荊の墓標 27

153*

 これは夢だ。
 きっと、そうに違いない。そう思う。ヴィルヘルムは、そう願う。
 これは夢だ――何より酷い、悪夢だ。
 降ってくる笑い声も、優しく触れる指先も。
「ろ……ロゼ、ウス?」
 くすくす、と笑い声が降ってくる。声は同じなのに、その軽やかさは違う。ヴィルヘルムが今までロゼウスと呼んでいた人は、今、この場所にはいないようだ。彼の顔をした何者かがそこにいて、自分に触れていて、けれど、本当のロゼウス自身はどこに行ってしまったのだろう。
 ヴィルヘルムは今、彼にいとも容易く寝台へと押さえつけられている。今まではまだ、人狼族であるヴィルヘルムの方が力が勝っていたのに、そんな事実など最初から嘘だったかのように軽々と。
「ロゼウス? ……ロゼウスは?」
「何を言ってるの? ヴィル。俺は、ロゼウスだよ」
 そう言って、彼はふわりと、羽のようにヴィルヘルムの唇に口づける。頑是無い子どもにするように、それで弱々しい問いかけを封じようとした。
「ロゼウスは……」
「そんなことより」
 ヴィルヘルムの言葉を遮って、彼はまた口づけを送る。
 紅い、紅い、極上の鳩の血色の瞳が自分を覗き込んでいる。
「久しぶりの身体なんだ。感覚掴むためにも、気持ち良いことをさせて? お前で、この身体の使い心地を試させてよ」
「久しぶりの身体……? 使い心地……?」
「そう……でも、お前は何も気にしなくていいんだよ。ヴィルヘルム。ただ俺に全てを任せていれば」
「ひィッ……ああぁッ!」
 言い聞かせるような言葉の終わりと同時に、彼の手がヴィルヘルムの中心を強く掴んだ。服の上からまさぐられて、びくん、と身体が勝手に反応する。
 くすり、とまた一つロゼウスが笑った。
「可愛いね。ヴィル。犯す事はできるくせに、犯されるのは慣れないんだ?」
「犯さ……」
「そうだよ。今、俺に抱かれるのはお前だよ」
 そう言って彼はまた、笑いながらヴィルヘルムの身体に触れた。
「んぁあ!」
 シャツに透けていた胸の突起を強く握られて、苦痛の声があがる。服の上から強く弱く揉み解す手の動きに、痛みとも快感ともつかぬ感覚が襲う。
 早くもあがり始めた息を、このまま主導権を向こうに預けたまま弄ばれないようになんとか整えようとしていれば、それよりも向こうの行動の方が早かった。
 ビリッ、と音を立てて衣服が破かれる。上も下も、脱がされるなんて生易しい言葉ではなく、絹の裂かれる音が響いた。
 頭から血の気が引く。眩暈のような感覚に襲われる。
 俺は今何をされている?
「ロゼウ――んっ!」
 がたがたと震えながら彼の名を呼ぼうとすれば、三度その唇を唇で塞がれた。今度の口づけは深く、口腔内の敏感な粘膜を刺激する。
 舌を絡めて強く吸われ、ほんの少し痛い。焦りと緊張に息ができなくて苦しい。零れた唾液が顎を伝う。
「ん……っ、ふぅ、ん……」
 口づけ一つで脳髄をとろかそうとでも言うかのように、意識を捕らえて離さない、甘美な毒のようなそれ。気持ちいい。でも、怖い。何も考えられなくなる。
 身体から力が抜けて、抵抗をやめた。そうなってようやく、ロゼウスが唇を離す。唾液に濡れて艶めいたその紅は酷く生々しく劣情を伝えてくる。この美しさに劣情を煽られることはあっても、まさか自分が彼にそういう気を起こさせることがあるとは思ってもいなかった。
 破れた服から、素肌が覗いている。そのむき出しの部分に、彼は触れた。ただそれだけで、ぞくぞくとした得体の知れない感覚が押し寄せてくる。ただの行為へと向けられた期待でも快感でもない何か。怖い。怖い。怖い――。
「あ……いや……」
「……どうしたの? なんで泣いているの?」
 ロゼウスがヴィルヘルムの目元にそっと唇を寄せた。知らぬ間に溢れていた涙の滴を、唇で掬い取る。
「泣かないで。お前は何も心配しなくていい」
「あ……」
 ロゼウスの手が、ヴィルヘルムを一度抱き起こして優しく背中を叩く。
「あ、ああ……ロ、ゼウス」
「心配しなくていいんだよ。ヴィルヘルム、お前はただ、心地よい夢に溺れていればいい」
 あの日の俺がそうだったように。
 囁きを一つ残して、ロゼウスは再びヴィルヘルムを寝台に横たえた。衣服の残骸を払いのけて、再び肌に触れる。
「ん……やぁ……っ!」
 胸の突起をやわやわと弄くられて、妙な声が漏れる。ぷっくりと膨らんだそこを弄られるたびに、じりじりとした快感が背筋を伝う。
「あっ……!」
 生暖かい舌がぺろりとそれを舐めあげて、自分のものとも思えない、一層高い声があがった。その間に、片手がまた、足の付け根へと伸びる。
「ふぁ……・や、ぁ……やめ……!」
 無事だった下着の中にも容赦なく手は潜り込み、それをきつく握る。力を込めてしごくかと思えばやわやわと弱く刺激を与え、翻弄する。先端をぐりぐりと押さえ込まれると、身体が跳ねるのを押さえきれなかった。
「や、もう、やめ……やぁっ!」
 先走りでとろとろと濡れ始めたのが普段は思いもしないくらいに恥ずかしくて、押さえつけてくる彼の胸を押し返す。だけど、今日に限ってはびくともせず、ヴィルヘルムの抵抗をロゼウスはくすりと上から見下ろして笑う。
 ものをしごく手は止まらない。他人の手で、しかもこんな風にして与えられる快感が強烈過ぎて、もう何も考えられない。自分とさして体格の変わらないその肩にしがみつきながら、絶頂を迎える。
「ああ―――――ッ!」
 自らの吐き出した白濁が腹と、そこに添えられていた彼の手を汚すのを、脱力した身体で呆然と見つめた。
 ロゼウスは無造作にヴィルヘルムの放ったものに濡れた指を口元へ運んで、艶かしい仕草で舐め上げる。それだけで、大抵の男は達してしまいそうなほど、扇情的な姿だった。
 一口舐めると、彼はその手をまた下へと降ろした。今度は先ほどさんざん弄った場所よりもっと奥へと、後へと伸ばす。
「ヒッ!」
「ん……さすがにきつい、か。あんまり抱かれ慣れてるわけでもなさそうだし」
 しなやかな指が、無理矢理後ろへと潜り込む。異物感に総毛立ち、身体の動きが止まった。
「駄目だよ。ちゃんと力を抜かないと。辛いのはお前だよ」
 青褪めたヴィルヘルムの反応をまたあっさりと笑って、ロゼウスはさらに奥まで指を進めた。元から少年の放った精液に濡れた指はその助けを借りて、ぐちゅぐちゅと中をかき回す。
「あ、あ、ああ……ふぁ、ああん!」
内壁をすられ、あられもない声が漏れる。言いようもない熱が弄られている下腹部に溜まっていくのと同時に、指の数が増やされた。中途半端な圧迫感に、なんとも言えない感覚が背筋を走る。
「あ……うぁ、……やぁああ」
 ぼろぼろと涙を零すヴィルヘルムに、ロゼウスは優しく、残酷に囁いた。
「力を抜いて――挿れるから」
 指が中から引き抜かれる。ヴィルヘルムが答えるのを待たないまま、指とは比べ物にならない質量と熱の塊が、その場所を穿つ。
 痛みと共に、意識が弾け飛びそうな快感に襲われる。
「ああああああッ!」

 ◆◆◆◆◆

 泣き腫らした顔のまま、少年は隣で眠っている。その辺に放り出されていた服を軽く身に纏っただけなので、ひとたび毛布をはいでしまえばその姿はあられもない。自分の方はと言えば上半身裸のまま身を起こし、確かめるように右手を持ち上げ、手のひらで空を掴むように閉じたり開いたりを繰り返す。
 身体にかかる負荷、重い倦怠感や疲労感までもが懐かしく、肺全体を使って深く息をついた。事後の気だるい感覚に身を任せながら、ぼんやりとこの身体の奥底で今は眠っている存在のことを考える。
「……眠っていろ、ロゼウス。今はまだ」
 全ての決着がつくまで、彼は眠っているべきだ。いいや、もしかしたら一生眠り続けている方が幸せなのかもしれない。あんな未来を迎えると最初からわかっているならば。
 先行きを知らないからこそ、人は愚直にも前へ進んでいける。中には一つどころに立ち止まり蹲って自己憐憫に浸り続ける輩もいるが、ロゼウスがそれと少し違うのはわかっていた。
 それに万一、ロゼウスがそういった逃避型の人物だったとしても、彼にはそうして逃げ続けることができないわけがある。あの蒼い髪に、炎の瞳の少年。ロゼッテの子孫シェリダン=エヴェルシード。彼がロゼウスをその道に引き戻し、そしてあの未来を辿らせることになるだろう。
「だからその前に、俺が全て決着をつけてあげる」
 寝台の傍ら、稚い表情で眠る人狼の少年のふわふわとした髪を撫でた。その感触が心地よいのか、ヴィルヘルムはきゅぅ、と小動物のように唸った。狼と言うより、むしろ子犬のようだ。微笑ましいが、同時に反吐が出る。何事も与えられるだけの王様。確かに彼はそうなのだろう。
 夜気が身を包み、刺すように凍てついた。セルヴォルファスは北方の王国。夜は当然、ただの人間ならばそのまま眠れば冷え込んで凍死してしまうほどには寒い。だからこそこの土地には魔族の一種であるセルヴォルファス人、ワーウルフしか住めないのであるし、行為の後にも関わらずヴィルヘルムには軽く服を着せた。
 夜は凍てついていく。
 彼は一人、素肌をさらしながら考え込む。じっくりと見てみたこの身体は傷一つなく綺麗だ。ヴァンピルであるということだけでなく、戦闘の経験が少ないのか、それとも通常のヴァンピルより再生能力が上回るためか。
 ローゼンティアの血がこの時代にまで続いたということは、間違いなく彼女のおかげだろう。一度人間の血を混ぜることによって薄まったヴァンピルの血脈が今は一国を形成するほどにまでなったと考えれば感慨深いものがある。それが、ローゼンティアであればなおさら。
「……サライ」
 ローゼンティアの血を王家としてまでこの時代にまで伝えたであろう、運命の女性の名を呟く。これは彼女の功績だ。懐かしさと慕わしさ、そして微かな罪悪感と寂寞が一度に胸を埋めた。敷布を握りこんで皺を作る。腕が閉じ込めた怒りに強く震える。
 サライ。ごめん。守れなかった。一緒にいてやれなかった。
 他の事を除けば、三千年前の過去、ただそれだけが心残りだ。
「……宿命、か……」
 暗闇の中、隣で一人泣きながら眠る子どもの頭を撫でながら一人ごちる。することもないし今の時間から起きていたところでどうせ客分どころか人質ですらないこの身には明日もそれからもやることなどないのだ。ヴィルヘルムの隣に潜り込み、自らも眠りを貪るために毛布へと潜り込む。
 その瞬間、知ったような気配が感覚の先に触れた。
 ぴくりと反応して身を起こす。確かにこれは、知った気配だ。
「……ジャスパー?」
 遠い遠い場所で、誰かが嬉しそうに笑う。

 ◆◆◆◆◆

「兄様!」
 その少年は国王であるヴィルヘルムを無視して、隣にいたロゼウスへといきなり飛びついた。
「ロゼウス兄様! お会いしたかった!」
 白銀の髪に紅の瞳。そして、整った顔立ち。兄様と言う言葉。わざわざ聞かなくてもわかる。これは、ロゼウスの弟王子の一人のうちの誰かだ。そういえば、エヴェルシードでドラクルたちと戦っていた時に見たような顔だ。
「兄様! 兄様! 兄様」
「……お前が、ジャスパー?」
 ロゼウスの反応は、どこか不思議だ。案の定弟王子も不自然に感じたようで、訝しげに自分を受けとめるロゼウスの顔を覗き込んでいる。
「兄様?」
 大臣たちからの報告で、ヴィルヘルムは魔族の不審者だという人物と引き合わされることになった。そもそも地上には魔族が数種類しかいない。ヴィルヘルムたち人狼族と、ロゼウスたち吸血鬼族、それに人魚。地上にいるのはワーウルフとヴァンピルだけで、人魚は海の魔族だ。バロック大陸の魔族の状態はそれほど情報が入ってこないからわからないが、かの大陸の魔物がこのシュルト大陸にやってくることも少ない。だからこのセルヴォルファスに入り込んだ魔族の不審者と言えば、その可能性は初めからかなり限られていた。
 そして予想に違わずヴァンピルの不審者はロゼウスの知り合いで、彼に会わせろと言って警備の兵たちに無茶を言ったらしい。ローゼンティア王族の一人だと名乗られてしまえば一介の兵士たちに対応する術も権限もなく、大臣たちもこの厄介な訪問者にして侵入者の扱いに困って、国王であるヴィルヘルムへと押し付けてきた。
 そしてやはりヴィルヘルムは自分が困る事がわかっていたので、ことの最初からロゼウスに同席するように頼んでいた。ここ最近どんな理由かは知らないが人が変わってしまったロゼウスは、ヴィルヘルムのことを時々、小さな子どもでも見るような目で見る。
 ロゼウス自身も訪れたという客人にして侵入者の目星はついていたようで、あっさりとついてきた。扉が開け放たれた瞬間、白い髪の少年はわき目も振らず一心にロゼウスへと駆け寄った。
 両腕を軽く広げて彼を受けとめたロゼウスは、若干考え込むような顔を見せている。
「そうか……ジャスパー。第六王子か。腰に選定紋章印がある、薔薇の皇帝の選定者……ふぅん」
 ジャスパー=ローゼンティアと名乗った王子の身体をやんわりと抱きしめながら、彼は何事か呟いている。
「ロゼウス……あのぅ……」
 とにかくこのままこの王子をくっつけとくわけにもいかないし、と口を挟みかけたヴィルヘルムを遮って、弟王子が顔を上げた。
 これまで懐きやすい猫のようにすりすりとロゼウスの胸に頬を寄せていた態度とは打って変わって、冴え冴えとした刃のような瞳でロゼウスを見上げる。その眼差しにヴィルヘルムは背筋がわけのわからない恐怖でぞくりとした。
「な……」
「お前」
 見据えられているロゼウスの方には動揺も怯えもさっぱり見られない。それはヴィルヘルムと違って度胸が据わっているだけなのか、それとも……。
「兄様じゃないな。何者だ」
「さすがは選定者。自らの魂が永遠に仕える帝の魂は見間違えないか」
 ジャスパー王子の眼光の鋭さとは裏腹に、ロゼウスは熟した果実のように紅い唇に艶めいた笑みを乗せる。そして弟王子の髪を軽くかきあげながらあらわにしたその耳元にそっと唇を寄せると、ヴィルヘルムですら聞き取れないほど小さく何かを囁いた。
「我が名は―――。……だ」
 ハッ、とジャスパー王子の表情が変わる。何かに納得したように頷くと、ようやくロゼウスの身体から離れた。
「お迎えにあがったんです。僕は、兄様を。もうすぐその時が来るんです。だから、兄様を返してください」
「返すさ。この一年が終わり、俺の望みが叶ったならば」
 光源は先ほどと変わらない蝋燭なのに、それだけではできない不思議な陰影をその端正な面差しに落として、ロゼウスは頷いた。
「……ロゼウス」
 ヴィルヘルムはなんとなく不安になって、ロゼウスの服の袖を掴む。
「どうしたの? ヴィル」
「……どこにも行かないよな」
「セルヴォルファス王! 我が兄を拘束するのはやめていただきたい!」
「黙っていろジャスパー。……ああ。ヴィル。俺はまだ、どこにも行かないよ」
「まだ?」
 それはいつかは、いなくなってしまうことと同じじゃないか。
「そう。まだ。まだその時じゃないから」
「その時?」
 ヴィルヘルムに対して全体的に優しい態度をとるようになった代わりに、これまで以上に何を考えているのかが読めなくて心の距離が以前より遠くなったロゼウスが、ヴィルヘルムを甘やかすように宥め囁いた。
「ああ。そうだよ。まだ機会じゃないんだ。だから、動けない。でもその時になったら、必ずヴィルヘルムの力も必要とするよ」
「兄様!?」
「……本当?」
「ああ。約束だ。俺はヴィルを置いてはいかないよ」
「……わかった」
 誤魔化されている。わかっていた。わかっているのに、結局ヴィルヘルムは何も言えなかった。
 降ってくる声の優しさがあまりにも切なくて、何も言葉にできなかった。