荊の墓標 24

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 それは深紅の罪だった。
 深い、蘇芳の裏切りだった。

 鍵を外された鉄格子は僅かな風に揺られてきぃきぃと軋むように耳障りな音を立てている頃、クルスは一人の女性と共に城の外へと向かっていた。
「こちらです……ユージーン侯爵、こちらに抜け道があるんです……」
 牢番の女性、アイナの案内でクルスはシアンスレイト城の地下牢から脱出を目論んだ。クルスにかつて恩を受けたことがあるというアイナは、とにかくここから抜け出したいというクルスの言葉に躊躇いながらも頷いて、脱獄を手伝ってくれた。
「私にとって、侯爵閣下は恩人ですもの。いくらカミラ様の命令と言えど、侯爵がそんな酷いことをなさる方には見えませんもの」
 シェリダンを探しに行きたいと言ったクルスに、アイナは眉を下げながらそう言った。カミラから、クルスが逃出さないようちゃんと見張って置くようにきつく言われているらしい。
 なんでもクルスを逃がせば、それこそ国中が大変なことになるから、と。クルスはこの国における大罪人なのだから、と。
「ここから抜け道を使って城の裏手に出るの?」
「はい……ここを潜るんです。ちょっと泥だらけになりますけど、我慢してくださいね」
「ああ。大丈夫」
 アイナに鍵を開け拘束を解いてもらい、クルスは牢を脱出した。いったん牢屋から出てしまえば、後はどうとでもなる。より負担の少ない確実な脱出を考えれば案内役は必要不可欠だが、牢の見張りの男たちを殴り飛ばすくらいは朝めし前だ。
 イスカリオット伯に決闘で負けて屈辱を味わわされて以来、クルスは体術の方も鍛えることにしていた。それでもやはりイスカリオット伯爵には通用しなかったが、一般の軟弱な兵士程度ならクルス程度の格闘能力でも倒すことができる。
 見張りの男二人をぶちのめして、それからもどこかで警備の兵士に会うたびに問答無用で叩きのめして、クルスはアイナの先導につき従いながらシアンスレイトの外へと出た。
 彼女の教えてくれた抜け道は本当に抜け道と言ったもので、人目は少ないがそれ以外の苦労は拒む術はなかった。埃だらけの排気口の中を通り、食材を仕舞った木箱の裏に空いた抜け穴を利用し、途中でどこからか入手してきた薄いローブで身を隠しながらここまで逃げてきた。
 月が明るい夜だ。暗闇に狂気のような黄金が浮かんでいる。
 城の裏手の通用口付近、それも他の召使たちには見咎められないような森の木陰に入り込んだところで、ようやく息をつけた。戦場を駆けるのとはまた違った緊張感がある。
 擦れ違った料理人の一人がローブで身を隠したクルスを見て不審に思ったようだったが、アイナがクルスをさりげなく隠しながらにっこりと笑顔を向ければそれで信用したようだった。特別美しくもないこの牢番の女性は、その気性から王城の人々の信頼を勝ち得ているらしい。クルスはぼんやりとそんなことを思う。
 その話からもわかるように、クルスたちは途中、使用人たち用のまかないを作る厨房に立ち寄ってきた。そちらの方が、警備の人間に見咎められずに出入りできるのだと。部屋の隅の、食材が入った木箱の積まれた薄暗い場所を歩いたので、埃と泥だらけのこの姿も特に咎め立てはされなかった。
 これから戦うなら、できるだけ武器が必要になるだろう。途中で倒した警備兵から長剣を一振り拝借したけれど、それだけでは心許ない上に、応用力にかける。調理台の端の方に置かれていた小振りのナイフを一本、懐に隠し持った。
「ユージーン侯爵閣下、ここまでで良いのでしょうか……?」
「ああ。ありがとう、アイナ」
 本当に、彼女のおかげで助かった。他の道程はともかく、牢の鍵を開ける事はさすがにクルスでもできない。
「あ、あの。でも、ユージーン侯爵閣下、その……本当に大丈夫ですか? 私はよく知りませんけど、カミラ様はあなたを牢から出したら大変なことになるって、凄い剣幕で仰っていて……だ、大丈夫ですよね! ユージーン侯爵がそんな、国に酷いことなんてなさるわけありませんもの、それよりこれから――」
 彼女はどこまでも純粋な人だった。カミラの言葉を、額面どおりに受け取っている。
「アイナ」
 クルスは彼女の名を呼んだ。
「はい、なんでしょうか、こうしゃ……」
 アイナの言葉が途切れて、代わりにぽたぽたと液体の零れる音がする。地面には吸い込まれるだけのそれが、足元の草を叩いて弾くような音を立てた。
「え?」
 滴るのは紅い血。
 クルスが刺した彼女の腹部から流れる、蘇芳色。
「ごめんね」
「な……こうしゃ、く……ど……し、て……」
 脱獄を手伝ってくれたことには感謝している。けれど、彼女をこのまま生かしておくわけにはいかない。共に逃げることもできるわけがないし、彼女の口からクルスのことが知られるのは、少しでも遅い方がいい。
 それに。
「ごめんね。アイナ。ありがとう」
「な、なん……」
「この国への反逆者である僕としては、感謝しているよ」
 我が号は《反逆の剣聖》。
「え…………?」
 本気でわからないと言った彼女の瞳が、最期に大きく見開かれる。
 カミラがクルスについて言ったことは正しい。クルスを逃がせば、この国のために良くない。クルスはこのエヴェルシード王国への大罪人だと。
 何故ならクルスは、あくまでもエヴェルシードというよりシェリダンへ忠誠を誓った者だからだ。彼がこの国にとって良い王になるかどうかではなく、彼のためにこの国を捧げることこそが、クルスの望みだからだ。
 カミラとシェリダンのどちらがエヴェルシードにとって良い王であるかなど、クルスは知らない。けれどカミラがシェリダンから奪った玉座に座るというのならば、クルスはシェリダンを再び王位につけるためにシェリダンを手助けする。
 そのためならこの国に反乱の一つも起こして見せよう。それは決して、この国のためにはならない。他国への侵略はともかく、内乱など無駄に国民と財政をすり減らし疲弊させるだけだ。
 それでもクルスはシェリダンの臣下だから、あの方のためならばその道も選ぶ。
 シェリダンのために生き、国へ仇なす反逆者。
 この手はとっくに血に濡れているのだ。救った人間の数よりも、殺した人間の数の方が多い。
「そん、な……」
 クルスはその体から手を離し、縋り付いていた力も抜けたアイナの体が地面に滑り落ちる。鮮血の紅い花が辺りに散った。
「ごめんね……裏切り者で」
 狂気のような月に照らされたこの場は紅い舞台。
 あの月だってきっとここから見れば真ん円だけれど、そばで見れば歪な棘だらけの形をしているのかもしれない。遠くから見て期待をかけてくれたのは結構だけれど、クルスはそれに応えられはしない。
 だから、ごめんね。
 所詮この身はいつであっても、蘇芳に濡れた裏切り者――。
 

 《続く》