143*
彼らの潜んでいた茂みの前を、大勢の足音が通り過ぎていく。
「……」
息を殺し、気配を殺し、辺りが静まり返るのを待つ。
「……行ったわよ」
兵士たちの気配が消えたのを見計らって、ロザリーは顔を出した。続いてぞろぞろと、茂みから這い出る人影。
「ぷは……」
「緊張しました……」
「皆様、大丈夫ですか?」
アンリ、ミザリー、ミカエラにウィルにエリサとロザリー。それからローラとエチエンヌとリチャード。
あの混乱のシアンスレイト城から抜け出せたのは、彼らだけだった。ロゼウスやシェリダンのことにまで、手を回す余裕はなかった。
「ねぇ、アンリ兄様……私たち、これから、どうすればいいの?」
人間たちの視界が利かなくなる夜を選んで距離を稼ぐ。とは言っても行き先など決まっていない。どこへ行けばいいんだろう。どこへ向かえば、またあの幸せだった日に戻れるんだろう?
暗い闇の中、ロザリーはヴァンピルと違い夜目の聞かないエチエンヌの手を引いて歩く。ローラはウィルとエリサに挟まれるようにして歩き、リチャードはミザリーと協力してミカエラを支える代わりに行き先を示してもらっていた。
自分の右の手のひらの中、エチエンヌの温かい体温だけが、ほっとする、この世の光。
今にも不安で崩れ落ちそうなこの心を叱咤してくれる。
「シェリダン様……」
エチエンヌがポツリと呟く。
「ロゼウス様も、それにユージーン候もしばらく前から行方不明にって……」
ローラが涙声で口にする。
ロゼウス。シェリダン。
愛しい兄と、いけ好かない少年王と。
二人とも無事かしら。
どうか、無事でいて欲しいと。
願いながら夜露に濡れる草むらを歩く内に、目の前の影が纏まって倒れる。
「ミカエラ!」
「ミザリー、どけ!」
ミザリーとリチャードに支えられながら歩いていたミカエラが倒れたのだ。もともと彼は体が病弱な上に、エヴェルシードのローゼンティア侵攻の際に一度殺されて生き返って、ドラクルたちを始めとする兄妹たちと敵対して、そして今度はこの襲撃だ。ここまでよく持った方だと思える。
「駄目だ。熱が高い。どこかで休ませないと」
アンリが苦渋の面持ちで弟の容態を見る。歩けないミカエラを背負い、辺りへと視線を走らせる。
「宿……なんかとれないよな、これじゃ」
「待ってください。私がなんとかします」
この場では唯一のエヴェルシード人であるリチャードがそう言って姿を消した。
しばらくして、近くの民家の納屋を借りる手筈を整えたらしく、戻ってくる。
「ミザリー、お前とエリサでリチャードと一緒にミカエラを見てくれ」
「え? アンリ、でも」
「いいから。さすがにこの人数で押しかけるわけにも行かないし。そうなるといざ見つかった時に言い訳が聞かない。ミカエラの状態が良くなるまででいいから」
「エリサ、これを持っていて」
「おにいさま?」
「いざと言うときの軍資金だよ……いいかい? お前が、ミカ兄様たちを護るんだよ」
「アンリ王子、皆様……」
「頼む。リチャード。この中ではエヴェルシード人であるあんたが一番怪しまれにくい。どうか、弟たちを頼む」
「……わかりました」
リチャードの背にミカエラを預け、面倒を見るのにミザリーを、いざという時の警護も兼ねてそれなりに腕の立ちながらも一番小さな妹のエリサをつけ、アンリは四人を送り出した。
「……ごめんな。ローラ、ロザリー。お前らも女の子なのにな」
「いいえ。私のことは気になさらないでください。アンリ王子」
「そうよ兄様。私たちは大丈夫。それにさ、ここにいるのなんて、ウィルを除いたら戦える人がいないじゃない。私たちがここに残っていて良かったと思うけど?」
野宿決定組の中でも女性であるという理由でロザリーとローラに気を遣う彼に冗談めかして告げると、疲れた顔をしながらもようやくアンリは笑ってくれた。
「ああ。そうだな。頼りにしてるよ、ロザリー」
「任せて」
嘘よ。本当は、何もかもが不安だけれど。
今は泣き言を言っている場合じゃない。私たちの場合はまだかけられた追っ手もぬるいものだと思う。これが、騒動の中心にいたロゼウスやシェリダンは……。
二人のことを考えると、胸が不安で締め付けられる。いてもたってもいられなくて、大声で叫びながらがむしゃらに走り回りたい。
そんなこと無駄だってわかってる。だからこそ、こうしてロザリーたちは、これからどうすればいいのかを話し合う。
「アンリ兄様、何か考えはある?」
「ミカエラ王子は限界のようだし、とにかく一度どこかで体を休めるか、変装道具でも入手しないと」
草むらに無造作に腰を降ろし、彼女たちは身を寄せ合って話し合う。ロザリーの隣に座ったエチエンヌも顔をしかめながら、この場で一番の年長者に尋ねた。一行の中で最年長であるのはリチャードだけれど、彼は唯一のエヴェルシード人であるから、とこれまでも無理をしていろいろと調達してきてくれた。無計画に進むのでは、彼の負担も限界だろう。
行く先、目的地、そして目標を定めねばこれ以上前へは進めない。最終的な目標は勿論ロゼウスやシェリダンと合流することなのだろうけれど、まず二人が今現在どうしているのかもわからない。
あの王城襲撃の日、投げ込まれた銀廃粉と言う名の毒薬にロザリーたちヴァンピルは次々と力を失って倒れていった。ロザリーとアンリはなんとか持ちこたえたが体の小さいウィルやエリサ、病弱なミカエラや体力のないミザリーは意識を失い、リチャードやローラ、エチエンヌたちの助けを借りてようやくその場を逃れる事ができた。煙幕が張られていたため、その場の状況も全くわからなかった。ただ、その場に留まる事は危険だからと、逃げることに必死だった。離れた場所にいたロゼウスやシェリダンを、気遣う余裕もなかった。
そして逃げ続ける最中、ロゼウスのことはわからないけれど、シェリダンは玉座から追放されたのだと聞いた。新しく国王になったのは、ドラクルたちとも繋がりのあるカミラと言う名の、シェリダンの妹。
これまで敵同士ではあったけれどなんとか奇妙に平穏な均衡を保っていたロザリーたちとシェリダンたちとの日々はもう戻ってこない。ロゼウスがそう簡単に死ぬはずはないとわかっているけれど、シェリダンはどうかわからない。彼らに関しては全く情報がなく、唯一信用できる協力者であるユージーン侯爵の行方もわからないという。これほどの大人数や情勢を考えたら、かつてロザリーを助けてくれた酒場の店主、フリッツ氏のもとにも匿ってもらうわけにもいかない。
逃げて逃げて逃げて。もうくたくただった。先の見えない地獄に放り出されたみたいに、みんな疲れ果てていた。一端は未来が見えかけただけに、今回の事は、ローゼンティアを出てきたときのそれよりもなお酷い絶望が瞼を覆う。
「とにかく……とにかく、どうするか決めよう。全ては、それからだ」
当面の目的を決めて、徐々にロゼウスやシェリダンの消息を掴むこと。ロザリーたちヴァンピルはこのエヴェルシードでは目立ちすぎるので変装が必要であるし、シルヴァーニ人のローラとエチエンヌだってそうだ。影に隠れて行動するしかない。こそこそと。日陰の虫のように。
「どうせこの国の周りには、カミラ姫からの手配書が回ってるだろうし、地上にはどこも、僕らの逃げる場所なんてないよ」
「そうすると誰にも見咎められない行路なんてあるわけないし、隠れ隠れ行くしか……」
ロザリーとエチエンヌがそうぼやくと、アンリが何かに反応を示した。
「誰にも見咎められないコウロ……?」
知略王子と呼ばれる彼はその朱色の瞳に知性のきらめきを乗せると、エチエンヌとローラに尋ねた。
「二人とも、ちょっと手伝ってくれ。この周囲の状況について」
「え?」
地面に指先で地図を書く。ローゼンティアにいた頃から明らかな世界の地理はともかく、エヴェルシード国内からその周辺地域にかけてのローカルな知識は五年この国にいる双子の方が詳しい。ローラとエチエンヌの助けを借りて、アンリは先程閃いたらしき思い付きに、形を与える。
「みんな、この図を見てくれ」
地面を見るために手元を照らしていた明かりを置いて、アンリはロザリーたちに一つの道を指示した。
「さっきエチエンヌとロザリーが言っただろう? 地上にはどこも逃げる場所はない。誰にも見咎められない行路でもなければって」
アンリの指が、地図を辿る。シュルト大陸の最東部に位置するローゼンティア。そのローゼンティアを覆うように西隣に位置するエヴェルシード。彼の指は現在地と思われる箇所からすっと一本の道を追った。けれどその辿り着く先は。
「え?」
ロザリーは驚いた。エチエンヌも驚いた。ローラもウィルも、みんな驚いた。
「アンリ王子、これって……」
「な? 盲点だっただろ? この道なら、俺たちが通ったところで逆に見咎められない。見咎められても、逆に堂々と逃げることができる」
「でも、移動手段が……」
「奪うしかないだろうな」
一度思いついた考えを、アンリは撤回しない。困惑に顔を歪めるロザリーたちに、彼は強い瞳で告げる。
「さぁ、行くぞ、ローゼンティアに」
◆◆◆◆◆
後手に縛られたまま、床に膝を着くことを強制される。そのまま椅子に座った彼の膝へと顔を埋め、滾る欲望を口に含むことを強制された。
エヴェルシードの王城にいたときと違って、女物の衣装を纏わされることはない。けれど、それが何の救いになるのか。腕の拘束は外されず、前髪を掴まれて無理矢理に上げさせられた顔に、男のものを突きつけられる。
「せいぜい俺を満足させるといいよ」
酷薄に微笑んで、ヴィルヘルムが言う。
「この国で一番偉いのは俺だ。だから、なんだってできるし、手に入る。逆らう事は許さない。気に入らない人間は殺せばいい」
それは確かにセルヴォルファスにおいてはそうなのかもしれない、ここは力の国だという。だけれど、ローゼンティアの出であるロゼウスには関係ない。
一度そう言ったら、強かに頬を殴られた。ヴァンピルと同じく、人間にはない尋常な身体能力を持つ魔族の一員であるワーウルフの力で振るわれた暴力は、容赦なく吸血鬼であるロゼウスの肌にも傷をつける。
体から力が抜けていく感覚がする。近頃ずっと、酷くだるい。疲労が溜まっているのだとわかる。
ヴァンピルは滅多に疲れない。人間より頑丈な一族だから、人と同じ生活習慣に合わせている限り疲労を感じることなんてないのだ。それでもここに来て、同じく人ではないヴィルヘルムの、家臣にさえ窘められている異常な生活習慣に巻き込まれていると、段々と日付の感覚や体力の使い方を忘れていく。
「ん……ふぁ……」
朦朧としかけた頭で、目の前のものをしゃぶる。これを拒んで抵抗する気力すら、今のロゼウスにはない。
薄っすらと笑みを浮かべているのにそれでもどこかつまらなそうな顔で、ヴィルヘルムは自分のものをしゃぶらせているロゼウスを冷たく見下ろしていた。
「……つまんない」
幼子のような呟きがぽつりと落とされる。
訪れた絶頂に、白濁が飛び散る。飲み込みきれずに噎せて、大部分を床に吐き出してしまう。
「あーあ」
飛び散った自身の白濁を見て、ヴィルヘルムがわざとらしく口を開く。吐精の快感にわずかに潤み恍惚となった目元を細めて、薄茶色の髪をかきあげる。
「零したね。掃除が大変だ」
「お前が……す、わけじゃ、……いだろ」
「そうだよ。するのは俺じゃない。そんなにこの部屋の掃除婦を苛めたかったわけ? ロゼウスも案外性格悪いんだねぇ」
「だれ、が……」
誰がそんなことを言った。
本当に、毎度毎度、血やら男の精液やらで汚れた床を片付ける人間も大変だ。それだけならまだしも、こいつの部屋にはなんだかよくわからない怪しいものがところせましと置いてあるからかなわない。
なんでこんなどうでもいいことを考えているんだろう俺は……
そう思った瞬間、くらりと眩暈が来た。視界が真っ暗に染まり、体を支えていられない。縛られた腕は痺れ、このままだと顔から床に激突する。
「おっと」
そんなところで、椅子に座ったまま手を伸ばしたヴィルヘルムに受けとめられた。
「あーあ。もう限界なの? 案外体力ないんだね」
「お前が、盛り過ぎ、なんだろ」
「そうかもね。だから、まだまだ離してなんかやらない」
決して優しいとは言えないやり方で、長椅子の上へと引き上げられた。縛られた腕を背中に、うつ伏せの姿勢で首を捻ってヴィルヘルムを見る。
「気絶したいならしていれば? それでもまだ、離してなんかやらないから」
ズボンが引き摺り下ろされ、肌を露出させられる。暴かれた場所に少年の指が這い、生温い快感を与えていく。
「やめろ」
「やめない」
「もうやめろ! ヴィル!」
「絶対に、やめない」
込み上げてくる諦めに似た感情に、ゆっくりと瞳を閉じる。
「……好きだよ、ロゼウス」
ロゼウスが何を言ったところで、ヴィルヘルムには通じない。
ヴィルヘルムの言葉が、ロゼウスに響かないように。
◆◆◆◆◆
「王様になれば」
「なんでも手に入るんだ」
「……そんなことないよ、ヴィルヘルム」
「そんなことないなんてことない」
それは、そっと部屋の空気に落とされるような稚い口調。
寝台の上、ロゼウスは彼の膝を枕に眠ろうとするヴィルヘルムの頭を撫でる。薄茶色の髪を梳きながら獣の耳にそっと触れると、少年は気持ち良さそうに灰色の瞳を閉じた。
どうもこの少年は、感情の揺れが激しい。躁鬱……と言うには鬱っぽい面は少ないが、癇癪を起した時とそうでないときの落差に、ときどきついていけなくなりそうになる。
歪んでいる。
だけどその言葉は、もうロゼウスにとっては馴染みのもの。ロゼウスはシェリダンによってそれを突きつけられた。醒めない夢の中で溺れることを望んだロゼウスに、シェリダンは現実を見ろと言った。
あの時は余計なお世話だと思ったそれは、でも彼がロゼウスのためを思ってしてくれたことだった。自分の見たい物だけを見て、聞きたいことだけを聞いて、それで得られるものは仮初めの安堵。本物ではないのだと。
「俺は本当は、王様になんかなるはずじゃなかった」
「え?」
ヴィルヘルムの思いがけない言葉に、ロゼウスは思わず疑問の声をあげる。
そういえば、セルヴォルファスの王位継承問題とはどうなっているのだろう。長命種族ヴァンピルのローゼンティア王家では、ロゼウスを含めて十三人が王位継承者とされていた。実際はもっと複雑で陰惨な事実が裏側に隠されていたわけだけれど、王族にとって継承問題は付き物だ。
なのにこの国、セルヴォルファスに来てからロゼウスはその手の噂を聞いたことがない。エヴェルシードでは図らずもカミラと接触してしまったし、どこの王族にも誰が有力で誰が無能で、それらの噂の一つや二つくらいあるものだと思うけれど。
「ねぇ、だからロゼウスも、俺の側にいてよ」
「……ヴィルヘルム」
「俺は王様になったんだから、全部が思い通りになるはずなんだ。そうでなきゃ、ならないんだ」
聞きわけのない子どもは、そうでなければならないと繰り返す。
そうでなければ、ならない。
ふと、その言葉が引っかかった。
「俺は王様になった。本当はそうなるはずじゃなかったのに、なった。だから王様になると何があるんだって聞いたら、欲しいものがなんでも手に入るって言われたんだ」
「……誰がそんなこと言ったんだ?」
一度癇癪を起した後は、憑き物が落ちたように大人しくなるヴィルヘルムは、ロゼウスの膝を枕に眠りかけている。
「大臣」
いつもは狼のくせに小鳥を捕まえて楽しむ子猫のような無邪気で残酷な光を湛えた瞳が、今はとろんと蕩けている。
ずっとこうしていれば可愛いのに。……むしろ、こちらの方が彼の本性なのだろう。いつも見せている、傍若無人で傲慢な王の顔は作り物。
喋り方こそ幼いが(ってロゼウスが言えることでもないが)、普段のヴィルヘルムはそれなりに王としての仕事は果しているらしい。我が儘に変わりはないが、仕事はできる、と。その気になれば敬語も使えるし、各種式典用の礼儀作法だって完璧だ。
エヴェルシードでもシェリダンと真っ向から対立していたし、本性はともかく表の顔はまともだ。
それがどうして、一皮向くとこうなるのか。王としての責務を果している時は大人びているのに、一度力を抜くと年齢よりも幼げだ。まるで子どもがそれまで無理をして大人の振りをしていたように。
王族だなんて厄介な事情を抱えている以上、ロゼウスにもシェリダンにも、ローゼンティアの兄妹たちにも勿論そういうところはあった。人前で見せるしっかりとした顔は建前で、本音はまだまだ未熟で我が儘で甘えたい放題の子どもだ。もっとも、ロゼウスたちローゼンティア王家は第一王子であった二十七歳のドラクルから十歳の末っ子エリサまで年齢が離れていて、一概にそう比べられるものでもなかったけれど。
でも、ここまで酷くはない。
ロゼウスたちは王族であることを求められる時、意識してそういう仮面を被っていた。そうして、ことが終わったらそれを脱いで、本当の自分に戻っていた。
ヴィルヘルムはそれが上手くできていないみたいだ。王としては王の、そうでない、ただの十六歳の少年であるヴィルヘルムならヴィルヘルムと、上手く使い分けることができない。一番初めにこうしろと被せられた仮面を顔に貼り付けられて、それを当たり前のものとして生活しようと努力しているのに、やっぱり上手く行かなくて息苦しいよう。しかも本人はそれに気づいていない。
呪うように張り付いた仮面に息も目も塞がれて何も見えず苦しいはずなのに、本人はそれが普通のつもりでいるから時々転んでは怪我をする。そんな感じだ。彼が貼り付けているものは仮面であって決して彼自身の顔ではないのに、彼はそれを自分の顔だと思い込もうとしている。
――王様になれば。
王になるって、どういうことなのだろうか。ロゼウスもそういえばヴィルヘルムと似たような境遇だ。どういう事情かはわからないけれど、ヴィルヘルムは王になる予定もなかったのに突如王になるように運命の歯車が回ったらしい。ロゼウスだとて、ドラクルがローゼンティアに謀反を起さなければ、まさか自分が第一王子だなんて思いもしなかっただろう。いきなりそんなことを知らされたら、誰だって混乱する。
王様だから、俺は王なんだというのが、ヴィルヘルムの口癖だ。
――そうでなければならない。
そしてこの言葉にその謎を解く助けが隠されているのだと思う。そうでなければならないということは、ではそうで「なかった」時には、どうなるのかということ。
そうでなければならないことがそうでなかった時に、何が起こるとヴィルヘルムは考えているのだろう。
「……さま」
「ん?」
ロゼウスが考え込んでいる内に、大きな子どもはすでに眠りについてしまったようだ。膝の上で何かむにゃむにゃと呟くヴィルヘルムの口元に、耳を寄せる。
「兄様」
聞こえた言葉に、ハッと目を瞠った。
兄様。ヴィルヘルムには兄がいるのか? だから、自分が王位なんて継ぐはずはないと?
でも……だったら、何で「弟」である彼がセルヴォルファスの玉座に着いている?
「兄様……」
呟くヴィルヘルムの顔は幸せそうだった。良い夢を見ているのだろう。
「……ああ、そうか」
お前も夢を見ているんだ。見ている夢から、醒めたくないんだな。ロゼウスが昔、そうであったように。
ドラクルに愛されたかった。だから与えられる虐待も愛情の一つの形だと自分を誤魔化して、都合のいい夢を見ていた。
ロゼウスにそれを突きつけたのはシェリダンで、だからロゼウスはようやく現へと戻ってこれた。
優しい夢に遊ぶのと、残酷な現実を知ること。
どちらが幸せなのかなんて、本人じゃないとわからない。でもロゼウスは、これで良かったと思っている。
あの朱金の瞳が綻ぶ瞬間は、ドラクルと見たどんな朝焼けの太陽より美しかった。
絶望があるから希望を知る。
だからヴィルヘルムも、彼が本当の幸せを得るためにはその夢から醒めなければならない。ロゼウスはまだ彼のいろんな事情やその考え方を知るわけではないし、「そうでなければならない」という言葉の意味だってさっぱりだ。でも、そのくらいはわかる。
仮初めの安堵に溺れたところで、本当の安らぎは得られないことを。
「……て」
「ヴィル」
「ずっと……そばにいてね……いかないで……兄様……」
「っ!」
息を飲む。服の裾を、いつの間にかその手に握られていた。
心を置き去りに大人になった子どもが、誰かの温もりを求めている。
「いかないで」
迷子の子ども。被ったことを忘れた仮面の下で、ひっそりと泣いている。
いかないで。もう、それだけでいいから。本当に欲しいものはそれなのだと。
やっとお前がわかったよ、ヴィルヘルム。
ああほら、でもやっぱり。お前が欲しいのは俺じゃない。
夢から目を醒まして、現実の大地をしっかりと踏みしめて生きる事は残酷だけれど、それを突きつける者の優しさは本物だ。
だからヴィルヘルムに本当の幸せを与えたいと思うなら、誰かが彼を夢から醒まさなければならない。
けれど。
「ごめんな……ヴィル」
ロゼウスはヴィルヘルムの髪を撫でるのとは逆の手に意識を集中する。弱った体ではこのぐらいの小細工ぐらいしかできないが、拘束具を外されている今しか機会はない。
爪の先に魔力を集めて、鉄のような硬度と刃の切り口とを作る。
それを、思い切りヴィルヘルムの首に振り下ろした。