荊の墓標 26

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 そして、望みは叶わない。

「ん……」
 重い身体がずきずきと疼くのを感じて目が覚めた。
 肌には誰かの温もりが触れている。
「ぅ……ロゼウス……」
 上半身だけ起こして寝台の上を見てみれば、白い肩をさらして、背中合わせのようにしてロゼウスが眠っている。こちらに顔を向けないその姿勢が無性に寂しくなって、ヴィルヘルムはそのむき出しの肩に手をかけた。
「ロゼウス……起きて。ねぇ、起きてよ」
 寂しい。
 その綺麗な顔が俺を見ないのは。
 その紅い瞳が俺を映さないのは。
 寂しい。
 ロゼウスがシェリダン王に向けていた眼差しが、あのドラクルに対するよりも暖かくて、幸せそうで、気安くて、何かとても良いものだったということを、知っているからなおさら。
 ――王様になれば、この世の全てが手に入る。
 ヴィルヘルムは敷布に皺を作るほどそれを掴んで、かつての教えを反芻する。王様に、なれば。
 本当に、全てのものが手に入るの?
 ロゼウスはヴィルヘルムを見ながら、いつもヴィルヘルムを見ていなかった。ヴィルヘルムの先にいる誰かを見ていた。それは敵としてのドラクルでもあり、あるいは今は遠く引き離されたシェリダン王なのだろう。
 それがむしょうに悔しかった。
「ね、ロゼウス……起きてよ」
 まだ白い肌に残る鬱血痕、頬には涙の流れた筋。ヴィルヘルムを拒絶する背中。肩口の傷はもう癒えたみたいだけれど、よくよく見ると毛布にその部分を濡らしていた血が移っていた。
 感情の制御ができない子ども、城の中で、そう陰口を叩かれているのは知っている。あんなお子様のお守りをせねばならない大臣たちが可哀想だ。そう、誰からも蔑まれていることを知っている。自分は誰にでも嫌われている存在だ。
 でも、でも、どうかお前だけは。
「嫌わないでよ……おいてかないで。どうか、俺を、好きになってよ……」
 誰か、誰かどうか。
 俺を好きになって。嫌わないで。どこにもいかないで。消えないで。
 どうか、どうかどうか。
 祈りに応えるかのように、ロゼウスの睫毛が震えた。白い瞼がゆっくりと開かれ、紅い瞳が現れる。身を起こす。
 現金なもので、そうして彼が目覚めてしまえば、言葉にならないヴィルヘルムの不安はパッと吹き飛んだ。
「ロゼウス」
 寝起きの身体に縋り付けば、普段は鬱陶しいと嫌がるのに、彼は今日は微動だにせずヴィルヘルムの身体を受けとめた。
「……?」
 おかしい。何の反応も返らない。
 まさか、ヴァンピルは人間より頑丈だからとさすがに肩に大怪我を負ったあの状態で行為を強要したのは無茶だったか? そんなに負担が大きくて一晩立って傷が治ってもまだ調子が戻らないと言う事か。
 悪い想像にザッと音を立てて血の気が引く。けれど、その頃になってようやくロゼウスが動いた。上半身を起こしても力なくだらりと身体の横に下げたままだった腕を上げる。左手がヴィルヘルムの背中に回され、もう少し上がって、髪を撫でた。
 そして右手は俺の左頬に。
「ろ、ロゼウス?」
 紅い瞳がひたと俺を見据えてくる。そして静かに瞼が下りた。
「え……」
 ふわりと柔らかな感触が唇を覆っている。
 口づけられた、と気づいた瞬間には、もう濡れた舌が滑り込んでいた。絡みついて吸われる。気持ちいい。でも、でも。
(なんでっ!?)
 なんでいきなりロゼウスから接吻を? だって、ロゼウスは俺をどうとも思ってない。むしろ、憎んでいるはずだろう? なのにどうして。
「ん……んぅ……ふ……」
 唾液を零して、舌を絡めあう。敏感な口の中の粘膜をあますことなく堪能し尽くそうとでも言うような、深い口づけ。それだけで、背筋にぞくぞくと快感の震えが走る。
 それでも何故だろう、嬉しいはずなのに、酷く怖い。
「は……」
 ようやく解放された時、ヴィルヘルムは息も絶え絶えだった。情けなく舌を垂らして酸素を貪り喘いでいると、またふわりと、白い指が頬に触れた。信じられないほど優しい手付きで、肌を撫でる。
「ロゼウス……」
 それに誘われるようにして、ヴィルヘルムは顔を上げた。
 ロゼウスは美しく微笑んでいる。
 けれどその笑顔を見た瞬間、ヴィルヘルムの中で何かが大きく警鐘を鳴らした。どくん、と心臓が跳ねる。
 違う。これは違う。
「――誰だ、お前は」
 言った瞬間、これまでとは構図が逆転してヴィルヘルムは天井を見ていた。その視界に、ひょい、とロゼウスの姿をしたその『誰か』が映りこむ。
「おかしなことを言うね。ヴィルヘルム。俺はお前の知っているロゼウスだろ」
「違う……違う! 違う! 誰だよ、お前は!?」
「だから、ロゼウスだってば」
 おかしい。なんだこれは。ヴィルヘルムはロゼウスに肩を押さえ込まれるようにして寝台に縫いとめられている。片腕一本で。
なんで、なんで振りほどけない! これまでは確かに、腕力は俺の方が上だったのに!
「離せ」
「どうして?」
「離せ!」
「俺が好きなんだろ? ヴィル」
 違う。ロゼウスはこんなこと言わない。こんな人じゃない。
 ――……自分の想いに、素直になればいい。俺がお前に言えるのはそれだけだよ。
 昨夜かけられた言葉を思い返す。あの言葉に込められた意味を、ヴィルヘルムはまだ見抜けなかった。わからなかった。今更涙が込み上げる。
 目の前で自分を押さえ込んでいる男は、自分が知っているロゼウスじゃない。
「いやだ。返して。ロゼウスを返してくれ! 俺が好きなあの人を!」
 目の前の少年……いや、身体はロゼウスだけれど、浮かべる表情はもっと大人びたものだ。彼は怒りも喜びも、蔑みも憐れみも何も返さずにただ微笑んでいる。
 ヴィルヘルムは初めて、この人を怖いと思った。

 ◆◆◆◆◆

 雨が降り始めた。
「……始皇帝の、涙」
 ジャスパーは空を見上げる。灰色の曇り空から水の矢が降ってくる。ざぁざぁととめどなく降って、彼の顔を濡らす。
 髪を飾る宝石の台が錆びてしまいそうで、慌ててそれをローブのフードで隠した。
「待ってて。ロゼウス兄様」
 無意識に腰を撫で、紅い薔薇模様の紋章が浮かび上がっている辺りに触れながら呟く。兄様。大事な兄様。自分はあの方のために生まれてきた。
 頬に当たる雨粒は鬱陶しくて、一度目を閉じた。もう一度開いた時、視界広がったそらの一面の灰色が、瞳みたいだな、と思った。ああ、確か僕がこれから向かうセルヴォルファスの民は、こんな瞳の色をしているのではなかったっけ。
 泣いているのはセルヴォルファス。
 そして泣かせているのは……
「誰なんだろうね」
 身体の奥から楽しい気持ちが込み上げてきて、ジャスパーは哄笑をあげる。
 雨は絶え間なく降り続け、ジャスパーが殺して地面に打ち伏した盗賊たちの血までも、綺麗に洗い流していった。

 《続く》