荊の墓標 24

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 王子に会ってまだ二度目にしかならないのに、クルスは王子に城下へと連れ出されている。いや、王子はシアンスレイトの城の外を知らないので案内役をもクルスがかねることになるのだが、そのクルスもぶっちゃけほとんどユージーン領の外に出たことはない。
 なので、父と王城まで来るのに前回と今回、二度ほど行き帰りに通ったシアンスレイトからユージーン領への市場通りをご案内させていただいている。
 もういっそ何かの陰謀なのかというくらいあっさりと城を抜け出すことができたのはいいのだが、その後は一体どうすればいいのか。その前に世継ぎの王子が城をあっさり抜け出せるって時点で普通ではないのだが、どうやらシェリダンは前々からこの計画を実行するつもりで細部を詰めていたようで、誰にも見咎められずに城を出て、シェリダン自身が手配した馬車で市場に向かう。
 市場ではこの季節の果物や、新鮮な肉が吊るされていたり、外国の商人が色とりどりの雑貨を売っているのを見ることができる。シェリダン王子はそれら一つ一つをはしゃぐでもなく、それでも真剣な眼差しで興味深そうに眺めている。
 クルスは最初王子の半歩前に護衛として向かうか、後に控えたほうがいいのかと思ったが、王子自身に止められた。どう見ても年下のシェリダンにクルスが付き従っているのでは、怪しくて注目を引くかもしれない。せっかく庶民の服装に着替えた意味がないと怒られた。さすがは王子、クルスより何倍も頭の回転が速い。
 それでどうなっているのかというと。
「あの、僕ごときがでん……シェリ様の隣に並ぶなど恐れ多く……」
「いいからさっさと歩け。次はあっちの店を見るぞ」
 知人のように振舞え、と命じられたクルスはあろうことか、この国で二番目に偉い人物と肩を並べて歩いている。しかも、シェリダンと名乗ってしまえばすぐにバレるからと言う理由で「シエル」と愛称を呼ぶように命じられた。
 エヴェルシードでは一般的に、王族の名前を平民が名乗ったりはしない。後に自分と同じ名の直系の王族が誕生すると、その年内に生まれた者は幾ら自分の方が先に生まれていても、改名しなくてはならないほどだ。そんな必要はないと王族が言っても、習慣として気を遣うのが民というものである。
 まあ、いちいち国民が改名していては役所の戸籍係が困ると言う事で、王族はたいてい平民がつけないような名を名乗るのだが……ジョナス王やシェリダン王子の名前は、歴代国王の名前に比べれば地味、というか人名らしくて普通、いや、良心的だ。
 そういえばどうでもいいことだが、自分の名前は「クルス」だ。クルス・ユージーン。父上に聞いたら、この名前の意味は「十字架」なのだそう。
 自分は武人だから、これから先きっと幾人でも殺すのだろう。何人でも傷つけるのだろう。傷つけて引き裂いて打ち砕いて屍の山を作り、その道を進むのだろう。十字架を背負う、だから「クルス」なのだそうだ。
 エヴェルシードの貴族の名前は、幾分変わっている。例えばクルスより八歳年上のジュダ・イスカリオット伯などは「裏切り」という意味の名前だ。「ジュダ」は裏切り者を指すのだそうだ。そしてその通り、まだ若きジュダ卿のせいで、あの家は公爵から格下げにされ、さらに一族郎党のほとんどが当主の手によって粛清されるという惨い事件がつい先日起こったばかりだった。
 そんなことを考えている間に、この場でも事件は起こった。
「おい、ガキっ! その金は俺のだぞ!」
 はっと気づいた時にはすでに遅く、タチの悪い男たちに囲まれていた。隣に立つシェリダンの顔には不快の色。なぜなら先ほど男に怒鳴られたガキ、とは恐れ多くもこの王子のことだからだ。
 王子はその手に一枚の銅貨を握っていた。それを示し、不愉快そうな様子で言う。
「別に盗む気などない。足元に転がってきたから拾っただけだ」
 この少年に銅貨の一枚をねこばばする必要などない。たとえ目の前に金銀宝石の山を積まれても無感動だろう。この国の全ての富が、いずれこの少年のものになるのだし。
 だが、目の前のいかにも野卑で低脳そうな男たちはシェリダンに絡む。
「そうかぁ。そりゃあ親切にな、お嬢ちゃん。じゃあせめて向こうの店でさ、礼をさせてくんねぇか? いい思いさせてやるよ」
 しっかり男ものの服を着こんではいるのですが、またもや女扱いされたシェリダンは男たちを冷たく睨む。クルスには正面の一人の背後にいる二人、合わせて三人組の会話が図らずも聞こえてしまった。
「すげぇ上玉だな、ギルフォードの変態親父のところになんか連れてきゃあ、きっと高く売れるぜ」
 クルスは腰の剣に手をかけた。それを、シェリダン王子が抑える。この場で流血沙汰を起こすなというのですか、殿下。
「結構だ。私たちは用があるからもう帰るところだ。これは返しておく」
 なんとか男たちをかわしてシェリダンが身を翻そうとしたところだった、銅貨だけ相手に渡そうと伸ばした彼の片腕を、正面の男がつかんだのだ。
「……私に触れるなっ!!」
 その途端、凄い勢いでシェリダンが男の腕を払いのけた。それが騒動の元だ。いつの間にかあたりは野次馬も巻き込んでの乱闘騒ぎになっていた。クルスも剣を抜く。王子も得物を手にする。
 けれど、状況は大の大人三人に対し、こちらは子ども二人。相手も剣を持っている。
「ユージーンっ!」
 いつの間にか追い込まれていたのは、クルスの方だった。二対一はまだ早かったようだ。しかもならず者連中が意外に腕が立ったということもある。クルスは一人を相手している間に、もう一人から背中を狙われた。ただの子どもにしては腕が立つ来栖たちに、相手も焦っていたのだろう。長引かせては警吏の役人が出てきかねない。
 背中から斬られようとするクルスに、王子が飛びついた。まるで、守るように。それはまるで時が止まったかのような一瞬で、周囲のものの動きがやけにはっきりと見えた。華奢な背中がクルスと刃の間に躍り出る。
 心はたぶんその瞬間に決まったのだと思う。
「っ……!!」
 脇腹に走った熱を持つ痛みを、クルスは声を殺して耐えた。
「クルスっ、何故」
 世界は止まっているように見えていた。その中にシェリダンの背中が見えていた。だからクルスは咄嗟に彼の体を胸の中に抱え込み、男の刃を自らの身体で受けた。クルスがシェリダンに抱きついたことで狙いがそれ、男の刃はクルスの脇腹を貫通した。
「で、……か……」
 あなたがご無事であればいいのです。
 あなたこそが、生きなければならないのです。僕ではなく。
 だから僕は貴方を守れれば、もう、それで十分です。
「医者を呼べっ!」
 薄れゆく意識の中で、クルスは高らかに張り上げられる声を聞いた。
「皆のもの、聞け! 我が名は―――」

 ◆◆◆◆◆

「申し訳ございません」
 王が怒髪天の勢いで激怒していると聞いた。
「何故お前が謝る必要がある」
「ですが」
 全てが終わった後の王子は疲れきっていた。だがこれは数日後のことだ。
 もともと、王子を城下に連れ出した上このように危険な目に合わせたのだから、クルスは極刑は免れない。いくら武功で名声を打ち立てたユージーン侯爵の息子であろうと、それはどうにもならないことだった。
 ジョナス王のシェリダン王子への寵愛は並々ならぬものと父から聞いた。それがどのようなことかはいまだによくわからないが、とにかくシェリダンのことを深く愛しているということは、この事態でもわかる。
 シェリダンはクルスが傷を受けてすぐ、王家の紋章入りの指輪を相手と周りの人々に見せて、身分を明かし、医者を呼んだ。やって来た町医者の手で応急処置が施され、安静に王城へ運ばれ、王宮侍医の手で丁寧な手当てを受けたおかげでなんとかクルスは一命をとりとめた。だが、城内はこのことで物凄い騒ぎになっているそうだ。
 父は息子であるクルスの不始末とその重体の様子を聞いて、真っ青になったそうだ。けれど王が怒っているのでどうすることもできない。
 自分はこのまま助かっても、どうせ死ぬのでだろう。
 なのにそんなクルスの側には、シェリダンがいる。怪我一つ負わず、無事な姿だという話だ。それだけでも、自分の生きる価値はあったのだろう。
「死ぬな」
 ぽつりぽつりと、春の雨音のように暖かく心地よい声がクルスの耳朶を打つ。
「死ぬな。ユージーン侯爵子息……クルス」
 ああ、僕の名前。
 十字架というこの名の意味。
 それを背負うことすらできずに死ぬのだと思っていた。けれど耳朶を打つ雨だれに似たこの声こそが、もしかしたらクルスの十字架かもしれない。
 寝台に横たわるクルスの手を握り、額へと当てながらシェリダンが悔恨する。クルスはこの時、まだ起き上がることも瞼を開くこともできなかった。それでもシェリダンの声は、優しい雨だれのように耳に染み込んでいく。
「何故こんなことになっている? お前をそんな目に遭わせたかったわけじゃない。私はただ……私と話をしてくれる相手が欲しかっただけだ」
 詳しい事情はわからない。だが、手のひらから伝わってくるのは、熱くも冷たい、人の孤独という名の感情。
「お前のせいじゃない。全て、悪いのは私だ……何故あの時、お前は私など庇ったんだ」
 守りたかったから。
 この人に言って差し上げたいのに、流れ込んでくる切々とした声を聞くだけでクルスの目も口も動かない。真っ暗闇に、手のひらから伝わってくる温もりが全てだ。
 泣かないでください、殿下。あなたにそんな声をさせたかったわけじゃないんです。
 あの時、クルスは嬉しかった。シェリダンが自分を庇ってくれようとした時、本当に、本当に嬉しかったのだ。
 クルスの意味は十字架。
 自分は武人だから、幾人でも殺すはずだった。何人でも傷つけ、命を奪い、貶めるために生まれた。そしてそのための命は、守られるということなど今日まで知らなかったのだ。形ばかりの護衛で申し訳ありません。
シェリダンはあの時、クルスを助けようとした。
 それだけでクルスはシェリダンを信じられる。きっとシェリダンは良い王になるだろう。その側で働けないのは残念だが、それでも彼が生きていてくれる方が自分が生き残るよりずっといい。
「お前を死なせはしない」
 耳朶を打つ穏やかな雨音。
「私のせいなどで、これ以上望まぬ死人を増やしたりするのものか」
 懐かしい故郷の景色。雨の日が好きだった。よっぽど雨天のための稽古をつけるときでもなければ、大人しく家の中にいられた。まるで普通の家族のように、剣も戦争も死臭も関係なく、一家で穏やかな団欒を。
 父上、母上、ごめんなさい。
「絶対に、死なせたりなどするものか」

 ◆◆◆◆◆

 シェリダン殿下が王を説得したということで、クルスは怪我が癒えると同時に、無罪放免された。いや、無罪放免されたのでちゃんと最後まで治療してもらえたというところだろうか。だいぶ大きな傷痕は残るが、後遺症もない。
 クルスは王城内を歩いていた。前を行くのはバイロン=セーケイ=ワラキアス宰相閣下。何故、宰相と歩いているのか? クルスにもわかりらない。ようやく怪我が癒えたと思えば、一度ユージーン領に戻った後、再び王城に呼ばれた。そして宰相の案内で、どこかへ連れて行かれるようだ。
 宰相が立ち止まったのは、一つの部屋の前だった。扉は薄く開き、中の声が微かに漏れ聞こえるが、辺りは人払いされているのか、誰もいない。
「閣下、ここは……」
 国王陛下の寝室前だ。
「いいから、黙って中を覗いてごらんなさい」
 王の部屋を覗き見するなど恐れ多いどころの話ではない。けれど宰相の態度には有無を言わせぬものがあり、クルスは隙間から中の様子をちらりと見た。
 そして眼にしたのは、とても信じられない光景。
 部屋の中にいた国王は、寝台の上だった。それだけならまだしも、両腕を突っ張ってそのたくましい身体の下に誰かを組み敷いている。細くて白い肌。そしてこちらに頭を向けているのは……藍色の髪。
 裸の陛下の下でか細い悲鳴を漏らしていたのは、シェリダン王子だ。のけぞった拍子にこちらに気づいた彼と、目があってしまった。朱金の瞳が驚愕に見開かれる。
 そのシェリダンの様子に気づいた王が、息子の視線の先を追ってクルスを見つけた。こちらを見たまま一瞬だけ不敵に笑うと、再び自らの下にいるシェリダンの肌に触れた。
 それ以上は見ていられなかった。クルスは足音を消すことも忘れてその場から駆け出して逃げ出した。心臓が破れそうに五月蝿い鼓動を奏でている。
 殿下。殿下。殿下。……殿下っ!
『あの方の殿下へのご寵愛は――』
 父の言ったことの意味が、ようやくわかった。
 そして自分には、どうすることもできない、無力だということも。

 この命はあなたのために。
 ただ、あなたのためだけに。
 クルスはあの時の殿下に……今は陛下となったシェリダンに忠誠を誓う。
 シェリダンが自分を犠牲にしてクルスの命乞いをしてくれた。返そうとしても返しきれないほどの恩だ。
 あの後、シェリダンがクルスを王城に呼ぶ事はなかった。だがクルスはどうしてもと頼み込み、再三再四、各方面に頭を下げまくってようやくシェリダンとの面会にこぎつけた。そして、事情を聞いたのだ。
 その時にこの方に一生忠誠を近い、命を捧げようと決意した。
「申し訳ございません」
「何故お前が謝る必要がある? 悪いのは全て、私だ」
「ですが」
 いいえ、今回の事は全て、僕が不甲斐ないから、だから起こったのです。
 そうしてまた一つ、あなたを傷つけた。
「殿下。いいえ、シェリダン様」
「……なんだ?」
「お側近くへ寄ることをお許しください」
 シェリダンは驚いたような顔をする。あの悪夢のような光景の後だ。シェリダンは無意識に胸元を隠すように、服の襟をきつくかき合わせていた。
「……私は、お前があのような場面を見て、私から離れていくものだと、二度と顔も見たくないほど軽蔑するものだと思っていた」
「そんなことはありません!」
 それどころかむしろ。
「僕をあなたの、エヴェルシード王シェリダン様の臣下にさせてください、お願いします!」
 この国の王はあなたしかいない。ジョナス王亡き後、必ずこの方の時代が来る。内政能力は高いといわれるジョナス王より、この方はさらに優れた王としての才能を持っているだろう。それは民を、人を守ろうとする力。
その時にはクルスも完璧な武人として剣士として、今のままではない、もっとちゃんと、本当に強くなっているようにするから。
「貴方を守りたい」
 ただそれだけなのだ。
 貴方は王であるから民を守る。だけれど、そうして何もかも守ろうとする貴方は酷く無防備で痛ましい。だからこそ、自分があなたを守りたいのです。
 シェリダンは泣き笑いのような顔で言った。
「…………物好きめ」