荊の墓標 26

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 誰かに、呼ばれた気がした。
「え?」
「シェ……シエル様、どうなさったんですか?」
 船の舳先で、隣に立っていたクルスが話しかけてくる。先ほど、耳にと言うよりは脳裏に直接届いたような声は、彼のものではない。
 吹き付ける潮風が心地よい。海の風などもっとべたついて鬱陶しいものだと思っていたが、こうして風を帆にはらみ疾走する船の上では、案外に気持ちの良いものだ。
「いや、何でもない……ただ」
 誰かに、呼ばれたような気がした。
「それって……」
 クルスの言葉は途切れ、甲板の奥の方から誰かが駆けてくる。
「おーい! 旦那方! 食事の用意ができましたぜ!」
「ああ。今行く」
 船員の一人に呼ばれて、シェリダンたちは話を中断して男の後について船内へと降りていった。焦げ茶色の木造の狭い廊下を歩く。城の廊下を歩くのとは違って始めはこの狭さに慣れなかったものだが、今では大体この感覚もつかめた。クルスもそのようだった。所詮シェリダンもクルスも環境には順応しやすい軍人だ。
 あのトリトーン港で海賊と一悶着を起こし、その結果手に入れた船でこうしてローゼンティアへの航海を続けている。シュルト大陸の外海を周り、海からローゼンティアへと赴く道だ。
 食堂へ向かうと、むさ苦しい海の男たちの集団と、その中に縮こまるようにして混ざっている元盗賊たちがいる。
「よう、坊ちゃん。今日の飯はポトフだぜー」
 シェリダンが決闘で勝ったことを理由に船員含めもぎとったこの船は、今ではいいように機能している。
シェリダンの目的はとにかくローゼンティアまでの航海だ。永住的な船長の座など興味はない。この期間だけ船を貸せといったら、決闘後の海賊たちは快諾してくれた。
「いや、それは……あんなものを見せ付けられたら誰でも逆らう気力を無くすと思いますよ……」
「あんなもの?」
「シエル様、鬼神のようでしたよ……」
「エヴェルシードの貴族以上の階級なら、あれくらいは当然だろう」
「まぁ、伊達に僕ら軍事国家を名乗ってませんからね」
 クルスは人のことを鬼か何かのように言うのだが、厳密に言うとシェリダンよりクルス自身の方が強い。向こうがシェリダンと稽古なり試合なりで剣を合わせようとしても無意識に手加減が入るのとは違って、敵と対する時のクルスは普段と別人のように酷薄だ。
「それに、ロゼウスは私より強いぞ」
 白銀の髪に血の色の瞳、白い面に薔薇色の頬をした愛しい面影を瞼に浮かべながらシェリダンは告げる。
 会いたい。無事な姿を見たい。名前を呼んで抱きしめ、あの声で名を呼ばれたい。一度考え出すと欲望が止まらずに焦燥は募る。軽口に紛らせて名前を出すとたまらなくなる。なのに、絶対に忘れる事ができない。
 しかし、そのためにも冷静になって、まずは自らの武力戦力を確保する事が第一だ。シェリダン一人ではドラクルどころか、あのヴィルヘルム王にすら勝てない。
 わかっている。知っている。嫌と言うほどに。ロゼウスの力で吸血鬼の能力を身につけたというカミラにさえバートリ公爵エルジェーベトが負けた。エヴェルシード王国一の剣士が。あの人外たちに対応するには、それなりの「力」が必要だ。今までシェリダンにとってそうであった玉座と権力すら、呆気なくカミラに奪われた。なれば一から、全てを作り上げ持っていたはずのそれを奪い返すしかないのだろう。
 そのためには、ローゼンティアに向かうしかない。エヴェルシードにはすでにカミラの根回しが入っているが、混乱に乗じた吸血鬼の王国でドラクルと直接対峙できれば……。
 全ての事態は、あの男が元凶なのだから。
 そしてロゼウスを取り戻す。
 思考に囚われそうになったシェリダンに、クルスの気の抜けた声が届いた。
「え? そうなんですか? でも、戦争の時はへい……シエル様が、勝たれたんでしょう?」
 ロゼウスの方がシェリダンより強いという話の続きだ。感心と半信半疑がない混ぜになったクルスの疑問に、シェリダンは注釈をつけてやる。
「酒場でロザリーを止めたこともある」
「でもあれは、暴走したヴァンピルを止めるのはヴァンピルならではの方法ってことですよね。それに王妃……じゃなくて、ロゼウス様、何か一時期弱ってませんでした?」
「ああ、それは……」
 それは、私が。
「……ヴァンピルには弱点が多いのだそうだ」
「銀とか十字架とか日光とか?」
「まぁ、そんなようなものだ」
 一時期、ロゼウスと険悪になったことがある。一時期も何も元から親しくなる要素がなかったと言われればそれまでだが。だから、鎖で繋いで閉じ込めた。
 自分の行為を正当化しようとは思わないが。あれの魅力は魔性だとも思う。一度目に入ったらもう視線を逸らす事ができない。どうしても欲しくて、手に入れたくなる。
 離れているのが不安で、今頃セルヴォルファスでどうしているのか、まさかあのヴィルヘルムに良いようにされているのかと思えば、気が狂いそうになる。
 荒れ狂う心を無理矢理鎮めた。
「ロゼウスは強い……だが、ムラがある」
「ムラ?」
「ああ。ヴァンピルとはもともとその強大な力を制御するために身体能力を精神性で押さえこんでいるような生き物だが、ロゼウスは特にその傾向が強い、らしい」
 スプーンを加えながら説明を続ける。
「……その情報、誰から」
「ロザリーだ。ロゼウスを除けば、あれと一番会話をしているからな。酒場の時のことが顕著な例だろう。まさかあんな女に簡単に殺されかけたとは不覚だ。しかしいつもあんなに全力では、日常生活を送れないだろう。硝子のコップなど持った瞬間に割れる。そのためにヴァンピルは自らの力を自らの精神で制御するという働きが強いのだと……クルス?」
「そう……ですか」
「クルス、まさかお前、ロザリーが好きなのか?」
 クルスが料理を噴いた。真正面で話をしていたシェリダンではなく、隣にいた海賊の一人に被害が行く。主君であるシェリダンに非礼をおかさないところは臣下の鑑だが、被害者にとってはいい迷惑だ。
さらには椅子を蹴倒し、彼は立ち上がった。いきなり動いたために、狭い船の食堂内で背中合わせの背後の席にいた海賊の一人にそれが直撃し、悶絶している。
「痛ぇ!」
「何するんだよ坊ちゃん!」
「ああああごめんなさい! って、シェリダン様!」
「その名で呼ぶな」
「でででででも!」
「どもり過ぎだぞ、クルス。何をそんなに動揺している。私は気にしないぞ? いっそ全てが終わったら、結婚でもさせてやろうか? お前たちなら家柄と身分もちょうど釣り合うだろう?」
「そ……そ、そんなこと!」
 真っ赤になって、それからふと冷静になって、クルスはこう言った。
「いえ……あの、僕に関しては、別にいいです。だってロザリー姫の好きな方は……」
 クルスが意味ありげにシェリダンを見て、そうして躊躇ってから、胸元に入れている何かを握り締めて言葉を変える。
「……僕のファム・ファタルとはすでに出会いました。他の誰をも、愛する事はありません」
「そうか」
 ようやっと事態が落ち着き、クルスも席に着きなおす。周りで食事をしていた海賊たちは、一様にほっとしたような顔で食事を再開した。そもそも事態を見守るようなことをしなくてもいいのだが。
まぁ、国王として人に見られることが多かったシェリダンも貴族であるクルスもそんなことは気にしないから別に構わないが。
「……私たちは、何の話をしていたのだったか?」
「ええと……そう、ロゼウス様の話ではありませんでしたか? 強さにムラがある、と」
「ああ、そうだったな。ロゼウスの強さは、その時の気分によってムラがある。だいたい戦う者は誰しもその時の体調や状況、気分の高揚や他に気にかかることなどによって実力の増減があるが、ロゼウスの場合はそれが本当に大きい。吸血鬼はそもそも普段は無意識のうちに自分の力に制御をかけていて、普通の人間の力を大幅に越した力は出せないようになっているらしい」
「……ローゼンティアが滅ぼされるその瞬間でも?」
「ああ。そういうものらしいな。だから吸血鬼は長い間吸血ができないと、人格が変わって凶暴になると言うのだろう。生死に直結してようやく制御が外れるんだ。中には意志の力でその制御を完璧にこなせる者もいるらしいが」
 シェリダンが知る限りの中では、ドラクルがそれだとロザリーは言った。だからこそ彼は優秀だと一目置かれていたのだと。しかし今ではわからない。実際は王の血を引いていないというドラクルは、そうでもしなければ国の中枢に立てなかったのだろう。だからこその苦肉の策。
 一方ロゼウスは、自らの力の制御と言う面にかけては恐ろしく下手らしい。もともとの力が飛びぬけていて、普通にしていても人間の国ならば上位者に入るほどの剣や武術の腕前があるからさほど困らないそうだが。だが、それはある一つの事実をも意味する。
「では、もし、何らかの理由によって、ロゼウス様の心の箍が外れ、力の制御があの方の意志とは別のところで行われるようになったら、もしくはロゼウス様が自らの力を完璧に使いこなせるようになったら」
「ああ、そうだな」
 クルスもシェリダンと同じ結論に辿り着いたようだ。
 ロゼウスの力が制御なしで解放される、つまりそれは、吸血の渇望か、そうでなくとも何らかの理由によって、彼が狂気に陥った時。
「その時は、この世にロゼウスに敵う者などいなくなるだろうな」

 ◆◆◆◆◆

 白い海鳥たちが頭上を飛び交う。凪に入ると情けなくしなだれた帆の周りを旋回し、彼らは翼を休めている。
 海は青く煌いて、波が白い光を反射する。遠い緑の上で魚が跳ねて、小さな飛沫が見えた。
 そしてそんな光景を見ながら、シェリダンは苛々していた。
「シエル様……天候のせいなんだから仕方がありませんよ」
「ああ。わかっている。わかっているとも、クルス。だがこの遅々とした進み具合に、我が心がささくれ立つのは止められない」
「ええと……何か気分転換でもします?」
「気分転換も何も、何もないだろうこの船は」
「えーと……まあ、そう、ですよねぇ」
 クルスもついには言葉を止めた。二人同時に、深い溜め息が漏れる。
 凪に入ってしまえば、帆船は進むことができない。人数もそれほどはいないこの船で、人力で漕いで進もうにも一日二日の凪程度で無理矢理体力を使うのもいただけない。凪はあまりにも長く続くようなら問題だが、海賊などもともと海の上が塒だという。長期の航海を基本として作られそれだけの物資が積まれていれば、一日程度その場に留まったところで大きな問題は無い。
 問題は無いが、暇だ。
「いっそ他の海賊でも襲ってくれば、軒並み倒して漕ぎ手として奴隷にした後用済みになったら海に落とせばいいのにな」
「そうですね。でも、ここの船以外もこの凪で留まっているでしょうから、そんな人たちも訪れないでしょうね」
 シェリダンたちが言葉を交わすたびに階下が騒がしくなる。シェリダンとクルスは船の甲板の上部と下部の間、船内においては天井となる床の上からもう一段高く作られた階段のような部分に腰掛けているのだが、下の段は海賊たちが働きまわっている。デッキの掃除をしながら、男たちが「マジかよ! あの坊ちゃんたち!」
「どこまでおっそろしいんだ。普通海の上で戦闘になるなんて命懸けだろ? うちみたいな大所帯だって、歓迎はしねぇぜ」「しかも用が済んだらさっさと海を棺桶にしろたぁ、並みの悪党でもそんな台詞吐けねぇよ!」「もう一人の大人しい面の坊主も侮れねぇ。普通にスルーしてそんな良い獲物転がってねぇって意味合いのこと言ってんだぜ!」聞いたところで面白くもないので後は割愛しよう。
「せめて高いところからでも、何か見てみるか? クルス」
「見張り番をするんですか? シェ……シエル様が? でも、今のところどこを見渡しても海が青いばかりで……ん?」
「どうした?」
「あれ……なんでしょう?」
 クルスが何かに気づいたと同時に、船の周辺にも不審な現象が起き始めた。
「……霧が出てきたな」
 凪のせいで船は一歩も動いていない。いや、船なのでその言い方はおかしいが。だが海上で微動だにしていなかったのは事実だ。それなのに辺りは霧に包まれ始めている――こんなに晴れているのに?
 空が翳るでもなく唐突に立ち上った霧に船は完全に包まれ、霧のせいで空気が灰色に暗く見える。
「視界が利きませんね。これでは……」
 クルスが念のために、と腰の剣に手をかける。だが迂闊に動けば味方をも斬ってしまいそうな視界の悪さだ。何も見えない。
「おい! 船長!」
 自分たちは航海に詳しくない。こういうことは本職に聞いた方がいい。シェリダンは剣を握っていない方のクルスの手をきつく握り、船長が勤める操舵室へと向かった。
「おや、エヴェルシードの坊ちゃん」
「船の周辺にこの晴れ晴れした真昼間に霧が出てきた。外の様子は明らかに怪奇現象だ。これはどういうことだかわかるか?」
 髭面の船長は、シェリダンたちを認めて困ったような顔をした。地図や海図、羅針盤に……よくわからない道具が乱雑に置かれた操舵室で、彼に詰め寄る。
「困ったことになっちまったんだ」
「やはりこれは不測の事態か? これまでの凪はこの前触れ」
「いや、あれはたぶん関係ねぇ、と思うけどよ。たぶん俺たちは捕まっちまったんだ」
「何に? この船の位置からさほど離れていない島々に住むという人魚にでもか?」
 実際に今のシェリダンの知識で思い浮かぶのはそんなことくらいだ。もう少し先に、人魚の入り江と呼ばれる地区がある。しかし目的地がローゼンティアである以上、今のシェリダンたちには用のない地域だ。人魚は上半身が人間、下半身が流麗な魚の姿をしているという、美しい魔族らしい。だが、この地上においてロゼウス以上に美しい存在もないだろうし、残念ながら興味はない。
 それよりもシェリダンたちを足止めするこの霧。
「いや、そういうことじゃねぇ。確かに時々悪戯好きの人魚に船をひっくり返されそうになることもあるが、今回はそういうんじゃねぇ。人魚は大体嵐の時に姿を見せる魔族だしな」
「では、なんだ」
 船長の説明は微妙に要領を得ない。何かを口にしたくなくて本題を避けているようだ。だがシェリダンをはぐらかそうなど、いい度胸だ。
「三秒以内に答えぬと、海に叩き落と――」
「うわぁああ! 待ってくれ! 言う、言うから! ……俺たちは呪われちまったんだよ!」
「「は?」」
 突拍子もないその言葉に、シェリダンとクルスの疑問符が被った。船長の傍らに今まで影薄く控えていた航海士も、肩を竦めている。
「だから、こういった突然の霧は海の呪いの一種なんだって! 俺たちは、始皇帝様の恨みを買っちまったんだよ!」
「始皇帝だと?」
 船長が頭を抱えて叫ぶ中、また新たな一人が操舵室の扉を開いた。
「船長!」
「今度はなんだ!?」
「変なものが現れました!」
「意味がわからねぇ! もっと詳しく!」
「変なものがいきなりバッと現れたんです!」
 こんな場面で何をコントを繰り広げているんだと思ったが彼らは大概大真面目だった。下っ端海賊の一人が酷く慌てた様子で、船長の腕を引いて操舵室の外、甲板へと連れて行く。
「何だぁ? 何があったってんだ?」
「あれ見てくださいよ! あれ!」
 状況を理解するには、この船の最高責任者についていくのが懸命だ。シェリダンたちも彼らの後に続いて、先程四方を霧で閉ざされてしまった視界に何が突然顕現したのかと様子を見に行く。
 そして大口開けて絶句する羽目になった。
「……なんだ、あれは」
 霧の向こうに、灰色の岩窟が口を開けている。
 殺風景な感覚を起こさせるほどに味気のない岩の洞窟なのに、よくよく見れば細部には細かい装飾が施されているのもわかった。何か、酷く意味ありげな。
 一番目立つ入り口の上に描かれた紋章は、どこかで見た事がある。だがどこで見たのか思い出せない。薔薇を模したようなあの図形、どこかで……
「……どうやら俺たちは本格的に、招かれちまったようだな……怒れる海の支配者に」
 しかしシェリダンが何かを思い出す前に、がくり、と肩を落とした船長が、悲壮に呟いた。

 ◆◆◆◆◆

 ――俺がお前を解放してあげるから。大丈夫。お前の願い『も』ちゃんと叶えてあげる。最終的にはちゃんとあのエヴェルシードの少年を与えてあげるから、だからしばらくそこで大人しくしていてよ。
 ――眠っていればいいんだよ。ロゼウス。そうしてお前が目覚めた暁には、きっとお前の望みどおりの世界が広がっているから。
 ――そ、そんなの……
 ――できるよ、俺なら。だって俺は――。
 告げられた名前は、絶望的なもので、ただそれだけの威力で、あらゆる謎も疑惑も封殺した。
 勝てない。敵わない。俺の力では。
 その存在に、勝てるものなどいない。どうして、そんな存在がここにいて、俺に向かって囁く? やめてくれ! 俺から、「俺」であることを奪わないでくれ!
 全感覚全神経、この身体の細胞の隅々まで、余すところなく乗っ取られる感覚に慄いて、声にならない声で唯一の人の名を呼ぶ。届かなくても。
 シェリダン――。

『では、もし、何らかの理由によって、ロゼウス様の心の箍が外れ、力の制御があの方の意志とは別のところで行われるようになったら、もしくはロゼウス様が自らの力を完璧に使いこなせるようになったら』
『ああ、そうだな。その時は、この世にロゼウスに敵う者などいなくなるだろうな』

 そして、望みは叶わない。

 ――憎みます。あなたを。恨みます。私からあの方を奪ったこと。
 ――サライ、俺は……。
 ――言い訳など聞きません。私の夫を、愛する人をあなたは奪った。その事実は変わらない。変えられない。だからあなたは、――として生きなさい。

 ――これは呪いだよ、ロゼ。俺を殺すお前への。
 ――そうだよ。それだけの年月を、お前は世界のために生きるんだ。《帝国》のために その命を捧げろ。俺を憎みながら。
 愛しながら。

 だからお前は、俺になるんだ。

 遺跡の中に足を踏み入れ、湿った洞窟内を歩いた。霊廟じみたその最奥で、思わぬ人影と出会う。華奢な細い姿。夜明けの紫の瞳に長い銀髪の美しい娘。
「――サライ?」
 気づけば音は言葉となって唇から零れ落ちていた。彼はハッと口元を押さえる。何故、自分は今何故そんなことを思った? 言った?
 サライとは女の名前だ。つまり、目の前の少女の名前ということか。彼の言葉を聞いて彼女は薄く微笑んだ。
「シェリダン様?」
 クルスの訝りの声にも答えられない。自分は何故そんなことを知っている? ただ、言葉が、自分のものではない想いが胸の中に溢れてくる。
 少女が優しく残酷に、彼にに向かって呼びかける。
「お久しぶりですね。ロゼッテ=エヴェルシード。いいえ、シェスラート=エヴェルシード陛下と呼ぶべきかしら?」

 初代皇帝、始皇帝はエヴェルシード人であることは知られている。
 かの人の名前は、シェスラート=エヴェルシードというはずだ。

 ――眠っていればいいんだよ。ロゼウス。そうしてお前が目覚めた暁には、きっとお前の望みどおりの世界が広がっているから。
 ――そ、そんなの……。
 ――できるよ、俺なら。だって俺は――。
 シェスラート。
 我が名はシェスラート=ローゼンティア。
 
 さぁ、やりなおそう。この悲劇。
 さぁ、塗りなおそう。偽りのディヴァーナ・トラジェディアを。