荊の墓標 23

130*

 いらない。いらないいらないいらない! 本当に欲しいものが手に入らないのならば、もう何も!
 暗闇の中に立つ。闇に沈んだ部屋の中では何があるのかわからない。何があるのかわからないというより、むしろこの部屋には何もなかった。完璧な漆黒の牢獄となるように、ハデスがヴィルヘルムに頼んで用意させたのだから。
 しばらく暗鬱な沈黙が支配していた部屋の、扉が一度だけ開かれた。この中が闇であるゆえに眩しい光は扉が開けられた分だけ白い筋となって浮かび上がる。
 その隙間からこの部屋に放り込まれてきたのは、幾人かの人間の男女だった。まだ少年少女という年齢の、子どもたちだ。
「このぐらいでいいの? ハデス卿」
「ああ、十分」
 男女二人ずつ計四人。これだけの「生贄」が寄れば、当分魔術を使うのに困ることはないだろう。少年少女たちは全員が縄で列車のように繋がれている。
「別にいいけどさ。一人くらいこっちにも寄越してくれない? 人間の奴隷。ロゼウスって確かヴァンピルだから、人間の血を飲まないと死んじゃうんだろ?」
「死ぬんじゃなくて、狂うんだよ。でも駄目だ。僕の方も今は結構ぎりぎりなんだ。魔力の補充をしないと術が使えない。ロゼウスには、豚の血でも飲ませとけばいいだろ」
「そんなんでいいの?」
「さぁ? 知らない。魔族だからお前たちワーウルフの血は使えないし」
「じゃ、一応試してみるよ」
 どうしようもないやりとりをかわして、生贄の奴隷を運び込んできたヴィルヘルムは部屋を出て行こうとする。
 扉を完全に閉め切る瞬間、しかし彼は振り返って思い出したように告げた。
「そういえばさ、ハデス卿」
「……なんだよ? まだ何かあるの?」
「たいしたことじゃないんだけど」
 冥府の魔物を召喚するには、集中力が必要だ。精神集中のその途中に入っているハデスの耳に、ヴィルヘルムの声も言葉も今は耳障りだった。
「だから、何?」
 さっさと言って出て行けと思いながら先を促すと、彼はとんでもない発言を残していった。
「――確かあなたもロゼウスの餌になれる、『人間』なんだよね」
 集中力が切れた。
「うわぁっ!!」
 小さな熱も光も伴わずただ紫色の煙だけが立つ小さな爆発を起こして、術が完成する。それと同時に、部屋の扉が閉められる。
「ヴィルヘルムっ!」
 咎めるために名前を読んだが、彼は無視をした。
「……ったく、」
 僕が人間だって? ああ、そうだよ。黒の末裔とはいえただの人間だ。姉さんの弟として皇族になって以来不老不死の魔術師としてすっかり人外扱いされているけれど、僕は人間だ。
 それがどうしたっていうんだ?
『珍しいなハデス。最後の最後、お前が失敗するなんて』
「……別に失敗したわけじゃない。こうしてお前はここにいる」
『ああ、そうだな。我は確かにここへ、この地上へと召喚された。だが……あれはお世辞にも、心地よい移動とは言えなかったぞ』
「はいはい悪かったよ。今契約の貢物を渡すから、それで勘弁してよ」
『ほう?』
 最後こそ多少精神力を乱して術が中途半端になったとはいえ、無事にこうして冥府の魔物を呼び出す事には成功した。
 ぬめる触手と、毒々しい体色のなんとも呼びようがない姿形の「魔物」。部屋の半分を埋め尽くすその巨大な体の中央には、人間の上半身に似たものがついている。その上半身の整った女性のような姿と、魔物としての本体のギャップに誰もが目を驚かせる。
 これが僕の能力。僕の力。
 魔術によって、冥府の魔物や時には死者を呼び出して操ることができる。
 けれど、そのためには代償を支払わねばならない。
 ハデスは部屋の隅でがたがたと震えている「代償」たちに目を遣った。彼らにはハデスのために、この魔物へと捧ぐ生贄になってもらう。
「さぁ、冥府の使者よ、貢物だ。受け取るがいい」
『ありがたい……ありがたい……』
 魔物はその触手を、いまだ縄で縛られたままの奴隷たちに伸ばした。拘束を引きちぎってそれぞれを自由にしてすぐ、自らの触手で彼らを絡めとる。
「なっ……っ!? や、やめろォ!」
「きゃぁあああ!! いやぁああ!」
「助けて、誰かぁああ!!」
「うわああああ!!」
『喰ろうていいのだな』
「ああ」
 魔物の言葉にハデスは頷いた。その山のような胴体にすっと切れ目が入ったかと思うと、そこからずらりと鋭い牙が並んだ口が出現する。
 捕らえられた奴隷たちは、もはや恐慌状態に陥っている。
「いつも通りに、好きに嬲って、犯し殺せ」
 ハデスは魔物にそう宣言して、少しその場所から離れ部屋の隅に座り込んだ。
 ぐちゃっと何か柔らかいものが潰れる音と液体が飛び散る音がして、悲鳴が相次ぐ。泣き喚く声を無視して、ハデスは壁にもたれて身を休める。
 ああ、疲れた。ここ数ヶ月、様々なできごとがあった。今年が姉の治世の最後の一年だからとはいえ、言われたとおり人間の身には堪える重労働だ。だがここで動かなければ、今年で全てが終わってしまう。
 それだけは避けなければ。
「姉さんが死んだって、僕は、生きるんだから」
『それはたいした決意だな』 
 奴隷の少女の一人を、その無数の触手で前から後から犯しながら魔物が声をかけてきた。
「……今日の生贄には満足した?」
『足りない』
「そんなこと言うなよ。今この状況でこれ以上どうしろっていうんだ」
 バキ、ゴキ、と骨が砕ける盛大な音を立てて、奴隷の少年が魔物の巨大な口の中に飲み込まれていく。ぐちゃぐちゃと咀嚼の音が響き、犯され続ける気がふれた少女の悲鳴がこだまする。
 そちらにも飽きたのか、魔物は瀕死の少女をも本体に開いた口の中へと飲み込んだ。あと二つ、真っ先に首を落とされて転がっていた死体も、無造作に喰らう。
 部屋の中には死臭が立ち込めた。
『足りないぞ、ハデス。まだまだこんなものでは』
「だから、これ以上は今の状況では無理だって。ヴィルヘルムにもう少し奴隷を買ってくるよう頼むから――」
『そうではない。お前が欲しい』
「……はぁ?」
 ああ、またか、と内心うんざりしながハデスは魔物の言葉を聞く。
『言っただろう、更なる力を得たくば我にその身を捧げよ。さすれば、今よりも更に強大な魔力をお前に使わせてやる』
「……その話なら、何度も断ったはずだ」
『別にお前を頭から喰らうわけではないぞ。その人間にしては美しい身体を堪能させてくれれば良いのだ』
「いやだよ。お断り。どうせならロゼウスでも犯れば? あれでいいならヴィルに言って、幾らでも借りてやるけど?」
 そのついでにさっさと殺してくれればありがたいんだけど、とハデスが言うと、魔物は人間の上体部の表情を奇妙に歪めた。
『断る。奴の力は強大だ。今の我では、奴には太刀打ちできない』
「太刀打ちできない? ……銀で拘束していても?」
『そうだ。あの神気に触れれば我が身が焼ける。もともと我等タルタロスの魔物は地上に来れば力が落ちるのだ……なぁ、ハデス。お前の望みは奴を殺すことなのだろう?』
 魔物の声は糸を引くように粘っこく、ハデスへと絡み付いてくる。
 もう、時間がない。予言の通りなら、今年中に何とか始末をつけないと――。
 ハデスは覚悟を決めた。
「いいだろう。冥府の使者よ。この身体、お前に捧げよう」

 ◆◆◆◆◆

 黒いシャツの襟元のボタンに手をかける。ゆっくりと脱いでいては決心が鈍りそうで、ここは覚悟を決めろ自分と、一気に上も下も脱ぎ捨てた。
 冥府の使者は、暗闇に爛々と光る蛍光緑色の目でこちらを見てくる。
『長かったぞ』
 ひた、と血の匂いのする床に足を浸す。血だまりがぱしゃん、と跳ねて、足首の少し上まで血に濡れた。
 先ほど生贄の奴隷たちを殺した時も、魔物は血は盛大に噴き出させたが臓物を直接ぶちまけることはしなかった。血のにおいと内臓のにおいは微妙に違って、内臓の臭気は嫌いらしい。骨も脳も皮も、切り落とした首なども今は全てその本体に開いた口の中に飲み込まれて、その糧となっているだろう。
 ハデスとしても肉片と臓物がそこかしこに散らばされた床よりは、ただ血に濡れている床の方がまだ見苦しくない。
 どちらにしろ、濃い鉄錆のにおいに息がつまりそうになるが、そんなことこれから行われることに比べればまだ安いものだ。
 一歩一歩近づくハデスの身体に向けて、魔物はその無数の触手をうねらせながら伸ばす。
『ああ、長かったぞ。ハデス。冥府の王の名を持つ者よ。待ちわびた……』
「……っ」
 足に手に、絡み付く触手。薄灰色に濁ったそれを使って、この魔物は相手の生気を犯しながら奪うのだ。先ほどの安っぽい生贄たちはお気に召さなかったのか、たいして陵辱することもなく、それなりに弄んだ後はさっさと胃袋に収めていた。
『安心しろ、主よ。お前の命を喰らおうとは思わぬ。手足を齧り取ってしまおうともな』
「わかっている。そんなことしたら赦さない」
『ああ。我がお前に求めるのは、純粋な快楽。その美しい顔が歪み乱れる様を、我にとくと見せてくれ……!』
 何が主だ。ハデスは思う。
 主だなんて、思ってもいないくせに。
 灰色の触手がさらに身体へと巻きつく。太腿を締め上げ、両腕を拘束する。ぬめぬめとする液体の膜が常に表面に張っているような状態のその触手は、僅かに濡れたような感触と共に肌の上を滑る。
 冥府の王など、預言者など、そんな称号など何の価値もない。
 必死で修行して魔術を覚えて、それでハデスがやっている事はせっせと魔物への餌運び。生贄を用意することで、冥府の使者たちのその強大にして醜悪な力を借りる手筈。王などではない、使われているだけ。ただの雑用係。
 それもこうして慰み者にされているならば、もっと堕ちたものかもしれない。あからさまに人外の化物のために自ら服を脱ぎ足を開いて喘ぐ。人間相手にそうする娼婦の方が、よっぽど高尚な生き物だ。
 僕は最低だ。でも、そうしなければ生きていけない。姉さんの我侭で生み出され、彼女がいなければ容易く存在理由も価値もなくなる僕は、自分が生きるために手段を選んでいる余裕はない。
 ねぇドラクル、お前もそうなんだろう? あの日出会った、血の色の目をしたヴァンピルは、ハデスと同じ影を背負っていた。ロゼウスが生まれた瞬間、その存在意義を無くした可哀想な王子。そして姉さんのための道具でしかない僕。
 いつも目の前に立ちふさがるのは、この身に絡み付いて棘を刺す、残酷な荊の墓標。その全存在でもってこの命を規定し葬り去る、罪深き至高の絶対者。
 だから消えて欲しかった。そのために力を求めた。そのために、なんでもできる。
 姉さん、僕は……。
「んぐっ!」
 肌の上を這いずるだけでなく、魔物が太めの触手を口の中へと突っ込んできた。どこか植物じみた苦い味が口の中に広がる。どろりとした粘性の液体が喉に流し込まされ、無理矢理胃の中に落ちる。ハデスがそれを飲み込んだところで、一度魔物は触手を抜いた。
「けほっ……な、にを、飲ませ……」
『ただの媚薬だ。本来獲物を快楽に陥れて逃がさないようにするための罠だが、特別に使ってやろう。主は苦しむ必要ない。それでせいぜい楽しめばいい』
「この状況が……すでに十分……不愉快だ」
 だけれど、先ほど飲まされた粘液のせいで、腹の底が熱い。
「ふあっ!」
 身体の中心を触手で軽く締め上げられて、思わずあられもない声が上がる。そのまま別の触手が、追い上げるように這いずって刺激を与えていく。けれど、それはどれもこれももどかしいだけの感覚にしかならなかった。
 魔物の触手は人の腕ほどに太いものから、糸のように細いものまで無数に、それぞれが独立した生き物のように蠢いている。ただのつるりとした紐のようなものだけでなく、中には吸盤やいぼや、また得体の知れない器官がくっついているものもある。
 細い触手が胸に絡みつき、縛り上げるようにして乳首を締め付けた。他にも無数の触手が全身を覆って、ぎりぎりと身体を締め上げる。おかげでろくに身動きもできない。
 そうして逃げられないよう厳重に捕らえておきながら、魔物はハデスの足を開かせる。一本の太い触手が、太腿を這い上がって身体の上へと昇ってくる。その明らかな意図に、背筋に怖気が走る。
「や、やめ……あ、あん、ぐ、ぅ」
 咄嗟に叫ぼうとした口の中へ、言葉を奪うように再び触手が突っ込まれた。そのまま奉仕しろとでも強制するように、ぐちゅぐちゅと口の中をかき回す。
 そうしているうちに、ついに後にも触手が侵入してきた。粘液の助けを借りているとはいえ、太すぎるそれが、内臓を押しつぶすような圧迫感を伝えてくる。こういったことに慣れきった内部が切れないことだけが唯一の救いだ。
「~~っ!」
『やれやれ、早まりすぎたか』
 人間のように舌打ちこそしないものの、苛立たしげな魔物の声が聞こえてきた。太すぎる触手は一度抜かれて、ほっとしたのも束の間、今度は紐のような細い触手が幾つも束となって中に入り込んでくる。何度も内部を行き来し、奥をついて、ずちゃ、ぬちゃ、と聞くに耐えない音を立てる。
 その触手が内壁を擦るたびに、飲まされた媚薬の粘液も効いてきて、脳を溶かしそうな快楽が生まれる。
「ん、んんっ!」
 口の中に別の触手を突っ込まれた今の状態では、声を出すこともできない。苦しい。それを察したかのように、魔物はハデスの口からそれを引き抜いた。
「ごほっ、けほっ」
 ひとしきりむせた後は、与え続けられる刺激に生理的な涙が、ぽろぽろと頬を伝っていった。
「あ、ああっ! ヒッ、ふぁあああ!」
 一度達して醜い白濁を吐き出しても、魔物はまだこの身体を貪ることをやめなかった。相変わらず奥へと入り込んで、ひたすら後を犯し続ける。
 血塗れの部屋に、冥府の植物の香りと魔物の粘液と、せき止めるものもなく何度もイかされた僕の精液のにおいとが入り混じって、酷いことになる。
 あらゆる場所を触手が突き、締め上げ、ひたすら侵入して内壁を擦る。限界まで足を開かされて、広げられた孔に何本もの触手が先を争って入り込む。一度解放して休ませた身体をまた今度は別の触手が侵入して犯す。
あまりにも奥へ奥へと入り込むものだから、そのまま腸の中も胃の中も突き進んでやがて下から入った触手が、口から出てきてこの身を串刺しにするのではないかと思うくらい。
「あっ……あ、ああ……」
 魔物がようやく満足してこの身を血の海に解放する終わり頃には、喘ぐ気力もなくただ悦楽に鳴いて泣くこの身は、世界の誰よりも惨めだとわかっていた。

 ◆◆◆◆◆

 ――ねぇ、姉様。どうして僕にはお父様やとお母様がいないの? 普通は死んじゃったとか別の家にいるとか、みんな知ってるものなんだって。でも僕は聞いたことないよ? ねぇ、どうして僕にはお父様もお母様もいないの?
 ――……私たちの両親はね、死んだのよ。あなたが生まれてすぐ。
 ――本当? どうして?
 ――どうしてだって、いいじゃない。二人は死んだの。その方が良かったの。
 ――そう……なの? だって、ミラーカ先生が連れて来てくれた子たちは、みんなお父様とお母様の話してたよ。僕には姉様だけでそんなのいないって言ったら、そんなはずはないって教えてくれたんだよ。
 ――っ、あの女。庶民の出だから逆につけあがる事はないと思ったのに、とんだ期待はずれだったわね。すぐに辞めさせてやるわ。
 ――姉様? どうしたの? 怖い顔してるよ……
 ――……なんでもないわ。それより、ねぇ……両親が……父さんも母さんも、いないのは、寂しい?

 自分こそが寂しそうな、何かを恐れるような眼差しで彼女はハデスに尋ねた。

 ――ううん。そんなことないよ。だって僕の側には、いつも姉様がいてくれるから。僕が一番大事なのは、顔も見たこともないお父様たちより、姉様だから。

 真剣に答えた。それだけが、その頃のハデスの真実だったから。
いつも彼女は側にいた。ハデスが寝ている時間に全ての仕事をこなして、目覚めてから眠るまでずっと側にいてくれた。赤ん坊の頃から物心がつくまで、まだ十八歳の少女が面倒を見て。
彼女は煩わしい様子一つ見せず、教師をつけて勉強させられる時間が主になるまで、いつもいつも辛抱強くくだらないやりとりの相手をしてくれて。
だから親なんて本当に必要なかった。ハデスには姉、デメテルさえいればよかった。それで十分だった。

 ハデスの言葉を聞いて、姉はこれ以上なく優しく微笑んだ。

 ――ありがとう。ハデス。――私もあなたが一番大事よ。大好きよ。だからいつまでも、あなたを守ってあげる。あなたのことを、必ず守るわ。

 この《皇帝》の名にかけて。

 ずっと、ずっと。

 ――たとえ誰が相手であっても、あなたを必ず守るから――。

 酷い嘘つきだ。
 あなたはあなた自身から、僕を守ってはくれなかった。信じていた人に手ひどく傷つけられる。守るといったその口で僕を責め苛む。それこそが、なんて酷い裏切り。騙し討ちよりもなお酷い。

 好きだったよ、姉さん。
 大事だった。誰よりも――自分よりも。

 なのにどうして、人は変わってしまうんだろう?