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ああ、思い出さなければ。
この命が、何のためにあるのかを。
「そのほうは、剣の腕前では同年代の群を抜いて素晴らしいそうだな」
玉座に座るのはこの国の王。ジョナス・エヴェルシード。
クルスは父の横に膝を突いて跪き、王に拝謁している。
我が名はクルス。クルス=クラーク=ユージーン。父は現在エヴェルシード西部のユージーン地方を治める領主であり、侯爵。クルスは過日の剣術大会で優勝し、その褒章として王に拝謁する権利をもらった。ジョナスは玉座に座ったまま頬杖をついて、跪くクルスたちを見下す。
「先日の試合も見たぞ。素晴らしい腕前だったな。良い跡継ぎを得たことだ、クロノス・ユージーン侯爵」
「はは! このような者にもったいないお言葉……」
クルスはユージーン侯爵の長子とはいえ、まだ自力で位を得たことも世襲の位を継いだわけでもない。すなわちさして平民と変わりないクルスのような……まだ十二歳の子どもが、王に口を利くなど許されないことだ。返答は全て侯爵である父がする。
ユージーン家は元々子爵の位を頂いていた。今になって侯爵家と呼ばれるようになったのは、全て我が父、このクロノス・ユージーンの力だ。
ジョナス王は気性が激しい人物であり、その心に添うのは並大抵のことではないと聞く。そのため、気に入られた者はよく取り立てられるが、一度不興を買うともはや出世は見込めないそうだ。父は王に気に入られた一人だった。
「ところで」
王はふいに会話の流れを変えた。
「お前の息子、剣の上手と言うからにはお前のようにもっと筋骨隆々とした猛者を想像したのだが、中々に愛らしい顔立ちをしているな」
クルスと父ははっきり言って似ていない。エヴェルシード人特有の蒼い髪に橙色の瞳。クルスはその色彩だけは父上譲りで瞳が少し黄色っぽいのだが、基本的な顔立ちは母親譲りだ。
「この息子はこれの母親に似ておりまして」
父が説明する。
父上と母上はなんというか……息子の僕から見てもお似合いだと思います。いえ、あの、たくましい夫とか弱げでいて芯の強い美しい妻、という夫婦を傍目から見て。……実際には大男の父上の方が、小柄で大人しそうな母上の尻に敷かれているというのは内緒です。秘密です。
「そうだな。お前とは似ても似つかない。数年後が楽しみな容姿だ」
自分ではよくわからないのだが、クルスはなんだか褒められているようだ。確かに母に似ているこの顔は整っているようだが、クルスとしては武人として生きるなら、もっとたくましい――父のようになりたかった。
この時までは。
父の隣でクルスがずっと頭を下げているのも気にせず、王が再び口を開いた。
「まあ、我が息子には及ばないがな」
はい?
その途端父は物凄く力を込めて王の言葉に頷いた。
「はい! もちろんこのような愚息がシェリダン王子殿下と肩を並べるなどあってはならないことです」
すでに頭をたれているクルスの頭を父が押し込んでさらに下げさせる。父上、痛いです。
「クルスは成長すれば、殿下の良い臣下となられるでしょう。どうぞお見知りおきを」
「ああ。シェリダンには同じ年頃の知り合いなどほとんどおらぬ。仲良くしてやってくれ」
とは言っても、この時クルスはまだ王子の姿を見たことすらなかった。
そんなこんなで王の御前を辞して、クルスたちは謁見室を出た。ユージーン侯爵館よりもずっと豪奢な廊下を並んで歩きながら、クルスは父に尋ねる。
「それにしても、陛下はよっぽど王子殿下のことをお大切になされているのですね……父上?」
クルスが王と王子の名前を出した途端、父の顔色が変わった。
「クルス、この城内で殿下の御名をみだりに口にしてはならぬ」
「何故でしょうか?」
「あの方の殿下へのご寵愛は、数年前に亡くなられた正妃陛下よりもよほど上だという話だ。あの方はご子息を目の中に入れても痛くないほど寵愛しておられる。不用意に殿下に近付いたりしたら、どうなるかわからぬぞ!」
それは、どういうことなのだろうか。父の言いようでは、王の王子への態度はまるで、ただの父親が息子に期待をかけること以上に鬼気迫ったものがあるような様子だ。
「それはいったいどういうことですか?」
「お前はまだ知らなくていい。……いいか、クルス、これだけは言っておく。何があっても、決して王子殿下だけには手を出すな」
こんな真剣な顔をした父は初めて見た。そんなに王子は重要な人物なのだろうか。いや、勿論一国の世継ぎの王子が大切な人間であることはわかっているのだが……。
一体、シェリダン王子とはどんな方なのでしょう?
「クルス、私はまだ二、三寄らねばならないところがある。お前はどうする? 先に侯爵領に帰っているか?」
「いえ、せっかくですから王城を見て回りたいと思います。父上の用事が終わる頃に落ち合いましょう」
クルスは父と別れて中庭へと向かった。先ほどから気になっていたのだ。城の一階部分の一部は中庭に面した回廊であり、鮮やかな緑が目に飛び込む。
「すごい……侯爵館よりよっぽどすごいや」
クルスは王城の絢爛さに感嘆の声を上げながら奥へ奥へと入り込んだ。季節の花が色とりどりと咲き乱れ、甘い香りを放っている。木々の枝に止まった小鳥たちが誰の求めがなくとも歌を歌いだし、景観を壊さぬ適度な休息所がそこかしこに設けられている。木々の陰から見えていた大理石の四阿の一つに、クルスは歩み寄った。
近付くにつれて、そこに人がいるのが見えてくる。
「あの……」
声をかけようとして、クルスは思わず口ごもった。声と足音に反応して振り返ったのは、女の子だった。それはそれは。
世にも稀なる美しさ。
夜空の如き藍色の髪に、不思議な朱金の瞳。一目で魅了されてしまいました。自分でも頬が赤くなるのがわかる。
クルスより幾つか幼いだろうその少女は、四阿の長椅子から腰をあげ、こちらへと向かってくる。ゆっくりとしたその歩みは、気高い女神のようだ。
「お前、先日の剣術大会の優勝者だな」
「は、はい!」
「私も見ていた。なかなか良い太刀筋だったな」
……この言い回し、どこかで聞いたような気がするのだが……。
「だが、あれでは最後の詰めが甘い。その証拠に最終戦ではザヴィアー公爵家の次子に負けそうになっていただろう。剣にかける気合が足りぬな」
……怒られました。ちょっと待ってください。初対面の相手に、何故こんなことを言われなければならないのでしょう。
「そ、そんなこと、どうして見ず知らずのあなたに指摘されなければならないのですか!? 淑女なら男の命を懸けた決闘に口を出さないで下さい!」
エヴェルシードは男子王位継承が普通だ。つまり、他の国に比べ若干男尊女卑思想が強いのだ。しかもそれを騎士道と履き違えることも多い。クルスもこの時はそうだった。
目の前の見ず知らずの美少女に向かって、その時のクルスは思わずそう言ってしまっていた。
顔を赤くして憤慨するクルスとは対照的に、少女は次の瞬間目を丸くした。意味がわからないと言うようにぱちぱちと長い睫毛をしばたたかせ。
次の瞬間、くすくすと笑い出しました。
「……はははは。そうか、お前、私が誰だか知らないのか。だからそんな態度を取っていられるのだな」
「? どういう意味ですか?」
クルスが首を傾げると、その少女はクルスの手をとった。案外に強い力で、その手を自らのマントの中、胸へと押し当てる。この年頃の少女ならさほど胸などなくても当たり前……と言うには平らすぎるような胸だ。まさか、と思っているとその手がさらに下へとひかれた。
クルスは自分の勘違いに気づき、思わずさっと頬を赤らめた。
「し、失礼しました!」
「よい。よく間違われる。まさか父上のお気に入りのユージーン侯爵の息子が私の顔を知らないとは意外だったがな」
父上のお気に入り。その言葉が一体何を指示すのかを考える余裕すらその時のクルスにはなかった。自分の間違いの恥ずかしさでいっぱいだ。
少女、改め世にも稀な美しさを持つ少年は、そんなクルスの胸のうちなど知らず、身体を覆っていたマントを脱いだ。クルスの腰をチラリと見て剣を佩いているのを確認すると、自らの腰の得物を指示してこう言った。
「どうだ? ユージーン侯爵子息。私と一試合してみないか?」
「え?」
それは意外な申し出だった。男だと知れた今でも、こんなに優雅で美しい少年が剣を振るうところなど想像がつかない。
「私は先日の大会には出場していないんだ。したがって、自分の実力が今どのくらいとも知れない。優勝者のお前とやるなら、だいたいの目安のほどは出よう。手加減はいらん。遠慮なくかかってこい」
「は、はい!」
庭園は十分な広さがあって、四阿を抜け出すと薔薇に囲まれた広場がありました。クルスは剣の道を志す者として申し出を断ることなどしたくない。
「それでは、お願いします」
クルスは目の前の相手が誰だか全く知らなかった。だが、王宮にいるのですから良家の師弟の誰かなのだろう。この気さくな様子から見ても、子どもの剣の試合の一度や二度で目くじらを立てるような家ではない、……と思う。
クルスは剣を構え、そして。
◆◆◆◆◆
「父上、本日、僕はお恥ずかしながら剣の試合で負けてしまいました……」
「何っ!? 相手はどこの誰だ!!?」
「ええと、王宮の中庭でお会いしたのです。僕より幾つか年下の、とても美しいまるで少女のような少年です。髪の色が濃い藍色で、瞳が朱金と呼ぶような色の」
「……クルス、お前それは―――」
クルスは今王宮にいる。
理由は簡潔だ。「王太子殿下に呼び出された」から。
王太子も何も、この国の王は子種が少ないのか、(いや、正妃との仲が不仲で滅多に同衾しない上に最愛の第二王妃が結婚一年半で死んでしまったからという説もありますが)そもそも王子は一人しかいない。王女も一人、合計しても王の子どもは二人しかいない。
これは第二王妃まで迎えた王家にしては物凄く珍しいことだ。普通は継承問題があるが、何十人も妾を抱えてそのうち何割かを王妃にして、嫡子も庶子も合わせて十人くらい軽く生ませるわけだ。実際にはその倍はいるとか、いや、子どもの数字自体はあっていて妾の方が多すぎるとかむしろ無理強いされて泣く泣く自ら首を括る女性も後を絶たないとか言われているが。
他国と血を交えないことで有名な隣国ローゼンティアですら、王妃は三人しかいないのに子どもは十三人もいる。それなのにエヴェルシードは王妃も子どももたったの二人だ。
国主ジョナスは、非常に珍しい人物だ。王子は継承問題、王女は外交のために嫁がせることを考えても複数必要なのは言うまでもないが、そんな王子も王女も一人ずつしか産ませなかった上に、王が溺愛していると言う王子は、正妃の子どもどころか、まず母親が貴族ですらない。第二王妃ヴァージニアは下町の生まれだが、王が行幸の折に見初めて……半ば無理矢理、いや、半ばと言わず無理矢理略奪したあげく彼女の両親を殺して王妃につけたのだそうだ。
その王妃陛下から生まれたのがシェリダン王子だ。エヴェルシードは軍事に力が入るので、男子継承に重きの置かれる国である。過去に女王が生まれたこともありますが、いずれもその王権は短命だった。しかしそうそう正妃の子ではない王子が玉座につくというのも……というわけで歴代の大概の王たちは、正妃が男子を生むまでは第二王妃以下、妾に子を産ませないことが普通だったのだが。
ジョナス王は、よほどヴァージニア王妃を愛していらっしゃったのでしょうか? クルスが生まれる前に死んでしまった王妃の顔を見た事はない。肖像画の一つでさえ、完成する前に亡くなってしまったそうだ。
ただ、シェリダン王子、王太子は、まだ幼くしてヴァージニア王妃に生き写しだという。
そしてその才も十分なものだと言われる。シェリダン王子に何かがあったら、この国は一気に傾くのだろう。幸い先代の王も子種の少ない人物で今のところ直系の王族の他に王位を狙う公家などがいないのは、彼にとって僥倖とも言える。王女であるカミラに関してはクルスもまだ会ったことがないので、何とも言えないが。
というか、これだけべらべら語っておきながら、クルスは王太子にもまだお目にかかったことはない。いや、なかったはずだった。
「よく来たな。クルス=ユージーン」
客間に呼ばれてお会いした殿下は……先日中庭で出会った、あの少女とも見紛う美しい少年でした!
「お、王子殿下! 先日は申し訳ございませんでした! ご無礼をお許しください!」
「会っていきなり謝罪か? しかも叫ぶなうるさい」
「は、はい。すみません……」
長椅子の中央に優雅に腰掛けた少年は、跪くクルスを見下ろしながら呆れ顔だ。
「お、恐れながら王子殿下、このような僕に一体何のお申し付けでしょう?」
やはり先日の非礼を咎められて、僕を処断するおつもりでしょうか?
父上、母上、申し訳ございません!
「先日の――」
「や、やはり先日のこと怒っておられるのですね!?」
「おい、ちょっと待て。何故そうなる?」
最初の一語にうろたえる余り、クルスには王子の言葉の続きが頭に入らなかった。父上母上申し訳ございません。
『クルス、これだけは言っておく。何があっても、決して王子殿下だけには手を出すな』
思いっきり手を出した上にお呼び出しまで受けてしまった。古今東西探しても王子殿下をそれと知らず剣の試合などしたのは自分だけだろう。
ユージーン侯爵家は終わりだ。
「申し訳ございません! 極刑に処すならばどうか僕だけを! 侯爵家は何も関係ないのです!」
「お前な……」
しばらく何事か考えるような間を置いて、王子が口を開いた。
「お前……先日のことをそんなに反省しているのか?」
「は、はい。お百度参りでもお遍路でもなんでもしますのでどうか家族だけは!」
「そうじゃない。クルス・ユージーン。もしもその気があるなら、私の命に従え」
「はい?」
クルスはぽかんとした。王子、それも次代の国王である王太子殿下のご命令であれば断れるわけもありませんが、どういうことでしょう?
「私は城下に出かける。未来の剣豪クルス・ユージーン。お前はその護衛をしろ」
◆◆◆◆◆
「陛下、クルス・ユージーン侯爵、ただいま参上いたしました」
「ああ、入れ」
執務室にクルスを迎えいれて、シェリダンは部屋の一角に供えられた応接用のソファに落ち着いた。この部屋で人と話すこともある。仕事の途中や、さほど大事でもない客と言ってはあんまりだが、国内の貴族で気心の知れた臣下などを呼び寄せる時はこの部屋へ通すこともある。
「炎の鳥と赤い花亭事件」のすぐ後。
「事後処理はあらかた終りました。フリッツ・ヴラド殿にも説明をいたして、全ては滞りなく終りました」
「よくやった。褒めてつかわす」
シェリダンは口元をゆるりと歪め、クルスの方へその手を差し出す。目前にすっと伸びた白い手をクルスは両手で恭しくおし抱き、その指先へと口づける。唇を滑らせ、舌でなぞるように。とくに何があるというわけでもないのに、どこか背徳を感じさせる行為。
「服を脱げ」
クルスは命じられたとおり、上着を脱いで床に落としました。シャツを捨て、上半身裸になってシェリダンの目の前に膝立ちになる。武人としては貧弱さを感じさせる胸に、一際目立つのが脇腹の傷痕だ。
その傷にシェリダンの唇がそっと触れた。生暖かい舌で古傷をなぞる。クルスは自分の肌の上をはうシェリダンの仕草をじっと眺めていました。えもいえぬ感覚に頬が火照る。
「クルス」
「……なんでしょう、陛下」
我に帰ったクルスに、シェリダンは言った。
「お前の命は、私のものだな」
「ええ」
七年前のあの日より。
「この命はすでに、陛下へと差し上げております」