141*
腹部に巻かれた包帯を解いていく。しばらく前から純白で、先日のような血の染みはもう残らない。ただ、ただ白いだけの包帯を、くるくると外していく。
差し出された衣装はこちらの意向に沿って簡素だった。装飾の派手な貴族の式服ではなく、いつもの慣れた軍服でもないが、生地は丈夫で見るものが見れば良い品だとわかる。けれどそれをあからさまには悟らせないようにそこかしこに安物のような細工を施し、わざとつまらない品へと見せかけている。
自分を刺した男による、最後の心遣いなのだと。
衣装を着込み、手荷物を纏めたところで扉の外から声がかけられた。
「……シェリダン様」
「エルジェーベトか、入れ」
礼儀正しいノックの後、遠慮がちに名を呼ばれた。全ての準備が整っていたシェリダンは言葉で諾を示し彼女を部屋へと招き入れる。ここはまだジュダの城であるイスカリオット城内ではあるが、先日血まみれにしたあの部屋ではない。公爵を迎え入れるにも、申し分のない場所だろう。
何しろ玉座を奪われ王位を剥奪されたシェリダンより、公爵の地位にあるエルジェーベトの方が今は身分が高いのだから。そんな皮肉が頭を掠める。
歪んだ口元に、数週間ぶりに見た女は訝しげな顔をした。
「陛下。お怪我は完治なさったと聞かされたのですが、まだどこか痛みますか?」
「そう案じずとも、傷はすでに癒えている。……エルジェーベト、もう陛下と呼ぶな。私はすでに王ではない」
「そんなことを」
今度はエルジェーベトが顔をしかめる番だった。もういい年なのだからそろそろ眉間に皺を寄せるのはやめた方がいいのだろうが、彼女は盛大に肌にそれを刻んでいる。
「カミラ殿下のなさったこと、私は認めるわけには参りません。陛下、この国の王はいまだあなたさまでございます。そうでないなどと――」
仰らないでくださいと続いたはずのその唇を、シェリダンは指先で封じた。戦場に在ってさえ宝玉のような美貌を誇ると謳われたバートリ公爵の美しい唇に塗られた鮮やかな紅が、爪に色を移す。
驚いた顔をする彼女に、にっこりと、それはそれはわざとらしく笑いかけることでシェリダンはこの意志を示す。
「現状を正確に把握し、それを受け入れねば未来はないぞ、エルジェーベト。……そう、自分が今現在玉座にないのだと思わなくば、簒奪には簒奪で返すなどという思考が展開できるはずもない」
驚いて丸くなっていたエルジェーベトの瞳が、見る見る、獲物を見つけて歓喜に打ち震える猫のように凶悪に細まった。シェリダンはその唇から指を離す。指先に移ったルージュのせいで、爪が血に染むように赤い。
「では、信じてもよろしいのですね?」
「当たり前だ。今更カミラなどに渡さぬ。それだけではない、私が奪われたもの全て、取り返して見せよう……そう、まずは」
まずは力を得ることだ。玉座から追われて全てを失ったシェリダンには今、何の力もない。このままイスカリオットの元にいるのも不安があるし、エルジェーベトのところに身を寄せたところで、すぐにカミラの追っ手がかかるだろう。シェリダン一人の問題ならばまだしも、その気性の気まぐれ故にさほどシェリダンの部下としての名は通っていないエルジェーベトまで巻き込めば、それこそ後ろ盾が失われる。そうなってしまっては、終わりだ。
同じことを目の前の女公爵も考えていたのか、シェリダンの耳元に唇を寄せて告げてきた。
「陛下、ユージーン侯爵の行方が知れません。イスカリオット伯の話によれば、カミラ殿下に囚われたとのことですが。情報が全く入ってこないので詳しい事は何一つ……かの家はすでに侯爵の名を別の血族に継がせて、クルス卿を切り捨てなければ爵位を剥奪するとの令が下されています」
「そうか。……クルスが簡単に死ぬとは思えないが、これでユージーン家も敵に回るな」
「抜け殻の伯爵の方は?」
「ジュダか。あれはもう放っておいていい」
シェリダンとジュダの間で、静に決着はついた。茶番のような狂った愛を押し付けてきた男をシェリダンは拒絶し、切り捨てた。
なまじここまで来てしまっただけにジュダがこの先どうするのか、気にならないといえば嘘になる。
だが、今のシェリダンには彼のことまで気にかけてやる余裕がないのが事実だ。
一番大切な者はまだ奪われたままだ。こちらは半分不死身のようなもので、その点においては行方知れずのクルスより安心と言えば安心だが、何しろ捕まった相手が悪い。
セルヴォルファス王ヴィルヘルム。
かねてよりロゼウスに執着していたあの男。カミラやドラクルと結託して、今度のことに手を加えた忌むべき相手。ジュダの口から聞けたのは、その相手の元にロゼウスがいるという情報だった。
椅子ではなく、寝台の端に腰掛けながらさらなる情報をエルジェーベトの口から求めた。
「エルジェーベト、ローラやリチャードたちの行方は?」
「まだ、はっきりしたことは……。申し訳ございません。彼らとあの場にいたローゼンティア王族のほとんどの方々が共に行動している事は確かなのですが……」
「何か、隠しているな?」
エルジェーベトは一瞬顔色を変えた。
「どう切り出すべきか迷ったのですが、陛下、いえ、シェリダン様、お聞きください。彼らは一度我が城を訪れ、またすぐに城を出ました。その時に、病弱であるというミカエラ王子殿下だけを、私と弟のルイに預けてまいりました」
「そうか……それで」
ミカエラ王子のことは、シェリダンも聞いている。このままでは先が長くない、ということも。けれどそのミカエラを除いたアンリやロザリーと言った、ローゼンティア側の戦力の要である王族、肝心の彼らはどこに?
シェリダンの問に、エルジェーベトは意を決した様子で答えた。
「ローゼンティアに」
「……え?」
「彼らは、ローゼンティアに向かうと答えました。どうにか、ドラクル王子たちの裏をかく事ができないかと」
「そうか―――!」
シェリダンの後ろ盾はもうエルジェーベト以外なきに等しいが、ローゼンティアの王族にまつわる混乱はまだ解決されていない。こんな事態になった以上、エヴェルシードはそう遠くない未来、内乱になる。いや、シェリダン自身がそれを引き起こすのだ。その時に、戦力と呼べる者がいなければ意味はない。
その人手を、彼らはローゼンティアで手に入れるというのだ。ドラクルと、彼と結託したカミラを打倒して二つの国をあるべき姿に戻す力は、あの薔薇の国にある。
「少し前後したが、最初の話し合いの通りというわけか。ローゼンティアで戦力を募ってから、カミラを、そしてドラクルとハデスを打倒する」
ハデスが何を考えているのかはいまだによくわからないが――おそらく彼は、味方にはならないのだろう。
「シェリダン様。いかがいたしますか?」
動き出すローゼンティア王家。彼らについていくことを選んだリチャードたち。まだ真意を見せないハデス。謎に包まれた皇帝。抜け殻となったイスカリオット。行方も安否も知れないクルス。
そして、セルヴォルファスに囚われているというロゼウス。
全てを一度に選び推し進めることはできない。何かを選び、何かを切り捨て一つ一つをこなしていかねばならない。自身にとっての優先順位が試される時だ。
「エルジェーベト、私は――」
その時、部屋の外から、また新たに騒がしい声がかかった。
◆◆◆◆◆
どこだ、あの方は。あの人は、一体どこに。
王都シアンスレイトからイスカリオット領へはさほどの距離ではないとはいえ、徒歩で一昼夜で着くというわけでもない。当然足が必要だと思えばクルスは何でもやった。
投獄され擦り切れた衣服を街中を歩いても怪しまれない新しいものにし、食料や水を手に入れた。その程度ならば捕まった時にも見つからなかった隠し財産の一部で事足りたが、さすがに馬は買えない。それだけは盗むしかなく、始めの一頭は何の罪もない貸し馬屋から失敬した。
後は道でこちらが一人旅と見て襲い掛かってくる盗賊を返り討ちにして調達した。それも他人のものが盗まれたのだと考えれば良い気はしないが、今はそんな瑣末なことにかまってはいられない。主君であるシェリダンの安否がかかっているのだ。
「ぎゃあっ!!」
腕を捻り上げ、相手の男の太腿に刃を刺す。そのまま短刀から手を離し、背後から襲い掛かってきたもう一人の一撃をかわす。すぐさま反撃に転じて横腹に蹴りを見舞い、よろめいたところで脳天に踵を落とした。太腿に短刀が刺さったままの男がのた打ち回っている横で、三人目の相手をする。
五人ほどいた盗賊の四人までを倒して、最後の一人を背後から羽交い絞めにする。相手にも見えるよう首筋に押し当てた鈍い光を脅しに、情報を聞きだす。
「現在の王都付近の情勢はどうなっている!簒奪者カミラの軍は」
「な、お、王様なんてそんな偉い人のことは知らねぇよ! お、俺たちはただのおいはぎだぁ!」
「では、イスカリオット伯については」
「きょ、狂気伯爵ってんで有名な奴だろ? 知るもんかよ!」
「なら眠れ」
役に立たない男を昏倒させて放り出し、何か情報になりえそうなものを探る。手がかりは見つからず、クルスは男たちの荷物からこれから使えそうな武器と僅かな金銭を拝借する。拝借と言いつつ、返すつもりはないが。
「シェリダン様……」
クルスは唯一と定めた主君の名をお守りのように呟いた。
最後にシェリダンと共にいたのはイスカリオット伯爵ジュダだ。彼はクルスたちエヴェルシードを裏切りドラクルやセルヴォルファス王とまで繋がっている。あの人非人のせいで、シェリダンは玉座を追われこの国はカミラのものとなってしまった。
とにもかくにも、まず接触する人物としてはイスカリオット伯を置いて他にはないだろう。接触と言っても当人に顔を合わせるわけではなく、拷問部屋を当然のように有している伯の城を探らせてもらうのが目的だ。使用人の一人や二人を捕まえて、シェリダンらしき人物が捕らえられていないか聞きだしてもいい。
そこで、チクリと胸が痛んだ。
アイナ。出会ったばかり、ほとんど言葉を交わすこともなく殺した女性。その僅かな時間でさえ、穏やかな人間性が垣間見え、信頼にも尊敬にも足る人格だとわかった。
わかったけれど、殺した。
優しい彼女を殺して、自分はこれ以後どれだけ人を助けて死んだって天国には行けない。必ず地獄に堕ちる。だから彼女と会う事は、死後の世界でだって二度とない。
天国で謝ることさえできない彼女の命を無駄にしないためにも、クルスはシェリダンを救わねばならないのだ。
「シェリダン様……シェリダン様……」
そのために人を殺した。盗みもした。罪のある者もない者も、殺した。
それでいい。僕は地獄に堕ちても構わない。だからシェリダン様を――。
人の決めた境界線によってあからさまに自然の風景が変わるわけではないが、それでも確かに土地が変わると様々なものが変わる。頬に吹き付ける風の温かさでクルスはイスカリオット領に入ったことを知った。馬が荒い息を吐き、それが風に流されていく。
イスカリオット領は狂気伯爵と呼ばれる人物が統治する割に牧歌的な雰囲気のただよう土地だ。もともと公爵家であるイスカリオット家は、軍事的にというより、経済で優れた家。軍事国家エヴェルシードの貴族にしては珍しく、その土地だけで飢饉に備えるだけの財の蓄えがあり、完全な自給自足が達成されているという。貴族としては駆け出しのユージーン家とは比べ物にならない。
クルスの実家であるユージーン侯爵家のことについても、ここまで来る道すがら何かしら聞いてきた。当主――つまりはクルスが国王を裏切った罪により、取り潰しの話が出ているらしい。引退した前当主である父は、現在国王を名乗るカミラから、クルスを切り捨てて自分に服従するかこのままユージーン家ごと反逆するかどちらかを選べと言われているらしい。
見捨ててください、父上。
僕はとんだ親不孝者です。だから、どうか。
もしも両親とシェリダンとを天秤にかけられたら、クルスは間違いなくシェリダンを選ぶだろう。いくら迷っても躊躇っても、結局その結果は変わらない。どんな薄情者と罵られても構わないから、両親にもどうか心を痛めず、自分を見捨てて欲しい。僕は……クルスは、大丈夫ですから。
イスカリオット城が見えてクルスは手綱を引き絞った。これ以上馬で駆けては、警備兵の警戒網に入る。それだけは避けねばならない。今捕まるわけにはいかない。
行動は迅速にそして慎重に。クルスは徒歩でイスカリオット城の裏手へと回った。王城へと面した正門より裏門の方が警備が薄いというあたり、イスカリオット伯の恣意を感じる。灰色の堅固な要塞を思わせる壁。それでいて優美な外観。それが故に、隠れる場所は幾らでもある。物陰に身を潜め、見張りが通り過ぎるのを待った。
いくら待っても、侵入するだけの感覚が掴めない。さすがにあのジュダ=イスカリオット卿の城だけあって、守りが堅い。
こうなれば強行突破だ。伊達に剣聖と呼ばれているわけではないのだと、クルスは腰に佩いた剣の柄を握る。重みが手のひらに馴染み、呼吸が自然と潜められる。
シェリダンに出会い、彼を知り、救われ、あの方を守るのだと心に誓った日より、鍛錬を怠ったことはない。
後は機を窺うだけだと身を潜めるクルスの前で、見張りたちが何か動いた。この位置からではよく見えないが、誰かに声をかけられたようで、二言三言言葉を交わしてから、敬礼をして姿を消す。
まさか、全員去ったのか? これは好機だと頬を緩めるも油断はできない。なおも人がいないか窺おうと首を伸ばしかけたクルスの耳に、一番聞きたくなった声が届く。
「いるんでしょう? クルス君。クルス=ユージーン侯爵」
「い……」
イスカリオット伯!
思わず声を上げそうになった。城の主である彼に知られてしまえば、全ては終わるというのに。
「シェリダン様をお助けしに来た、と? 相変わらずの忠犬っぷりですねぇ。君は。まあ、ダチェス・バートリの方が行動は早かったですけど、君と彼女じゃ出発点が違いますしね」
バートリ。エルジェーベト=バートリ公爵もこの城……そしてシェリダンと共にいるというのか。わからない。クルスがカミラに王城の地下牢に投獄されている間、一体周囲の人々の身に何があったのか。エルジェーベトがここにいるということは、彼女は何を考えている? そして、この男は……。
クルスが立ち上がるよりも、向こうがこの場所を突き止める方が早かった。咄嗟に抜いた剣先を突きつけて牽制しながらも、体勢は明らかにこちらが不利だ。
けれど突きつけられた白刃を気にも留めず、何か疲れきっているような、生気のない表情をしたイスカリオット伯は告げる。
「ジュダ=イスカリオット!」
「シェリダン様は確かにここにいますよ。ユージーン侯爵閣下」
「あの方を返せ!」
「妙な言い方をしますね。彼は別にあなたのものではないでしょうに」
「ふざけるな! でなければその首―――」
「いいですよ」
「へ?」
「あなたのものかどうかはともかく、お返ししましょうと言っているのです。シェリダン様を。私の方は……」
イスカリオット伯は、ちらりと地面に視線を落とした。
ぽたり、と一滴。突きつけた剣先によって傷つけられた彼の皮膚から赤い血が零れる。萌える緑の草が炎の色に……彼らの国エヴェルシードの色に染められていく。
「もう、終わりましたから」
何が、とは彼は言わなかった。
けれど確かに、イスカリオット伯の中で何かが終わったということが、クルスにもわかった。
「……連れて行ってください。シェリダン様のもとへ」
「ええ」
クルスは、ゆっくりと剣を鞘に収めた。
◆◆◆◆◆
「シェリダン様!」
扉が開いた、と思った瞬間この数週間久しく見なかった顔が涙をぼろぼろ流しながら飛びついてきた。
「く、クルス!? 無事だったのか! 無事だったんだな……」
病み上がりの体では、シェリダンより小柄とはいえ鍛えている彼の体を支えきれない。よろめいたところを、背後にいたエルジェーベトに支えられた。
「ユージーン侯爵、陛下はお怪我がようやく治ったところなのよ? 少しは遠慮なさい」
「バートリ公爵……あなたまで……何故……」
クルスが顔をしかめるのを、エルジェーベトが苦笑しながら受けとめる。
「この国で陛下を欲しがってるって言ったら、真っ先に思いつくのはこの城の主じゃない?」
「では、ここに来たのは偶然……いえ、厳然たる推測の結果だと?」
「そうよ。王城襲撃の直前に私に連絡もなしにあなたの消息が途絶えたってこともあるしね」
「その言葉、信じてよろしいのですか?」
「誓って」
「……」
エルジェーベトとクルスの、両者とも穏やかな表情ながら殺伐としたやりとりをシェリダンは無言で見つめる。
今この状況では、もはや誰が敵か味方かもわからない。これまでの協力者が裏切り者であることは、ジュダが嫌と言うほどに思い知らせてくれた。
自分たちにできるのは、安息を手にするまで限りなく神経を尖らせ張り詰めていることだけだ。
「……クルス、お前……」
シェリダンが言い出す前にこの肩から手を離し、ユージーン侯爵家当主、クルス=クラーク=ユージーンは足元に跪いた。
「陛下、我が命、我が魂はすでに御身に捧げしもの。このクルス=ユージーンをどうぞお使いください」
「……クルス、いいのか?」
シェリダンはよりにもよって、自らが姦計に嵌めた妹姫に玉座の簒奪を許した人間だ。
もとより優れた王ではないことはわかっている。
血筋の問題を出されれば、庶出の母を持つこの身はカミラだけでなく、高位の貴族にすら及ばないだろう。軍事的才能も政治的手腕も、エヴェルシード王族としては平均的で、特に取り柄もない。シェリダンにできることなど何もない。こうして他人に頼る他は。
こんな男についたところで、誰が益を与えてやれるというのか。クルスもエルジェーベトも、シェリダンは誰一人としてその忠誠に報いてやることができない。
それでも、クルス、お前は私についてくるというのか?
「陛下、私の王は、あなただけです」
「では、わたくしも誓いましょう。このエルジェーベト=ケルン=バートリの全てでもって、御身の剣にならんことを」
クルスの言葉に続くように、エルジェーベトがその隣に同じように跪いた。ドレス姿でも敵を屠れる《殺戮の魔将》と呼ばれる女は、《反逆の剣聖》と並んで慈悲深い悪魔の笑みを湛えた。
「……良いのか? 二人とも」
「はい」
「今更ですわね。陛下」
きっと二人とも気づいているのだ。窓の向こうから聞こえる、外の騒がしさ。独特の空気。まだ距離はあるだろうが、退路を断たれてしまってからでは遅いのだ。早く、早くと急かす心の奥底でもう一つの声が囁いた。これが最後かも知れないと。
「外は――」
「王立軍の皆様のようですよ」
とにかく詳しい情報を得たいと口を開きかけたところで、部屋の入り口からまた新たに聞きなれた声がかけられた。クルスが飛び込んできたまま開け放されていた戸に、一人の男が寄りかかってこちらに視線を向けている。
「カミラ姫が動き出したようですね。あなたが生きている限り、彼女にとっては目の上のたんこぶと言ったところなのでしょう」
「ジュダ」
「イスカリオット伯!」
「あら」
ジュダは一つ溜め息をつくと、シェリダンに向かって小さな袋を投げた。
「これは」
「お好きなようにお考えください。餞別とでも……詫び金とでも」
袋を開けてみれば、そこには数枚の金貨と、銀貨。それから金に換えられそうな貴金属類。目の前の軍から追っ手がかけられているのにこの表現と言うのも皮肉で失笑が込み上げるが、これは正しく軍資金だ。
「……陛下、私は一度バートリ領に戻り、援軍を連れて参ります」
「その必要はない。エルジェーベト。私がここからさっさと消えれば済むだけの話だ」
「では、せめて門の前に出て、兵隊長とでもやりあってきましょうか。いつまでたっても陛下が見つからないのだ簒奪を許しやがってお前らどうしてくれる、とでも」
「そうしてくれるとありがたいな」
自ら陽動を申し出てくれた女将軍は、腰に佩いていた剣の一振りを渡してきた。ジュダはまたいつの間にか、動きやすい衣装をシェリダンのものとクルスのものと用意して手渡してくる。
「クルス、お前は」
「僕は陛下と一緒に参ります。どうぞ使用人とでも思ってお使いください」
「……すまない」
金貨の入った袋を腰に下げ、簡易で心許ない旅支度は急ぎ終わった。
「それでは陛下、御機嫌よう」
先にエルジェーベトが出て、部屋には三人が残される。
「……ジュダ」
シェリダンはこの城の主の名を呼ぶ。彼がこの部屋に入ってきた瞬間から、クルスは警戒を緩めない。シェリダンがこの男に刺されたことは知らずとも、クルスの中でジュダは最警戒人物だということだ。
「……お前には確かに辛酸を舐めさせられたし、不愉快な思いもしたよ」
シェリダンの言葉に、ジュダは瞳を細めた。これまでの狂いきれない道化じみた飄々とした態度ではなく、僅かな表情の変化でその意志を伝えてくる。
その変化に、クルスは戸惑っているようだった。困惑を顔に浮かべて、シェリダンとジュダを見比べる。
シェリダンを庇うように間に立った彼をやんわりと押しのけて、少し前まで王と呼ばれていた少年はジュダの正面に立った。
自分より背の高い男を見上げ、ゆっくりと腕を伸ばし、その首に縋り付くようにして抱きしめる。身長差のせいで、爪先が浮きそうだ。
「嫌いではなかったよ」
煮え湯を飲まされた相手ではあるが、それでも。
「嫌いではなかったよ、お前が。その瞳の中に押し込めた孤独の色も、仮面のように纏った狂気の鮮やかさも」
いっそ憎んでしまったほうがせいせいするのであろうが、どうしてもそうすることはできなかった。
これも一つの救いであり……そして拒絶の一つであろうか。多分自分は、自分が一番大事な相手が裏切ったらその相手を絶対に赦せないだろうと思う。だけれど、ジュダのことは許せてしまった。永遠に憎みきるほどの執着を、彼には持てなかった。
だからこれで終わりなのだ。
がくり、と崩れ落ちるのと同じ音で膝を着いたジュダが、最初で最後の臣下の礼をとった。
「道中、どうかご無事で……我が王よ」
その頬を伝う静かな涙。
「ああ。お前も、達者で」
言葉のない慟哭を抱いて、永遠に別れた。