荊の墓標 26

第10章 白骨に祈る夜(2)

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「おやまぁ……」
 ドラクルの様子を見て、アンが溜め息をつく。その直前までぽかん、と大きく口を開いていたものだから、せっかくの美人も台無しだ。
「そりゃあ、無様なことになったのう。ドラクル」
「それはどうも。だというのなら、君の乱暴な弟を何とかしてくれ、アン」
「ジャスパーかえ? しかしあの子、そなたを刺してまで一体どこにいったんじゃろうか」
「恐らく、セルヴォルファスへ」
 ドラクルを刺して屋敷を抜け出した下から二番目の弟は、姉にも兄にも何も告げずに姿を消した。血の匂いで事態を知ってここまで駆けつけたアン、ヘンリー、メアリーの三人が、その行動を聞いて目を丸くしている。
 恐らくジャスパーはロゼウスを取り戻しに北の王国セルヴォルファスへと向かったのだろう。兄妹の中でも、繊細の仮面を被っていたルースと違って本当に大人しかったはずのあの子が一体どうしてそんな風に豹変したのかはわからない。わからないが、何にせよジャスパーがロゼウスに執着しているのは真実で、彼を取り戻すためならばどんな行動もどんな犠牲も厭わないというのはわかる。
「あの……ドラクル兄様、大丈夫ですか……?」
「問題ないよメアリー」
 ドラクルに賛成する事は決してないくせに、それでもお人よしのメアリーが尋ねてくる。心配せずとも、ヴァンピルの再生能力で傷はもうほとんど塞がれている。血で濡れた服は着替えねばならないが、人間にしても重傷ぐらいで即死の傷ではない。たいした負傷ではなかった。
「……ドラクル兄上。最近のジャスパーは、変じゃないですか?」
「ああ。そうだな」
「ヘンリー、君は心当たりがあるのかい?」
 六つほど年下の弟にドラクルが問いかければ、ヘンリーは渋い顔をした。ドラクルより六つ年下でジャスパーの七歳年上。ちょうど中間に立つこの弟ならば、何かを知っているかもしれない。
「心当たり、というほどでもないのですが……」
「なんだい?」
「ジャスパーの腰に、私の知らない痣がありました」
「痣?」
「ええ」
 ヘンリーは自ら志願してこの数週間をジャスパーと同じ部屋で寝ていた。昼間は彼にも役目を割り振っているので出かけていることが多いが、夜は態度の不信な弟を監視しながら眠りにつく。着替えも一緒なので、当然裸を見る機械もあるという。
「このぐらいの大きさで、紅い……はじめは怪我でもしたのかと思ったのです。まるで鬱血痕のような、鮮やかな紅い痣でした。けれど、よく見ると違うのです。確かに変わった痣ですが、刺青と言うわけでもなく、ただ浮き出ているような……思わずそれはどうしたのか痛みはないのかと問いかけましたが、ジャスパーは何も答えず……」
 顔をしかめるヘンリーの言葉を聞きながら、ドラクルはそれによく似た、別のものを思い出していた。
「痣……」
 あれはいつ見たものだったか。
 ――なんです? これは。
 暗闇の中、服を脱いだ白い右腕に大きな紋様が描かれている。指先でその紋様を辿ると、相手は露骨に嫌な顔をした。
 ――これはね、呪いなんだよ。
 自ら誘ってきたくせにさっさと服を着込むハデスの、不機嫌な声が蘇る。そうだ、あれは……
 ――選定紋章印。次代の皇帝を選ぶ、選定者へと与えられる戒めだ。
 呪われたように紅い、血で描かれた刺青のようなその痕。
「……ヘンリー、それ、どんな形だった?」
「え? ええと……どんな形と言われても」
 テーブルにそれを描けないものかと指を乗せてしばし迷った末に、ヘンリーはその図形に最も近いと思われる比喩と共にその紋章を描き出した。
「まるで、薔薇のような……」
 中央部の薔薇と彼が呼んだ模様に関してはドラクルも覚えがない。だがしかし、それを囲む周囲の縁取りには見覚えがあった。
「選定紋章印……」
 何故、ジャスパーがそんなものを持っている。
「どうやら、そのうちハデスに話を聞く必要がありそうだな」
 ドラクルたちの道のりは、まだ遠い。ジャスパーが皇帝とどんな関係があるにしても、ハデスのこれまでの行動がイスカリオットやヴィルヘルムと違ってドラクルに反する傾向が何もないことを考えれば、ドラクルの目的自体がハデスの目的と似通っているということだ。つまり、ドラクルはこのまま動いた方が彼にとっても都合が良いので、邪魔される心配はない。それならば、と胸騒ぎにも似た不吉な予感をしばし胸の中に押し留めた。
「ドラクル、出発の準備ができたけれど……」
 場を開けて、これまでドラクルの指示に従い動いていたルースが戻ってくる。小間使いのようによく働く妹の手には、ドラクルの血に濡れた服の替えまで握られていた。
「ああ。ひとまず、ここを出よう」
 ハデスへの追求は後回しだ。とりあえず今は、ローゼンティアへと向かわねばならない。
新しい衣装に袖を通しながら、ドラクルはアンたちに指示した。

 ◆◆◆◆◆

 安宿の一室に嬌声が響く。
「あっ……んぅ、ヒ、ァ」
 奥深くまで突き上げられて、快感に身体が震える。汗まみれの身体で野卑な男の肉体を受けとめると、またぎしぎしと寝台が軋んだ。
「へへ……お前、本当に……」
 路銀を手にするためと、適当に声をかけた男が熱に浮かされたような充血した目で見下ろしてくる。首筋に顔を埋められて、ちくりと小さな痛みが走った。
「ああっ」
 何度も抜き差しされるものが、卑猥な水音と共に歪な快感を生み出していく。腰を抱えあげられ、言いように揺さぶられながら、天井の染みを見る。
「すげぇ……男も、悪くねぇかと思えてくらぁ……お前、ガキのくせに、こんなもんどこで覚えっ」
 くっ、と短く呻くような声と共に、男が絶頂に達した。濁った液体が身体の内側に吐き出されるのを、黙って受け入れた。
「なぁ、ヴァンピルってのはみんなお前みたいなガキのうちから淫乱で、男のくせにこんないい体してんのか? それともお前が特別なのか?」
 事後の気だるい感覚に身を任せているジャスパーの頬をざらついた指で撫で上げ、男が囁きかけてくる。
「なぁ、お前、気に入ったぜ。初めは男なんてと思ったけどな。この調子なら、また次も買ってやってもいいぜ」
「そう」
「つれねぇな。……お前、名前は」
「僕の名前を知ったら、その場で死んでもらうことになってるんだけど」
 男は一瞬、豆のように小さな目を丸くした。こちらの台詞を冗談だと受け取ったらしい。
「はっはっは。そりゃあいいや。で、教えろよ。なんて言うんだ?」
「ローゼンティア」
「は」
「ジャスパー=ライマ=ローゼンティア。第六王子」
「なっ、お前――ッ!?」
 驚いて何事か口に仕掛けた男の首を、ジャスパーは片手で封じる。人間だったならば体格差からは考えられないその腕力と行動に、男が驚愕の顔で固まった。
 そのまま腕に力を込めて、男の首を捻じ切る。
「こちらこそ気に入ったよ」
 流れ出る血に舌を這わせながら、ジャスパーは嬉しくなって呟く。
「路銀だけでなく、今晩の食事も提供してくれるなんて……」
 ああ。あなたはなんていい客なんだろう。

 ◆◆◆◆◆

 ああ、何故。
 その場にいる人々は思ったことだろう。ああ、何故我等はこんな目に遭わねばならない。こんなにも無様に惨めに死んでいかねばならないのだろうかと。
 信じられないようなものを見る目をしたまま絶命して転がる生首を躊躇なく踏みつけて、凄惨な紅い絵を描く床を歩く。
 ヴァンピルは炎に弱い。だから完全に殺してしまうつもりなら、死体に火を放てばいい。王城を乗っ取り、彼らは殺した同胞の死体に火をかけていく。魔力の込められた石で作られた城は燃え尽きる事はない。けれど火を放たれた屍はただの生命活動の停止と違い、ヴァンピルたちを本物の死へと誘う。
「さぁ、道を空けろ、我が王のために」
 白い髪を気だるげにかきあげて、ドラクルが血の色の絨毯の上を歩く。玉座の前で臓物を腹から零しながらも何とか生きながらえていた大臣の一人が、こちらを見てこれまでの道のりで出会った重臣たちと同じように目を丸くする。
「ドラクル王子……っ! それに、カルデール公爵たち、何故……っ!」
 その男の頭を、ドラクルは長靴の底でガッと踏みつけた。
「ぐっ……!」
「いいザマですね。大臣殿。地に這い蹲った感想はどうですか?」
「まさか、この惨劇……ああ、そうか! やはり、貴様か、この鬼子がっ」
 殿下……いいや、彼らの王は薄く笑う。
「父上と画策して私から継承権を取り上げるのに尽力したあなただ。この程度で死ねるだなんて、思っていませんよね?」
 にっこりと微笑んで、ドラクルは男の頭を踏みつける足に力を込めた。
「ぐぁああああああ!!」
吸血鬼の怪力は遺憾なく発揮され、頭蓋が砕け散る。断末魔に骨の砕ける音が被り、飛び散った脳漿はドラクル自身の衣装をも汚す。
「殿下、お衣装が」
「こんな場所でそれを気にすることもないだろう、フォレット」
 フォレット・カラーシュ伯爵がドラクルの蒼い服に跳ねた返り血と汚らしい男の脳漿を気にしたが、ドラクル自身は気軽に返す。
「それよりも、誰かこの男を、力の続く限り蘇生させそのたびに拷問にかけて惨死させろ」
「我等が主よ、その役目。私が」
「ジェイドか。わかった。任せる」
 先ほどまで五月蝿く喚いていた、今は肉塊と化した男の死体をドラクルは蹴り飛ばす。それを無造作に拾い上げて、ジェイド・クレイヴァ女公爵が命令に従うために広間を後にする。
 城中が一面の炎に包まれていた。だが、それほど弱っている時でもなければ、この炎に飲み込まれるわけもない。玉座への道は赤い絨毯の先にある。そこまでは何故か、炎も侵食していなかった。
 まるでこの方が、その椅子に座ることを祝福するように。
 血とあらゆる体液で濡れた道をドラクルは行く。城の外で襲撃させたノスフェラトゥたちの動きも、待機している仲間たちが制御させているのだろう。少し前までは戦いあう人々の命が点滅する喧騒が五月蝿かったのに、今は城を嘗め尽くす炎が全てを吸い込んで何も聞こえない。
 薔薇の国と呼ばれるその最たる理由である、石の城を多い尽くす魔力で咲いた薔薇。死神の血に咲いたと言われるそれすら炎で燃やし尽くして、竜の王子は血塗れた玉座へと向かう。
 彼らはそれにあわせ、膝を着いて忠誠を誓った。
「我等が王よ」
 そしてここに、ローゼンティア国王ドラクルが誕生する。

 ◆◆◆◆◆

 玉座の上から見る景色は、想像よりも冷めた退屈なものだった。甘美な空想はこの手を血に染めた瞬間に終わり、待っていたのは、果てしなくつまらない現実。
 それでもこれは自分が自分で選んだ道で答なのだから、この玉座を誰かに明け渡すようなことなど絶対に許せない。
 例えカミラがまだ王となるには幼くて、その上この国では歓迎されない女王だとしても、私は私の力でこの国を治めてみせる。シェリダンなどに、この座は返さない。
「……そう、ようやくそうなったのね」
 その玉座で、カミラは隣国との国境に派遣していた兵士からその報告を聞く。
 すでにシェリダンがローゼンティアへと踏み込ませた兵士は引き上げさせ、その国境近くの砦に待機させている。今はもう瀕死の国にそれほど兵士を置かなくても良いだろうなどと言い含めて大臣たちの追及をかわし、その隙にドラクル王子がローゼンティアを簒奪する手助けを。
 そしてカミラの、カミラたちの望みどおりにかの人は玉座へと着いた。次の行動も打ち合わせどおりならば――。
「和平交渉を申し込みましょう」
「は?」
「ドラクル王とですか? ですが!」
「元のローゼンティア王族の全てはシェリダンが殺害しているのです。このままかの国の心情を害し続けてどうなるのです。それも、新王が立った直後に、侵略者である隣国に頭を下げる王などいないでしょう。いい? 私たちがとるべき最前の道は、新王をさっさと認めて、その王と協力体制をとること。向こうを持ち上げてこちらへの敵意を和らげ、なおかつ他の同盟国を刺激しないよう方策をとること」
 そうでなければ、今度はこの国がまた簒奪戦争になる。シェリダンはしぶとい。先の捜索でも見つからなかったといって、死んだと判断するのは早計だ。そうして、あの兄が生きているならば必ずこの国の玉座を取り戻そうとするはず。
 そしてロゼウスもまたそうであるならば、二人は協力してエヴェルシードとローゼンティア、どちらかの牙城から切り崩しにかかるはず。付け入る隙を与えてはいけない。
 ロゼウスへのカミラの想いも、今は一時だけ押し込める。かの方へ再会するための機は、ドラクルが教えてくれる。
 カミラはエヴェルシードの状態を整え、自らの政権の足場固めをしながら、ただそれを待てばいい。
「……カミラ陛下」
「何?」
「非常に、申し上げにくいことなのですが」
「言いなさい」
 臣下がこういう言い方をするときは、その報告は大抵ろくなものではない。けれど、カミラはそれを聞かなければならない。
 ああ、王様って鬱陶しいのね。
 感傷に浸る暇も与えられず、また苛立ちの種を植え付けられる。この国で一番高いはずの玉座に身を落ち着けながらも、まだ誰かに見下ろされている気がする。
「軍部の方で、陛下を支持しないという一派が……今回のローゼンティアからの撤退も、シェリダン様のご命令を陛下が簡単に覆したと、反対が……」
「その指示に関しては、私は間違ったことはしていないわ。シェリダンに追従して私を排斥したいだけの輩の言うことなど、放っておきなさい」
「しかし陛下、自分大事の大臣……あの宰相バイロン=ワラキアスは別ですが、その他の大臣たちからの政権の奪取はともかく、シェリダン様は軍部からの指示が厚かった方ですから……」
「くっ」
 カミラは爪を噛む。
 エヴェルシードは軍事国家。そのため、他国よりもずっと軍の意志が政治に反映される。即位してすぐにローゼンティア侵略を計画するほど軍との連携が強かったシェリダンを追い落としてからは、まだあの兄を支持する軍の一派に梃子摺らされている。
 特にカミラは女王であるため、ただでさえ軍の信用は得がたい。即位するまではこれほど軍部からの反発が強いとは予想していなかったので、ロゼウスがこの国に来るまでの画策中でも、貴族や大臣の懐柔はしても下手な買収でシェリダンに動向が知れるのを恐れ、軍に手出しはできなかった。
「何かあるかしらね、エヴェルシードを揺るがさず、軍部の信用も得る契機が……」
 最もいいのは戦争でその手腕を発揮することだが、女性は基本的に戦に参加しない。あのバートリ公爵エルジェーベトはエヴェルシードでは変り種。しかも、残念なことにカミラにそんな軍事的な才能はない。できるとしたら、裏で画策することだけ。
 せめて、多少大雑把な作戦でも相手を確実に落せる、相手の弱ったところを知り、それをつけ狙う機会がわかれば……
 考えるカミラを背後から抱きしめるように、黒い腕が伸びた。
「お困りのようだね。カミラ姫」
 いつものように漆黒の衣装を身に纏い、黒の末裔と呼ばれる人が玉座の背後からカミラを包むように登場する。神出鬼没ここに極まれりの登場をしたハデスに、眼下の配下たちは度肝を抜かれている。
「ハデス卿。どうしたのですか?」
 イスカリオットとドラクルを通してこの人物の突拍子のない登場や行動にはもう慣れているカミラは、振り返ってその目的を尋ねる。彼の移動方法や出現場所などこの際問題ではない。それよりも大事なのは、その目的。
「助けてあげようか? カミラ姫」
 この人物は《預言者》と呼ばれている。
「教えてあげよう。君に有利な展開へと運ぶ術、近い未来、滅びる国の名を」
 皇帝陛下の唯一の弟は、その毒々しい紅い唇を歪めて笑った。