荊の墓標 27

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 とにかく、乗り込んでみるか、と。
「いかにも怪しげですね」
「冒険心が疼くな」
「しなくていい冒険なら、しないのが一番だとは思うんですが」
「とは言っても、さぁ来い! と言わんばかりに待ち構えられたこの状況では避けて通るわけにも行かないだろう」
「いまだ霧は晴れないわけですしね」
 シェリダンたちが乗った海賊船の道のりを阻んだのは、謎の霧と遺跡だった。船長によれば呪いだというそれを何とか打破できないものかと、シェリダンたちはその遺跡に入り込んでみることにした。
 遺跡は灰白色の岩で出来ていて、遠目に眺めるより間近に寄ってみる方が意外に繊細な作りの概観を視界に収めることができる。大きなアーチ状で彫刻の施された門が彼らを出迎え、洞窟のようになった内部へと招く。
 海の真ん中に突然生じた遺跡であるため、湿っているだろうと予測したシェリダンたちの考えは外れ、中の空気は思ったよりも乾いていた。ただ、ごつごつとした岩壁に触れると凍ったように冷たく微かに結露のような濡れた感触がする。恐ろしく空気が寒く、肌を刺す。一種の氷室なのだと、彼らは理解した。
 入り口で簡単にそれらの様子を調べ、奥の方までは見えないが足元を確かめて、突入するにしても危険がないことを確認してから、クルスが尋ねた。
「それではシェ……シエル様。覚悟はよろしいですか?」
「ああ」
 クルスの言葉にシェリダンは頷いたが、背後から否定の言葉が入った。
「「「よくないっ!!」」」
「どうしたんだ? お前たち」
 ここまで(無理矢理)連れて来た海賊たちと元盗賊の男たちだ。洞窟の奥を眺めながら、がちがちと震えている。確かに寒いが、上着も着ているというのにそんなに震えるほどだろうか。
「ぼ、坊ちゃん方! どうか、ひらに、ひらに!」
「は?」
「ここここここは、ひ、ひひひ引き返しませんか!?」
「待て。お前たち。どもり過ぎだぞ」
 シェリダンとクルスにそうして帰船を促す彼らは何故かのきなみ涙目だ。
「だだだって! ここ、海の呪いの遺跡なんですよ! 生きて帰ってきたものはいないんですよ!」
「生きて帰ってきた者がいないなら、どうしてそんな話が伝わっている。心霊話の典型的なパターンだ。落ち着け」
「あ、本当だ……じゃなくて!」
 海賊の一人が勢いよく、シェリダンの両肩を掴む。
「だから! 幽霊が出るか鬼が出るか蛇が出るかはともかく、ここは呪われた遺跡なんですってば! 始皇帝陛下の呪いになんか触りたくないでしょ? ないでしょう?! お願い、船に帰ってぇえええええ!!」
「いやだ」
 騒ぐ男たちを一刀両断し、シェリダンはクルスと共に歩き出した。洞窟に足を踏み入れた途端、氷を踏むような冷たい感触が長靴の上から足を刺す。
「シエル様。僕が前を行きます」
「わかった。頼んだぞ。クルス」
「はい」
「お前たちは、何だったら船に戻っていいぞ。どうせクルスがいれば戦闘方面の心配はいらないしな」
「ででで、でもそれじゃ坊ちゃん方二人でなんて」
「私は構わない。お前たちも好きにしろ」
 海賊と盗賊は顔を見合わせごくりと唾を飲み込んだ後、結局船には戻らずシェリダンたちの後についてきた。なんだかんだで、面倒見の良いヤツラだ。全員顔がそれこそ死人のように蒼白だが。
「そう身構えるな。いざと言うとき迅速に動けないようではどの道死ぬぞ」
「し、死ぬ!? ヒイッ!」
「誰も確定事項だとは言っていない。落ち着け」
「でも、坊ちゃん。ここから先何が出るともわからないんですよ!」
「そうだな。幽霊が出るか鬼が出るか蛇が出るか人魚が出るか。あるいはむくつけき大男、別の海賊、鮫、歩く骸骨、発酵したゾンビ」
「おおお、俺たちを恐怖で殺したいんですね? そうなんですね!?」
「別に誰もそんなことは言っていないぞ。それに、全く違うものが出てくるかもしれないじゃないか。麗しい姫君とか妖艶な美女だとか」
「ははは。そうだとしたら、嬉しいんすけどね……」
 まさかこんな海の中の呪われた遺跡にそんな典雅な美女がいるわけもないだろうと、海賊たちはやたらと悲しげに肩を落とす。
「ま、そんなことはないだろうが、遺跡というのだからお宝ぐらいは手に入るかもしれないぞ」
「そうだとしたら随分助かりますね。そろそろ手持ちの金だけではそこが尽きて、虎の子の宝飾品を換金しなければならないかと思っていたところですし」
「そうだなクルス。お前らも、海賊だろう? もっとこれくらい積極的に楽観的に生きたらどうだ?」
「そりゃ財宝は嬉しいっすけどね……呪われた遺跡に財宝の話なんて聞いた事がないっすからね……」
 歩き始めて間もないのにすでに疲れきった顔をした男たちは、諦観の滲む声で呟いた。一見お貴族っぽいのに、なんてたくましい坊ちゃんたちだ……。
 軍事国家エヴェルシードの貴族を舐めてもらっては困る。
 とはいえ、シェリダンとクルスもまさかそこまで楽観してこの遺跡に足を踏み入れたわけではなかった。とにかく先に進むという目的がある以上、霧をどうにかして進路を開くことができれば、それで御の字だと考えていた。
 まさか、遺跡の奥にいるのが麗しい姫君かもしれない。そんな言葉が現実になるとは発言者であるシェリダン自身ですら思いもしていなかったことだ。
 そこはまるで、神殿のような空間だった。
 
「――サライ?」

 目の前に少女がいる。彼らは細身のそれを後姿だけで判別できた。天井にあいた穴から差し込む灰色の陽光だけが光源の薄暗い遺跡内部。人の気配に彼女は振り返り、彼らを認めてハッと息を飲んだ。
こちらはこちらでむさくるしい野郎どもばかりということで、目の前の少女の美貌に誰もがぽかんと口を開けていた。ロゼウスの女装や、本当の美少女であるロザリーや同じく美女ミザリーの美貌に耐性のあるシェリダンとクルスだけが、なんとか平常心を保っている。
「まさか本当に美女にまみえるとは思ってもいませんでしたね……って」
 クルスの言葉に、シェリダンは反応する事ができなかった。
 目の前の少女は見事な銀髪と、夜明けの空のような薄紫の瞳を持っている。繊細で儚げな容姿をしているが、瞳の力は強い。なんとなくその顔立ちがロゼウスの姉であるミザリーに似ていると思ったのは気のせいだろうか。しかしそんなことすら、考える余裕はその時のシェリダンにはなかった。
 気づけば音は言葉となって唇から零れ落ちていた。シェリダンはハッと口元を押さえる。何故、自分は今何故そんなことを思った? 言った?
 サライとは女の名前だ。つまり、目の前の少女の名前ということか。シェリダンの言葉を聞いて彼女は薄く微笑んだ。
「シェリダン様?」
 クルスの訝りの声にも答えられない。私は何故そんなことを知っている? ただ、言葉が、自分のものではない想いが胸の中に溢れてくる。
 これは――恐れ?
 少女が優しく残酷に、シェリダンに向かって呼びかける。
「お久しぶりですね。ロゼッテ=エヴェルシード。いいえ、シェスラート=エヴェルシード陛下と呼ぶべきかしら?」
 その名は聞いた事がある。だが、何故そんな言葉を初対面の彼女に投げかけられるのかわからない。
 けれど、初めて会うはずなのに自分は何故か彼女を知っているような気がする。
「私の名はサライ。サライ=ローゼンティア。覚えていてくれて嬉しいわ。ロゼッテ王」
 クルスは言葉を理解するよりまず警戒を先に出し、剣を抜いて構えている。他の海賊と盗賊たちは、事情がわからずにひそひそ声で言葉を交わしながら様子を窺っていた。
 シェリダンと少女の会話に横槍をいれるものは、いい意味でも悪い意味でもいない。
「ローゼンティア?」
 耳に馴染みのありすぎる隣国の名を出せば、彼女はにこりと笑った。ローゼンティア。ロゼウスの故郷である吸血鬼の王国。そして、その王家の名前だ。何故目の前の少女がその名を持っている。
 サライと名乗った少女は、見事な銀髪に藤色の瞳をしていた。銀髪はヴァンピルたちの髪質にぱっと見では似ているようだが、やはりロゼウスの白銀を思い出してしまうと違う。それに、ヴァンピルなら瞳の色は紅のはずではないか。しかし彼女の持つ色彩の特徴は吸血鬼ではなく、西方の国の一つである、ウィスタリア人の容姿を備えていた。
「ヴァンピルは人間と交わらないはずだ。何故、ウィスタリアの人間であるお前がローゼンティアの名を持っている」
「それは私が、ローゼンティアの名を持つ方の妻だからよ。シェスラート=ローゼンティアの」
「シェスラート……」
 先程も彼女はそう言った。
「シェスラートとは、アケロンティスの始皇帝の名だ」
 この世界が《帝国》と呼ばれ、《皇帝》に支配される前。
 ゼルアータと呼ばれる黒髪黒瞳の一族が、シュルト大陸全土を牛耳っていたらしい。暴虐の大国は各国の民たちを次々と征服し奴隷としていった。それに反発して解放軍として放棄したのは、ゼルアータの侵略によって真っ先に滅ぼされた蒼い髪に橙色の瞳のザリューク王国の生き残りだという。
 シェスラート=エヴェルシード=ザリューク。
 解放軍の首魁にして、大国ゼルアータを打倒し帝政を打ち立て、後に世界全土を《帝国》として統一した男の名をそう呼ぶ。つまり、シェリダンたちエヴェルシード人の祖先にして、王族であるシェリダンにとっては直接的な先祖にも当たる。今のエヴェルシード王国は彼が作ったものだ。解放軍として一から積み上げた武力で世界を転覆した男の作った国。だからエヴェルシードは、その時代から三千年も経った今でさえ軍事色が強い。
 だが、少女の言う事はそれと噛み合わない。シェスラート。シェスラート=ローゼンティアとはどういうことだ。始皇帝はエヴェルシード人である。これは間違いのないことだ。文献にも残っている。
「ええ。そうよ。シェスラート=エヴェルシードは確かに始皇帝の名前よ。エヴェルシード。あなたのご先祖よね。シェリダン=エヴェルシード王」
「お前! 何者!」
 サライと名乗った少女が偽名のシエルではなく、シェリダンの本名を呼んだところでクルスが一歩前へと飛び出した。水平に構えた刃を少女の喉元に突きつける。しかしサライは、微動だにしない。見ている方が空恐ろしくなるほど、繊細な容姿に見合わず度胸が据わっている。
「言ったはずでしょう。私はサライ=ローゼンティア。初代選定者ロゼッテ……シェスラート=ローゼンティアの妻」
「初代、選定者?」
「ええ。そうよ。あなたたちがロゼッテ=ローゼンティアと呼ぶ初代選定者の本当の名前は、シェスラート=ローゼンティア。そして皇帝は」
「ロゼッテ=エヴェルシード?」
「そう」
 シェリダンが答えると、少女はにっこりと笑った。その笑顔は美しく、そしてやはりどこか、ミザリーに似ている。
 クルスの剣先をいとも簡単に手でよけると、彼女は恐れ気もなくシェリダンへと歩み寄ってくる。
「シェリダン様!」
「いい。クルス。動くな」
「しかし」
「大丈夫だ」
 サライがシェリダンの正面に立つ。すっと手をあげると、頬を撫でた。そこで彼は初めて、この凍れるような寒い空間の中、彼女が体温のない存在だと気づく。触れた手は氷のように冷たい。
「ふぅん。前の世でも不細工ではなかったけれど、今回は随分と綺麗な顔立ちをしているのね」
「……お前、何者だ。生き人ではないだろう」
 クルスの質問を改めて問いかけなおすと、氷の手を持つ少女はその手をシェリダンの頬から離して紅い唇を幽鬼のように禍々しく吊り上げる。触れられた頬はひんやりなどというものではなく、氷を貼り付けられたようにひりひりとして痛い。
「そうよ。私は三千年前の解放戦争時代の人間よ。神に仕える予言の巫女姫って役職を、聞いたことはない?」
「あったような気もするな。文献の中に……始皇帝を導いた巫女の存在、そうか、お前はそれか」
「わかったなら伏して奉りなさいよね。ふん」
 サライはくるりと身を翻すと、元々いた遺跡の奥へと戻っていった。
 天井に空いた穴から差し込む微かな光だけが頼りの薄暗い空間で、シェリダンはそこに置いてあるものをなんとか見た。
 石の、柩。
 それに歩み寄ったサライは、柩の蓋の表面を愛しげに、そして哀しげに撫でる。神聖な儀式のようであり、同時に艶かしい愛の営みのようにも見えるその仕草に、ぞくりと背筋が震えた。だがそれは、目の前の光景に見惚れたわけではない。湧き上がったのは、確かに苛立ちという感情。
「死者がこの世に留まって、何の用だ」
 この女は醜い亡者だ。外見の美しさなど関係ない。ただの死人だ。
「待っているのよ。シェスラートを」
「それは、どっちのシェスラートだ?」
「私が愛した私の夫。シェスラート=ローゼンティア」
 サライは石棺に向けていた眼差しをスイとこちらに向けると、その藤色の瞳でシェリダンを射抜いた。
「シェリダン=エヴェルシード。ロゼッテ=エヴェルシードの子孫であるあなたがここに来たのは、単なる偶然ではないのでしょう。私が神に与えられた運命のためにこの場所でこうして留まっているように、あなたも《皇帝》の運命に深く関わる人間であるはず」
「……何が言いたい」
「聞きたいとは思わない? 三千年前、《帝国》成立の際に起きた、知られざる悲劇を」
「そのことが……私に関わりがあると?」
「ええ。あるわ。より正確に言うと」
 サライは再び石棺に視線を戻し、囁くような声で告げた。
「あなたの大切な、薔薇の王子様に関わりがあることよ」
「!」
 薔薇の王子、ロゼウス――。
「どういう、ことだ」
「……話を聞けばわかるわ。あなたと彼の、そして、彼のこれからの、彼とあなたの昔の、私と彼の昔の話」
 三千年前、暴虐の大国ゼルアータを打倒し世界を統一したアケロンティス帝国成立の歴史。初代皇帝シェスラート=エヴェルシードは解放軍の党首からなりあがり、やがては世界をその手中に収め王となる。
 普通の人間ならばどこかで志し半ばにして倒れるほどに過酷な事業を成したシェスラート=ローゼンティア、つまりサライがロゼッテと呼んだ人物には、一つの噂がつきまとう。それはただの人間であるはずの彼が、三百年もの時を生きたという伝説だ。事実がどうかはともかく実際に第二代目皇帝の即位は彼が没した帝国三百年目にあたり、現在では選定者によって皇帝に選ばれるとその頭上に冠を頂いている間は不老不死になる。
 だが一方で、帝国が成立するまではそんな事実は一切なかった、神の選定も不老長寿の皇帝も、世界《帝国》が成り立つ前には存在しなかったのだと書き記す文献は多い。恐らくそれは真実なのだろう。
 それでは、一体何が、世界を変えて《皇帝》を作り出した?
「知りたい?」
 美しき巫女が、普通に生きていれば一生知りえることはないようなその真実の一端を目の前でちらつかせて誘う。わかっていながら、シェリダンはそれに乗る。
「知りたい。それが私に、私とロゼウスに関わることならば」
 答えると、サライは何故かこの上なく哀しそうな顔をした。彼女の態度からどちらかと言えば敵意を持たれていると思っていたのに、この表情は確かにシェリダンに向けられたもの。シェリダンを通した誰かではなくシェリダン=エヴェルシードである彼自身を憐れむその不可解な視線に、不快は不思議と感じない。けれど理由がわからないことに不安じみた思いも覚える。
「……なんだ?」
「そう。結局あなたはその道を選ぶのね。三千年前、シェスラートがロゼッテに対してそうしたように」
 何の理由があるのかはわからないが名前が交換されている二人の男のことを口にされて、どちらのことを言っているのかと即座には判別できない。だがどちらであっても、ろくなことではないのだろうということはわかった。
「……こちらへおいでなさい。話してあげる。あなたのこれからの運命を」
 サライに手招きされ、シェリダンは一歩足を踏み出した。
「シェリダン様! あんな得体の知れない女に近づくのは!」
「大丈夫だ」
「でも!」
「大丈夫だ。クルス。何故だかはわからないが、あの女が私を害する事はない」
 彼女の役目はそれではない。サライは夫を、シェスラートを迎えるためだけにいまだ死者となってまでこの世に残っている。
 そして自分が、このシェリダンという一人の人間が、その魂の全てを賭して繋ぎとめる相手は。
 クルスが渋々ながら頷いて道を空けた。シェリダンはサライに誘われるまま短い階段を昇り、祭壇じみたその場所に立つ。石棺が目の前にある。
 その細腕にどんな力が込められているのかあるいはここでは地上の法は通用しないとでもいうのか、サライは重そうな石棺の蓋を滑らせてその中身を彼に見せた。
「――ロゼウス!?」
 中に入っていたのはミイラでも財宝でもなく、一人の美しい少年の死体。腐ることもなくただ眠るように横たえられたその亡骸の顔を見て、シェリダンは思わず声をあげる。
「いいえ。これはシェスラート。これが、シェスラート=ローゼンティア。……でも、彼の魂は、今はここにはないの。とっくに転生してしまっている。この亡骸だって、偽物の作り物よ」
 サライは夫だと呼んだ少年の頬にそっと手を当てた。
 石棺の中の人物は確かに言われてみれば、ロゼウスよりも顔立ちが少し大人びていて精悍な印象を与える。それに、髪が彼よりも短い。だが。それを引いてもなおあまりあるほどに、彼は彼に似ている。
 その彼の頬に少女の細い指先が触れるのを見て、シェリダンは焼け付くような感情を覚える。違う。これはロゼウスじゃない。わかっているのに、とめられなかった。
「教えてあげる。シェリダン王。あなたの、これからの運命を」
 サライはシェリダンのそんな様子に気づいているのかいないのか、ただ平然と顔をあげる。
 そしてシェリダンと視線を合わせて一度躊躇った後、その言葉を告げた。
「シェリダン=ヴラド=エヴェルシード。あなたはこの一年以内に、《薔薇の皇帝》ロゼウスの運命と関わったことによって、死ぬわ」
 シェリダンは目を瞠る。
 それは、神の託宣だった。