荊の墓標 27

第11章 薔薇の覚醒(1)

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「ええ。そう。いいの。そちらはそのように。こっちはちょっと放り出してた仕事が立て込んじゃって、しばらく動く予定はないから」
 皇帝領の居城、執務室。書類の山を前に、デメテルはそう言った。吊り上った口元は、遠い異国で過ごしている相手には見えないはず。彼女は何を考えているのか悟らせず、この会話を終わらせればいい。
「ええ。そうよ。ハデスは今気配が感じられないから、きっと冥府に潜っているのでしょう。駒が一枚盤上から落ちてしまって、もう一枚はもうすぐ撃破される」
 運命は巡る。
「……期待しているわよ。ええ。あなたは何もせずただそこにいらっしゃい。それだけでいいのよ。そうでなければ私は困るの。困るからあなたに手を貸しているの……ハデスと同じことを言うって? ええ。そうでしょうね。きっと、でも、あの子にはまだ先が見えていないの。だから私がこうしているんじゃない」
 自分は、その運命を止める。
 会話の向こうで、相手以外の人の気配がした。きっと彼の側にいつも大人しく控えているあの女性だろう。彼女の思想も強烈なものなのに、彼はそのことに全然気がづいていない。
 皮肉なもの。愚かなもの。滑稽なもの。人間と言うものは。
 自らが盤上の世界を全て知り尽くした神のように驕りながら、背後からの強襲にいずれは葬り去られていく。全てを見通せる者などいない。この自分でさえ。
 皇帝の座。
 それに固執するわけではないが、デメテルが見た未来が真実ならばこの座を渡すわけにはいかない。そのためにハデスがどんな手を打ってこようとも、デメテルは負けるわけにはいかないのである。
 その自分の心の動きさえ、誰かに誘導されたものであるとしても。それでも選ぶのは自分だ。全ては自分の意志。自分が幸せであろうとするそのための選択ならば、そこに限りなく他者の介入があろうとも後悔などするはずがない。
 最後の一割までお膳立てされた舞台でも、そこで踊ると決めたのは己なのだから。
 舞台の上で踊る主役たちは、皆その懐に刃を隠し持っている。偽物ですよ、そう教えて与えられた真剣の威力を知らないままに、王子様の胸にお姫様は剣をつきたてようとし、そのお姫様を魔法使いは殺そうとしている。真実と偽物の演劇の境目がつかないまま、このままでは共倒れ。
 デメテルが見た未来は、歓迎できないものだった。しかも予知はそこで途切れている。つまり、デメテルにはその先の未来が与えられていない。彼女はそこで死ぬ。自分がそうなった場合に何故死ぬのかもわかっているから、なおさら運命を変えざるを得ない。そのためならデメテルは、神にだって反逆してみせる。
「健闘を祈るわよ。維持と言う名の難題をぜひ達成してみせなさい」
 意地悪く通信の向こうに囁けば返される皮肉。維持に達成などない。永遠に継続するからこその維持だと向けたそのままを返される。
 さすが、その維持に失敗したお方の言葉には実感がありますね。せいぜい参考にさせてもらいますよ、と。嫌な男だ。
「デメテル陛下」
 部下が入ってきて、話は終わった。帝国宰相がどこぞにやんちゃをしに行っているせいで、皇帝の仕事が増えて困る。愚痴を漏らせば、部下は渋い顔をした。ですから、弟君というだけで帝国の重役につけるのは反対だと、百年前に申し上げました。聞き飽きたお説教だ。
 皇帝デメテルは世界に召し上げられたその日から、こうして神に反逆している。
 ハデスの――デメテル自身の父親を殺し、その選定紋章印を彼の腕に移した、その日から。

 ◆◆◆◆◆

「ドラクル」
「ルースか。どうした?」
 同父妹が玉座のある謁見の間に入ってきた。背後でその気配を知り、ドラクルは振り返らずに名を呼ぶ。
「いいえ。特に用はないわ……反対勢力の貴族たちはみんな殺したし、ノスフェラトゥの処理もつけた。国家としての政務で滞った箇所はなく全ては一段落しています。ただ……あなたの、姿がなかったもので」
「私にだって休憩の時間くらいはあるよ」
「ええ。ですけれど……」
 この妹は、いつも妙なところで言いよどむ。人心を操り、これまで幾人もの敵も、表向きの味方も、両親と兄妹さえ破滅させてきたドラクルにもこの妹の考えだけは時々読めないことがある。だが、参謀はそのくらい強かである方が都合がいい。
 ルースがいつ自分を裏切るかは定かではないが、その時までせいぜい働いてもらうことにしよう。
「この場所で……こんなところで、一体何をしていらしたの?」
 ドラクルの目的にはこの場所が都合が良かっただけだが、本当のことを言うわけにもいかない。ただ、もっともらしいことを言って妹の追及をさける。
「玉座を見ていた」
「あなたの玉座?」
「ああ。そして父上の玉座だった場所だ」
「……先代ローゼンティア国王、ブラムス=ローゼンティア。ロゼウスの父親であり、私とあなたにとっては本来叔父に当たる、義理の父親……我らが父フィリップ=ヴラディスラフ大公の兄……」
「ああ。そうだ」
 もっともらしいと言っても、これは本音だった。何かを誤魔化そうと気構えたところでするりと口から出るのはやはり本音でしかないのか。ルースが柳眉を潜める。彼女の憂い顔はいつものことで、兄妹の中でもそうそう気にする人間もいない。
「あの男も、もういない。我が父も。母も。お前の母、正妃クローディア=ノスフェルも、ライマ家やテトリア家の王妃殿下も」
「みんなみんな、私たちの策略で殺したのよ」
「ああ。そうだ。……ルース、メアリーの様子は?」
「まだ部屋で落ち込んでいるようよ。あの子は自分の意志であなたにつくと決めたわけではないのだから。アンとヘンリーが面倒を見ているわ」
「その二人に関しては?」
「概ね平常どおりね。変わりきった城の中の様子に何か感じるところはあるようだけれど、今更それを口に出して落ち込むほどあの二人は子どもではないのだから」
「そうだな」
「ああ。でも……ヘンリーとカルデール公爵の間は、まだ微妙なようだけれど。公爵、よりにもよって二人の身柄を押さえている時に、アン姉様にちょっかいを出したようなのよ」
「そりゃあ……ヘンリーは立腹するだろう」
「ええ」
 各役職の人員の動向などは、仕事の時間になったら話せばいい。今は連れて来た元兄妹たちの話を聞いてこの時間をやり過ごす。
 沈黙は嫌いだった。彼は、彼を虐待していた先代国王、ブラムスがドラクルをひとしきりに責め苛み弄んだ後、何も言わずただ複雑な面持ちで彼を見つめているあの沈黙の時間が一番嫌だった。血の散る寝台の上、意味の見出せない無為な時間を過ごすたびに心が軋んだ。
 言いたい事があるならば言えばいいのだ。黙って何か言いたげにされる方が余程気分が悪い。
 ルース、この妹にもそんな風に思えるところがあるが、彼女のそれは厳密に言うと少し違う。彼女の面持ちはいつも遠慮深く何か言いたげな「繊細王女」とされているが、実のところさほど繊細でもか弱くも何でもないことを知っている。ずっとそばにいたのだから。
 ……妙な話だ。愚かな感傷だ。何の意味もない。何の意味にもならない。
 謁見の間、玉座の間であるこの部屋に足を踏み入れ、今はようやく自分のものになった玉座に座るわけでもなくただ見つめているだけだなんて。大理石の床に、窓枠に絡みついた薔薇の影が落ちている。美しき城。美しきローゼンティア。なのに、何故自分はいまだ満たされないのだろう。
「ドラクル」
 兄の隣にまでやってきたルースが細い手を伸ばし、ドラクルの手を握った。儚げな容貌が彼を見上げるがその瞳にはなんの葛藤もない。いつも何か言いたげな風情のくせに、結局彼女は何を伝えたいわけでもないのだ。彼女の想いはただそこにあるだけで誰に伝わるわけでもない。
 そう言えばドラクルはこの妹の口から、誰か好きな男の話を聞くことも、匂わされることもなかったとふと思う。自分とルースの関係を思えば当然かもしれないが、別に誰の名を出されたところで咎めるわけもないのに。
 ああ、この距離こそが、自分が選び取り積み上げたものと言う事か。全てを手放してまたもう一度手に入れるために。なんだって切り捨ててきた。
 ふと目を閉じると、瞼の裏に白い面差しが浮かぶ。ドラクルに良く似ていると言われたがやはり違う弟の顔。眼差しの重さもその笑顔の儚さも鮮やかに思い浮かべることができる。
 ロゼウス。
 全てを切り捨てたドラクルの中で、まだこんなにも大きな存在。彼を憎むことで正気と狂気の境目のこの精神を保ち続けたドラクルの心の中、ロゼウスの存在はあまりにも大きすぎる。失っては自分を支える憎しみが崩壊して生きてはいけない。だからドラクルは、彼を望む。
「ロゼウスを」
「え?」
「ここまでの下準備は完了した……後は、ロゼウスを手に入れるだけだ」
「……ええ。そうね」
 ロゼウスを憎む、ただそれだけでドラクルの心はこの十年以上支えられてきた。
 だからこれからもずっと、私にお前を憎ませろ、ロゼウス。私の墓標たるお前には、我が隣こそ、永遠の墓場としてふさわしい。
 用済みのシェリダン王などもういらない。
「ルース」
 ローゼンティア簒奪こそ順調に終わったものの、やはりこれだけ大掛かりなことをすると疲労が募る。身体的なものはもとより、精神的に酷くささくれ立つ、苛立ちをぶつける相手は、いつも決まっていた。ロゼウスには憎しみを。けれど、ドラクルが機嫌を下降させるたびに向かったのは。
「ドラクル」
 ルースは華奢な腕をドラクルの背中に回す。桜色のその唇に、口づけを送った。
 そして彼は妹の身体を冷たい石床に横たえ、その服のリボンを解き始めた。