荊の墓標 25

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 脳天にまで痛みが突き抜ける。
「…………っ!!」
 あまりの衝撃に、激痛に、声も出ない。
「っ、ぁ……っ!」
「痛い?」
 薄暗い声が降って来る。
「次は左足」
 虚ろに病んだ声と共に、腕が膝の裏を滑った。そうして膝下の真ん中辺りから、先ほどと同じように力が込められる。
「次は腕。それとも肩外す? ……ああ。でも外すだけじゃ、すぐににげられちゃうだろうから……」
 やっぱり折ろうか、呟くようなヴィルヘルムの言葉と共に、左腕がとられた。力を込めて、両足と同じように折られる。その瞬間の痛みは何度感じても慣れず、また体を跳ねさせると知りながら、彼は四肢の最後の一箇所に手を伸ばす。右腕も折られた。
 これでは一人で起き上がることもできない。このまま動けない。ちょうどその場所は寝台で、そのまま情けなく伏せったロゼウスにヴィルヘルムは柔らかな毛布をかけてくる。
「言っただろう。逃がさないって」
 くすくす、と。
 毛布に閉ざされた視界の上から病んだ笑いが降って来る。笑声は絶望に黒く染まり、嗜虐的なその行為にも、辿れるのは歓喜ではなくむしろ凍えた悲哀だけだった。
「ヴィ……」
「俺のものだ。ロゼウス。逃がさない。どこにも行かせてなんかやらない」
 先ほどロゼウスが言った言葉は、どうやら彼の痛いところをついたようだ。言葉で痛めつけられたお返しに、言葉でロゼウスを傷つけられない彼はロゼウスの体を痛めつけることを選んだ。
「お前がヴァンピルなのが本当に惜しいよ。ロゼウス……」
「っ……ぁあああ!!」
 わざと折れた箇所を甚振るように突く指に、頭の中で火花が散った。
 ヴァンピルであれば、こんな傷はすぐに治る。酷く綺麗に折られた両の手足は出血を伴わない。血さえ足りていれば、ヴァンピルの治癒速度は人間など比べ物にならないほど早い。
 それをヴィルヘルムは惜しむように、ロゼウスが横たわる寝台の端に腰掛けながら、言った。
「お前がただの人間なら、死なない程度に手足斬って、這いずっても逃げられないよう首輪で繋いで俺のものにしたのに」
 両手足を折られたところで、このぐらいの傷、まる一日もあれば治る。傷の種類と程度にも寄るが、ヴァンピルの傷の治りは異様に早い。
 それでも吸血で命を繋ぐ生物だけあって出血に弱いヴァンピルは、ある程度以上血が足りないと死に至る。四肢を切断するなどもっての他だ。斬っても後で蘇生する時に繋ぎ合わせることができるが、逆に言えば体の各部分が揃わなければ蘇生はできないということ。手首の一つ足の一本落っことして生き返るなんてことはできない。
 ヴィルヘルムは毛布をずらし、ロゼウスの視界を明るくする。見えた天蓋を隠すように、ひょいと目の前に顔を出した。
「好きだよ、ロゼウス」
 ロゼウスよりも少しだけ幼い少年の手が頬に伸びてくる。
「ずっとお前が欲しかった。ロゼウス王子。ドラクルにお前と引き合わされたあの時から」
 ロゼウスはそんなこと思ってなかった。
 俺の人生にお前なんていらなかった。むしろ無理矢理押さえつけられて獣に犯されたという事実は酷い傷として残った。できるならば二度と、顔も見たくなかった。なのに。
「な、んで……」
「お前が好きだから」
 答えになっていない。何故ヴィルヘルムがロゼウスを好きなのか、ロゼウスはそれを聞いているのに。
 シェリダンのことはなんとなくわかる。彼がロゼウスに向けてくれたものは、上手く言葉にできないけれどロゼウス自身にもわかるくらい特別だった。
 けれどヴィルヘルムは違う。この少年が真にロゼウスに望んでいるものは、ロゼウス自身の存在なんてものではない。何かの代替品だ。
「お前はまるで麻薬だな。一度味わえばもう手放すことなんてできない。習慣性があるみたいに、ずっと、何度だって欲しくなる。近づけば近づくほどその思いは強くなるばっかりだ」
 四肢が痛む。
「俺は、お前なんていらない」
 さすがにもう頬を張られることはなかったが、まだ肌に触れたままのヴィルヘルムの顔が歪んだ。
 今にも泣き出しそうに。
「……っ!」
 表情を歪ませたヴィルヘルムはロゼウスの両目の上に手のひらを当てて再び視界を封じた。閉じた瞼の上、手のひらの温もりを感じる。
 そしてむき出しの頬には、ぽたぽたと落ちる滴を感じた。
「泣いているのか? ヴィルヘルム」
「ああ。お前が酷いもんで」
 ぽたぽた。ぱたた。
 やまない雨。涙の雨。
「ロゼウス王子。ドラクル王子に苛め抜かれて心も体もズタボロにされて、可哀想な可哀想な王子様」
「……ヴィル?」
「可哀想だけど、でも本当は全部を持ってる王子様。ドラクルがあんなに執着してた王位継承権も玉座も、ローゼンティアはみんなみんなお前の物。全部お前の物」
 王子様の中の王子様、と、ヴィルヘルムは淡く呟いた。視界が塞がれているので、その顔は見えない。ロゼウスは彼に両目を手のひらで塞がれたまま、見えない視界に目を凝らす。見えるのは、目の前の彼の顔ではなかった。
「ドラクルは可哀想。先に生まれてきたのに、望まれて生まれてきたはずなのに全部ロゼウスにとられて、可哀想」
「ヴィル、何を……」
「カミラ姫も可哀想。彼女は正妃の娘なのに妾の第二王妃が産んだシェリダン王子が全部持って行って何一つ残されなかった。可哀想。ハデス卿も可哀想。最初から搾取されるためだけの、皿の上で食べられるだけの肉として生まれて、いいように食われ続けてる。可哀想」
 ヴィルヘルムはただひたすら可哀想だと告げる。ドラクルが、カミラが、ハデスが。でも。
「お前たちだって可哀想だよ、ロゼウス王子。ドラクルに苛められたお前と、実の父親に虐待され続けたシェリダン王子。お似合いだよね。ああ。そういえば現皇帝デメテル陛下もそうなんだってさ。親からの虐待。それで大人も他人も信じられなくて一番近い血族でありハデスを作らせたんだって。滑稽だよね。笑っちゃう」
 閉ざされた視界では彼がどんな顔をしてそれを言っているのか見ることはできない。
「じゃあ、お前は?」
「俺?」
「そうだ。お前は可哀想じゃないのか?」
 ロゼウスにもシェリダンにも、敵にあたるドラクルやカミラ、ハデスや皇帝デメテルにだって誰だって戦う理由がある。今の自分たちを戦いに向かわせる過去がある。
 じゃあ、この王、セルヴォルファスのヴィルヘルムの持つ「理由」はなんだ?
 彼は何のために戦っている。彼の何が可哀想だという?
「俺は可哀想なんかじゃない」
「ヴィル……」
「俺は、お前たちみたいに可哀想になんかならない。絶対に」
 表情こそ見えないけれど、堕ちてきた声音は酷く凍えていた。
 そしてまたクツクツと、壊れたように彼は笑う。笑いながら、空いた片方の手でロゼウスの顔に触れる。閉ざされた視界のせいで触覚が異様に敏感になり、唇をなぞるその指の形さえ敏感に受け止めてしまう。
「この口を縫い閉じて、この両目を縫い閉じて、手足を斬りおとして、首輪に繋いで、鎖でがんじがらめにして」
 唇を辿る指のせいで、声をあげることもできない。
「そうして、ただ単に性欲処理の肉奴隷だけにしてでも側に置いておければ、どれだけいいか……」
 指先は唇を離れ、輪郭へと映る。
「そうでもなければ……もういっそ、命なんかいらない。首だけを斬りおとして硝子箱に飾っておければ……」
 鼻の先に、ちゅ、と啄ばむような口づけが落とされた。ほんの微かに濡れたような感触が残るのがこそばゆい。
「それだけで、……それが、よかったのに」
 何度も何度も繰り返すその様は、まるで永遠に手に入らないものを求め続ける子どものようだった。

 ◆◆◆◆◆

 目の前にロゼウスとは及びもつかない醜い顔が並んでいる。
「ヴィルヘルム様……」
「なんだよ、大臣たち。俺はお前らみたいなヤツラの相手をする趣味はないんだ。お小言ならさっさと終わらせてくれ」
「陛下!」
「うるさい! 俺はこの国の王だぞ! この国の全てはもう俺のもののはずだ!」
 ぎりりと唇を噛み締めてこちらを睨んできた男の一人に怒鳴り返し、ヴィルヘルムは玉座で足を組む。セルヴォルファスの城は荒野の山を削り出して作っているものだから、当然エヴェルシードや他の人間の国とは似ても似つかない簡素さだ。どれだけ豪華な調度を並べても、壁は岩肌そのままなのだから。
 その灰茶色の暗い牢獄のような王城で、ヴィルヘルムは十六年間育ってきた。先日のエヴェルシード訪問の前は、ハデスに紹介されてドラクルに引き合わされるまでこの国を出たことがなかった。
 囚われていた。閉じ込められていた。繋がれていた。この国に。
 見識を深めるとか他国との交流とか、そういうものとはずっと関係のない位置にいた。
 今でこそセルヴォルファス国王の座についてはいるが、もともとヴィルヘルムは第二十六王子。
「国王陛下」
 気に食わない大臣たちの中では唯一ヴィルヘルムに対しても誠意をもって接しようとする一人が口を開いた。
「どうか、自覚を持ってくだされ。この国を継げるのは、もはやあなたしかおらぬのです」
「従兄弟がいるだろうが。テュールが」
「そうですが、テュール様はやはり直系の王族ではございません」
「俺よりよっぽど家柄がいいけどな」
 俺に対しては、妾の子だ、所詮は娼婦上がりの第十二王妃の子だと蔑まれているのは知っている。それに比べて年上の従兄弟であるテュールは王弟の子だが、きちんと高位の貴族を母に持つ高貴な血筋のお坊ちゃんだ。
「ヴィルヘルム様……どうか、態度を改めください」
「イヤだね」
「殿下」
「今の俺はもう王子じゃない、王なんだよ! この国の!」
「王とは、国を好き勝手に蹂躙し使い減らす存在ではございません。民のためを思い、民のために行動する、人の願いの形代なのです。あなた様のわがままでこの国を疲弊させることは許されません」
「疲弊? どこが? 俺は別に財政を揺るがすほどの浪費はまだしていないし、私兵にしろ国の軍にしろ動かした覚えはないぜ?」
「そうではありません。国交の問題です――ローゼンティアの王族の方を、囲ってらっしゃいますね?」
 その言葉に、ヴィルヘルムはそれまで適当なところに向けていた視線を、何人かの跪いている大臣たち(十数人いると思うが数えるのが面倒くさい。名前ももちろん覚えていない)の一番手前にいる男へと向けた。
「どうして知ってる?」
「あれだけお騒がせになれば。人間の奴隷を一度に四、五人も殺したのは何故です?」
「それはハデス卿に頼まれたから」
「陛下」
 ああ、また説教だな、と思った途端にやはりお小言が始まる。
「帝国宰相と手を結ぶのはおやめください。あの者は、現皇帝陛下に謀反の疑いをかけられているのですぞ。大地皇帝の怒りを買えば、この国がどうなるか……」
「大地皇帝なんて目じゃねぇよ。あんなオバハン、あと半年で死ぬらしいし」
「陛下! いくらなんでも皇帝陛下への暴言は許されませぬ」
「俺に指図するな!」
 ああ、うんざりだ。鬱陶しい。どいつもこいつも、どうしてこんなに……
「ヴィルヘルム様……」
「若僧が、転がり落ちてきた玉座の権威に溺れおって……」
「しっ!」
 今更言葉を封じても、遅い。
「おい、そこの後から二列目右から三番目の男。お前」
 口元に残酷な笑いが込み上げる。血が見たいのはワーウルフの本能だ。
「お前、死ね」
「な、何を仰るのですか、陛下!」
「おやめください、ヴィルヘルム陛下!」
 ヴィルヘルムは玉座から起き上がり、狼狽して硬直する男へと歩み寄った。指名された大臣は動けずにその場に跪いたまま、両脇の大臣たちが必死で動かそうとする。
 けれどその彼らも、ヴィルヘルムが男の目の前に立つとそそくさと逃げていった。
「この国に生きる限り、俺の命令に逆らう事は許さない」
「ぐっ!」
 手を伸ばして片手でその顔を掴む。顔の形が変わるほど手に力を込めると、ぎしぎしと頭蓋の軋む音がした。
「ぐわぁああああ!!」
「うるさい」 
 悲鳴を短く切って捨てると、耳障りな断末魔をも途切れさすためにさっさと首を跳ねた。口から、切り口の首からごぼりと赤黒い血が溢れ出る。
「――っ!!」
「ティタン大臣!」
「誰か、衛兵を呼べ!」
「へぇ? 呼んでどうするんだ? 王様が乱心したから捕らえろとでも言う気か?」
 ヴィルヘルムの言葉に、血の臭気に浮き足立つ謁見の間の残りの者たちはぴたりと動きを止めた。
「ヴィルヘルム様……いくらなんでも、これは身勝手が過ぎます。ティタン大臣は、これまでこの国のために粉骨砕身して滅私奉公いたしてまいりました」
「だから? だからどうした。この国のために動いても、俺のために動かない部下などいらない」
 すでに血の海に沈む肉塊となった男を見下ろして、ヴィルヘルムは口を歪める。
「何が衛兵を呼べ、だ。できもしないくせに。この国で今一番強いのは、俺なんだよ。大臣ども。ワーウルフの王族の最低条件は強いことだろう? 一族の中で最も強い者が王となる。自然の理だ」
「……我々がワーウルフではなく、ただの魔族であったならばそのお言葉は正しいのでしょうね」
 大臣の一人がぽつりと零した。
「誰か、人を呼んで、ティタン大臣の亡骸を清めて弔いの準備をしなさい。この広間を清掃する者も、集めてくるように」
「は、……はいっ!」
 大臣と呼ばれる役職につく人間の中でも下っ端の一人が、長老然とした老齢のワーウルフの言葉に従って部屋を出て行った。
 ヴィルヘルムはそれを気のない様子で眺めて、玉座へと戻る。灰白色の床に、血の足跡がついた。どうせ片付けるのは自分ではなくて召し使いの者たちだ。だからどうでもいい。
「ヴィルヘルム様……まだ、お分かりにならないのですか……」
「何が?」
「力では解決しませぬ。いいえ。解決だけならするでしょう。それぞれにとって、最悪の結果という形で。それが信念なき力なら、なおさら」
「何が言いたい」
「あなた様は、それだけのお力が、それこそ高貴な血筋とあなた様自身で評したテュール様よりも強い力を持ちながら、その正しき使いどころを知りません。意志なくした力はそこにあるだけでただの凶器。抜き身の刃をそのままで床に転がす方がありましょうか。どうぞ、その刃を収める鞘をお持ちください」
「だから、何が言いたいんだってば」
「ご自分でお考えください」
「あ?」
 大臣はそこで言葉を止め、じっとヴィルヘルムの方を見つめた。
「ローゼンティアの王族のこと、先日までエヴェルシードに出かけていたこと、帝国宰相と手を結んでいること。どれも我らの眼には正しき行いとは映りません。それでもあなた様の中にしっかりとした志があるならば、我々も信じたことでしょう。ですが」
 その男は悲しげに目を伏せ耳まで垂れさせると、言った。
「……第二十六王子ヴィルヘルム様。確かに、継承権の低いあなた様を侮り、玉座につくことなど万に一つもないだろうからと教育に手を抜いたのは我らの咎です。あなた様を咎める分だけ、我々も責を追いましょう」
「……」
「どうか、今からでもお考えください。良き王とは、どのような存在であるのか」
 ヴィルヘルムが口を開く前に、男はこちらに背を向ける。
 謁見の間には誰もいなくなった。掃除夫たちはまだ来ない。
 ヴィルヘルムは一人、ぎりりと唇を噛み締める。
「良い王? 国のため? 馬鹿な。そんなことをしたって、誰が俺に報いてくれる。何が俺のために行動してくれるっていうんだ」
 嘲笑う。
 国を、世界を、大臣たちを。
 そして自分を。
「欲しいものはどんなことをしてでも、どれだけ血を流したって手を伸ばさなきゃ駄目なんだよ。遠慮なんかしてたら、幸せにはなれない。だから俺は……」
 転がり込んできた玉座。与えられた力を十二分に利用して、自分の欲しいものを求める。
 どんなに声を嗄らして叫んでも、どうせ世界は、答えてなどくれないのだから。