荊の墓標 26

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 王様になんてなりたくないよ。

「ヴィルはもしも王様になれたとしたら、何が欲しい?」
 ある日兄の一人がそう言った。
「王様に?」
 ヴィルヘルムは足りない頭で必死に考えた。王様になれたら、王様になれたら、王様になれたら……まず、自分が王様になる様子なんて思い浮かばない。
「だって俺、王様になんてならないし」
「そうか? でも俺たちに何かあったとしたら、お前が王様になることだってあるじゃないか」
「そんなことないもん! この国は兄様たちが継ぐんでしょ?」
「兄様たち、って。そりゃあ俺たちも王太子ではなくても王子だからそれなりの役職で国を支えるんだろうけどさ。それなら、お前だってそうだろ?」
「俺は兄様たちが頑張ってるのを横から見てるだけでいい」
「えー? こらこら、ずるいぞヴィルヘルム」
 兄の一人に抱きしめられて、ぐしゃぐしゃと髪をかき回されながらその温もりにしがみつく。
王様になんてなりたくないよ。だって俺が王様になるってことは、この温もりを失うってことだろ?
「兄様大好き! みんなみんな好き!」
「はいはい。俺も俺も」
「俺もー」
「僕も」
「私もですよ」
 まだ片手の指の数で足りる年齢の頃、そうして兄たちに甘えて甘えて過ごした。セルヴォルファスの殺風景な荒野の城には、暖かな笑い声が響く。他のどの種族よりも国よりも自然と近く暮らすワーウルフにとって、弱肉強食は当たり前。それでも同じ群れである家族の中では、そんな敵意などありえないと思っていた。
 あまりにも優しく輝かしく慕わしい憧憬の日々。
 いつかなくしてしまうなんて思いもしないまま、そのぬるま湯の安寧に浸っていた。心地よい幸せにとろけて、確固たる自我なんていらなかった。自分も他の人間も一緒だと思っていた。誰かが守ってくれて助けてくれてその分自分もできることをして、それだけでいいと思っていた。
「レオ兄様、肩車して」
「はいはい。この甘えん坊め」
「でも、私たちがヴィルヘルムをこうやって可愛がれるのももうあと数年といったところでしょうね」
「ああ。貴族の一部が、最近何だか不審な行動を起してるって聞くし、父上が健在である間に、早く俺たちも足場固めをしないと――」
「そう、ですね……」
 俺を肩からすとんと下ろして、腰を屈めた兄は同じ目線で言った。
「王様になれば何でも手に入る」
「なんでも?」
「ああ。この国で一番偉い人だからな。だから、父上が今いろいろと問題を抱えていても、大兄上が玉座につきさえすれば、俺たち兄弟のことに口を出せる人間なんて、名実共にいなくなる。だから」
 砂の城は呆気なく崩れる。
「ヴィルヘルム王子殿下! 兄君たちが――!!」
 幼いヴィルヘルムには政治だの謀略だの、難しい言葉が並んでもよくわからなかった。
 昨日まではヴィルヘルムを兄弟の中でもどうしようもないお子様としか見ていなかった大臣たちが、急に何か重要な役目のある人間を見る目で、ヴィルヘルムを見る。
「……お聞きください。第二十六王子、ヴィルヘルム殿下」
「……いやだ」
 本能的な恐怖を感じて、ヴィルヘルムは座らされた玉座の上で腰を引く。どうして自分がここに座らされているのかわからない。……兄上たちは?
「騒動の元となった家は、一族郎党まで処刑が完了いたしました。他の貴族たちも……」
 何か覚えるのも面倒な名前だけずらずらと並べられても、覚えられない。難しいことなんて何一つわからない。覚える前に、それが自らの役割だと押し付けられた。
 自分が座ることなど未来永劫ないと信じていた玉座。
「……兄王子殿下方は、皆様、身罷られました」
 だからその言葉の意味なんて、知りたくはなかった。兄たちは、今の王家に反対する貴族たちの策略で皆亡くなったのだと、幼いあまりにそれに対抗する術も持たなかったのに、今回に限ってただ一人兄たちと出かけなかった自分だけがこの国に唯一残された王族なのだと。まったくの偶然が産んだ僥倖だと大臣たちは涙を流す。
 いや、これは偶然などというものなどではない。
 暗殺された父と兄たちの死に目には当然会えず、子どもが見るものではないと、遺体にすら触らせてもらえなかった。死んだと聞かされ黒い棺桶だけを見送り、わけがわからないうちに物事が目まぐるしく過ぎていく。
「ヴィルヘルム王子殿下、いえ……セルヴォルファス国王ヴィルヘルム陛下」
 大臣の一人が跪いてヴィルヘルムに告げる。
「あなた様がこの国の王なのです」
 王様になったら。
「王様って……何」
 頬が生温い滴に濡れる。熱くて冷たくて気持ち悪い。それを拭ってくれる指は、もうすでに亡くしてしまった。
 ここに今残っている大臣たちは、貴族の謀反にも加担しなかった忠臣だ。わかっているのに、何の感慨も浮かばなかった。ただ胸に虚無の暗黒が落ちる。
「王様って、何? 王様になったら、何ができるの?」
 茫然自失として尋ねるヴィルヘルムに、大臣の一人が答えた。

 ――ヴィルはもしも王様になれたとしたら、何が欲しい?

 いらない。何も要らない。ただあの日々が戻ってくるなら、欲しいものなんてないよ。

「国王に、なれば」
「この国の全てが、あなたのものです。ヴィルヘルム様」
「この国の全ては、あなた様のお言葉一つに従います。何でも手に入るし、何だってできます。あなたに逆らえる者など、この国にはおりませぬ」
 ――王様になれば何でも手に入る。
 ヴィルヘルムはあの暗殺の直前、またもあの人と顔を合わせていた。黒い髪に黒い瞳の、美貌と言うには地味な、けれど端正で洗練された容姿の少年。若き帝国宰相。
 ――君は明日、お兄さんたちと出かけてはいけないよ。絶対に駄目だよ。大人しく留守番をしていなさい、ヴィルヘルム。そして僕からこう教えられたことを、出かけるお兄さんたちに言ってもいけない。いいね。ちゃんと言う事を聞くんだよ。そうすれば。
 きっといい事があると、ヴィルヘルムを抱き上げてハデスは笑った。
 ――やがて、全てが君のものになる。そう、この国の全てが。
 彼の予言ははずれない。確かにヴィルヘルムは全てを手に入れた。この国の全ての富と権力が一度に転がりこんできた。
 ヴィルヘルムのもともとの立場は第二十六王子。通常ではどんなに足掻いたところで玉座に手が届くはずもない。どうやったとしても国王になんかなれるわけがなかったのに、それはヴィルヘルムの手の中に転がり込んできた。預言者の言う事を少し聞いただけで、こんなにも容易く。
 人はこれを僥倖と呼ぶのだろう。
 人から見れば、ヴィルヘルムはこの上なく幸運な人間だろう。易々と玉座を手に入れどんな我侭でも叶えられる立場になって、他に継承者がいないから王位をこれ以上奪われる心配もない。後は適当に結婚なり妾を持つなりして後継者を作れば、全ては安泰だ。
 その言葉は、元はと言えば外交関係上知り合った吸血鬼の国の王子が言ったものだ。政治的なものは全て大臣たちに任せているとはいえ、今セルヴォルファスで正式に王族を名乗れる人間はヴィルヘルム一人。重要な会議にはどうしても顔を出さないわけにはいられないし、友好国との親善には気を遣う。彼らと同じ魔族の国でありながらさほど親交もなかったローゼンティアから送られてきた大使は、その国の第一王子でありヴィルヘルムより十一歳年上のドラクル王子。
 初めこそ兄たちと同じくらいの年齢の青年に感じたのは憧れと懐かしさだったけれど、そんなものはすぐに吹き飛んだ。彼がヴィルヘルムに教えたのは、悪い遊びの数々だ。せっかく国で一番偉い立場にいるのだから、好きなことをなんでもすればいいじゃないかと言って。
 服を脱いで闇の落ちる一室。ヴィルヘルムの顎をやさしくくすぐりながら、彼はやわらかく囁いた。
「幸せなんだね、ヴィルヘルム」
 幸せ? 幸せって何?
 ドラクルは、自分がローゼンティアの本当の王子ではないと、後ろ暗い遊びにヴィルヘルムを引き込む際にこっそりと教えてくれた。彼が本当はもらえるはずだった玉座は、彼の弟とされている本当は従兄弟である少年に、全て奪われてしまうのだと言う。こんなにこんなにこんなに努力しているのに報われないで、他者が全てを持っていく。だから、何の努力もなしに玉座と権力を手に入れたヴィルヘルムが羨ましいと。
 その声の響があまりにも哀しかったから、ヴィルヘルムは、ああ、彼は可哀想な人なんだな、と思った。
 そして自分の境遇。これを、人はこの上ない幸せと呼ぶのだろうと。

 ◆◆◆◆◆

 ぎりぎりと首を絞められる。殺す気はないようだ。ただ痛みと苦しみを与えたいだけの暴力に、戒められたこの身は晒される。
「……っ、……!」
 咽喉仏を圧迫する親指に呼吸を阻害されて顔が歪む。今の自分はきっと酷い顔をしている。
 ぱっと手を離され、一瞬の空白の後、ごほごほと咳込む羽目になった。
「はっ……はぁ……くっ!」
 気道を塞がれる加虐から解放され、ロゼウスはヴィルヘルムを睨む。
 ヴィルヘルムは熱しているのに冷めた瞳で、ロゼウスを見下ろしている。
 肩口の傷が痛い。
 ワーウルフの鋭い爪に切り裂かれた傷から血が流れ、力を奪う。吸血鬼の命は血だ。たいした怪我でなくとも出血量によっては命に関わる。その範囲が普通の人間よりも狭いのがヴァンピル。
 強靭なのに脆いという、矛盾した生き物。
 再生速度から言ってこの傷は命に関わることはないだろうけれど、死の淵に陥る前に下手をすると自我を失うかもしれないくらいには深い。血が、流れ落ちる。意識がそれに乗っているように、一滴一滴と零れおちていく。
 くす、と甘くヴィルヘルムが微笑んだ。
「ヴァンピルはよく人間の血が甘いなんて言うけど」
 傷口に顔を寄せて囁く。
「そのヴァンピルの血は、どんな味がするのかなぁ」
「ああっ!」
 ヴィルヘルムはロゼウスの肩の傷を舌で舐めた。傷を抉るようなその行為に、思わず苦痛の声が漏れる。
 ぴちゃぴちゃと、新たな血を噴出させるように舌で傷を弄る。
「あ……あ……」
「痛い? 痛いよね。痛いでしょう?」
 ふふふ、と歌うようにヴィルヘルムは笑った。ロゼウスの血で口元を濡らしながら。
 その酷薄な笑顔に、疲れたような諦めとなおも燃え滾る執念の焔が見える。
「可哀想だね、ロゼウス」
 傷口をわざと抉りながらヴィルヘルムが言葉を紡ぐ。
「本当はローゼンティアの王になる資格を持っているのに、それを奪われて転落しちゃった王子様。エヴェルシードに侵略されてシェリダン王に玩具にされて、今度は俺の元でこんな目に遭って、可哀想以外のなにものでもないよねぇ?」
 可哀想だ、可哀想だとヴィルヘルムは繰り返す。ああ、こんなやりとりを前にもしたような覚えがある。
「でも、元はと言えばお前がドラクルから全部持っていっちゃうから、それが悪いんだし。あんなに頑張って頑張ってでもお前が生まれた瞬間全部奪われることが決まっちゃったドラクルは可哀想。それにシェリダン王だって、子ども時代に父親から虐待されるわ、異母妹はさっさと敵に回るわ、裏切り者はいっぱいいるわで可哀想。狂気伯爵って呼ばれてたイスカリオットだって昔いろいろ何かあったみたいだし? カミラ姫はシェリダン王に何かされた恨みがあるんでしょ? それから侵略されたローゼンティアの民だって他の王族だってもちろん可哀想だし、帝国宰相のハデスだって、元はと言えばお姉さんである皇帝陛下から苛められてたんだから可哀想」
 可哀想、可哀想、可哀想。
 口癖のようにヴィルヘルムの口からはその言葉が飛び出る。頭が痛くなるほど、その単語ばかりを彼は繰り返す。
「なぁんだ、みんなみーんな、いろいろ可哀想なんだねぇ」
 アハハハハハ! と高らかに笑い声を上げた彼に、ロゼウスは言葉の刃を突き付けた。

「一番『可哀想』なのはお前だろう。ヴィルヘルム=ローア=セルヴォルファス」

 ぴたり、と。
 その瞬間、ヴィルヘルムの動きが止まった。獣の耳がぴんと毛を逆立てる。
「――なんだって?」
 壊れたカラクリのようにぎこちない動きで、ヴィルヘルムが組み敷いたロゼウスを凝視する。
「だから、可哀想なのはお前だと言ったんだ」
「馬鹿な! 俺のどこが『可哀想』だって」
「そういうところだよ、ヴィル」
「っ!」
 肩の傷に指を食い込ませて掴みかかってきたヴィルヘルムがまたも動きを止める。ロゼウスは傷を抉られる痛みに耐え、出血で朦朧とした意識の中で答える。乱れそうな呼吸を何とか繋ぐ。
「ドラクルが可哀想? シェリダンが可哀想? 俺が可哀想? 違うだろう、セルヴォルファス王ヴィルヘルム。本当に可哀想なのはお前だよ。ドラクルだって、シェリダンだって、俺だってカミラや他の皆だって、少なくとも逆境の中で自分の欲しいものを手に入れるために生きて、行動している。でもお前は違うだろう」
 灰色の瞳が極限まで見開かれてロゼウスを見下ろす。視線は不安定に定まらず、揺れるというよりも震えている。
「他者を『可哀想』だなんて言葉で貶めて、自分の痛みから目を逸らして人の状況より自分の状況がマシだと己で己を慰める。お前が一番『可哀想』だ」
 これはかつて、ロゼウス自身がシェリダンに言われた言葉だ。自分はドラクルを愛しているんだから傷ついているはずなんかないと首を振ったロゼウスの身体を強く抱きしめて、自らの傷口を直視しろと暴いた。荒療治だけれど、彼は確かにロゼウスを救ってくれた。
 けれど俺は……俺ではヴィルヘルムを救う事はできない。それを望みもしない。
 ロゼウスはこの憐れな少年の心臓に穿たれた傷を抉る。それはロゼウスの肩の傷を先ほど「この子」が抉ったより、ずっとよっぽど、痛いはずの行為だ。
「他人が『可哀想』じゃないと困るんだろう? ヴィルヘルム。そうでなければ、世界の皆が幸福であれば、お前自身が『可哀想』な子になってしまうから!」
「――うるさぁい!!」
 返された悲鳴に、ロゼウスは皮肉な笑みを浮かべた。それは自嘲に似ている。
 ヴィルヘルムのしていることは、一種の逃避だ。世界中の人間が可哀想であれば、自分は可哀想ではないと。
 そんなことじゃないのに。どんな相手にも不幸は降りかかるし同じように幸福は手に入る……ロゼウスがドラクルに憎まれ、シェリダンと出会ったように。
 ただ、『可哀想』の一言で済ませられる運命なんてどこにもない。
「……自分の想いに、素直になればいい。俺がお前に言えるのはそれだけだよ」
 ロゼウスだってシェリダンに言われるまで気づくことも治すこともできなかったことだ。自分はヴィルヘルムのことを全然知らないけれど、こんな言葉一つで簡単に癒せる傷じゃないぐらいのことはわかる。
 それでもロゼウスには、このぐらいしか言える言葉がなかった。これを聞かされたヴィルヘルムの方は。
「うるさい! お前の言う事なんて知るもんか!」
 ああ、やっぱり駄目かとロゼウスは今にも途切れそうな意識の中、倦怠感と共に思う。あの真摯な説得は体当たりで人にぶつかっていくシェリダンだからこそできることで、ロゼウスにはどうもそう言った方面での人徳や力は皆無のようだ。
「そんなこと、お前になんて言われることじゃない。お前に、一体何がわかるっていうんだ! 俺の何が!」
 ロゼウスのしたことはどうやら、燻っていた炎に油を注ぐだけのことになったらしい。ヴィルヘルムが涙目の顔に歪な笑みを浮かべる。
「俺が『可哀想』? ははっ! そんなはずはないよ、ロゼウス。可哀想なのは、可哀想になるのはお前だろう! お前でなければ、ならないんだ!」
 再び、寝台にこちらの身体を押さえ込む腕に力が込められる。
「そうだ……俺は、『可哀想』になんかならない。絶対に、なりはしない……だから」
 お前こそが、不幸になればいい。
 虚ろな灰色の瞳には、ロゼウスへの憎悪が映りこんでいた。