荊の墓標 27

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 与えられた部屋に戻り、服を脱いだ。
 あれはロゼウスではない。別人だ。しかしジャスパーたちにとても深く関係のある人物でもある。
「始皇帝シェスラート……」
 本当の、シェスラート。本来皇帝になるべきだったはずの人。
 運命を歪められて、魔道に堕ちた存在。
「ロゼウス兄様の身体を使って、何をしたいのか」
 だが、それについてはあまり心配はしていない。ロゼウスのことだから、あの程度の相手には負けないだろう。最終的には、必ず勝つはずだ。
 だって、ほら。
 服を脱いだ裸の腰を見てみれば、そこにはもう紅く、匂いたつように浮き出た薔薇の紋章。選定紋章印。ジャスパーはうっとりと微笑む。これこそが我が兄の栄光を示す証。
「……ああ、そうか」
 最初の皇帝候補にして初代選定者、シェスラート=ローゼンティア。
 彼の運命を、呪いと共に引き継いだ、愚かで心弱い人間の男、ロゼッテ=エヴェルシード。
 ゼルアータだとかザリュークだとか、ゼルアータの系譜を引く《黒の末裔》だとか、そんなことはどうでもいい。ジャスパーには関係のないことだ。
 ジャスパー=ライマ=ローゼンティアはロゼウス=ノスフェル=ローゼンティアのためだけに生まれたのだから。
「……あれ?」
 寝台に身を投げ、腰の紋章をするりと撫でながら、ジャスパーは自分で自分の考えたことに首をかしげた。
「なんで僕、そんなことを知っているんだろう……?」
 選定者。皇帝。神聖なる悲劇。予言の巫女姫。偽りの歴史。滅びた国。死神の眠る国。
 薔薇の闇が意識を飲み込んでいく。
 何か、何か黒いものが胸につかえている気がする。それが何なのか、わからない。
「当然だよ」
 答えは意外な場所から来た。
「だって、選定者は皇帝に魂を歪められて誕生する。一番最初の皇帝の誕生が、歪められた歴史そのものだから。同じ過ちを二度繰り返すことは許さない、と。神は、告げた」
 帝政が誕生するまで世界の宗教的権力の一角を担っていた巫女姫サライは、それを正しく受け取った。だからこそ彼女は夫であるシェスラートの死を、回避させることができなかった。
「わかってるだろ? 君ももう。預言者は万能じゃないし、皇帝は限りなく神に近いけれど、神じゃない。世界の在り方は不自然なんだ。その不自然を覆い隠し誤魔化して世界を存続させるために、選定者はその皇帝が即位するのと同時に、あらゆる感情を奪われる。そんなのは、生きているだけの屍と同じだ……ジャスパー王子、君はそんな人生で満足なの?」
 ジャスパーは顔を上げて、その人の顔を見た。
 これまでにも幾度となくジャスパーの前に現れた黒髪の少年。現帝国宰相にして選定者ハデス。
 これまで順調に進んできた帝国の歴史に交じりこんだ、唯一にして最悪の異端者。それでありながらある意味では、ロゼウスにとって一番の僥倖となるべき存在。
 より強い皇帝を作り出すための、踏み台。
「……満足できないのはあなたの方でしょう。大地皇帝の偽物の選定者」
 この人物だけは、ジャスパーに関してとやかく言う資格はないはずだ。
「選定者でもないあなたが、何故僕のことに口を出す? どうせあなたが足掻いたところで、運命は変わらない」
「……変えてみせる。そのための命だ」
「そのため? 違うでしょう。真の選定者でもないあなたがその座にいるこの時代は、ディヴァーナ・トラジェディアのやりなおし。歪められた運命。至高の皇帝。偽りの選定。足掻く周囲の人々。そうして、悲劇は繰り返される」
 世界は最初から間違っていたのかもしれない。けれど間違っていたなりに天秤の均衡を保つために作り出された法が存在していた。
 その法を破り、一石を投じたのは大地皇帝デメテルであり、彼女によって投じられた石である帝国宰相ハデス。
「……傀儡め」
「構わない。僕はそれで。僕は兄様のために生まれてきた」
「神と皇帝の忠実な人形。魂のない人間。そんなものになって嬉しい?」
「嬉しいとか嬉しくないとか、そういう問題じゃないんだ。あなたは?」
「僕?」
「本当に可哀想なのはあなたのほうでしょう? ちゃんとした選定者だったならば、そんな複雑な心、抱かなくてすんだのに」
「……君が、シェリダンと気が合わないわけがよくわかったよ! ジャスパー王子!」
 ハデスはぎりりと唇を噛み締めた。黒髪に黒い瞳の、整ってはいるけれどロゼウスやシェリダンに比べたら地味目な顔立ちが歪む。
「君はもうほとんど魂を乗っ取られかけているんだね。選定者に心などいらない。彼らはただ、皇帝に忠実な奴隷であればいい!」
「そうだね。偽物の選定者。本物の選定者の皮をはいで紋章を移したあなたは、その理からは外れている。だから普通の選定者ならば欠片でも考えるはずのない、自分の皇帝への謀反なんて思いつく」
 それこそが、自分を真に苦しめるのだと知っているくせに、足掻くことをやめられない。
「……ああ、そうだよ。僕は君みたいには決してならない。世界なんて、運命なんて……ロゼウスに殺される運命なんて、変えてやる!」
 憐れな人。
 ジャスパーは口に出さずにそう思った。
「ジャスパー王子。君はこれからどうする?」
「どうもしない。……時はもう少しで満ちる。薔薇の皇帝は目覚める。誰にも止められない。あなたにも」
「そうだね。でも、そうすると、君の大事な『ロゼウス』兄様は消えることになるよ」
 その言葉に、凍りついたはずの心の中が少しだけ疼いた。
「……何」
「だって、そういう運命だもん。君は神の傀儡かもしれないけど、預言者じゃない。だから、僕よりもさらに正確な未来は見えていないんだろう。君は、ロゼウスが何を経て皇帝になるか知らないんだ。この時代が、《神聖なる悲劇》のやりなおしということまで知っているくせに」
「……どういう意味?」
「さぁ? 自分で考えれば」
 それだけ言い捨てると、ハデスは来た時と同じく唐突に姿を消した。
 ジャスパーは一人部屋に取り残されて、ゆらゆらと心の内側から込み上げてくるものに意識を任せる。
 寂しい小さな部屋の奥で泣いている誰かの声を聞いた気もするけれど、何もかもがどうでもよかった。

 ◆◆◆◆◆

 最近のエヴェルシードは騒がしい。
「卿、これから登城ですか?」
「おお。大臣殿。そうです、そうです」
「よろしければご一緒させてもらえませぬか? 徒然の道のり、話したいこともありますしね」
 舗装された道を馬車は行き、「偶然」道で出会った者たちを揺らす。がたがたと石畳を回る車輪の音で、会話は外には漏れ聞こえない。御者は口の堅い物静かな男で、金さえもらえれば仕事はきっちりやるというタイプだった。
 余人の聞き耳のない馬車の中で、密談は交わされる。とは言ってもそうたいした内容ではなくちょっとした噂話のようなものだ。少なくとも男たち二人はそう思っていた。
「さて、聞きましたかな。カミラ陛下のこと」
「ああ。最近軍部の方によく顔を出されているという」
「シェリダン陛下が軍部の方で支持をもらっていた方でしたからね。カミラ陛下につくこと、貴族側は異論なくとも、お兄君を指示していた軍の連中としては、あんな小娘が玉座に着くことなど認められないのでしょう。陛下は陛下で、自分に従わない軍の男どものご機嫌取りをしているんでしょう」
「ですがそのカミラ姫様は、どこからか魔性の力を得てとてつもない強さを手に入れたのではなかったでしょうか?」
 男の一人がそう言えば、もう一人が記憶を辿りつつ答えた。
「そういえば、貴公はあの御前試合を見ていなかったのでしたね。死んだと思われていたカミラ姫が突然会場に現れ、あの殺戮の魔性と呼ばれたバートリ公爵に深手を負わせて逃げた上に一時は王妃様までもが攫われたという噂が立っていましたが。私の見たところでも、確かにカミラ姫はバートリ公爵に傷を負わせていました」
「噂も何も、事実という話ではなかったでしょうか。王妃様との関係で、あの頃のシェリダン様が荒れていたという話も。どうもジョナス王陛下が崩御なさってから、この国は落ち着きませんな」
「ええ。宰相のバイロン=ワラキアスは気にせずに政務に励めなどと言っておるが、どこまで奴を信用してもよいものか。ジョナス王陛下が崩御してここ最近、その息子といい娘といい未熟な王に仕える我らの身にもなってもらいたいものだ」
「所詮ワラキアスは平民上がりの宰相ですよ。いざと言うときの意見など通るまい。それより、今はカミラ姫の軍部通いの方ですよ」
「ああ。あれは、放っておいても良いでしょう。あの姫君は、我らが恭順を示していると見ていい気になっておるのですよ。だからこそ、次は軍部の連中のご機嫌取りをして自らの政権を安定させたいなどと考えているのでしょう」
「全く、女は余計なことをせず、黙って貴族の家の一つにでも嫁げば良いのだ」
 男尊女卑国家であるエヴェルシードでは、女王カミラは歓迎されない。それを如実に表した台詞に、しかしもう一人は嫌悪を示すでもなく、当然のように頷く。
「忌々しいミナハーク=ウェスト王妃の外戚勢力がこれで遠ざかったと思ったのに、今回死んだはずのカミラ姫が生き返ったことでまた五月蝿くなってきました」
「ええ。ですが、所詮平民の母を持つシェリダン王には外戚らしい外戚権力など存在していませんでしたからね。後ろ盾となっていたはずのイスカリオットが裏切り、バートリは沈黙している。ユージーンは侯爵当主の若僧が姿を消したとかであの家も今はもめているでしょう」
「何しろ、武力で成り上がったクロノス=ユージーンにとっては一人息子でしたからな。クロノスの年齢を考えればもう一度当主に返り咲くこともできるでしょうが、そのためにはカミラ姫の信頼を得ねばならぬと考えれば、あの家はもう取り潰しで確定でしょう」
「今は保留されているようですが」
「シェリダン王に取り入り、他の権力と付き合いをしなかったツケが今回回ってきたということでしょう。我らのような本物の貴族と張り合うには、成り上がり者には荷が重すぎたのですよ」
「おやおや……」
 馬車の中で向かい合った二人の男は、暗い噂話にひとしきり笑う。
「さて、そのシェリダン王ですが、確か突然国を棄て出奔したという話でしたな。イスカリオット伯の挙兵に関しては、カミラ姫側が幾つも情報操作をしているせいで事態がわかりにくくなっていますね。その後、新体制のもとで権力を握るならまだしも数度カミラ姫と謁見した後イスカリオットもまたバートリと同じく沈黙していますし」
「私の方では、シェリダン王はイスカリオット伯が兵を持って王城に攻め込んだ際に殺されたと聞きましたが。しかし、その後バートリ公爵がイスカリオットに向かったという話も。あの女傑は一応シェリダン王派ではあっても、元来が気まぐれな気性のため何を企んでいるのかわかりづらい」
 エヴェルシード国内のさまざまな情勢に思考を馳せながら、そして男たちは一段と声を潜めた。
「……とまれかくまれ、シェリダン王が今王城にいないことは明らかなのですよね。謀反のために逃出したか、あるいは国を棄てて王妃と駆け落ちしたという噂が事実か。何にせよ、彼が生きていたとしたら、貴公はどう出ます?」
「私ですか?」
「ええ。そうですね……」
 馬車は、彼らと彼らの主カミラの陰謀渦巻く王宮へとゆっくりと進んでいた。