荊の墓標 25

144*

「君はやがて、全てを手にする」
 預言者の口から語られたそれは、何より残酷な未来だった。

 午後の勉強が休みとなって、せっかくだからと城の中を駆け回った。途中行き会う使用人たちに、走ってはなりませんと揃えたように同じ言葉がかけられる。
「兄様!」
「ヴィル? どうしたんだ? 歴史の授業は」
「先生が御用ができたからって、お休みになった!」
 兄様と言っても、ヴィルヘルムに兄は二十五人いる。ヴィルヘルムが第二十六王子なのだから、その分上に兄がいるわけだ。ついでに姉も妹もいるが、弟はいない。ヴィルヘルムは、セルヴォルファス王家の末っ子だった。
「兄様、今暇? 遊んで遊んで遊んで――っ!」
「おいおい、ヴィールー、苦しいってば」
 部屋の一つで本を読んでいた歳の離れた兄の一人の首に抱きつき、そうやってせがむ。これだけ兄弟がいれば、セルヴォルファスは後継者には困らない。特に末子であるヴィルヘルムは玉座に手なんか届くはずもなく、特段誰にも敵視もされなかったため、好きなだけ兄たちに甘えていた。
 姉や妹もいたけれど、行動が乱暴だと言われるヴィルヘルムの扱いを、姉たち女家族は持て余していたらしい。自然とヴィルヘルムの面倒は兄たちが見てくれることとなり、男兄弟に揉まれてますます活発な遊びを覚えるという循環だった。体を動かすのが得意で、難しいことを考えるよりも、外を駆け回っていたかった。人間の姿だとしょっちゅう服を泥だらけにして困るということで、狼姿でその辺を転がっていることも多かった。
 五歳より下の記憶はそんなものだ。ヴィルヘルムは兄たちが好きだったし、兄たちもヴィルヘルムを可愛がってくれた。
 幸せだった。このまま毎日が続けば、他に何もいらなかった。
「ヴィル、お前は本当に勉強が苦手だなぁ」
「そんなんじゃ、立派な王様になれやしないぞ」
「いいもん。俺は王様になんてならないもん。だって、王様になるのはジード兄様でしょ?」
「まあ、そうなんだけどさ。でも王子があんまり使えないのも困るって」
「ほら、そろそろ勉強しに戻りますよ」
「えー」
「いや、ヴィルヘルムに今日の分の宿題をさせないと、俺たちも出掛けちゃ駄目って言われてて……」
「ぶーぶー」
「はいはい、わかったわかった。拗ねないの」
「お前がちゃんと先生に出された課題をやり終えたら、兄様たちが思いっきり遊んでやるから」
「ホントっ!?」
「ああ。約束するよ」
 歳の離れた兄たちに甘えて、甘やかされて。
 肩車で部屋に戻ってはしょうがないなと溜め息つく教師のお小言を受けて、ひとしきりそれが終わると今度は真面目に課題に取り込んだ。なんだかんだでヴィルヘルムは兄たちと一緒に過ごしたくて、最初は文句を言うけれど最後にはちゃんと課題をこなした。
 帝王学とは言っても、国王が覚えるべきそれと、補佐の末端もいいところにつくだろう第二十六王子ではその密度が違う。長さが違う。重みが違う。
 それが本当に役に立つ日が来るなどとは思いもせぬまま、ただ兄たちに褒められたい一心で頑張った。これだけ兄弟がいると誰しも得手不得手があって。これは誰よりよくて誰より悪くてなんて比べられては一喜一憂したり、ご褒美だと言ってもらえたお下がりの玩具にはしゃいだりした。
 父親や母親はさすがに継承権の高い王子たちの教育に集中していてヴィルヘルムのように特に取り柄もない末子にかける期待など欠片もなかったから、ヴィルヘルムはほとんど兄たちと、そして大臣の一部に育てられた。
 二十五人の兄のうち、特にヴィルヘルムと同じように継承権の低い二十番目以降の兄たちが優しくしてくれた。継承権も十番台ならなんとか功績をあげて重要な地位に着く可能性もあるが、継承権二十五位だの二十六位などは、あってなきようなものだと。将来的な見込みが全然ないと言われているのも同然だったけれど、その分かけられる圧力もなくて楽だった。

 そんなある日、ヴィルヘルムは運命の先行きを知る人を見た。
 その色彩は、暗黒。

「ねぇ、エーリヒ兄様、レオナルド兄様」
「ん?」
「どうしたんですか? ヴィル?」
 仔狼の姿で長椅子の上を跳ね回っていたヴィルヘルムをひょいと抱き上げて、エーリヒが尋ねてくる。
「この前、城に黒髪の人がいたよ? あんな髪した人、初めて見た? ねぇ、あれは誰?」
「黒髪ぃ?」
 ヴィルヘルムの問に、レオナルドは首を捻った。エーリヒも、理由は知らぬように困惑を面に宿し、両者は顔を見合わせた。
「黒髪ってことは、あれですよね?」
「ああ。あれだよな? でも、城になんかいたか? っていうか普通、いるわけないんだが」
「?」
「あ、レオナルド、エーリヒ、ヴィルヘルム。なんだお前たち、こんなところにいたのか」
 二人の兄が首を傾げている合い間に、もう一人兄が室内に入ってきた。
「あ。なあオズヴァルト兄貴。今、城の中に黒の末裔って……」
「うわっ! バカ! レオ、その口いますぐ閉じろ!」
 レオナルドがヴィルヘルムの質問を受けて新たに入ってきたオズヴァルトに声をかけると、途端にオズヴァルトは顔色を変えた。
「んがもがごが……なんだよ、兄貴」
「不敬罪になるところを救ってやったんだから、感謝してほしいくらいだ」
「不敬罪……オズヴァルト兄上、つまりそれって……」
「察しがいいな。エーリヒ。そうだよ。お前が思っている通りのお方だ」
「ヴィルが、城の中で見たんですって」
 エーリヒの言葉にオズヴァルトはヴィルヘルムの前に膝を着くと、視線を合わせてこう言った。
「なぁ、ヴィル。お前、その黒髪のお方を見ただけか?」
「うん。見た。東棟の廊下を歩いてたの、北の部屋から見た」
「そうか。じゃあ、直接あのお方と顔を合わせたわけじゃないんだな」
「兄様?」
「よく聞け、ヴィルヘルム=ローア。その黒髪のお方はな」
 それはこのアケロンティス帝国の、宰相なのだと兄は言った。
「帝国宰相、ハデス=レーテ=アケロンティス様だ。くれぐれも無礼な振る舞いをしないように気をつけてくれ」
「エライヒトなの?」
「ああ。すっごく、エライヒトだ」
「どのくらい?」
 兄は悪戯っぽく笑った。
「俺たちの父上が百人いても届かないくらいに」
「そんなに凄い人なんだ」
「ああ」
 そして兄は、その帝国宰相のことに絡めて《黒の末裔》という民族について話してくれた。
 いわく、ヴィルヘルムたちワーウルフや東のローゼンティアのヴァンピルのような魔族ではないが、強い魔力と高度な魔術技術を伝承する人間の一族の一つだと。
 そして特に、当代の皇帝陛下がその黒の末裔の出身だという。だからたまたまその時国に来ていたハデスという少年(に、見えた)も、皇帝である姉の威光で宰相になったのだと。
 そしてもう一つ、兄は興味深い話をしてくれた。
「あの宰相閣下はな、未来を視る力があるんだってさ」
「未来をみる? じゃあ、明日雨が降るとかもわかるの? 今日の晩御飯も?」
「うーん。それは宰相閣下じゃなくてもその仕事人に聞けばわかると思うんだが……とにかく、宰相閣下は《預言者》っていう別名を持っている凄腕の魔術師で、未来に何があるとか、全部わかっちゃうんだって」
「へぇ。すごいねぇ!」
「ああ。凄い人なんだ。だから絶対、怒らせちゃ駄目なんだぞ?」
 ヴィルヘルムはその時の説明に対して、特別感想など抱かなかった。今日のように明日が来て、定められた歯車は狂うことなく皆の予想通りの未来が来るものだと思っていたから。
 だからその言葉の意味を、本当の意味で理解したのは随分後だった。
「予言しよう。ヴィルヘルム=ローア=セルヴォルファス」
 魔族より魔族らしい人間が、楽しげに笑ってそう言った。
「やがて、全てが君のものになる。そう、この国の全てが」
 ヴィルヘルムにはこの言葉の意味が、すぐにはわからなかった。
 そして、気づいた時には、全てが遅すぎたのだ。

 ◆◆◆◆◆

 ――あのさぁ、ハデス卿。俺はこれでもあなたには感謝してるわけだよ。
 ――何? 突然。
 ――あなたがこの国のことについて、あらかじめ予言で教えてくれたから俺は今国王の座についている。
 ――ああ。でもあれはもともと、そういう運命だったというだけの話だからね。ねぇ、第二十六王子ヴィルヘルム。

 よりによってこの僕に、感謝などと伝えてきた無垢で、それゆえ残酷なまでに愚かな王子を内心で嘲笑う。
 ヴィルヘルム。お前のための舞台は、最初から整っていたんだよ。
 僕が何もしなくたって、君はロゼウスの運命に勝手に巻き込まれる。

 ――まぁ――確かに、俺はあんたたちとは違うからな。あんたとも、ドラクルやイスカリオットとも。あんたたちみたいに《可哀想な》過去を持ってて、そのために足掻いているわけじゃない。

 人のことを、可哀想だなどとはよく言ってくれたものだ。あの王子様は、どうやらここまで来ても何もわかっていないらしい。

 ――ま、せいぜい頑張りなよ、ヴィルヘルム。何も持たない王子様。ようやく全てを手に入れた王様。その手に入れたものを、これから失わないようにね。
 
 殊勝な振りを無理して作らなくたって、あの狼っこの浅はかさなど熟知している。あれへの心配はいらない。どうせ僕が予言で見たとおりの運命を彼は辿るだろう。
 憐れな犠牲者よ。
 タルタロスで休息をとりながら、ハデスは地上に飛ばした使い魔が戻って来たのを知る。紫色の鴉を腕にとまらせると、その瞳をぺろりと舐め上げて、それが見てきたものを自らの網膜に映した。
「……へぇ、イスカリオット伯、もう手を引いたんだ」
 エヴェルシードでは変化が起きていた。まず、狂気伯爵と言われるジュダ=イスカリオットが自らの宣言を覆して早くもシェリダンを解放してしまった。彼は唯一無二の従者クルス=ユージーンと共に、今度は南へと向かっている。
「シェリダンはさすがにもう動き始めたか」
 ハデスは複雑な気分でそれを見、けれどまだ事態は決まっていないと、再び意識をセルヴォルファスの方へと戻す。もう一つの影はまだ動いていない。ロゼウスはヴィルヘルムに囚われたままセルヴォルファスに留まっている。もっともそれも時間の問題だろうが。
 遅かれ早かれ、ロゼウスはその内に必ずヴィルヘルムを殺すだろう。
「さて。例え捨て駒扱いにするにしても、あのヴィルヘルムがロゼウス相手にどこまで持つかな」
 すべての準備が整うまでとは言わない。それでもせめて、ある程度こちらの計画が進むまで持ちこたえてくれればそれだけで御の字だ。
 暗い地獄の中、ハデスは二人の少年の運命を傍観しながら、その皮肉をひっそりと嘲笑った。

 ◆◆◆◆◆

 ロゼウスもシェリダンもその権力と武力から引き離し、舞台の最下層へと引き摺り下ろした。カミラが王としてその地位につき、ヴィル――セルヴォルファス王ヴィルヘルムがロゼウスを攫っていったという。ユージーン侯爵クルス卿は生死行方共に不明であり、帝国宰相ハデスは自ら姿を晦ましている。
 隠れ家の一つ、ドラクルは機を待つ。望んでいるのは浅はかな戦争ではない。その結果に待つものだ。手に入れたいものがあるのならば、敵を打ち倒しただけで満足してはならない。そして倒したと思った敵が、後から復活してくる可能性が大きいのならば尚更だ。
 人間であるシェリダン王がどこまでできるかはともかく、ロゼウスにローゼンティアに戻られては厄介だ。国内の反王権派貴族への根回しは順調に進んでいるとはいえ、まだ王族に信を置いている者たちも多い。
 エヴェルシードを煽って侵略させた当時こそ混乱状態にあったローゼンティアも、近頃になってようやく体勢を立て直し始めてきたところだ。ノスフェル家が動き出し、一度殺されたヴァンピルたちが続々と生き返っているらしい。エヴェルシードは厄介事は御免だとその勢力の大半をカミラの指示で引き上げ、今度はエヴェルシード国内の簒奪の余波に備えている。ドラクルたちローゼンティアにも王権派と反王権派がいるように、エヴェルシードでもシェリダン派とカミラ派に別れるらしい。それでもこの国は兄か妹かを選ぶだけなのだから、楽なものではないか。
 協力体制を結んだエヴェルシードのある貴族の屋敷の一棟を今は貸し出されている。シェリダン王の治世にあってはかの少年の名の下に、カミラ女王の治世たる今はその少女の足元に跪いて忠誠を誓うその男は、またいつでもカミラ姫を裏切りやすくするための足場固めとして、ドラクルと手を結ぶことを望んだ。こうしてドラクルは十重二十重にも蜘蛛の巣を張る。幾つもの道を用意しておく。ハデス卿が姿を晦まそうが、ヴィルヘルムがロゼウス欲しさに裏切りに近い行動をとろうが構いはしないように。
 所詮誰も本当に信用してはならないのだから。その意味で、エヴェルシードの尻軽な貴族どもは素晴らしく扱いやすい。ローゼンティアではこうはいかない。
少数民族、それも地上の魔族と言う特殊な人種であるだけにローゼンティアの支配体制は埃を被りそうなほど古く、王族への信頼は通常揺るがない。民たちはローゼンティア王家だけを信じ、簒奪など考える輩はほとんどいない。
 元々、世界帝国建国に寄与したロゼッテ=ローゼンティアの子孫として、その強すぎる能力を讃えられつつも忌み嫌われてきた一族だ。
強すぎる力を持つ生き物は、通常暴力的になる。自らの力を持て余し、それを存分に発揮するために無意味に暴力に転化する。
 それを少しでも防ごうとヴァンピルのこの血にかけられた呪いこそが、殺人衝動を抑える封印。渇きや負傷による自らの命の危機に陥らない限り、吸血鬼の力の暴走を抑える魔術。
 その反動で、ローゼンティアの民であるヴァンピルたちは皆一様に穏やかな性格となった。暴力を好み、罪を犯す者などほとんどいない。平和な国。
 我が祖国ながら、なんて気持ちの悪いことだろう。
 誰も彼もが疲れている時でも真面目ぶって働き、和を好むと言っては気の食わない相手にも笑顔を浮かべ、美を讃えるその口は少しでも異常なものを見えない。
 まるで嘘つきの国だ。その滑稽さに自然と嗤いが込み上げる。
 何かも嘘。全てが偽り。そもそも魔族であるヴァンピルが争いを、暴力を、殺戮を、血を、好まぬはずなどないというのに。魔力で封じたそれの上から穏やかな顔の仮面を張り付けて、その仮面を自らの素顔だと思っているのだから愚かしいばかりだ。
 真実が知りたいのならば、潔くその顔の皮を肉ごと剥げばいいのだ。赤黒い筋肉もぶよぶよとした内臓も青い血管も全て余計なものを取り払って美しい白骨だけとなったなら、ようやく本来の『自分』の顔が見えてくるだろう。
 この自分がいい例だ。何もかも偽りで塗り固められた王子の称号。望んで纏ったわけではないその仮面を顔の皮ごと剥がされて、醜い内側を晒している。
 ああ、嗤いが込み上げる。
 手に入れたと思った物は全てが偽者だった。最初から、この自分自身が何より嘘だった。
「だがもうすぐ嘘ではなくなる」
 虚飾に彩られた屋敷の、無駄に豪奢な長椅子に寝そべってドラクルはそう言葉にした。アンもヘンリーもルースもメアリーも今はここにいない。彼らは彼らで、好きに動いている。ドラクルが好きにしているのだから、彼らにもそのくらいの自由は必要だろう。もっとも、自らドラクルについてきたアンやヘンリー、最初からドラクルの共犯者であったルースとは違い、メアリーと後、得たいの知れないもう一人の監視については手を抜くわけにはいかないが。
 そろそろ様子を見に行った方がいい頃合だ。
 今のところドラクルの計画に大きなズレや予測違いの事柄はない。ただ、一つだけ不安要素がある。部屋を出て、人気のない廊下を歩き別の部屋へと向かう。扉を開けてこちらに背を向ける椅子に視線を移すと、そこに白い後頭が見えた。
「……ジャスパー」
 名を呼ぶと、これまでの下から二番目の弟。本当は血の繋がっていなかった偽者の兄弟が振り返った。
「ドラクル兄様」
 にっこりと、弟であった少年は慎ましやかな笑みを浮かべる。個性的な兄妹が多いと言われたローゼンティア王族の中でも特に主張しない地味な性格と言われた一人。
「何を思っているんだい? ここ最近」
 だが、再会してからのジャスパーはと言うと、どうも様子がおかしい。元から仄にロゼウスへ淡い感情を抱いていたようだったが、ここのところ特に拍車がかかっているように思われる。
 勿論、ジャスパー自身は滅多にそんなこと口には出さない。だが、同じように外目には笑顔を浮かべながら世間を欺いてきたドラクルには、この自分の半分ほどしか生きていない弟の薄暗い欲望が透けて見える。
「別に何も」
 自然な笑顔で答える彼の正面の応接椅子を陣取り、この一日、いや、この屋敷に移ってから数週間も、日がな一日何をするでもなく椅子に座って思索に耽っている彼へと問いかける。
「へぇ? では、何を考えているんだい?」
 「思う」と「考える」。同じような言葉ではあるが、実際は違う。思うということは願望を自身の中に抽象的から具体的にまで確立することだ。
 考えるということは、その願望をどう実行に移すべきか模索することだ。
 ジャスパーの願いはすでに決まっているのだ。だから彼には今更思うことなどない。だから彼は揺らぐことなどない。すでにその次の段階に入っている。思うことを成し遂げるためにどうすればいいのか、考える。
 ドラクルの問に、宝石王子と呼ばれる少年はそれこそ透明な宝石のように美しい笑顔を浮かべた。
「僕の望みを、現実にするために何が必要なのかを」
 ああ、やはり。
「そうか。それは頑張ってくれ。ジャスパー。それで、お前の望みとは?」
「僕の望み?」
 彼はうっそりと口角を吊り上げる。
「それは、ロゼウス兄様に――」
「ロゼウスに、なんだい?」
「……いいえ。それから先は、ドラクル兄様には内緒です」
 ジャスパーは緩やかな笑みを浮かべたまま、ふと、それまで椅子に座ったまま何事かを考え続けていたその姿勢を崩す。緩められたその動作に特に注意も払わず、ドラクルは彼に言葉の続きを促した。
 少しでも多く、情報を引き出さねばならない。この少年がドラクルについてきてから最近何を考えているのかわからないのは、もどかしい上に危険だ。不安要素は一つでも少ない方がいい。ジャスパーが何を考えているのか知れれば、その不安要素を解消することも、そこまで行かずともドラクルの害にならぬよう対策を練ることもできるだろう。
 そうして警戒せねばならぬほど、近頃のジャスパーの様子はおかしいのだ。もともと大人しい性格だったとは言え、この数週間ずっとこの与えられた部屋で必要最低限の生活行動をとる以外は座り込んで微動だにせず考え込んでいるなど、どう考えても異常だろう。
 彼はこんな人間だっただろうか。
「酷いな。教えてはくれないのか?」
「ええ。だって」
 言葉の続きを最後まで聞く前に、腹部に灼熱感が襲う。
 戦慄いた唇から鮮血が溢れて顎を伝った。ドラクルがあげようとした声が言葉になる前に、ジャスパーが再度口を開く。
「僕の望みも、ロゼウス兄様の未来のことも、ドラクルお兄様には関係ありませんから」
 ああ。彼はこんな人間だっただろうか。
 ドラクルの腹部に刺した短刀を引き抜く前にわざとジャスパーは横へと捻った。傷口をかき回されて襲う激痛に目の前が深紅に染まり、苦痛に顔を歪めた。短刀が引き抜かれると支えを失った体から力が抜け、床へと崩れ落ちる。
 ふらりと、ジャスパーはまるで自然な足取りで部屋を出て行く。傷を負ったドラクルは、それを負うことができない。急所を刺されたわけではなく即死もできない痛みに点滅する脳裏を落ち着けながら、体力の回復を待った。
「――ドラクル!? その怪我、どうして!」
 しばらくして、ジャスパーの様子を見に来たらしいルースが部屋の扉を開け、負傷したこの姿に血相を変えてドラクルに駆け寄ってきた。
「ふ、ふふふふふ。はははははは」
「ドラクル?」
「やってくれるじゃないか、ジャスパー=ライマ=ローゼンティア!」
 様子がおかしいのは気づいていたが、まさかここまで過激な行動をとるとは。全く予想もついていなかった。
「その傷……ジャスパーが……?」
 ドラクルの妹であり、ジャスパーにとってはかつての姉にあたるルースも信じられないものを見るように瞳を見開いている。あの兄妹で一、二を争う大人しい弟がこんな暴挙に出るなどと、彼女も予想していなかっただろう。
「聞け。ルース」
「なんでしょう、兄上」
 腹部の傷に的確な応急処置を施しながら、ルースがドラクルの言葉に反応する。
「ジャスパー。あれの思惑はまだ不明だが、その目的はロゼウスだ」
「はい」
「そして、ロゼウスを手に入れるためならば手段を厭わない様子。理由の詮索は特段しなくて構わない。この先もしもジャスパーに会う事があったなら」
 さよなら。さよなら。さよなら。痛む腹部の傷に恍惚と感謝を共に、ドラクルはまた一つ不要なものを切り捨てる決意が沸く。
「迷わずに、殺せ」
「――はい」