荊の墓標 27

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 王としての執務は、最近何かと放り出しがちだ。突然現れては消えたハデスのことや、ロゼウスの弟王子だというジャスパーの登場に、さすがにセルヴォルファス城内は小さな混乱に見舞われている。その場その場で揉め事を収め、ヴィルヘルムは小難しい事はもう大臣たちに任せきって部屋に閉じこもっていた。
 あの日以来人が変わったようなロゼウスは、以前の様子とは打って変わってヴィルヘルムに優しくしてくれる。優しくしてくれるから、ついつい甘えたくなる。身体を重ねたり、口づけをもらったり、ただ柔らかに髪を撫でてもらったり、こちらが求めなくても与えられる、些細な甘い仕草に酔いしれた。
 桃色のふわふわとした雲の上を歩いているような幸せな心地。動く気もここから離れる気もしない。日がな一日ロゼウスにくっついていれば、今の彼はヴィルヘルムが言い出す前から望む反応を与えてくれる。一緒の寝台で眠り、ふと人恋しくて目覚めた夜中にはそっと手を握ってくれた。
 今も昼間から私室に篭もり、ヴィルヘルムは彼の膝で甘えている。獣型はそんなに体重がないから、相手の負担にもなりにくいだろうというだけでなく、ただ単にヴィルヘルムがその方が楽だからそうしただけだった。
 こうしていると、昔を思い出す。
「いい子だね。ヴィル」
 白い手が伸びて、優しく頭を撫でてくれた。狼の姿に戻っている薄茶色の毛並みを手で梳かすように何度も何度も撫でる。優しい兄の手のように。
 わぉん、と小さく泣いて、その胸に顔を寄せた。小さな犬ほどの姿になったからか、ロゼウスは軽々とヴィルヘルムを抱き上げてあやす。耳を触られて、くすぐったいような暖かいような感触に笑いたくなる。ロゼウスの服の胸元に鼻面を擦り付ける。すい、と猫を相手にするように、ロゼウスはヴィルヘルムの顎の下に手を当ててくすぐった。
 爪を隠して足を彼の肩にかけ、その肩口に顔を埋める。長椅子に腰掛けながら、子供を抱きかかえるようにヴィルヘルムを抱きかかえたロゼウスが、頬をその毛並みに触れさせる。
 心地よい人肌。心地よい抱かれ方。心地よい、毛並みを撫でてくれる手。
 ゆっくりと眠気が襲う。あまりにも暖かくて幸せで、このまま眠ってしまいたくなる。
「おやすみ、ヴィル」
 それを見越したように、ロゼウスが言った。眠ってもいいよ。ここにいるから。こうして抱いていてくれるから、と。そう保証する声音に、安心して身を任せる。
「……ま」
「んー?」
「にいさま……」
 ぴくり、と一瞬だけ動きを止めたロゼウスが、再びヴィルヘルムを抱きかかえる手に力を込めたのを、眠りに落ちる前に感じる。
「にいさま……ロゼウス……」
 まるっきり赤子をあやす仕草で、ロゼウスがぽんぽんと軽く背中を叩いてくる。うつらうつらとしたヴィルヘルムの意識は、もうすでに安らかな眠りへと導かれるところだった。
「おやすみ。ヴィルヘルム。せめて夢の中でくらい、幸せに」
 ふわふわと、柔らかな雲を踏む。
 ふわふわと、幸せな夢の上に立つ。
 そこに滑り落ちる間際に聞いた、どこか哀しげで切なげな言葉の意味は夢に落ちた瞬間消えてしまった。けれど、しっかりとこの身を抱く腕の感触だけは忘れない。
 夢を見る。
 優しい夢を見る。
 優しくて、哀しい夢を見る。
 まだ兄たちが生きていた頃の夢。年下であるのをいいことにさんざん甘えて甘えさせられて可愛がってもらって。
 どの兄たちも優しかった。わがままを聞いてくれた。
 遊びつかれて変な場所で寝入ってしまった自分を、何度兄たちが抱いて部屋へ戻してくれたかわからない。彼らに軽々と抱き起こしてもらうために、わざと理由もなく狼姿になっていた気がする。この姿の方が小さくて軽くて柔らかくて抱き上げやすいし向こうも撫でていて心地が良いのだと聞いて、だからヴィルヘルムは獣型で辺りをうろついては兄たちに構われていた。
 幸せだ。幸せだった。
 もう二度と手に入らない。
 荒野に立つ岩壁を削った居城であるセルヴォルファスの城はたくさんの王子がいて家臣がいて。だから明るくて幸せだったのに、どうして今はこんなことになってしまっているのだろう。本来殺風景な城はそこに笑顔の火を灯す人々を失って、我侭ばかり言うことしかできなくなったヴィルヘルムとそれに疲れ呆れた顔をした大臣や召し使いだけが歩くようになった。かつてのような光は、もう戻らない。
 どうにかこの状況を打開したくて、まだ何をすればいいのかもわからない国王の権利に戸惑っているとき、ヴィルヘルムが出会ったのはドラクル。
 同じ魔族の国としてローゼンティアからの親善大使という名目でやってきた後ろ暗い第一王子は、ヴィルヘルムにいろいろなことを教えてくれた。良いことも、悪いことも。
 ハデスもそうだが、彼も大概性格が悪い。表向きは穏やかな表情を浮かべていても、腹の中では何を考えているのかわからない二人だった。だけど第二十六王子からいきなり国王にされたヴィルヘルムのことを家臣である大臣たちも持て余していたから、ヴィルヘルムはセルヴォルファスの中には素直に頼れるような相手もいなくて、必然的にドラクルやハデス、そして彼らと親交のある不良仲間と一緒にいるようになった。
 神出鬼没のハデスを仲介に、書簡のやりとりを交わす日々。ある日、ローゼンティアのドラクルから誘いが来た。うちの国に来ないか? と。二つ返事で引き受け、向かった先で引き合わされたのは自分とそう変わらない年齢の一人の美しい少年。
 ドラクルは大概性格が悪い。
 良いことも教えてくれた。悪いことも。機嫌が悪いと八つ当たりされることもあったし、ヴィルヘルムは年齢差や帝王学についてドラクルの助言を多く受け取る身だったから、いくらローゼンティア王子とセルヴォルファス王と言えど、対等ではない。今でこそドラクルの手を借りずとも自国の状態の判断は自分でつける(それが正しいか間違っているかは別として)ようになったけれど、昔はドラクルやハデスに頼りっぱなしだった。
 子どもだったヴィルヘルムから見ればすでに青年の息に入っていたドラクルや年齢を感じさせないハデスはとても大人に見えて、口答えなんて基本的に思い浮かばなかった。思い返してみれば、随分酷いこともされたのだと思う。
 だが、彼らを恨むことはない。心のどこかではあれやこれやと傷ついたり責めたい気持ちはやはりあるのだろうが、それにも増して僥倖と言える出会いが、彼らのおかげであったから。
 ――泣かないで。

 忘れない。

 ――泣かないで。狼さん。泣かないで……

 自分を抱きしめて撫でる白い手。暖かいことは暖かいけれど、普通の人間よりは少し低い体温。さらりと落ちた白い髪。甘い声。
「ロゼウス……」
 獣の口では不明瞭になりがちな発音。だけれど眠る間際に、やはり意識のそこからふわりと浮き上がってきたのはただ一つのその名前で。
「お休み。ヴィル。……お前はもう、何も心配しなくていいんだよ」
 瞼に一つずつ唇を落とし、最後に額を掠めていった口づけ。まるきり幼子をあやす調子のそれに、しかし不快感は覚えなかった。
 ゆっくりと抱きかかえられた身体は長椅子から寝台に移され、敷布の上で丸くなって眠る背中を、その手は撫でる。夢の中でもその暖かさを感じていた。あの日以来一度も忘れた事はなく、焦がれ続けた温もりがここにある。
 だから、俺は……だから。
 傍らでまだ起きているロゼウスに伝えたい言葉があるのに、もう眠りに沈んでしまった身体は言う事を聞いてくれない。暖かい手に撫でられて、柔らかい寝台へと抱き映されて、きちんと干された敷布からはお日様の匂いがしてふわふわで、隣には確かな気配がある。
 なのに、言葉が出てこない。意識の最後の最後の一欠けらだけが起きているこの状態ではそれを伝えられない。
 ふと意識を向けると、ロゼウスが自分を見ているのがわかった。視線に顔を上げたいけれどそれすらもできない。ただ、熱のない静かな眼差しを受けとめる。
 彼も俺に何か言いたいことがあるんだろうか。
 だったらちょうどいい。俺もずっとずっと、本当の本当に彼に言いたいことがあったのだから。
 背中を撫でてくる手は優しくて心地よくて思わず涙が浮かびそうになる。どういう事情かはわからないけれど、ヴィルヘルムは今確かに欲しいものを手にしている。ずっと欲しかった、ロゼウスからの慈しみを。
 ねぇ、聞いて。
 目が覚めたら、今度こそまっすぐに、ちゃんと素直な気持ちで、伝えたい事があるんだ。

 ◆◆◆◆◆

 その国は、薔薇の闇の奥深く。

「東方は?」
「このアウグスト=カルデールに」
 かしこまっている分にはかまわないが、相好を崩せば見る者に少し軽薄な印象を与える甘い顔立ちの青年が胸に手を当てて頭を下げた。黒い絨毯に跪き、臣下の礼を取る。
「西方は?」
「わたくし、ジェイド=クレイヴァが参ります」
 白銀の髪を美しく結い上げて、薄い化粧を施した女が同じように膝を着く。
「北は?」
「フォレット=カラーシュが参りましょう」
 体格のよい精悍な顔立ちの男がすぐさま答え。
「南」
「ダリア=ラナにお任せください」
 後の三人より少し若い女が一人、頬を薔薇色に染めて答えた。その瞳はすでに殺戮の期待に輝く。
「そして王城は私、新王ドラクル=ヴラディスラフ……いや、ドラクル=ローゼンティアが守りを固めれば完璧と言う事か」
 玉座にて、跪く四人の部下を前にしてドラクルはこの国の守りを決定した。これからのことを考えれば、国土の四方の守備は強化しておくべきだろう。ドラクルが行ったのと同じように、隣国の勢力を利用して攻め込むなどということを向こうにされては仕方ない。
 カツン、と長靴を鳴らして玉座から下座を見下ろすための段差を降りると、この国がドラクルのものになる前からの部下たちはいっせいに顔を上げた。
「ご立派です。ドラクル様」
 カラーシュ伯フォレットが子どもの晴れ姿を見る父親のように笑みを浮かべた。クレイヴァ公爵ジェイドが冷静な面差しのまま控えめに賛同の意を示し、カルデール公爵アウグストは女たらしと言われる甘い顔立ちをにやりと歪め笑って見せた。ラナ子爵ダリアも今にも飛びついてきそうな満面の笑みで褒めてくれる。
「とっても素敵ですよ、ドラクル王子。いいえ、ドラクル陛下」
「ありがとう。ダリア」
 彼女に答え、ドラクルは四人の顔を順繰りに見回しながら腕を組んだ。
「さて、ここまでは全てが順調に行きましたね。殿下」
 アウグストがそう切り出す。事務的な話が一度終われば、これからは雑談を装ってそれぞれの動向や思考を密やかに探りあう時間。
 ドラクルは祖国ローゼンティアの簒奪に成功し、国内での権力を無事に手に入れた。エヴェルシードに侵略され占領されていた間は多少混乱状態にあった国内を、適度に治める。
 ルースやヘンリー、アンと言った兄妹は傍にいるが、ドラクルに従うことを良しとしなかった第二王子アンリを始めとする兄妹の幾人かは、まだ行方知れずのままである。エヴェルシードでシアンスレイト王城を襲撃しカミラの即位の手助けをしたイスカリオット伯爵からも、逃げられたという以上の情報はない。彼らの動向も、気にしなければならない問題ではある。
「順調すぎて、逆にこれから先向こうがどう出るのか気になるがな」
「向こうと言うと、エヴェルシードの姫やハデス卿……ではないですね。ロゼウス様ですか」
「ああ」
「あの方は、セルヴォルファスにいるのでは?」
「ヴィルの力ではロゼウスをそう抑えておくことはできないよ。それに、ハデス卿から不吉な予言を聞いてもしまったことだしね」
「そうですか……」
「だから、ロゼウスは近いうちに必ず、セルヴォルファスを抜け出すはずだ。ハデスを倒して、ね……」
 ドラクルは瞼の裏に、自分に良く似ていると言われる弟の顔を思い浮かべる。薔薇の美貌を持つ少年は、ドラクルの前では泣き顔ばかり見せていて、もうそんな記憶しかすぐには思い浮かばない。
「ですが、陛下」
「なんだ、ジェイド」
「ロゼウス様は本当に、このローゼンティアに来るのでしょうか?」
「どういう意味だ?」
 女公爵のクレイヴァが、少しだけ困ったように眉を下げながら伝えてきた。
「……あの方は、深いところでは玉座などどうでもいいと思っているのではないかと考えます。陛下、人は自分を基準に物事考えます。金が欲しい者は他人も金を求めているのだと、権力を求める者は他者もそうだと。ですが、ロゼウス様は本当に玉座を望んでいるのでしょうか?」
「……っ」
 ジェイドの言葉に、ドラクルは色を失う。
 ロゼウスが、この国の玉座に興味がないだと? 比喩でも何事かの謎かけでもなく、本当に?
 ロゼウスを育てたのはドラクルだ。だからロゼウスの性格はドラクルの影響を多大に受けているはず。だがわかってもいる。自分とロゼウスは別の存在だ。
 だけど、そんなことがあってたまるか。この自分が執着するローゼンティア王位を、この国の玉座を、奪い合う相手であるはずのロゼウスが最初からどうでもいいだなんて。
 そんなことは絶対に認められない。
 自分一人だけがロゼウスの存在にこんなにもこだわり、ロゼウスの方では自分のことはどうでもいいだなんて。
 私の墓標として生まれた弟王子は私のことをなんとも思っていないなんて!
「来るさ」
 そんなはずはない。あれだけ虐げ傷つけ、ロゼウスは私を憎んでいるはずだ。ドラクルはそう思う。
 そしてもっともっと、この私を憎めばいい。激しい憎しみで息がつまり、魂が引き裂かれるまで。
「ドラクル様」
「ロゼウスにとっても、この国は特別。何しろ故郷だからね。この地に生きる民たちや他の兄妹の願望の、全てを無視するような子でもないだろう」
「……そうですか。申し訳ありません。さしでがましいことを申しました」
「いや、いい。下がれ。アウグスト、フォレット、ダリア、お前たちもだ」
「御意」
 ジェイドも、アウグストたち他の貴族も全て返してドラクルは部屋に一人になる。玉座のある謁見の間はローゼンティアでも他のどこの城の例に漏れず広い。
「……来い。ロゼウス。今度こそ、我々の宿命に決着をつける時だ」
 私が憎んだように、お前も私を憎め。
「お前にとって、一番重要な存在はこの私だろう」
 その憎しみの全てを持って生きる相手は。
「それはどうかしらね」
 声に出してはいなかった独白に、相槌が返ってきたのはその時だった。
「……デメテル陛下」
 長い黒髪に、黒い瞳。美人だがその顔立ちは派手ではなく、鮮やかな化粧さえなければもっと落ち着いた印象を与えるだろう、この時代この帝国の最高位に君臨する存在。
 しかし今日は様子が違う。
「どうされたのです? そのお姿は。なんだか、いつもより……若く見えますが」
「あら、失礼ね。ドラクル大公。私はいつでも若いわよ」
「……そうですね」
「冗談よ。一応、この姿を見せておこうと思って」
 答えるデメテルの様子は、ドラクルが指摘したとおり確かに若く、いや、幼くなっていた。
 もともと彼女は十八歳で皇帝となり、肉体の年齢をその時点で止めた人物だ。だから、本人が言うとおりもともと若い。顔立ちが大人びているので二十歳過ぎにも見えていたが、十八歳の面差しをしている。
 けれど今現在ドラクルの目の前にいる大地皇帝デメテルは、どう見ても十五歳以下だった。顔立ちも、どことなく違う。限りなく似ているが、どこかに差異がある。
「一体どうなさったのです?」
「んー、いや、私、そのうちちょっとこういう姿で現れることになるから、間違えられても困るかなーって」
「別にあなたがどういった姿で現れようと、今更驚く者もいないと思いますが」
「そうねぇ。いらない心配だったみたい。でも、一応、ね」
「はぁ……それで、それはどういう意味があるのですか? この姿で現れる、ということは。何か若返るあてでもあると」
「いやねぇ。ドラクル大公。そう何度も若返るを連呼しないでよ。まるで普段の私が老けてるみたいじゃない。人に聞かれたら大変よ? どれだけ普段は若作りしているのかって」
「どうせここには私とあなたしかいないのですから、言い方などどうでもいいじゃありませんか。それより、はぐらかさないでください。あなたがその姿になることには、一体どういう意味があるのです?」
 ひらりひらりと花の間を飛び交う蝶のような軽やかさで人の追及を煙に巻こうとする姿勢に誤魔化されず、ドラクルはなおもその同じことについて問いを重ねた。皇帝デメテルの、普段は紅のせいで紅い唇が今日は珊瑚の色をしている。その珊瑚が吊り上る。
「そうよ。この格好には意味があるの。私は近いうちに、この姿になるわ。でも、それは誰にも止めることはできないでしょうし。私も、あえて好きにやらせる」
「あなたがそう仰ると言う事は、ハデス卿ですか」
 彼女の、この世界帝国最高権力者である彼女が最も大事にしている弟閣下の名を出すと、デメテルの笑みが一段と深くなり、そして翳りを帯びた。
「……私はあの子のためにも、どうしてもロゼウス王子をこの世にのさばらせて置くわけにはいかないの」
「……どういう意味です?」
 この皇帝陛下も変わった方だ。大地皇帝デメテル=レーテ=アケロンティス。
 強大な魔力と異端の文化を持っていた移民、後に大国ゼルアータを成立させ、暴虐の限りを尽くして呆気なくザリューク人に打ち倒された《黒の末裔》。その生き残り。
 まさか帝国が成立する前に栄華を極め、そのままであればこの世界に帝政が打ち立つこともなかっただろうその鍵となった民族から、皇帝が生まれる。滅ぼされた民族から王が生まれ、滅ぼした人々を治める。これはなんという皮肉だろう。
 これまでの歴史上例を見ないほどに強い力を持つ皇帝。最強の帝、デメテル=レーテ。
 彼女が何を考えているかは、恐らく誰にもわからない。ハデスと共謀するドラクルに、何故そのハデスから疎まれ、死を願われているデメテル陛下が近づいてきたのか。
「さぁ、どういうことだと思う?」
 この方は私の敵か。
 それとも味方か。
 いや、むしろ……。
「私には、あなたがハデス卿のために何かをしようとしている、ようには微妙に見えませんね。そうでしたら、ハデス卿がもっとあなたの動向に気づいてもいいはず」
「ええ。そうでしょうね」
「だいたい、ハデス卿がもとから関わってこなければロゼウスとの繋がりなど存在しなかったのですよ。何故、ロゼウスの行動を阻むのが、ハデス卿のためになるのです?」
「それは仕方ないわよ。運命がそう決まってしまっているのだもの」
「運命、ね。実に使い勝手の良い言葉ですね。幸も不幸も何もかもそのせいに、そのおかげにしてしまえる。そこまでに積まれた己のあらゆる行動の結果を無視して」
 良いことも悪いことも、全ては積み重ねだ。生きる人々の一瞬一瞬の選択の積み重ねが未来を作るのだ。
 血塗られた手で勝ち取った玉座に座りながら、ドラクルはここまで来るのに屠った命の数々を思う。それを、誰かのせいになどしない。
 私は酷い男で、酷い王でいい。
「でも確かに、人の力ではどうしようもないことは多いでしょう。皇帝なんて言われたって、案外に無力なものなのよ」
「おやおや。この世界で最強の力を持つお方がそのように仰られては、我々凡人にできることなど最初からたかが知れている、と言われているようにもとれますね」
「そう? そんな気はないわよ。だって私には確かに無理なことは多くても、私より強い力を持つ者には、できることはたくさんあるわけだしね」
「あなたより強い力を持つ? そんな人間、今のこの時代にいるわけがない」
 皇帝とは、世界最強の力を持つ者の名。そしてデメテル=レーテ陛下は、これまでの歴史上でも類を見ない強大な力を持つ皇帝だ。彼女より強い力を持つ存在など、いるはずがない。
 しかしドラクルがそう言うと、デメテルが先程とはまた種類の違う笑みを浮かべた。
 その笑顔が、まるで「お前は何も知らない」と言われているようで、ドラクルには少し不快だ。
「……どちらにしろ、あなたは私にあなたの目的をお話してくださることはないようだ。ハデス卿とロゼウスの関わりなどと、意味ありげなことを仄めかしながら」
「うふふふ。悔しかったら、当ててみなさいな。ドラクル大公。人一人の思惑すら読めなくて、王だなんて、名乗れないとは思わない?」
「そうですね」
 皇帝の言葉の一つ一つがドラクルの気に障る。しかも、この人物は肝心な事は何一つ答えてくれないときている。
「御自分のためですか? 陛下」
「あら、それは……」
「ハデス卿のためだなどと、嘘でしょう。あなたはあなたがただ望むままに、私もロゼウスもハデス卿自身をも利用して、何かをしようとしている」
 ドラクルがそう指摘すると、少しばかりデメテルが意表を衝かれたような顔をした。
「そうね。そうよ。その通りだわ。当たり前じゃない。自分の幸せのために動いて、何が悪いのかしら。でもそれが、ハデスのためでもあるのは本当よ」
「どうして」
「私は、あの子を愛しているから」
 そして獲物の蝶を捕食する蜘蛛の笑みで、女は紅変わりの陰をはいて笑う。
「陛下。失礼ですが、あなたの愛情は弟君にはさっぱり伝わっていないようですが」
「あらあら。つれないわねぇ。あの子も反抗期だし。あなたまでそんな口聞いて」
「ではこれからは、あなたに素直な弟人格でも演じてみせましょうか。ハデス卿と違って」
 この人物はドラクルにとっては敵でも味方でもないし、その時の状況次第によって簡単に裏切るだろうし、逆にどこで手を貸してくれるかもわからない。
 信じきってはいけないし、だからと言ってその力が借りられるのならば、振り払うにはあまりにも惜しい手だ。
 だが困るのは、彼女の弟にあたるハデスはデメテルを打倒して自らが皇位につかんという目的がわかりやすいのに対して、弟に命を狙われている彼女自身は何を考えているのかわからないということ。皇帝が動くのは自分のためというのは間違いないだろうが、それがハデスのためにもなるとはどういうことだろう。
 他の人間にしてもそうだ。ハデスだけでなく、正当なる王家を裏切って自分についているカルデールや、ブラムス王殺害の際に利用させてもらったシェリダン王、その妹にして彼を追い落とすことを企んだカミラ姫、シェリダン王自身を手に入れることを望んだイスカリオット伯、ロゼウスに好意を持っているヴィヘルム王などはその目的がわかりやすかったのに、デメテルの考えはドラクルには読めない。わからない。何を考え、何を望んでいるのか。
 いや、他に一人だけ――。
 ――兄様。
 自分と同じ、紅い色の瞳が脳裏を過ぎる。
 ――愛しています、兄様。
 ――ロゼウス様は本当に、このローゼンティアに来るのでしょうか?
 先程の話で、ジェイドが口にした言葉が蘇る。
 ――……あの方は、深いところでは玉座などどうでもいいと思っているのではないかと考えます。陛下、人は自分を基準に物事考えます。金が欲しい者は他人も金を求めているのだと、権力を求める者は他者もそうだと。ですが、ロゼウス様は本当に玉座を望んでいるのでしょうか?
 わからない。読めない。エヴェルシードで対面したときのロゼウスの、全てを知ってそれでもなお王位を譲ろうとする発言は、ドラクルには理解できなかった。どうして目の前の女と、あのロゼウスのそんなところが重なる。
 ロゼウスを育てたのは自分だ。だからロゼウスのことを一番よく知っているのは自分のはずだ。そのロゼウスが自分に理解できない存在になるなどと、そんなのは許せない。
 だからあれを手元に置き、閉じ込めるためならば何でも利用して、何でもやってやる。
「まぁ、あなたと弟君の確執のことなど、私にはどうでもいいのですが」
「そうでしょうね。あなたもロゼウス王子という、自分の弟との確執でいっぱいいっぱいだものね」
「あれは、私の弟ではありません。しいて関係性をあげるなら従兄弟です」
「でも、弟だと思っているでしょう?」
 相変わらず人形のように、種類は違えども笑みというその表情は変えずにデメテルが言った。
「十七年間ずっと、弟だと思って生きてきたのでしょう?」
 私は、ロゼウスを。
「そんなことはありませんよ」
「そう」
「ええ。それで、用件はそれで終わりですか? 陛下。その姿を見せにきて、それで」
「ええ。まあ……ああ、そうだ。一つ、大切なことを忘れるところだったわ」
 とっとと話を終わらせてしまおうとしたドラクルに、デメテルは何事か思い出したように口を開く。記憶の中を探るように、口元に白い指を当てた。
「ええと……そうね。これとこれはあなたに言ってもしょうがないことで……そうだわ」
 そうして世界の命運をその手に握る皇帝は、また一つ、流れる星のように儚い一つの命の終わりを告げた。
「あなたのお友達のセルヴォルファス王。ヴィルヘルムとか言ったかしら。あの子、もうすぐ死ぬわよ」
 ドラクルは弾かれたように顔を上げた。