荊の墓標 23

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 ずきずきと全身が痛む。
「ぅ……」
 喉の奥が乾いて貼りついていた。あげようとした声は言葉にならず、どこか切れて滲んだような血の味とぴりぴりとする痛みを訴えてくるだけ。倦怠感を覚えながら、脳を揺さぶられた後のような最悪な目覚めを迎える。ここは、どこだ。
「……ぁ、」
 なんだかこんな状況を、つい最近も経験したような気がする。石床の牢獄に転がされ全身を拘束されて、腕は荒縄で縛り上げられているために擦れて痛い。
 シェリダン様。言葉にできないその言葉を、胸のうちで繰り返し呟いた。僕は一体どうして、こんなどこかもわからない場所にいる。確か、イスカリオット伯の不審な動向を調査するためにその屋敷へ赴いたところを捕らえられ、脱出しようとしたところで――。
 自らの行動をなぞる内に、クルスの中で記憶が蘇ってきた。そうだ、あの時カミラに出会って。それから。それから!?
 彼女に出会って以降の記憶がない。つまり、自分は彼女に負けて――!
 改めて現状を確認しようと、クルスは青褪めたまま身を起こそうとする。しかし、できない。何箇所も厳重に縛られているため、腹筋を使って起き上がることも不可能だ。
 ただひたすら焦りだけが募る中、牢獄の扉が開けられた。差し込んできた一筋の光に、そちらを向こうと何とか首だけを巡らせて相手を確認する。
「あら、気がついたのね」
「カ……カミラ、ひめ……っ!」
 必死に唾液を飲み込むことで、何とかその名を口に出した。かつては仕える王族の一人であった彼女は、今はどうあっても敬えないような邪悪な笑みを浮かべて、地に転がされたままのクルスを見下ろしている。
「いいザマね。ユージーン侯爵。いつぞやの、人を罠にかけてくれたお礼よ」
「やはりあなたは、僕を恨んで……っ」
「ええ。でも、そんなのついでよ。私が本当に憎いのはシェリダンただ一人」
 兄であるお方を蔑むように呼び捨て、彼女は陶然と告げた。
「あなたが大事なシェリダンは、もういないわよ」
「……え?」
「あなたが眠っている間に、いろいろなことがあったの。私の即位と、先王シェリダンの追放」
「追放!?」
 譲位でも退位でもなく、追放。
 それは彼が何かを犯したために、ということか。そんなの――。
 そこまで考えてから、はた、とクルスは気づく。
 カミラはシェリダンをずっと憎んでいた。シェリダンを殺し、そうして玉座を乗っ取るのだとその心に誓っていた。その後、一度は死んだと思われていたが、こうして今ここにいる。
 実際何があったのかはよく知らないが、一度は死んだと周囲に思わせねばならない程にシェリダンに追い詰められたこの少女が彼を恨んでいないはずはない。つまりこれは、復讐で、王位の事は追放と言うより、むしろカミラによる簒奪なのだ。
「ここはどこだ! シェリダン様はどこにいる!?」
「教えるとでも思っているの? 私が、あなたに」
「そういう言い方をするということは、あの方はまだ生きておられるんだな!?」
「さぁ? どうでしょうね。それよりあなた、その口調どうにかならないの? 私はこの国の王なのよ」
「僕が主君と定めたのはシェリダン陛下ただお一人だ。彼と敵対するあなたのことなど」
 睨み付けるが、カミラは多少つまらなそうな顔をしただけでその態度を変えない。以前は微笑ましいほどに単純だったのを知っているだけに、新たに見せられたそんな強かな一面に焦りが募る。
「あの方は、どこだ……っ!」
 掠れ声で叫べば、鉄格子を挟み正面で睨み合ったカミラは酷薄に笑った。
「知りたければ、私の傘下に入りなさい。ユージーン侯爵。そうすれば、命だけは助けてあげるわよ。ああ、あなたのだけは、という注釈もつくけれど」
 シェリダンの生死はいまだどちらとも明らかにしない、そのカミラに、クルスは迷うこともなく返答する。
「断る。誰があなたなどに」
「良い度胸ね。でも愚かだわ。こんなところでそんな格好で言ったところで、説得力や迫力なんてないってことに気づかないのかしら」
 クルスは相変わらず両手首足首他にも肩や胸の辺りをきつく締め上げられていて、身動きが取れない。顔だけをカミラに向け、転がったまま彼女を見上げている。
 確かに無様この上ない格好だろう。けれど、だからと言ってそれを辛いとは思わない。クルスにとって辛いのは、ここで何もせずシェリダンを失うこと。
「やれやれ。少しはバイロンの素直さを見習ったらどう? あの男は、シェリダンではなく私に従ったわよ?」
「バイロン宰相が?」
 ローゼンティア侵略の後、一度だけシェリダンに叛旗を翻し暗殺を謀った宰相閣下。あまり面識のないクルスは、個人的にはさほど相手のことも知らないが。
「……いいことじゃないですか。彼がおらず、あなただけで政治をすればこの国は倒れてしまう」
 カミラが不快げに顔を歪める。
 バイロンをどこまで信用していいのかはわからないが、彼はあの事件の後、シェリダンに改めて忠誠を誓っているはず。彼が素知らぬ顔でカミラに味方をしているとは考えにくいから、恐らく彼女のすぐ近くで、その足元を掬い本当の主を引き上げる機会を窺っているのではないか。
 クルスはそう考える。クルスの主はシェリダンだから、目の前の少女を主だなんて絶対に認めるわけにはいかない。
「……まあ、いいわ。考える時間も後悔する時間も、あなたには十分あるのだから」
 せいぜいここで頭を冷やしながら、自分がどうするのが一番いいかよく考えることね。見事に悪役な台詞を吐いて、彼女はもと来たとおり颯爽と牢獄から出ていった。その間クルスは結局身を起こされることも、何かの情報や水を与えられることもなかった。あるいは助けてくれと縋ることを望まれていたのかもしれないけれど、生憎とそんなつもりはない。
 彼女に仕えるのであれば、多少惨めでもこのまま牢獄で飢え渇いて死ぬ方がマシだ。
 だけれど、その前にまずはできることを考える。先ほどの会話を考えれば、ここは王城シアンスレイトのどこかである可能性が高い。女王になったとカミラ姫が言った以上、彼女がいるのは国王の住居である王城だろうから。簒奪を行ったばかりで城内が混乱している時期ならなおさら、王が城を遠く離れるわけにはいかないだろう。
 そしてシアンスレイト城には、王族しか知らない秘密の牢が幾つもあるのだと以前シェリダンが言っていた。
 クルスはシェリダンを始め、これまでこの国の玉座を固めていた人々がどうなったのか知らない。けれどはっきり死んだと口にしない以上、まだ希望は残されている。リチャードやエチエンヌたちだって、簡単に殺されるような者たちではない。
 シェリダンに関してはそれこそどちらか定かではないとはいえ、死んだのならそう言ってしまえばいいものをそうしなかったというカミラの態度を考えれば、生きている可能性は高いと思う。
 だから、諦めない。
 胸中で決意を固めた時、牢獄の入り口が再び開いた――。

 ◆◆◆◆◆

「……誰? ですか」
 牢へと入ってきた人物は、どうやら女性のようだった。
「あ、あの! わ、私!」
 焦っている。困っている。怯えて、いる。
「あのう……ユージーン侯爵閣下……私、あなたのお世話をするように頼まれた者です」
「……お世話?」
 訝りと侮蔑、そしてここへいない人への憎悪をこめて、クルスは嘲笑う。
「処刑人、の間違いじゃなくて?」
 尋ねると、女性は橙色の目を大きく瞠った。
「ええええええっ!?」
「っ!」
 怒るか、馬鹿にするなと喚くか、むしろこちらを蔑むか、そのどれかだと思っていたクルスは、純粋な驚きの絶叫に思わず身を竦ませた。
 もちろんクルスだって、本気でそう考えているわけではない。
 牢に入ってきた女性は、見たところ年齢が十代後半から二十代前半。随分細身、むしろがりがりに痩せていていかにも非力そうだ。見た目はただのエヴェルシード人だけれど、奴隷……だろうか? こんな非力そうな女性に大の男の首を落せるわけはない。
 だからただの世話役だと言う言葉を疑うわけではなかったが、それでもこの状態では、例え相手が誰であろうと、皮肉の一つも言ってやりたいと思うところだろう。
 返ってきたのは、この予想外の絶叫だったわけだけれど。
「あ、あの! 私本当にただのお世話役で! 処刑とかそんなこと、何も……何も、聞いてません! 本当です! 信じてください! 侯爵閣下」
 女性はこちらが吃驚するぐらい真剣に、先ほどのクルスの皮肉を否定してきた。鶏がらのようながりがりの腕を振って弁解する。
 その様があまりにも哀れと言うか、惨めと言うか……なので、クルスは折れることにした。
「……ええ、わかっています。意地悪を言ってしまいました」
「え?」
 クルスが真実、言葉で傷つけたい相手は彼女じゃない。カミラだ。シェリダンに害をなす全ての者だ。この人は関係ない。
 思いがけない展開によって逆に冷静になった頭で、彼女の方へ視線だけ向ける。
 言葉をかけようとして、クルスは動きを止めた。先ほどの世話役の女性がこちらへと歩み寄ってくる。
 この牢獄は、どうやら地下にあるらしく部屋の隅に上の階へと昇る階段がある。その階段から床石二つ分ほどの幅で通路が伸びていて、部屋の中で囚人を閉じ込める場所は鉄格子で区切られている。
 その、凶悪な囚人を本来は閉じ込める役割を持つ鉄格子へと、何のためらいもなく彼女は近づいてくるのだ。
「何を……」
「あ、えっと。そのままじゃ動けないだろうと思いまして、えっと、私の判断で縄を解いてもいいと言われたので」
 そう言って彼女は、手元の鍵束から一つの鍵を取り出した。それがこの牢獄の鉄格子の鍵らしく、カチャカチャと音が立てられた後、軋んだ耳障りな音を立てて扉が開く。
 もっとも開いたところで、今のクルスにはどうすることもできない。相変わらず両手両足首は纏められているし、胸と腕を一まとめに縛り上げられ、膝も抑えられている。縄と枷が両方嵌められていては、さすがにどうすることもできない。よくもこれだけ厳重に拘束してくれたものだと思う。ちくちくと刺さる縄の感触は煩わしい。
 けれど、危険な敵にかける拘束としては打倒だとも考える。このぐらいでなければ、クルスだって他の人だって、何とか機を窺って逃げるだろう。
 自分がされて腹が立つことには変わりがない。けれど、相手からして見ればこれが必要最低限の処置。
 その拘束を、この女性はご丁寧にもわざわざ外してくれようとしている。
「ええと、まずどこからはずせばいいのかしら……?」
 困ったように、明らかにこんな仕事手馴れていない風情で、彼女はそう言ってまた鍵束を探った。手錠と足枷の鍵を見つけ出し、それぞれ外す。まだ拘束は解かれていないとはいえ、金属の冷たい重みが体から離れ、石床に落ちた拘束具はガチャンと派手な音を立てた。
「えっと、次は……」
 縄の結び目に女性は手をかけた。当然、きつく結ばれた荒縄がそんなことで解けるわけもない。わざと解けないように結ばれているのだ。
「ん~~……」
 細く色の悪い指先を今にも破けそうなほど真っ赤にして、女性は縄が解けずに溜め息をついた。そのまましばらく黙ってクルスが見ていると、彼女は自分の懐を探り始めた。
「っ!」
「えっと……動かないで、じっとしていてくださいね……」
 彼女が取り出したものは、一本のナイフだった。
 それも、こんな刃で縄が切れるのかというくらいぼろぼろのナイフだ。
「……っ!」
 それでも紛れもなく刃物。どんなに切れ味が悪そうでも、ナイフであることには変わりない。まさかここでいきなりグサリとはやられないとは思うけれど、危機感を覚えるのは当然だ。
 クルスが内心息を詰める中、彼女は特に迷った様子もなく、それをクルスの手首を戒める縄へとあてた。
 ぎしぎし、と切るよりも軋むような音を立てて、じれったいほどの時間かけて、その戒めが解かれる。切れた縄が死んだ蛇のように力を失って床に落ちた。
「待っていてください。今、この足と肩の縄も切ってしまいますから」
「……」
 それからやっぱりまた長い時間をかけて、彼女はクルスを拘束していた全ての戒めを取り払った。ナイフはすっかり刃こぼれしている。
 全ての拘束が解かれて、クルスはようやく地に這い蹲るような姿勢から体を起こすことができるようになった。
 拘束を解いてくれた世話役の女性とようやくまともに目線を合わせる事ができる。
「……どうして」
「え?」
 思わず、その何の変哲もない目鼻立ちの顔を眺めて問いかけていた。
 彼女は美しくはない。むしろ醜い。クルスが普段目にしていたのは貴族に面会するために精一杯着飾ってやってくる人々で、それなりの容姿を持っていた。
 そして更に言えば、仕えるべき主君のシェリダンはその美貌を見初められて先代ジョナス王の妃となったヴァージニア王妃の子であり、やはり見惚れるほど美しかった。シェリダンがローゼンティアから攫ってきたロゼウス王子を始めローゼンティア王族の面々は誰しも人間離れした美しさをしていたし、ミザリー姫などその美しさのあまり、本当に生きているのかと、精巧な人形を見せられているのではないかと疑いたくなるような美女だった。
 そんな風に肥えてしまったクルスの眼から見て、目の前の女性は醜くてみすぼらしいの一言に尽きる。切れ長というよりは糸のような目、かさかさに渇いた唇、大きな鼻と、そばかす。明らかに痩せすぎていて骨が皮を着て歩いているように見える。
 だけれど、その容姿に対して不快を感じる事はなかった。むしろ覚えたのは、彼女の行動に対する不可解。
「侯爵閣下、お水を飲みますか? えっと、お食事の時間は決まっているんですけど、水だけはとっておかないと死んじゃうからって……」
「これは誰の指示だ」
「え?」
「こんな簡単に囚人の戒めを解くなんて……僕が縄を解かれた瞬間、あなたに襲い掛かるとは考えなかったんですか? 他の人からそう教えられませんでしたか?」
「え? え? あの、私……」
 クルスの指摘は当然考慮してしかるべき問題だと思うのだが、彼女はそんなこと考えもしない様子だった。
「こんな囚人の世話を任されるなんて、あなたもさぞや不愉快でしょうね」
 自嘲交じりの皮肉をまた言えば、何故か女性はこれまでのどこかおどおどとした態度とは打って変わって素早い動作でクルスの手をとり、どこか思いつめたような様子でまくし立ててきた。
「そんなことありません! 閣下! 私、私は自分で閣下のお世話をさせていただくよう、カミラ姫様に頼んだのです!」
「え?」
 今度は……いや、今度もクルスが驚く番だった。
「ユージーン侯爵閣下……あの、覚えて……いませんよね。一年ほど前、シアンスレイトの街で、主人に鞭打たれようとした召し使いを助けてはくださいませんでしたか?」
「……あの時の!」
 顔こそはっきりと記憶してはいなかったものの、その言葉にクルスは記憶の糸を手繰り寄せる。そういえば確かに一年ほど前、城下町でそんなことがあった。
 その時、街中で使用人を痛めつけていた貴族は顔見知りの男爵で、適当に嗜めて、二度と使用人を乱暴に扱わないよういい含め、念のために何人かその監視をしばらくつけさせてもらったのだけれど。
 始めは反発されるかと思ったその行動も、向こうがクルスがシェリダンに近しいと判断して近づくことを判断したために、根に持たれたり、裏で向こうがまた召し使いを粗末に扱う事はなくなったはずの事件だった。
「私、あの時閣下に助けていただいた奴隷です……今は別の方のところにお仕えしていて、その方が今度カミラ姫の頼みで使用人を貸し出すことになったって聞いて、それで……」
「そうだったのか……」
「ありがとうございます。ユージーン侯爵閣下。私など何のお役にも立ちませんが、せめてこうして閣下に感謝の言葉を伝えたくて、ここに参りました」
 クルスにとっては、些細な、本当になんでもないできごとのはずだった。けれど彼女は、そんなクルスに感謝を抱いてここまで志願してきたのだという。
 とても複雑な気分だ。カミラは何を狙って、わざわざクルスにこんな監視役をつけたのだろう。
 けれどひとまず、この彼女にもう一つだけ聞かなければならないことがあった。
「聞いてもいいかな?」
「はい? 私でお答えできることなら、なんでもどうぞ。カミラ陛下からも、特に何かを言ってはいけないとは、言われていません」
 つまり彼女はクルスが手に入れて有利になるだけの情報を持っていないとも言える。だけど。
 主の命令を待つ忠犬のような目で彼女はクルスを見ている。
「……知っているだろうけれど、僕……私は、クルス・ユージーン。……君の名前は?」
 女性はにっこりと笑って答えた。
「アイナ、と申します」