスの動き辛い長い裾が絡む。こんな場所に来るのにロングドレスはないだろうと自分でも思うが、着て来てしまったものはしょうがない。
 墓所の景色はだいたい、どこも寂しい。この国に来る前、ロゼウスは蘇生の祈りと期待をこめて家族の亡骸をローゼンティアの王家の墓所に埋めた。その時には、シェリダンがロゼウスの背後に立ってそれを眺めていた。
 なんて皮肉な関係か、自分たちには墓所や葬列や喪服と言ったものが、よほど縁が深いらしい。
 今日だってロゼウスもシェリダンも、示し合わせたわけでもないのに同じように黒い服を着ている。
 言葉はなく、ロゼウスはこの場所で立ち止まる。後一歩踏み出せば触れる、そんな絶妙な距離感を置いて、まっすぐに顔を上げ自分より僅かに背の高いシェリダンを見つめた。
 夜空か深海の闇を凝らせたような藍色の髪。白い肌。
 そして燃える朱金の焔の瞳。
 お前はいつだって、いっそ愚直なまでに一途だ。
 ロゼウスが何よりも恐れ警戒し、嫌悪していたのはもしかしたらそれかも知れない。悲しみから這い上がり復讐をよすがに父を殺し妹まで殺し隣国へと侵略する。その全てが自らの破滅に帰結するためのものだと平然と口にするような信念は、狭い世界に自ら閉じこもり快いものだけを耳にして目を塞ぎ続けたロゼウスには眩しすぎた。
 地獄の業火はとても綺麗な色をしているのかもしれないが、触れれば罪人を一瞬で焼き尽くす。絵に描かれた炎を見つめても熱さは感じないけれど、それが目の前にあるのなら、どんなに美しくても触れてはいけない。この身まで燃えてしまうから。
 ロゼウスにとって、シェリダンはそれだった。
焔の王よ。
「聞かせてもらおう、ロゼウス。お前の答を」
 目と目が合う。炎はそこにある。
 触れれば間違いなくこの身を焦がす炎。やわらかな鳥籠のいつもすぐ隣にあったそれから、今なら逃げることができる。
 選択権はロゼウスにある。
 愛しているとその口では言いながら、シェリダンはもう手を離した。今ならばロゼウスは、ローゼンティアの王子に戻れる。戻りたいのかどうかは自分でもよくわからないけれど、少なくともこのままエヴェルシードでこの男の玩具として燻っている謂れはない。
 逃げることができる。
 開かれた扉。解かれた鎖。壊れた手錠。放たれる空。
 永遠に追っては来ない、眼差しだけの支配者。
 霞のような絆も共に過ごした日々も、確かに心が通い合った一瞬も今ならばなかったことにできる。永遠に見て見ぬ振りができる。
 考えてもみろ。この国に脅迫されて無理矢理連れてこられ蹂躙された日々と、実体は虐待だったかもしれないけれど確かに愛しい兄と兄妹たちと暮らしていたローゼンティアの日々と。
 どちらの方が平和で愛しくて大切だったかなんて決まっている。
 シェリダンは潔いほどに嘘を言わない。ロゼウスがローゼンティアの王子に戻ることを選んでも、王権の奪還と再興支援という約束を裏切ることはないだろう。
 答は、決まっていたのだ。
「シェリダン、俺は――」

 一歩前へと足を踏み出した。
「俺は《逝く》よ」
 その分だけ距離が近づき、伸ばした手は向かい合った彼の頬に届く。確かに触れる。
「お前と共に」
 ゆっくりとシェリダンが目を瞠った。

 答は決まっていたのだ。何が一番良いかなんてわかっていた。
 それでもロゼウスは、この道を選ぶ。
 愛しているなんて言えない。そんな言葉では言い表せないし、この感情をどうやって表現すればいいのかわからない。
 だけど約束しただろう。
「お前と地獄に堕ちてやる」
 どこまでも、どこまでも、どこまでも。
 ――俺はあんたを愛したりしない。一生、好きにはならない……。
 それでも。
 ――堕ちていこう、一緒に。
 シェリダン=ヴラド=エヴェルシード。
 いっそ憎らしいほどにあんたが嘘をつかないから、俺もその約束を守ろうと思う。
 ふと、視界がじわりと滲んだ。
「ローゼンティアは」
 掠れた声音で問いかけてくるのに答える。
 考えて考えて、これがロゼウスの出した結論だ。
「取り戻す、勿論。あんたはそれに力を貸してくれるんだろう。ドラクルのことはやっぱり……憎めないけれど、あの人を歪ませたのが俺ならば、あの人を止めるのもやっぱり俺の役目だと思う」
 言いながら、ロゼウスは霞む視界でシェリダンを見つめる。いつも凛とした顔つきの彼が、今にも泣き出しそうな迷子の子どもの顔をしている。
 出口はあるのだろうか。
 いつか目的地に辿り着けるのだろうか。
 そこは、果たして自分たちが望んだ場所なのだろうか。
 今はわからない。でも。
「ローゼンティアを取り戻して、全部ごたごたを解決して、俺よりもっと相応しい人物を王位に着けて」
 そして全てが終わったら。
「一緒に逝ってあげるから」
 ぽろり、と。シェリダンの炎色の瞳から一滴だけ涙が零れた。
「国の滅亡なんていらないだろう? いくらお前の民だって、顔も知らないどうでもいい有象無象を何百万人って道連れにしたって、何も面白くないだろ? ……だから俺が一緒に逝ってあげる。お前と地獄に堕ちてやるから」
 妻なのだ。
 ロゼウスはこのシェリダンという一つの《破滅》の形代に嫁した。
 こうして女物の衣装を纏うのも最後だ。自分はロゼ王妃から王子ロゼウスに戻り、ローゼンティアを必ずドラクルの手から取り戻す。
 そして略奪された姫君ではなく、ただの《ロゼウス》として、ただの《シェリダン》と共に逝く道を選ぶ。
 また一歩距離を縮め、頬から離した手で彼の手をとる。両手でそれを包み込んで、祈るように俯いた。
 何に祈るかも今はわからない。自分は人を本当の意味で好きになったことなどないから、たぶん真剣に神に祈ることもないだろう。
 それでも共にありたいという、この想いだけは真実だから。
「ロゼウス……私は……」
 痛みを堪えるような顔つきで何か口にしかけたシェリダンの言葉を、軽く首を横に振ることで封じる。
いつかこの身を納めるはずの、今は虚ろな墓の前喪服で向かい合いロゼウスは誓う。
「最期は必ず、お前と共に」
 後はもう言葉にならなかった。
 墓標に捧げられた薔薇の花弁が甘い香りと共に舞う中手をとり、二人して涙を流し続けた。