第11章 薔薇の覚醒(2)
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「お休み。ヴィル。……お前はもう、何も心配しなくていいんだよ」
だって、お前にもう未来はない。
死んでしまえば、もう明日の心配などいらないだろう?
それは、あるいは最後の慈悲だった。
「じゃあね。ヴィルヘルム」
そう言って、あまりにも簡単に、当然のように俺を棄てていこうとするから、だから俺は悪くない。この手が血に濡れているのも、目の前の景色が血に濡れているのも、何もかも、目の前の男のせいだから。
「あーあ」
ロゼウスは微かに疲れたような顔をして、溜め息とともに吐き出した。
「やっぱりこうなっちゃうのか」
傷口を押さえたその手は血に濡れている。ヴィルヘルムが刺した傷を手で押さえる、出血に弱い一族の出である彼はすでに蒼白な顔をしていた。普段から白い肌から血の気が消えうせ、さらに翳りのある表情をしている。
「ロゼといい……どうも俺は、こういう結果を引き寄せる体質なんだろうな。この身体の本当の持ち主であるロゼウスが、どうであるかまでは知らないけど」
翳りはあるけれど、その表情に悲壮感はない。ただ淡々と物事を受けとめている。何も変わらないその表情。
青褪めているのはヴィルヘルムのほうだ。
「まぁ、結局にしろ、何にしろ、こうなっちゃったのは仕方ないよね」
深手を負わせたのはヴィルヘルムの方なのに、未だ怯え、惑っているのも彼の方。短刀を握る手から力が抜け、刃が床へと滑り落ちる。灰色の石に落ちた鉄の刃はカラン、と硬質な音を立てた。足元で響いたそれですら、今の世界からは遠い。
「どうして……」
「どうして? 俺を刺しておいて、それはないよね? ヴィル」
ロゼウスの微笑みは美しい。それだけで、世界の全てがどうでもよくなり、ただ頷いてしまいたくなるほど。
だけれど、ヴィルヘルムに残された最後の理性の一欠けらが、それではいけないと警鐘を鳴らしていた。
「違う! 俺じゃない! 俺が攻撃を仕掛ける前に、お前が俺を殺そうとしたんだろう!」
短刀を握って、それを急所に向けて繰り出したのは咄嗟の反応だった。じゃあね、ヴィルヘルム。そんな言葉とともにこちらの命を奪う位置へと正確に伸ばされた狂気のような爪を、それで弾くとともに反撃を食らわせていた。
その証拠に、ヴィルヘルムの頬からは一筋の血が流れている。ロゼウスがヴィルヘルムを殺そうとした際に、ヴィルヘルムが動いたために急所を捕らえそこね頬を刃が掠った。その時の血。
あの時、ロゼウスはヴィルヘルムを本当に殺すつもりだった。これまでもそう言った不穏な敵意は感じたことがあるけれど、今日のこれとは全然違う。迷い、躊躇いながらも刃を繰り出すのではなく、微塵の逡巡もなく振り下ろされたそれ。いつもと違って、今日のロゼウスにはヴィルヘルムを殺そうとすることに対する躊躇いも戸惑いも罪悪感も何もなかった。覚悟を決めたというよりも、始めからヴィルヘルムを殺すのに理由などいらないだろうという、そんな虚無。彼の境遇と自分がしたことを考えればいつどんなやり方で報復と言う名の刃を浴びても仕方ないとは考えていたけれど、今のロゼウスにはその感情さえなかった。全くの無だった。
虚無。読めない。何を考えている?
「俺を殺すの? ロゼウス……」
ロゼウスがヴィルヘルムを憎んでいるのならばまだわかる。それだけのことをしたし、毛虫のごとく嫌われていたっておかしくない。顔も見たくないと唾を吐きかけられたって当然だと受けとめられる。だが目の前の男の反応は違うのだ。
「ああ。そうだよ。ヴィルヘルム。俺の目的には、お前の存在が邪魔なんだ」
「だから……殺すの?」
「ああ。そうだよ。俺がお前を殺すのは、お前が憎いからじゃない。お前を殺したいほど嫌っているわけでもない」
そして何よりも残酷なことを言う。
「邪魔なんだ。どうでもいいんだよ、お前なんか」
これはロゼウスじゃない。あの日以来、何度も覚えた違和感だった。目の前のロゼウスの身体の中に、誰か別の人間がいるかのようなその違和感。おかしいおかしいと思いながらも、与えられる温もりが心地よくて見てみぬ振りをしてきた。だってヴィルヘルムにとってはその方が都合が良かったから。
そのツケを、今、こんな形で払う羽目になるなんて。
「どう……でも、いい? 俺のことは」
「ああ。お前の存在も、心も、お前がしたことでさえ、俺にとってはどうでもいいんだ」
にっこりと、本当に美しくロゼウスの顔でそれは笑う。
ヴィルヘルムの大好きなロゼウスの顔で、その身体で、けれどロゼウスのものではない言葉を紡ぐ。でもその内容自体は、ロゼウスが思っていてもおかしくないことでもあり。
だからこそ、なおさら憎しみが募る。
「――ぁあああああああッ!!」
頭の中、何かが切れた。瞬間、視界が怒りと別の何かで真っ赤に染まる。
腰の剣を引き抜き、微笑んだまま佇んでいるロゼウスへ向けて一直線に斬りかかった。造作もなくその爪で受けとめられてぎりぎりとお互いの刀身を削りながら、至近距離で見詰め合う。
「お前は誰だ! ロゼウスを返せ! お前なんかに勝そんな手な事はさせない、言ってもらいたくなんかない!」
「誰だとはご挨拶だな、ヴィル。俺はロゼウスだよ。お前の大事な」
「違う! お前はロゼウスなんかじゃない! 一体誰なんだよ!? お前は何が目的なんだ!」
「目的?」
ふっと、ロゼウスの中の誰かが、皮肉に唇を歪める。
ああ、知らない。
俺はこんなロゼウスは知らない。こんなの、ロゼウスじゃない。
「俺の目的は、ロゼッテ=エヴェルシードって人物を探すことだけど、どうせお前に言ってもわからないだろう?」
「エヴェルシード?」
ロゼッテという名前には確かに聞き覚えはない。けれど、その姓はエヴェルシード。ああ、また、と思った。
また、奪われるのか。シェリダン王に。ロゼウスを好きだったのは、自分の方がずっとずっと先立ったのに、後から現れたあの男はいとも簡単にロゼウスの心を捕らえてしまった。こうしてセルヴォルファスにいる間、ロゼウスは困った顔でヴィルヘルムの相手をしながら、いつもシェリダン王のことを気にしていた。彼が自分を返せと叫ぶ先は故郷であるローゼンティアではなく、シェリダン王と共に過ごしたエヴェルシード。
「やっぱり、それが答なんだ……」
ロゼウスは傷口から手を離す。もう血は止まり、傷自体も癒えてきたらしい。普通に歩き出そうとするその姿にもう一撃を加えようと繰り出したヴィルヘルムの剣を、またも鋼のような爪で受けとめられる。
魔力で一時的に鍛えたそれを使い続けるのはやはり負担が大きいのか、ロゼウスは、ヴィルヘルムの剣を退けると一度爪をもとに戻した。そしてさっと何もない場所で腕を一振りすると、次の瞬間にはその手に中に見た事のない剣が現れていた。よくハデスのやって見せる魔法のように簡単に、武器をその手にした。
「心は決まったようだね。ヴィルヘルム」
「うん。決まった」
ずっと先延ばしにしてきた。憎まれ嫌われ疎まれることになるとわかっていても無理強いして鎖に繋がなければ引き止められなかったその感情。自分のもとを離れようとするその生き物を閉じ込めるために、あらゆる手段で足を折ったら、それは羽を持っていた。そんな裏切り。
「いかせない」
それは行かせない? それとも生かせない? 自分でももう、どちらなのかわからない。
ただ自分とロゼウスが剣を手に取り戦いあうこの状況は、ずっと前から必然として用意されていたんだと言う事。どうにかして回避したかったけれど、やはり止めることはできなかった。
ロゼウスの性格はいきなり変わってしまったようでそれには驚いたけれど、もともとの彼の主張とこの状況は何一つ変わっていない。歯車を狂わせていたのは目の前のロゼウスの顔をした誰かではなく、本物のロゼウスのほうだった。ヴィルヘルムを殺すのが一番の近道だとわかっていながら刃を振り下ろす手に迷いを生んでいた、本当のロゼウス。
だけどどちらにしろ、彼が一番大切な人間があのエヴェルシード王で、彼に再び会うためにヴィルヘルムを捨てようとするという図式は何一つ変わっていない。これまではヴィルヘルムを一思いに殺すことを躊躇って、その隙をヴィルヘルムに衝かれて失敗していたロゼウスから、その逡巡も躊躇も消えただけ。
俺を殺そうとするその意識に、何の遠慮もなくなっただけ。
感情が変わっただけで行動の結果は変わらない。どんな過程がそこにあったところで、出てくる結果に反映されなければ意味はない。
結局お前はシェリダン王を選ぶんだ。俺ではなく。だったら。
「いかせない」
シェリダン王の元に戻るくらいなら殺す。俺のものにならないなら誰にも渡さない。
「ああ。そうだ。もっと早くこうしていれば良かった」
そうすれば、昔を思い出して切なくなったり、自分に向かうロゼウスの眼差しの一つ一つに一喜一憂したり、最後の最後で躊躇いのない刃を向けられてこんな想いを味わうこともなかったのに。
手に入らないのであれば殺してしまえ。
「そうだね」
ヴィルヘルムの言葉を、ロゼウスは否定するでもなく、ゆったりとした笑みさえ浮かべながら肯定した。それは絶対の権力を持つ神の言葉のように力強く揺ぎ無い。まるで呪いのように心の隅々に染みこんだ。
「殺してしまえばいいんだよ。どうせ自分のものにならないんだったら。だからヴィル、お前も俺が欲しければ殺せばいいよ。俺はお前なんていらないけれど」
笑顔で告げられたその言葉は文字通りの死刑宣告。だからこそ、俺は。
「――ロゼウス!!」
吼えて、ヴィルヘルムはロゼウスに斬りかかった。
◆◆◆◆◆
眼下で戦闘が行われている。
「ふぅん……」
荒野の岩壁に立つセルヴォルファス城と言っても、庭がないわけではない。狭い部屋の中では存分に戦えまいと、少し前に彼らは場所を移していた。灰色の廊下を歩く二人の姿を、セルヴォルファスの召し使いたちが何事かと言った顔で見ていた。その光景を、ジャスパーは更に二人の後ろを歩きながら見ていた。
途中で立ち止まり、進路を変える。間違ってもとばっちりなど食いたくないから、上の階の、庭の様子が見下ろせるバルコニーの方へと。手摺りに身を乗り上げて、ともすれば落ちそうなほど顔を寄せた。
花壇もなく修練場と言った方が正しいような殺風景な中庭では、すでに戦闘が始まっていた。
ジャスパーの兄であるロゼウスと、セルヴォルファス王ヴィルヘルム。二人の戦闘は、熾烈を極めていた。吸血鬼と人狼。温室の王子と王。十七歳と十六歳。その他諸々の諸事情を差し引いても、二人が互角で戦えるというのは凄いことだと、彼だけが知っている。
ロゼウスが剣を繰り出し、ヴィルヘルム王がそれを受けとめる。二人ともある程度得物を駆使しているけれど、やはりいざと言うときには爪が出る。魔族の特徴の一つとして、ただの人間よりも強靭な肉体というものがある。だからこそ、ここぞと言うときにはそれが何よりも強い盾となり、武器となる。
「楽しそうですね。兄上」
ジャスパーはバルコニーから眼下の戦闘の様子を見下ろす。正しくは、兄の様子を見下ろす。セルヴォルファス王のことなどどうでも良い。
ロゼウスの力は、今のこの一瞬一瞬に強くなっていく。
正確にはロゼウスというわけではなくて、その中身は始祖皇帝候補にして選定者という制度を世界に押し付けた三千年前のヴァンピル、シェスラート=ローゼンティアなわけだが、そのシェスラートが引き出している肉体の力は、もともとロゼウスが持っていたものだ。
「……兄様」
ここから見える戦闘。そこで戦っている人は、僕の兄様。兄様であって兄様ではない。兄様の身体をシェスラートが勝手に使っている。
ジャスパーはそれが少しだけ不安になる。
「兄様、どうか……」
ヴィルヘルム王と剣を交わすロゼウスは楽しそうだ。
はじめこそただ、ヴィルヘルム王が邪魔だという、その感情だけで彼は動いていた。目的のために邪魔なものは排除する。それがシェスラートの思考。だからロゼウスをこのセルヴォルファスで自分の傍に置いておきたいヴィルヘルムの存在は不愉快なもので、シェスラートがヴィルヘルムに剣を向ける事は当然だ。むしろ、最初に優しくしたのが何でだかジャスパーにはわからないくらいだ。
けれど今となっては、シェスラートはそんなことどうでもよくなっているようだ。ただ純粋に戦いを楽しんでいる者の目をしている。
ヴァンピルが一定の線を越えてしまうと辿り着いてしまう、狂気の淵。彼らはいつもいつも、そこに落ちないようにそこへと閉じ込められないように、それだけを気をつけて生きている。狂気に陥り理性の箍を外したヴァンピルの力は強大だ。だからこそ、その強大な力を野に放ってはいけない。そのために彼らには制限が存在する。ヴァンピルの魔力を迂闊に解放しないための重石のようなものがいつも心の底にあって、簡単に理性を手放すことはできない。それ故に人狼よりも、力の制御は難しい。
だけど、その制限を自分に都合の良いように、力の制限を完全に自らで御することのできる存在がいたならば?
ならばその者は、間違いなく完全な存在だろう。目の前のシェスラートのように。
獲物を嬲る獣のようにぎらついた殺戮の欲に濡れた瞳でヴィルヘルム王を見ている彼は、確かに強力な存在だ。単なる力の強さではなく、それは力の制御を自在にこなす精神力の強さを意味している。
歴史の資料によれば、初代皇帝に仕えたという彼は、ゼルアータを打倒する解放軍の一人として人間の中で暮らしていた時期があるのだという。だからだろうか。自律の心が強く、その分箍が外れたときの反動も強い。
魔力の制御をすることは、酒に飲まれぬようにすることと一緒だと、かつて誰かが言っていた。泥酔や酩酊状態に陥るよりも、自分が酔っているのだと高揚した気分でいる自分を理解しているその状態が、一番心地よいのだと。完全に酔いに溺れてしまっては、後には苦痛が残るだけだと。酔う自分をどこかで冷静な別の自分が眺めていなければならない、とその人は言った。
狂気も魔力の制御も、それと似たようなものだという。
どちらもそれに溺れすぎても、それに酔う状態が強すぎてもいけないのだと。淵に立ち止まり、そんな自分を見つめるもう一人の自分が必要なのだと。
ロゼウスにとっては、それが魂の奥底に潜むシェスラートという存在だった、それだけのこと。
眼下でロゼウスの剣が、ヴィルヘルムの持っていた武器を跳ね飛ばす。次の一撃を咄嗟に受けとめた彼の爪ごと斬りおとした。ああ、もうすぐ決着がつくだろう。
わかっている。これは必要なことだ。ジャスパーはちりりと焼け付くように疼く胸を、ひっそりと宥める。
ロゼウスは優しいのに酷薄で、自分の興味のない相手には本当にどうでもいいような感情しか向けないけれど、でも一度懐に入れたものには弱い。それこそ淡白で誰かに溺れてしまう姿など滅多に見かけないけれど、小動物を可愛がるように人を目にかける人だと言う事は知っていた。
その感情の方向や種類がどういったものかはともかく、ロゼウスでは、ヴィルヘルムを手にかける事ができない。だから、シェスラートが出てきた。
そういうことなのでしょう?
《――》の目覚めには、彼の存在も必要だった。シェスラートはそのために必要とされた。ロゼウスの真の力、薔薇の覚醒を促すために。
だけれど、不安になる。目覚めるとは言葉の上だけで、本当はこの道はロゼウスがどんどんシェスラートのようになっていってしまう道なのではないかと。このままロゼウスらしい部分が全て消えてしまって、最後にその身に残る魂がシェスラートのものだけと言う事態になりはしないかと。
「そんなの駄目だ、兄様。あなたはあなたでいてくださらないと」
世界に望まれているのは、ロゼウス=ローゼンティア。他でもないあなただから。
「そうでなければ、僕は何のために――ッ!」
何かを考えようとした瞬間、突然頭に痛みが走った。蹲ってこめかみを押さえる。背中に脂汗が伝った。
今のは一体なんだったのだろう。知らず詰めていた息を吐く。
ひょっとして、これは考えてはいけないことなのだろうか。ジャスパーはロゼウスのためだけに生まれてきた。だから、それに不必要な人格は消去される。……自分の体の中で実際どんな変化が起こっているのかはわからない。でも、そういうものなのだとは、知っていた。
だから考えなくてもいい。考えてはいけない。
ジャスパーはただ、ロゼウスのことだけを考えていればいい。
バルコニーの下で剣戟の音が止んだ。
「兄様……」
ジャスパーは手摺りに縋り付いて、身体を持ち上げる。首を伸ばして、その光景を覗き込んだ。
「兄様……っ!」
ああ、だんだんと、ジャスパーという存在の中から、自分自身も消えて行く。