荊の墓標 23

129*

 ――ねぇ、ジュダ。愛しいものは……ちゃんと縛りつけておかなければ駄目よ?
 ――二度と離れないように。今度からそうしてね。あなたは、どうかあなただけは幸せに。
ヴィオレット。
 ――これでいいのです。叔父様。いいえ、兄様。
 ――愛しています。僕も、母も。誰よりも何よりも……あなたを愛しています。
ダレル。
 あなたたちは酷い。
 私を一人残して逝きながら、この私に幸せになれなどと仰る。
 世界中の人間全てを不幸にしてでも、幸せになれと。
 あなたたちがいなければ、幸せになどなれるはずもないのに。私の中はもう空っぽだ。欲しかったのは些細な平穏。三人で笑いながらティーパーティーを繰り広げたあの一時。そんなものだったのに、もう叶わない。
 父を斬り捨て一族を惨殺した私は、本当ならあなたたちの後を追ってあのまま死ぬつもりだった。この残酷な世界に未練などないと、墓標の前でその下の安らかな暗さを思う。
 だけど、それを止めた人がいた。

 ――幸せになることは簡単だ。世界中の人間を殺して、最後に自分の息の根を止めればいい。
 そうしなかったのはただのお前のエゴだろう? 

 自分だけを幸せにすることは何よりも簡単だ。ああ確かに彼の言うとおり、私はそれをしなかった。
 私は、私が幸せになるために相手までも不幸にしていいと思うのならば簡単に幸せになれた。それをしなかったことも、また確かに私の選択。
 あの時のシェリダン様の言葉は身に染みた。傷ついた心に塩を塗りこむように残酷で正しかった。
 愛シイモノハ、チャント縛リツケテオカナケレバ駄目ヨ?
 私を見据えるシェリダン様の瞳はきつく、刺すように鋭い。あまりにも美しく、それでいて儚い印象をもつ王子。
 ああ、欲しいな。
 そう思った、それが始まり。
 ――ここで死ぬのならそれもいいだろう。それがお前の、お前だけの幸福だ。勝手に幸せになるがいい。
 ええ、殿下。私はあなたの言うとおり、あなたを踏みにじって勝手に幸せにならせていただきます。
 それが、この事態のもともとの始まり。

 全ては巡る因果なのだ。応報の言葉の通り、報いは必ず自身に応える。この世のできごとは何もかも、運命と言う名の全てが自分自身のせいとなる。ならば。

 ぴちゃぴちゃと音を立てて舐めあげる。
「ん……」
 長椅子に身を預けて座る美しい人の足を開かせそこに顔を埋め、ひたすらに奉仕する。名を失っても、あなたは我が王。崇める気はないのに、讃える気はあるというこの矛盾を飲み込む都合の良い思考回路。
 手錠で繋がれながら奉仕されるという相反する状況に置かれた人の羞恥と憂いとが混ざった顔を見る。悔しげに唇を噛んで、拒否もできずにこの状態に流される彼の思考すら奪うように、一気に追い上げる。
「あっ……くっ、ジュダ……、やめ」
 命令とも懇願ともつかない言葉には当然耳を貸さず、無理矢理絶頂へと導いた。吐き出された液体はさんざん苛めすぎたせいか、薄い。ソレを飲み干して、わざとらしく唇を舐めながらジュダは息を切らすシェリダンの様子を見上げた。脱力した身体は、長椅子の背もたれでずるりと崩れる。
「お、まえ……っ!」
「なんです? このぐらい、いつものことでしょう? それが、未来永劫このまま続くということでしょう」
「未来など、……ない。お前には、永遠など」
「何故そう言えるんです?」
 可愛らしい人の両顎を手で挟むようにして、視線を自分の方へと向けさせる。エヴェルシード人の髪は暗い青、蒼と呼ばれるその色で、瞳は橙色が普通だ。だけど彼のその髪は夜闇を絹に浸して綴ったような藍色で、瞳は燃える炎のごとき朱金。
 あの頃もすでに整った顔立ちをしていたが、十七歳になった今となっては、並の女など太刀打ちできないような美しい少年。稀有なその美貌を歪めて、彼はジュダに視線を向ける。
 その視線が本当はどこを見ているかなど、ジュダには関係がない。心など手に入るのを待っていては、一生そんな日は来ない。
 愛しいものは縛り付けておけと、あの日ジュダが愛したヴィオレットが言った。
 だから、ジュダはその通りにしようと思う。こうしてこの人をジュダの城に閉じ込めて縛り付けて思う様犯して、そうしてどろどろに溶かしてしまえばいい。
 自分が幸福になりたいのならば。
「シェリダン様……昔の話を覚えていますか?」
「昔の話?」
「ああ、あなたはまだ幼くて、覚えてはいらっしゃらなかったのでしたっけ。イスカリオット地方の墓所で、お会いしたでしょう? 私は身内の墓参りをしていて、あなたはリチャードを連れて、彼の兄の墓参りに来ていた」
 話を振って見るが、シェリダンはほとんど記憶にないようだった。ただ、ぽつりと。
「ああ……あの時、あの場所にいたのは、お前だったのか……」
「ええ。そうです」
 ジュダは目を細めて、シェリダンの顎を捕らえその美しいお顔を覗き込む。
「あの時、あなたが私に言った言葉を、私はよく覚えています。例え、あなたが覚えていらっしゃらなくとも」
 勝手に幸せになるといい、そう言われた。
「だから僕は勝手に幸せになります。あなたを不幸にして。人は幸せになるためには、他者を不幸にしなければならない生き物だから」
 自分が幸福になるために、人から奪う。その幸せも自由も権利も誇りも体も命も、何もかも。剥ぎ取って骨と皮だけにして、それでもまだ足りないと他者を喰らう。
 この世に生きる人間こそが、最も醜悪で救いがたき妄執の怪物。人の血を呑む吸血鬼など比べ物にならない、同胞ぐらいの忌まわしき堕天。
 頬から外した手を、彼の手首に添えた。力を込めると、確かに男のものではあるがまだ華奢とさえ言える成長途中のその手首が軋む。苦痛にシェリダンは顔を歪める。
「私は幸せになりたいのです」
 その歪んだ顔に無理矢理ジュダは口づける。胸のうちの暗黒の水面に、狂った歓喜が波紋を広げる。
「だから、あなたから奪うのです」
 この裏切り者の口づけで。
 舌を絡め唾液を飲ませ、さんざんに口内を蹂躙してようやくその唇を解放した。
 濡れて果実のように赤く染まり、飲みきれない唾液をつぅと顎まで伝わらせたその表情は、どんな美女の痴態よりもジュダをそそる。
 そうだ楽しませてくれ。
 あなたの絶望で、私のこの欠落を埋めてくれ。
 そうでないと私は。
 ――どうかあなただけは幸せに。
 ジュダの腕の中で事切れたヴィオレットの言葉は、まだ彼を苛んでいる。けっして逃れることはできない。自分が彼女を忘れない限り。
 シェリダンを手に入れて、彼に溺れればもうこの心の空ろから逃れられると思っていた。
「ジュダ」
 燃える炎の瞳がジュダを睨む。
「お前の本当の望みは何だ。こんなことをして、お前の願いは叶ったのか?」
「――っ!」
 その言葉に、ジュダは思わず言葉を失う。
「馬鹿な男だ。お前は私を通して、『誰か』を見ているに過ぎない。その誰かが手に入らないからこそ、お前は私に執着しているだけだ。そこにどんな感情もない」
「違う! 私は、あなたのことがっ!」
「好きでいるわけはあるまい」
「何故そう言える! あなたにだって、私の心などわからないはずだろう!」
「わかるさ。お前のそれが、私に向けるには歪んだ想いであることぐらい」
 今まで、何をやっても身代わりであることに苦しんだ、自分にだけはわかるのだと。
 シェリダンはそう告げた。
「諦めろ、ジュダ。お前は私を愛していないし、私はお前を愛さない」
「……そのようなことを言って、あなたはどうするおつもりですか? ロゼウス王子はもうヴィルヘルム王のもとで、あなたがどうやったって彼を取り戻すことなど不可能ですよ」
 セルヴォルファスはヴァンピル王国ローゼンティアと同じく魔族の国。しかもワーウルフは、温厚な気性のヴァンピルと違って好戦的な種族。下手に足を踏み入れれば例え誰であっても八つ裂きだろう。
「できるさ」
 だが彼は何の気負いもなく、ごく当たり前のようにそう言った。
「どうして?」
 その瞬間、シェリダンは本当に幸せそうに、薄く微笑む。
「ロゼウスも、私に会うために動くだろうから」
 それを信じて疑わない表情と声音だった。

 やっと手に入れた。今度こそ手に入れた。失う前に私のものにして一生縛り付けて離さないのだと誓った。
 なのに。
 手に入れたと思ったものは、もう、とっくに他の誰かのものであったことを私は知ったのだ。

 ◆◆◆◆◆

「そちらはどう? イスカリオット伯」
「順調ですよ。順調も何も、永久停滞というか現状が進みようもないと同義ですが。それを言うなら、カミラ殿下……いいえ、カミラ陛下はどうなのです?」
 エヴェルシード王城、シアンスレイトに顔を出す。現国王の即位を手伝った人間としては、そのまま放置と言うわけにもいかない。簒奪だけ協力して後は極力手を出さない事が双方に有益な条件の一つではあったけれど、そうして向こうの問題を見逃してあっさりとようやく作り上げたこの状態を元の木阿弥にされても困る。
 ある程度、カミラの動向に目を光らせて置く事は重要だった。せっかくシェリダンを手に入れても、その代わりに愚王が立たれては困る。彼女一人で全てを行えとはもちろん言わないが、彼女が国を機能させるだけの機構を上手く操縦できるかは、見定めておく必要があった。
「バイロン閣下は」
「よく働いてくれているわよ。喜んでいないのは確かだけれど」
 シェリダンに忠誠を誓った宰相は、短気を起こして罷免されるほど間抜けではない。カミラのもとで自分の足場をなんとか留まらせ、シェリダンが戻るのを待つつもりだろう。……それは不可能だと思うが。
「先日私があげた二、三の人物に関しては」
「あからさまに新勢力に取り入って媚びて自分だけは上手い汁を啜ろうって輩だったわね。それが明らかになったから、罷免したわ。あなたの忠告どおり、恨みを買いすぎないように、適度に」
「そう……上に立つものにとって必要なのは、何事も適度な匙加減ですよ。それは特に人心を操るために。おだてすぎてもいけないし、怒らせてもいけない。適度に満足と適度に不満を持ち、自らが虐げられているとは気づかせない程度に要職から遠ざけていく。そうすればいまだ後見勢力をウェスト家以外に持たない陛下でも、穏当に政治を進めることができます」
「そうだといいわね。……いいえ、私がそれをやらなければいけないのね」
 絢爛な玉座に付きながらも、カミラは溜め息をついた。
「お疲れですか? 国王陛下」
 元々男尊女卑思考のある軍事国家では、女王は歓迎されない。加えて歳若く特に才知に長けるというわけでもないカミラがその座につくことは、並大抵のことではないだろう。しかもそうして玉座を得た方法は簒奪。
「そうね。王様の仕事って大変だわ。でも逃げるわけにはいかないもの。ここを明け渡せば、今度こそ私の命はない……」
 国を追われた先王シェリダンの行方は今もわからない……ことになっている。実はジュダのところにいるということは、彼らの協力者しか知らないこと。
 カツン、と硬質な足音が響いた。
「やぁ、イスカリオット伯爵」
 髪を蒼く染めて目立たないように多少の変装をした、ヴァンピル。
 人は主に髪型と輪郭と目で相手を見分けるのだと言う。だからよっぽど慣れ親しんだ相手でなければ、彼の顔立ちがつい最近までこの城にいたある人物と似通っているということに気づかない。
「お似合いですよ、ドラクル王子、その格好」
「そうかい。あんまり嬉しくはない褒め言葉だね」
 彼が今着ているのは、貴族の一般的な服装だ。仮初めの爵位を与えるのはいざそれが明るみに出たとき危険な策だが、この場合はいたしかたない。王城内を自由に歩き回る権利を得るために、ドラクル王子……いいや、ローゼンティア貴族ヴラディスラフ大公ドラクルは、エヴェルシードに下級貴族の一人として潜入していた。ご丁寧に極力怪しまれないよう、もとは他国と縁戚を結ぶことで力をつけた、新参成り上がり貴族という設定までつけて。
 カミラが表立って動く立場になった以上、彼は影からそれを補佐している。
 彼女の政権を確立したら、その時はまた彼の差し金によってこの国は戦争を始めるのだろう。
 薔薇の王国ローゼンティアと。
 もともと、そのための準備はシェリダンがしていた。カミラはそれを乗っ取ればいいだけ。シェリダンはどちらかと言えば貴族より軍部に人気のある国王だったからその信頼を彼と犬猿の仲だったカミラの方へと向けさせるのは並大抵の事ではないかもしれないが、それも時間の問題だと二人は言う。
 そうしてエヴェルシードの兵力を使って、ドラクル大公はローゼンティアを自分のものにするつもりなのだ。もともと国王の息子ではなく、真の第一王子であるロゼウスが生きている以上間違っても玉座に着くことのない大公爵は自らの手で策略を練ってそれを奪いにいく。カミラが先にこうしてエヴェルシードの王位簒奪を叶えてもらったからには、今更約束を反故になどできるはずもなければ、策謀家を目指すわりには馬鹿正直なカミラがそうするはずもないだろう。
 ドラクルは玉座へと悠然とした動作で歩み寄り、カミラの手をとる。彼女はその手を握り返し、視線を合わせた。
 話に聞けばカミラが好きなのはロゼウスだという。それでどうして彼を陥れようとしているその兄に与するのかは謎だが、まあ人の心などそう簡単には計れないもの。実際ジュダもシェリダンを手に入れるために彼女と彼と協力関係にあったことを考えれば、そう不思議なことでもないのかもしれない。
 それにしてはカミラはドラクルにいささか心酔しすぎている感があるが、それも含めて人間心理は複雑だという話だろう。傍目からは恋人のように見えても、彼女が彼に向ける感情はどうやら恋ではないらしい。しかしカミラがドラクルをそれなりに信用しているのは変わらず、ジュダの眼から見れば彼女は立派なドラクルの傀儡だ。
 この国のことが、いいように別の国の者の手で動かされる。ドラクル自身はロゼウスにも執着があるようだが、それはローゼンティアを手に入れる事が先だと順位をつけて後回しにしている。
 やがてローゼンティアと戦争し、その国を彼に捧げ、セルヴォルファスに今現在ロゼウスがいるはずと言う事を考えれば、かの国とも揉めるのだろう。この国は動乱に包まれる。黄金の復讐姫がもたらすのは確かに戦いと災いの時代なのかもしれない。
 と、そこまで考えてジュダは思考をやめた。
「まあ、後の事はお好きになさってください。軽いことなら協力してさしあげますが、私はもう基本的には、手を引かせてもらいますよ」
「ああ。どうせ戦争になったらあなたの手を借りることになるだろうけどね、イスカリオット伯」
「はいはい。ですから、それまでくらいは蜜月に浸らせてくださいよ」
 ジュダの言いようにカミラは顔をしかめたが、構ってはいられない。逆にドラクルの方は、面白げに口を歪めて見つめてくる。
 そう、ジュダにはこの後のことなど全て関係ない。もう彼らとは、全くの無関係とは言えないだろうは手を切った。ジュダの目的はすでに叶っているのだから。
 ジュダはもう何も考えず、ただあの人を抱けばいいのだ。

 ◆◆◆◆◆

 目隠しをされ、後手に縛られた状態で床に転がされている。
とは言っても頭は少年の膝の上で、つまりは彼も直に床に座っていると言う事だ。
 セルヴォルファスに住まうワーウルフは、華美や装飾とは無縁の種族だ。人間に近しいその姿だが、頭には狼の耳を持ち、尻尾も生えている。
 だからヴィルヘルムも自身が国王であるということなど全く頓着せず、薄い敷物をしいたけだけの床に座り込んで、ロゼウスの頭に膝枕をしながら、顔を上に向けさせた。
「ぅ……」
「人間の血はさすがにこの国じゃ用意できないけど」
 無理矢理開かされた口の中に、粘性の液体が注ぎ込まれる。錆びた鉄の味がするそれは、ロゼウスたちヴァンピルが欲して止まず、そしてこれなくしては生きていけない、血。
 エヴェルシードではむしろ血液を用意するのは大変だと、薔薇の花を噛まされていた。血液を長く摂取しないヴァンピルは、渇きに狂う。それを防ぐ唯一の妙薬が、死の国に咲く薔薇の花だ。ローゼンティアに咲く品種とは違っても、量をかき集めれば何とかなった。
 そしてロゼウス個人に関して言うならば、時々直接シェリダンから血を貰っていた。
 甘い甘い蜜のような、極上の血。若くて健康な少年の生き血なのだから、美味いのも当然だ。
 けれど今飲まされているのは、思わず吐き出したくなるような不味い血だ。
「おっとっ! さすがにこれを吐くのはやめてくれよ。掃除が大変と言うか、むしろ絵的に大変なことになるから」
 そりゃあグラス一杯の血液を吐き出せば大変なことにはなるだろう。ヴィルヘルムはロゼウスの口を押さえ、無理矢理その血液を飲ませた。
「な、何、これ……」
 嚥下した液体は生温く喉に貼り付くようだった。上半身を起こして咽ながら、一応尋ねてみる。
「確か鳥だか豚だかの血。ここには人間はいないし、確か魔族の血は飲めないんだろう、ヴァンピルって」
「ぶ……」
 確かにこの国には薔薇の花が咲いていないし、魔族の血は力に変えられないからどこから調達するかと言えばその方法が正しいのだろうけれど。
「難儀な一族だよなぁ。ヴァンピルって。人間たちと同じ地上に生きるのに、人間の血を吸わなきゃいけないなんて。ああ、むしろそのためにわざわざ地上になんて住んでるのか?」
 人間であるシェリダンといたときよりも、むしろ種族こそ違うとはいえ同じ魔族であるワーウルフと共にいる方が自分たちは異常なのだと自覚させられる。
「確かヴァンピルは、魔法の薔薇に囲まれた人間の死体が甦った生き物なんだよね」
「……そういうワーウルフは、確か神の一種である狼が人間の娘を犯して産ませた半狼が始祖なんだろう」
「ふふ。なんだ。始まりのイカレ具合はどっちもどっちってわけだ」
 何が楽しいのか、ヴィルヘルムは笑った。まだ目隠しを外されないロゼウスは、気配だけでそれを察する。
「ねぇ、だーからさ、シェリダン王はやめて俺にしときなって。ロゼウス王子」
「……嫌だ」
「だって、人間なんてしょせんお前らヴァンピルの餌だろ? 餌と仲良くする魔族なんて、聞いたこともないよ。人間だってそうだ。家畜の牛と恋愛する人間なんかいるか?」
「それとこれとは違う」
「違わない」
 目が見えないということは少なからず恐怖を煽る。特に、この状態ですぐ側にいる相手が信用ならない時には。
「違わないだろう。ロゼウスにとって、シェリダンは美味しい餌。餌を愛してるなんて馬鹿げてるよ。だから、やめときなって」
「んっ……!」
 言うだけ言って、ヴィルヘルムは唇を重ねてきた。拘束されて逃げることもできず、それを受ける。口の中の血の味を洗うように、ヴィルヘルムの舌が口内を舐めて犯していく。
「うっわ。まずっ! こんなのいつも飲んでるの?」
「飲んでない……せめて、薔薇の花さえあれば」
 薔薇があれば、この身の中に眠る魔を封じることができる。
 いや、もうむしろ、本性を無理に抑えずに解放してしまった方がいいのか?
 今ならその恨みの矛先を向けられるローゼンティアはないし、ロゼウスにとって、ヴィルヘルムは狂気に陥って殺してしまったところで全く胸の痛まない相手だ。
 だけど。
 ――いつかお前の、その身体を……。
 夢の中で聞いた声が蘇り、ロゼウスは動きを止めた。
 できない、駄目だ、それだけは。
 あの声に自我を解き放ってはならない。「彼」の望む通りの展開を、描いてはならない。
 何故かはわからないけれどそう思った。
「あっ……」
「大変だねぇ。本性を偽って生きなきゃいけない種族は」
 ロゼウスが気を取られている隙に、ヴィルヘルムがまた手を出してきた。突如として伸びた手に服が破かれる。けれど目隠しは外されず、拘束は解かれるどころか増えた。首に銀の首輪が嵌められる。
「や……やめろっ!」
「だーめ。いいじゃない。似合ってるよ、その姿」
 手が縛られていれば、首輪を外すこともできない。抵抗できないロゼウスを、いつも通り無造作な手付きでヴィルヘルムが弄ぶ。
「どうせならその口も塞いじゃおうか。ああ、でも、悲鳴が聞きたいし……」
 恍惚とするような声と共に、胸に痛みが走った。
 肌を何か鋭いもので、一文字に薄く裂かれたようだ。血が零れる感触がする。
「いくら出血に弱い種族って言っても、これぐらいは大丈夫だろ……」
 生暖かい舌が肌を這う。ぴちゃぴちゃと零れた血を舐める音。目隠しをされているため、視覚と触角でしか状況を判断できない。これもまたいつものお遊びの一つなのだと、わかっていても苛立ちが減るわけでもなく。
 だけど好きにすればいい。拙い抵抗は続けながらもそう投げ遣りに思うのは、こんなことでは今更屈しないと自分でわかっているからだ。
 こんなことぐらいで絶望なんかしない。俺が、俺が本当に怖いのは。
「――いっそ感謝してほしいくらいだよ」
 ヴィルヘルムが呟く。
「ロゼウス。そばにいればいつかきっと、お前はシェリダン王を殺すよ。餌として」
この胸を真に凍らせるものは――。
「――――っ!!」
ロゼウスは何も言う事ができなくなる。
「それを未然に防いでやってるんだから、だから……いっそ、感謝してほしいぐらいだよ」