荊の墓標 23

128*

 何故、こんなことになっている。私は、一体、どうして。
「ぅ……」
 渇いた喉で呻けば、引き連れるような痛みが走った。血を吐きそうな痛みを堪え、必死に唾液を飲み込んで潤いを取り戻そうとする。
「……は……」
 視界は暗い。室内には闇が降りている。シェリダンの身体はどうやらやわらかな寝台の上にあるようで、ここは……。
 思わず考え込みそうになる頭に、腰の痛みが現実を訴えてくる。
「そう、だ……私は」
 思い出した瞬間、ざっと血の気が引いた。起こした上体は背後の枕に戻るのではなく、前のめりになって爪を毛布に食い込ませる。発作的に込み上げた吐き気を、何とか堪える。
 体勢を変えたことにより、どろり、と内股から白濁の液が伝った。その生々しい感触と、今も局部を苛み続ける疼くような痛みに、目の前が夜だと言うだけでなく暗く染まる。
「あ……」
 酷く喉が渇いていた。
 何か飲む物はないのか。これまでは望めば何でも手に入る国王の地位にあったというのに、今は水の一杯すら自力では手に入れられないこの有様だ。
 急速に覚醒した意識が、見たくない現実を突きつける。身動きした際にするはずの衣擦れは裸の身体では起こるはずもなく、その代わりにしゃらりと足首につけられた鎖の音が鳴った。
 玉座について以来、鎖で繋がれるようなことなどなかった。というか、大抵の人間は鎖や手錠、足枷で拘束されるようなことはない。シェリダンがそんな経験があるのは、ひとえに狂った父親の狂った遊戯に付き合わされた幼少の頃の記憶のため。
 もっとも、特定の人物に対しては容赦なくそれを行ったシェリダンが批難するのも滑稽なことだ。シェリダンがロゼウスにしたことも、到底赦されるはずはない。ただ、シェリダンは赦されることを望んでいるわけでもなかった。そんなものはどうでもいい。シェリダンはかつて彼が父にされたことを未来永劫赦さないと誓い、復讐を実行した。赦さないのだから赦される必要もない。だからロゼウスにもシェリダンをただ憎めば良いと。
 そして今、これをなした人間も、同じような思考だろう。
 赦さない、絶対に。
 だから赦される必要もない。
 相手がそう思っているのなら無駄だと、誰よりも自分がよく知っている。一方的な執着一方的な憎悪。この世で何よりも怖い感情は、それが一方的であることだと思う。
 しかし人は他者と心を通わせるなんて思いもしない生き物だから。
 こうして簡単に相手の心など切捨て、容れ物だけあればいいのだと偽りの獲得に酔いしれる。
 足首に嵌められた頑丈な枷に、忌々しいという感情が芽生えた。
 ジュダは今ここにはいない。
 この身を犯すだけ犯してさっさと放り出した男は、シェリダンを一体どうしたいのか。カミラによる王位の簒奪が成功したならさっさと先王であるシェリダンを殺せばいいというのに、あの男はそれをしなかった。
 ジュダ。イスカリオット伯爵ジュダ卿。
 彼は私が欲しいのだという。
 なんて趣味が悪いのだと嘲笑ってしまう。このヴァージニアの美貌を受け継いだ見た目に騙されて勝手にシェリダンの偶像を作りあげた他人ならいざ知らず、誰よりも近くでシェリダンを知っていたはずの彼が。
 もう滑稽すぎて、涙も出ない。国の王位を揺るがすほどの裏切りを、あの男が起こした理由はそれか。泣けてくるのに涙は出ない。零れたのは、渇いた笑い。
「くっ……くっくっくっく。ははははは」
 涙など出てこない。
 ジュダのために泣きはしない。そんなはずはない。だから頬を濡らすコレは、ただの雨水だ。部屋の扉が閉ざされ窓が硬く封印されていようとも、ただの雨の滴なのだと。
 自分はいつからあの男を変えた。
 配下にと組み込む前、出会った回数はさほど多くない。ジュダがあの事件を起こした後、一族の者の誰かの墓参に来ていたときと、エチエンヌとローラの事件のとき。
 特に、拘るようなことはなかったはずだ。あのジュダが血迷うようなことなんて。
 私が覚えていないだけか? だとしたら……やはり彼は滑稽だ。当事者の記憶にすら残らない曖昧なもののために、自らも危ない橋を渡り。
 後処理もせずにさっさと部屋を出たらしい男を胸中でさんざん罵っていると、前触れもなく扉が開いた。
 寝台に上体を起こしていただけで、何も疚しいことはしてない。むしろ、足首の鎖のせいで、そんなことはしたくともできない。
 それなのに、そうしてノックもなく扉を開けられると動揺してしまう自分がいる。本来ならその前にノックもなしに入るとは無礼だと責めるべきなのだろうが、ジュダの意図は明らかだ。予告をしてシェリダンが何か脱走準備でもしていた時にそれを隠されては困る、と。前触れもなく部屋に入ることで反撃の準備を未然に封じるそれは一つの監視なのだ。
「どうしたんですか? いきなり笑い出して。外まで聞こえましたよ」
「なんでもない。ただお前が愚かだと思っただけだ」
「そうですか。それは結構なことですね。湯殿の用意ができましたので、お連れしに来たのですが」
 何が結構なものか、あからさまに投げ遣りかつ適当にシェリダンの言葉を流したジュダは、その手に新たな拘束具を持っていた。
 単純な形の手錠だが、一度嵌めると中々開けられない仕組みのものだ。それを容赦なく、シェリダンの両手首に嵌める。
 寝台に固定されるならともかく、こうして両手首を一まとめにされると、自分が罪人にでもなったような気分になる。確かにシェリダンは間違っても清廉潔白という言葉とは馴染みがないが、だからと言って、ジュダに対して何かをした覚えはない。
「……ジュダ」
「どうせ歩けないでしょうし、連れて行ってあげますよ」
 言葉をかける暇さえ与えられず、ジュダはシェリダンの足枷を外し、裸体にそのまま毛布を巻きつけると首の後ろと膝下に腕を差し入れて一気に抱き上げた。
「ま、きついのは我慢してくださいね」
「……誰が」
「しなくても別に構いませんよ。どうせ状況は変わりませんから」
 あっさりとそう言い放ち、シェリダンを抱えたまま彼は歩き出す。いまだ痺れている体は、彼が一足ごと歩くたびに伝わる振動だけでも酷く辛い。随分乱暴に扱ってくれたようだ。
「ジュダ、お前……」
 再度。
 かけようとした言葉は、他でもない相手の男の口づけにより封じられる。
 ただ啄ばむだけの、軽い口づけ。言葉を奪い反論を許さない、そのためだけの手段。
 なのにそれは何故か優しかった。
「……口なんて開かない方が、言葉なんて交わさない方があなたのためですよ?」
 子どもに言い聞かせるように、ジュダは告げる。
 実際二十七歳の貴族の青年からして見れば、十七のシェリダンなどただの子どもでしかないだろう。ただの子どもでしかないシェリダンに、何故彼は。
 無駄なのに、何をやっても。お前が私を欲しいと言っても、私が欲しいのはお前ではない相手だ。そんなものでもいいのかと。
 シェリダンは少なくとも嫌だった。自らの想う相手に別の想い人がいると知った時、さんざん痛めつけて泣かせた。どれほど望んでもその相手は振り向かない。これほどの屈辱はない。その目が自分以外の誰かを見ている。これほどの孤独はない。
 お前は、そんなもので満足なのか?
 聞いてみたいはずのその問いを、口に出すことさえ封じられて言葉は喉の奥で死んでいく。巡る想いは還る場所を知らないまま、シェリダンは脳裏で、今シェリダンを抱くのではないただ一人の面影のみを求めた。
 蒼い髪ではなく白銀。橙色よりも濃い、血の色そのものの深紅を。
 ロゼウス――。
 この状況ではどうやら探しに行くこともできない。お前は今、どうしているのかと。

 ◆◆◆◆◆

 何故、そんなところで燻っている。
(誰……?)
 頭の中で誰かが囁いた。苛立たしげな舌打ちさえ聞こえてきそうな、その声音。忌々しそうで、怒っているようで、なのにどこか哀しそうで。
 俺は早くあの人のもとに行きたいのに、今度こそ本当にあの人を手に入れたいのに、どうしてお前はこんなところにいるのだと声は責めてくる。
 一体なんでそんなことを言われなきゃならないんだ? ロゼウスは首を傾げ……たわけではないけれど、気分的にはそんな様子だった。わからない。この状況が全くもってわからない。
 そこは夢の中だった。
 いつか見た夢。
 目を開けようとすると、実際に瞼が開くのではないけれど視界がはっきりするような感覚があって、目の前が闇から透明に開けた。
 涙の湖底。
 それはいつか見た夢。
 けれど以前と違うのは、そこに誰かの姿があることだ。
 ――お前は自分の涙で溺れている。
 ロゼウスにそう突きつけた声の相手。
 その声の主は自分だった。だから今度も。
 目の前に同じ顔がある。白い髪も紅い瞳もロゼウスと同じ。
 けれど、どこか違和感を覚えた。
 ダレ?
 お前は……誰だ?
 人影はにこりと笑った。無意識に鏡を覗きこむように同じ仕草で腕を伸ばしお互いに腕を絡める。相手の微笑が、困惑するロゼウスの瞳に映る。
 俺はお前だよ、薔薇の吸血鬼。そしてお前は俺だ。
 相手はそう告げるけれど、ロゼウスは違和感を拭えない。
 誰。
 お前は誰だ。
 俺はお前など知らない。
本能的な恐怖に駆られそう言うロゼウスを相手はますます楽しそうな笑みを浮かべて、けれど残酷に告げた。
 いくらそんなことを言ったって、お前が俺であることは変わらない。だから。
 
 いつかお前の、その身体をもらうよ。

 身体の内側で心臓が音を立てて跳ねる。
「――――っ!」
 飛び起きると、全身がぐっしょりと汗をかいていた。隣にいたヴィルヘルムが怪訝そうに声をかけてくる。
「ロゼウス?」
 ロゼウスは、自分の身体を抱きしめた。

 ◆◆◆◆◆

 時間だけが過ぎていく。
 ――いつかお前の、その……
「あっ!」
「何考えてる?」
 後から髪を掴まれて顔を引き寄せられる。痛みに、思わず呻いた。
「ヴィ、ル」
「最中に別のこと考えるなんて、やけに余裕じゃん? それなら、もっともっと、理性なんかどろどろに溶けるほどよくしてあげよっか?」
 ここに連れて来られて以来、毎晩ヴィルヘルムに抱かれている。ワーウルフによるヴァンピル封じは万全で、どんなにしても逃出すことができない。
「今日も脱走しようとしたんだってね、ロゼウス。どうしてそういうこと考えるかなぁ」
「どうして、も、何も、当然だろう? 俺は、お前に無理矢理ここに、連れて、来られたんだから」
 脱走を試みるのは当たり前だ。ハデスの魔法で一瞬にして連れてこられた、大陸北端のセルヴォルファスから東部地域のエヴェルシードへ向かうのは徒歩では絶望的な距離だが、それでもロゼウスはいつまでもここにいるわけにはいかない。
「俺をエヴェルシードに帰せ、ヴィルヘルム」
「嫌に決まってるじゃん」
「俺は、戻らなきゃならないんだ」
「だから嫌だって。ロゼウスが俺を好きになってくれればいいだろ?」
 二人の会話はいっこうに噛み合わない。どこまで行っても平行線だ。
「ねぇ、あの時はハデス卿に邪魔されたけどさ、本当に言う気はないの? ……誓ってよ、ロゼウス王子。俺の物になるってさ」
「誰が……あっ!」
 寝台の頭の方に鎖で両手を拘束されたロゼウスにのしかかりながら、ヴィルヘルムは頑是無い子どものようになんどもそう繰り返す。
 それを拒絶し続けるロゼウスの裸の胸に、彼は一度鞭をくれた。
「ああ。ローゼンティア人の特徴だけど、肌が白いからよく映えるよね」
 激痛と共に、赤い痕が残る。灼熱感が傷痕を追うように沸いてきて、ロゼウスはたまらず身を捩った。
「ねぇ、言ってよ。このセルヴォルファス王ヴィルヘルムのものになるってさ」
「誰が……っ!」
 ロゼウスは痛みを堪えて首だけをなんとか起こし、鞭を持って立つヴィルヘルムを睨んだ。
「絶対に言うもんか!」
 少年の灰色の瞳が冷たく細まる。
「うぐっ!」
 また一度鞭を振るうと、ヴィルヘルムはそれを床に放り捨てた。代わりに、寝台脇のチェストの引き出しに入れておいた、錠剤と液体の薬品を取り出す。
 ロゼウスは弱気な顔を見せないようにしながらも、内心では戦々恐々としていた。それはもう何度も使われていて、見覚えがある。
「どうしても言ってくれないんだね。じゃあいいよ。またこれ使っちゃうから。その威力、身を持って知ってるくせにね」
 錠剤を口内に押し込まれ、そのまま口を封じられた。吐き出そうと試みるも、ヴィルヘルムはロゼウスがそれを嚥下するまで手を離さない。最後は飲み込んでしまうことになるその様子を見届けてから、今度は液体を自らの手に取った。たっぷりと指に絡めて、淫靡な舌なめずりをする。
「ああっ!」
 前触れもなく後ろに指を突っ込まれる。強張ったその場所を、薬品を塗りたくった指で彼は強引に解し始めた。
「ヒッ、あ、痛っ……ぁ、ああ!」
「ふん。なんだよド淫乱。こんなこと、本当は慣れきってるくせに」
 快感を刺激する場所は探さず、ただ本当に指でかき回して中を緩ませてからヴィルヘルムはようやく指を抜いた。疼き続ける胸の鞭打たれた痕とは別の熱を持つそこを放り出されて、荒く息をつくロゼウスの、今度は前へと触れてきた。
「ヒァっ!」
 ただ、先端に指が触れただけ。それだけで、凄まじい快感に脳が揺れる。
 先ほど飲まされたのは媚薬。飲まされたものも、後に塗られた軟膏と液体の中間のようなとろりとした薬品もそうだ。
「うあっ、や、やめっ……ん、んぅ!」
 ガッと乱暴につかまれ扱かれると、言葉にならない切れ切れの呻きだけが漏れる。
「あーあ、一人で乱れちゃって」
 ロゼウスの様子を冷たく見下ろして、ヴィルヘルムは薄っすらと微笑んだ。
「いいよ。もう、溺れて、乱れて、狂ってしまえばいい。お前なんか壊れてしまえばいいんだ。俺のものになる気がないなら、こっちで勝手に、その身体の隅々まで犯すからサァ」
 また液体を手に取り、それを刷り込むように卑猥に乱暴にロゼウスのものを弄ぶ。耐え切れずに出したものを顔に受けて、それでも狂的に笑っている。
「ああ。残念。再生能力の異様に高いヴァンピルじゃなければ、とっくにクスリに依存して廃人になってる頃なのにね」
 心などいらないと、彼は言ったとおりにするらしい。ハデスとは四肢切断の話などしていたし、一体どういう悪趣味だと疑う。
 心……相手の心なんて、いらない。
 かつて同じような言葉を口にした少年を思い出す。朱金の炎色の瞳を強く燃え上がらせて、でも寂しげに俺に壊れてしまえと言い捨てた彼は、それでも愛してほしいのだと全身で告げていた。
「……っ、シェリダン……!」
 思わず名を呼ぶと、ヴィルヘルムが一瞬瞳を眇めた。けれどすぐにどうでもいいと言うように、再びロゼウスの身体を弄び始める。
 こんな時、シェリダンだったきっと自分としている最中に他の男の名を呼ぶなって、きっと怒る場面だろう。それが今では、酷く懐かしくておかしい。
ヴィルヘルムは彼とは違う。
 だから、ロゼウスはここから抜け出さなくちゃいけないんだ。
「ヒッ」
 ヴィルヘルムが入り口に自分のものを押し当てた。遠慮もなく奥へと進め、ロゼウスの全身に快楽と痛みが同時に走る。先ほどクスリで潤されほぐされたおかげで切れてはいないが、その分雷に打たれたような痺れと快楽のせいで死にそうだ。
「ああああっ!」
「ふ……相変わらず、中はすっごくいい。ほらほら、言葉ではどんなに俺を拒んだって、ここはこんなに素直じゃないか。ぎゅって締め付けてさ、そんなに俺が欲しかったの?」
「いやだ……っ、違う……あっ」
「違わないでしょ? ロゼウス王子。お兄様仕込の、淫乱で貪欲な王子様。ドラクルが言ってたよ。お前はただの、ご主人様を慰める奴隷ですらない肉人形だって。だからあの時も俺に貸してくれた」
 初めての邂逅の時を持ち出して、ヴィルヘルムはロゼウスを詰る。けれど。
「そんな言葉、今聞いたって全然痛くも痒くもないね!」
 ロゼウスはもうドラクルの真実を知ってる。敵の正体もその全体像……ヴィルヘルムやハデスたちが皆で手を組んでいることもわかっている。だからもう、怖いことなんて。
「……つまんないの。可愛くない。まあ、そこがいいんだけどさ」
 やれやれと、まるで呆れたと言わんばかりにヴィルヘルムは唇を尖らせる。
「別にいいか。そこでどんなに強がったところで、お前は今俺の下で喘ぐしかできない。それは変わらないんだから」
 そうして、腰を動かし始めた。
「あっ……うぁ、はっ……」
 ぐちゅぐちゅと水音と、肉のぶつかり合う音がする。
 シェリダン―――。
 望まぬ快楽に身を浸しながら、ロゼウスはただ一人のことだけを考えていた。