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そして、運命の歯車は回り出した。
皇歴三〇〇三年、アケロンティス帝国はデメテル=レーテ帝の御世、エヴェルシード王国はシェリダン王の治世下であった。
薔薇の王子はその言葉どおり破滅の花嫁となり、絶望と慟哭に嫁すこととなる。
二人がようやく心を通わせ、決して明るくはない未来を誓い、お互いの存在をただ一途に求めたその瞬間から、第二の神聖なる悲劇――《ラ・ディヴァーナ・トラジェディア》は始まっていたのだ。
何故、彼は――彼らはそんな末路を辿らねばならなかったのか。
年若き王について彼を慕っていた忠臣たちがいくら叫んだところで、亡くした人が還ってくるわけでもなく、時は戻りはしない。けっしてやりなおしなどできないのに人は未来を見ることなど叶わないから、いつだってそれこそが自壊への第一歩だと気づかずにこんなにも容易く道を踏み外す。
いや、それとも――その破滅すら気づかせないからこそ、あらがえない大いなる道標のままに誘導されることを人は宿命だと言うのかもしれない。そうでなければ、能力の程度はともかく多少は未来を見ることのかなった預言者の姉弟までもが、その愚行をなすわけはなかったのだから。
ああ、しかし。例えどんな言葉で取り繕いその時の状況に逐一原因付けを行ったところで、結局はこれも無意味なことなのだろう。過去に改変を加えることなどできず、今の私たちに突きつけられたのはただのその残酷な結果のみである。
それでもまだ、過去の悲劇に関して言葉を用いることが許されるのならば一つだけ、言わせてもらおう。
出会ってはいけなかった。
ロゼウス=ノスフェル=ローゼンティア。
シェリダン=ヴラド=エヴェルシード。
この二人は、決して出会ってはいけなかったのだ。
どんなに強く惹きあおうとも、その想いのために互いが互い以外の全てを捨てようとも、それでも彼らは、出会ってはいけなかったのだ。
悲劇の舞台は、ゆっくりと、優雅に、しかし確実に幕を開けていく。舞台を整えた者の意図を知らぬまま、役者たちはただ踊るのみだ。一番手の歌い手が、すでに主役たちの後方に控えている。そして。
――ここから、狂気の演目は始まったのだ。
「薔薇皇帝記」 第一章 焔の王国
皇歴七〇〇九年 ――ルルティス・ランシェット
◆◆◆◆◆
時は来た。
「機が熟したとは言いがたく、まあ、向こうに際どいところを押さえかけられたという意味では私たちの不利と言うのでしょうが」
そう言ってジュダは少し離れた場所を見た。血塗れの少女が、その右手に何かを引きずっている。
「カミラ姫がここまで私に協力してくださるとはね」
彼女の手に無造作に髪を掴まれて地面を引きずられている青年――ユージーン侯爵クルス卿は、その身を血に染めたままぴくりとも動かない。
手ひどく痛めつけたはずなのに、牢から抜け出すとは。あの身体ではどうせ王城までは辿り着けなかっただろうが、それでもこれは自分の失態。尻拭いをしてくれたカミラには借りができてしまった。
王城の方にも、これまでに少しずつ買収した兵士を動かして手を回した。それだけの手勢であのバートリ公爵エルジェーベトを止められるとは思わないが、時間稼ぎくらいにはなるだろう。
「私にだって、ドラクル王子が私を上手く利用しようとしていることぐらいわかるわ。それに、あの人の妹であるルース姫も何事か企んでいるようですし? 皇帝に帝国宰相、イスカリオット伯、あなたとセルヴォルファス王……シェリダンだけならまだしも、ロゼウス様も、敵が多くて大変ね」
「けれどだからこそ、その隙を見てあなたは欲しいものを掻っ攫うおつもりなんでしょう? ねぇ、簒奪者の姫君。ちょうど良かった。あなたがいてくだされば話は早く済む」
「でもロゼウス様をくれるわけではないのでしょう?」
「まあ。今の時点では。セルヴォルファス王の協力は必要です。やはり我々脆弱な人間とヴァンピルが正面きって戦うのはまずいですしねぇ。陛下がローゼンティアに戦争を仕掛けたあの時とは、状況が違う。だからこそ――彼の力を利用して、そこからどう自分たちにとって有利に運ぶかはあなた次第ですよ、カミラ殿下」
「あなたは協力してくれないわけね」
「私はロゼウス王子などどうでもいいですから」
そう、私が欲しいのはあの方だけ。
「ここが終われば手を引かせてもらいますよ」
「その後は私とドラクル王子方の問題、か……わかったわ。セルヴォルファス王には、いつご退場願おうかしら」
「まだ入場もしていませんよ。カミラ殿下」
「ええ。そうね……彼はどうしましょう?」
そこでカミラは、それまで引きずっていたクルスに目をやる。
「……その辺の兵士にでも、くれてやればどうですか。慰み者にするなり、侯爵としての地位を奪うために脅すなり、貴族に恨みを持つ者が殴りつけて気晴らしにするなりなんでもすればいい」
「冷たいことね。イスカリオット伯」
「あなたほどではありませんよ。カミラ姫」
血を流して気絶しているクルスにはもちろんこの言葉は届いてはいないだろう。彼の意識がなくてよかったと思う。
あのいつだって真っ直ぐな瞳で見つめられたら、私は。
たぶん自分と彼はこの国の貴族で最も相性が悪い者同士なのだ。いつかお互いの身を滅ぼしあうことになるのは明白だった。それが今来ただけ。この時に乗じただけ。
頭を振って気持ちを切り替える。視界の端でカミラがクルスを放り出すのが見えた。
遠くに視線をやると、人の群れがこちらに来ていた。
「兵士が到着しましたよ」
傍らのカミラに言葉をかけた。王城の中からセルヴォルファス王がやってくる。
「こっちの準備は万端。でも、そろそろエヴェルシード王たちも気づき始めたよ」
「そりゃあまずいですね。では――」
カミラが最終確認とばかりににやりと……口角を吊り上げる。彼女が今まで浮かべたことのない種類の笑み。
「私はあなた方ともドラクル王子とも違って頭が良くありませんから。イスカリオット伯が動くのは早計とはいえ、まさかここにセルヴォルファス王がいてロゼウス様をシェリダンから引き離す手はずだったとはまったく、知りませんでしたわ」
「ええ。そりゃあそうですよ。何しろ私はカミラ姫に簒奪を促しただけで、そのようなことを一切お伝えしていないのだから」
だから、ドラクル王子も出し抜ける。
時は来た。
「陛下! 敵襲です!」
城内に伝令の兵が駆け込んでくる。それは恐ろしく、ある者たちにとっては信じられない一報だった。
「敵だと? 一体――」
「イスカリオット伯が領地から兵を向けたようです!」
裏切り。
窓硝子を割って室内に投下されたのは、ヴァンピルの動きを封じる銀粉。
背後から伸ばされた手が、最も近くにいたはずの二人を容易く引き剥がす。
「シェリダン!」
「ロゼウス!?」
他のヴァンピルたちが彼らにとっては毒にも等しい銀に意識を奪われていく中、必死で伸ばしたお互いの手は届かずに。
少女の通った声が響く。
「エヴェルシード国王シェリダン! その王冠は、私がいただくわ」
「カミラ!?」
王城内が混乱に見舞われる。
軍事国家エヴェルシードには、全ては力で奪えという暗黙の了解があった。
皇歴三〇〇三年。永い冬の終わり、まだ春の始まらぬその月。
エヴェルシード国王シェリダン=ヴラド=エヴェルシード追放。
カミラ=ウェスト=エヴェルシード女王、即位。
《続く》