137
目を覚ます。
夢から覚める。夢から引き離される。
いつだって過去は輝かしく、懐かしくて慕わしい。あの頃のように何も知らず、何も思い悩まずにいられたらどれだけ幸せなのだろうかと。
還りたい。還りたかった。けれど。
舞い散る紅い花。
――……リ……ン?
夢で、誰かが名を呼んだ。
手のひらが温かい。まず感じたのはそれだった。痺れたように重い瞼を押し開いて、見上げた視界に金色の天蓋が映る。幾つもの襞が優雅に垂れ、シェリダンの視界を覆う。
力の入らない体は柔らかな寝台に抱きとめられ、脇腹が酷く痛んだ。寝ぼけた頭が、こうなる以前に何があったのかと考え出す。
ああ、私はそうだ……ジュダに。
ゆっくりと首を巡らせると、シェリダンの右手をジュダが両手で握り締めていた。
「……っ」
「陛下」
声が出ない。喉が貼りついたように渇いている。
寝台の枕元のチェストの上から、ジュダが水差しを手にとった。同じく用意されていたグラスを手に取り、一瞬迷う素振りを見せる。
口元にグラスを近づけられたが、角度が悪い。喉元に零れた水に、ジュダが渋い顔をする。
またしばし逡巡した後に、彼はグラスの水を自らの口に含んだ。
ゆっくりと降りてくる唇から、体温で生温くなった水が流れ込んでくる。やたらと久しぶりという感じのする潤いに、徐々に脳が覚醒してくる。
「ジュダ……」
彼の手から水差しが落ちて、床に転がる。分厚い豪奢な紅い絨毯は衝撃を受け止めて、硝子製のそれは割れない。
むしろ今にも割れてしまいそうなのは、それを落とした男の方だった。一体何日寝ていないのか、端正な目元に隈ができてしまっている。
「シェリダン様……目が、覚めたんですね、良かった……」
ジュダが寝台脇に突っ伏した。
脇腹が痛む。
シェリダンが今こうしてここに横たわる羽目になっているのは、この男に刺されたからだ。自らシェリダンを殺そうとしておいて、何が良かっただと。
腹の傷が開くと言う事は置いておいても、シェリダンに激昂する権利はあるのだろう。だが今にも壊れそうなジュダの様子に、シェリダンの方が何も言えなくなる。
まだ体に力は入らない。全身が気だるい倦怠感に包まれている。脇腹の傷は勿論、どれほど眠っていたのか首筋や腰など、体のあちこちが痛い。
そんな中、腕を伸ばした。我ながら血の気のない手を、ジュダの方へと触れさせる。その触れた頬を、一筋二筋、後から後から涙が零れおちていく。
「……シェリダン様、私は……」
ジュダの動向が不穏だと聞いて以来、シェリダンはこの男、ジュダ=キュルテン=イスカリオット伯爵の過去について調べさせた。
その中で出てきた情報の一つに、不確定ながらも興味を引くものがあった。父方の叔母との恋。もともと品行方正だったというジュダはある日突然彼女を殺し、さらに一族の人間をことごとく殺している。ジュダが《狂気伯爵》と綽名される由縁となった事件だ。
穏やかで勤勉、真面目で誠実な青年を狂乱の殺戮者へと変えたものは一体何なのか。
シェリダンは知らない。あの頃、自分のことだけで手一杯だったシェリダンにこの男の詳しい心境などわかるはずがない。
ただ一つはっきりしている、シェリダンにもわかることは、ジュダは狂気を演じているに過ぎないということ。
残酷な運命の操り人形のように、激しい悲しみに突き動かされて血の乱行へと駆り立てられる。けれど心底から狂っているわけではないから、いつも壊れた心の奥底で苦しんで。
お前は愚かだ。
「……シェリダン様」
「ジュダ」
「お慕いしております……お慕いしております」
それは嘘なのだろう。
「ジュダ……お前は、勘違いしているだけだ」
「……違います」
「違わない」
ああ、脇腹の傷が痛む。
なのにどうして、シェリダンはジュダを憎めないのだろう。
ジュダを狂気の深淵に立たせたのがその叔母だと言うのならば、シェリダンはその背を押したのか。この痛みも状況も、全てはシェリダン自身の咎か。
唇に温もりが降りてくる。柔らかで熱く、さらりと乾いた感触。女性の唇のように、ふわふわでしっとりとしているわけではない。
何故だろうな。強引に呼吸を奪うものより、荒々しく体を繋げる行為よりも何よりも、この口づけが一番辛い。
「ジュダ」
紅い目元。今にも泣きそうな顔をしている男に告げる。
「裏切り者よ。多分お前は、この世に生まれてこない方が幸せだったのだな……」
ジュダがシェリダンの右手をとり、涙で濡れた自らの頬へと押し当てた。シェリダンの手にもその涙は零れ落ち、濡らす。後から後から。
「そうなのかも、しれませんね……」
叔母との恋。禁じられた恋。そして全てを失い、最愛の人も、自らの一族も何もかもをその手で奪いとった。そう、彼から全てを奪ったのは自分自身。自分であるからこそ、何よりも生きる事が辛くてたまらない。
どんなに誠実に生きたとしても、その結果は努力に報いてくれない。
「私と一緒に堕ちてくれませんか? シェリダン様」
ジュダが泣きながら微笑んだ。シェリダンも微笑を返す。
返しながら、脳裏に浮かぶのはジュダとの未来ではなかった。シェリダンの心の面影にはいつも白銀の髪と血の色の瞳を持つ少年が住んでいる。
「……なぁ、ジュダ。知っているか?」
「……はい」
「遥か遠き国では、救世主を裏切った弟子はお前と同じ名をしているそうだ……」
裏切り者の接吻は甘く、その信じる相手を地獄へと突き落とす。
人の子は誰しも十字架を背負うのならば。
「……裏切り者の弟子は、銀貨三十枚で救世主を売った。しかしその後、自らの行いを恥じて自殺したという」
シェリダンは寝台脇のチェストを眺めた。先日はそこに短刀が置かれていた。それによってこの傷も負ったものだ。
今も水差しが乗っていたその奥に、きらめきを放つ白銀の刃が見える。絨毯の上を転がる水差し。シェリダンの寝巻きは襟元が零れた水で濡れ、酷い有様だ。ジュダの憔悴した様も重く、全ての物事が鬱陶しい倦怠感となってこの体にのしかかる。
ああ。こんな状態ではロゼウスを探しに行くことすらできないではないか。
だが、解決していない物事を無責任に投げ出して飛び出すのは性に合わない。半年もない僅かな期間とはいえ、一国の王を努めたことが影響しているのか。
シェリダンを主と相手が呼ぶ限り、シェリダンはその者に対して責任がある。
「ジュダ」
「はい」
「お前がしたことはわかっているな」
声を張り上げれば、こめかみに脂汗が浮かぶ。
「お前は立派な裏切り者だ。そしてこれ以上の裏切りは許さない。お前は私の臣下だ。お前がそれを忌避したところで、それが変わるわけではない」
そうであったならば、シェリダンが玉座を負われた今でさえもジュダがそんな真摯な眼差しでシェリダンを見る謂れがない。この存在そのもので自分が彼を繋ぎとめるのだというのであれば、彼はやはり自分の部下。
だから、シェリダンはシェリダンとしてお前に命じよう。
「勝手に死ぬ事は許さない」
寝台脇のチェストの上の白刃を横目で睨みながら告げた。
「お前の命は私のものだ」
シェリダンはロゼウスのように優しくはないから、シェリダンを裏切り刺し殺そうとしたジュダに温情などかけはしない。儚く微笑んで何もかもを受けとめたりなんてできない。
代わりに突きつける、絶対の答を。
「裏切り者のユダでさえ救世主が死した後になって死を選んだ。ならばお前も同じこと。私が死ぬまで、裏切り者であるお前が死ぬなど許さない」
それがお前に与えるただ一つの罰だと。
ジュダの手から力が抜け、シェリダンの手をとることもできなくなる。寝台の敷布に滑り落ちたその手が祈るように組まれ、ジュダはその手に額を押し当てた。
「わかり……ました」
死ぬよりも苦しそうなその様子に、シェリダンは思わず苦い笑いを浮かべる。もう、脇腹の傷は痛まない。
ふと室内を見渡せば、あの日のままだった。始めに紅いと思った絨毯の元の色は違う。紅いと見えたのは、ジュダがシェリダンを刺したときに流れた血のせいだった。
まだ換えられていない包帯にも、深紅は散っている。絨毯の深紅、包帯の深紅。飛び散り染みわたったその紋様が、まるで花のようだった。一面の蘇芳の花。その血のように紅い花の花言葉は、裏切りと言うのだった。
そして流された血は黒ずんで、いつしか紅い花は枯れた。
◆◆◆◆◆
部屋を移しても待遇は変らない。逃げられないようにその全身を鎖付きの手錠と首輪で拘束している。窓には鉄格子が嵌っていて、それも特注の銀製だ。逃げられないだろうし、逃がす気などない。
やっと、やっと手に入れたのだから。
「……あ」
「何?」
先ほどまで体を重ねていた人が小さく声をあげる。
「どーしたのー? ロゼウスー?」
まだ薄物を一枚羽織っただけの彼に、問いかけながら抱きついた。
これは俺の物。俺だけの物。
一目見た時から欲しいと思った。その肌に触れた感覚が忘れられず、再会して言葉を交わしてからはなおさら彼が欲しくなった。
俺の物だ。誰にも渡さない。
白い肌、白い髪。紅い瞳。
あまりにも印象的なヴァンピルの容姿。月のない暗闇に映える魔族の姿。
お前は人間の国になんかいる存在じゃない。我等と同じ、地下の国からやってきた魔族。
「ねぇ? どうしたのってば。――ロゼウス?」
これだけヴィルヘルムが話しかけているというのに、ロゼウスは返事をしない。薄物一枚羽織ったまま、体を重ねた際の汚れも落さずに寝台の上で放心している。
今日も手荒に扱った影響で、白い敷布には紅い花が散っていた。傷だらけの肌はすでに癒えている。見た目には元通り美しいまま、人形のように寝台に伏せっている。
その彼が、先ほど少しだけ声をあげて何かに反応した。
瞳の先にあるものを、彼が気にしたものを自分も知りたくて尋ねてみる。
「ねぇ、どうしたの? 何があったの?」
ゆさゆさと肩を掴んで揺さぶってみるけど、ロゼウスは俺を無視する。俺を無視して、どこか遠くを見ている。
「ねぇってば……」
「ふふ」
小さな笑い声に反応して、正面に回ってその顔を覗き込む。
息を飲んだ。
「ああ……目が覚めたんだ」
笑うロゼウスは幸せそうだった。春先の庭に咲く花に、ひらひらと蝶が寄ってきた瞬間を見たかのように穏やかな顔をしている。
その視線は目の前にいるヴィルヘルムではなく、どこか遠いところに向けられていて。
「……誰のこと、言ってるの?」
今初めて気がつきましたと言わんばかりの顔で、ロゼウスが質問に答えずに一言零した。
「ああ……居たのかヴィルヘルム」
ガツン、と。柔物を殴る鈍い音が室内に響いた。
ぱたぱたと血の滴る音がする。また敷布が赤で汚れる。
避ける気もなかった相手の上に、当たり所が悪かったらしい。ヴァンピルは人間より歯が鋭いから、そのせいもあるのか。
ヴィルヘルムが殴ったロゼウスの頬は見る見る内に紅く腫れ上がり、そして切れた口から血が零れていた。
でもその傷だってすぐに癒えるから何でもないとでも言うように、ロゼウスはひたすら無関心な態度をヴィルヘルムに対して見せている。
嫌悪より、憎悪より、軽蔑よりもなおその態度に腹が立った。
「――こっちを見ろよ!」
無理矢理その首に嵌めた首輪から伸びる鎖を掴んで、首を絞め殺しそうな勢いで顔を向けさせた。さすがに苦しいのかロゼウスは首が絞まらないよう首輪を両手で掴み、不自然な体勢を堪えている。
その瞳がようやく、鬱陶しいとでも言いたげな空気だがヴィルヘルムを見た。それに満足して、言葉を連ねる。
「いい度胸だな。居たのか? なんて。お前の記憶力は鶏以下か? さっきまで俺にヤられてあんあん喘いでたのはダレ?」
「ヴィ、ル……放せ」
「お前がちゃんと俺の相手をするならな」
「ふっ……寂しいのか? お子様が。構ってもらえなくて拗ねて、それでイヤガラセしたいんだろう? お生憎だな。俺は子どもを相手にする趣味はないんだ」
「ほざけっ!」
減らず口しか叩かないその頬をもう一度強く殴ってから、ヴィルヘルムはロゼウスの首輪を放した。けほけほと咳き込むロゼウスの動きを封じるように、体の上にのしかかる。
「いい? お前はもう俺の物なんだ。だから俺の前で、他の事考えるなんて許さない」
「そんなの、俺の勝手だろう」
癒えきらない傷からぼたぼたと紅い血を零しながら、ロゼウスは全く堪えていない様子でそう告げた。
その紅の瞳。
流れる血と同じ紅。
極上の鳩の血色の宝石のような瞳は、ただ無感動にヴィルヘルムの顔を映している。ヴィルヘルムに視線を合わせているのはお情けで、まるで本意ではないと言いたげだ。実際にそう言いたいのだろう。この数日どんなに話しかけても、すごく投げ遣りな応対をされている。
暴力ぐらいでは振り向かせられないと知っているけれど、ヴィルヘルムは殴ることしか知らない。ワーウルフの国セルヴォルファスでは力が全てだ。弱者など必要ない。強者に従えばいい。
なのにどうしてこの男は。
「ロゼウス王子。お前は自分の立場がわかっていないようだな。今のお前は俺の捕虜だ。勝手ができるなんて思うなよ?」
「思ってるわけじゃないけど。だからってお前に特に媚びてやる必要もないし? セルヴォルファス王ヴィルヘルム。お前、何をそんなに怖がっているんだ?」
――怖がっている? 俺が?
その言葉を聞いた瞬間、ヴィルヘルムは思わずびくりと肩を揺らしてしまった。その動揺に付け込んで、ますますロゼウスが饒舌になる。
「お前、本当はわかっているんだろう? 正々堂々と決闘したら、俺には勝てないって」
違う。
「可哀想に。セルヴォルファスの王がこれじゃあ、この国の行末は思いやられるな」
違う。
「ヴィルヘルム=ローア=セルヴォルファス。所詮お前は――」
違う。違う違う違う!
「黙れっ!!」
ダン、と思わず横の壁を殴りつけた。あまりにも力を入れすぎて石がぱらぱらと粉になって降って来る。
「何が言いたい!」
「ふぅん。言ってしまっていいんだ? ヴィル」
「ロゼウス! お前っ!」
服を着ていなければ胸倉などつかみようがない。その代わり露な肩をぎりぎりと爪が食い込むほど強く掴んだ。ワーウルフ特有の尖った爪が、肌を傷つけまた新たな血を流させる。
けれどロゼウスは全く気にしない。与えられる痛みを享受しながら、ヴィルヘルムを嘲笑う。
「何がそんなに怖いんだ? ヴィルヘルム」
「……うるさい」
「俺を犯すだけなら、別に反応なんか気にせずさっさと抱けばいいし、犯すだけ犯して放り出せばいい。それをしないのはお前が俺に何かを求めているからだろう。ねぇ、ヴィル? 例えこっちが無反応でも、自信があるなら途中で声が我慢できないくらいいろいろすればいいだけだし? それとも」
それができないと言う事は、その行動の過程の中に、ヴィルヘルムにとって必要な何かが入り込んでいるわけだと。ロゼウスはまるで全てを知っているかのような態度でヴィルヘルムを見透かそうとする。
「『無関心』は、そんなに怖いか? ヴィルヘルム王様?」
「黙れって言ってるんだよ!」
ロゼウスのその言葉に、ヴィルヘルムはカッと頭に血が上った。――悟られた! よりによってロゼウスに! 自分の方が好きなだけこの相手を弄んで傷つけて、心までぐちゃぐちゃに踏みにじって楽しむはずだった相手から、こんな屈辱を受けるなんて……っ!
「お前に何がわかる、ロゼウス」
「わからないね。お前の気持ちなんて、わかりたくもない。愛想を尽かしたならさっさと俺をエヴェルシードに戻せこの馬鹿」
「何を、この――」
言葉を交わしているうちに気づいた。
「ああ……そう。そういうことか」
「ヴィルヘ――」
「俺を怒らせてここから解放させようって魂胆だろ? そう上手くはいかせてやんない」
読めてきたぞ。この男の考え……。ロゼウスが忌々しげに舌打ちする。
「生憎だけど、まだまだお前をここから解放する気はない。むしろ、そのままずーっと、一生、俺の奴隷でいてもらわなきゃ」
ヴィルヘルムを怒らせて自分を放りださせようなんて、そんな考えに乗るわけがない。
「ちっ」
「でもさっきの一言、やっぱり頭に来たから――」
「え?」
本当に、なまじ先ほどよりは通常と変らないいつもの態度だからこそ心を引っかかれるような思いでヴィルヘルムはロゼウスを見下ろす。
ヴィルヘルうの体によって標本のように寝台に縫いとめられたロゼウスが、こちらの顔を呆然と見上げながら、まだ自らの身に降りかかる不幸を何の予感もしていない目で見つめてくる。
ヴィルヘルムを拒絶しているそんな瞳なんか、いらない。
「宣言してやる。ロゼウス。俺はお前を―――絶対に逃がさない」
そうして、無防備なその体に手をかけた。