荊の墓標 28

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「は? 金欠ぅ?」
 事態を報告した瞬間、その男はそうして小ばかにしたように眉をあげやがった。
「お前たち……そんな理由でこの場所で海賊やってたのか……」
「なっ! いいじゃないのよ! あんただって似たようなものでしょ!?」
「私たちが似たようなものかどうかはともかく、海上での略奪行為は普通に考えて違法なのだが……」
 いいわけないだろ、と。数週間ぶりに見るシェリダン……シェリダン=ヴラド=エヴェルシードは言った。彼は相変わらずだった。
「ロザリー、お前たちは私たちがトリトーンの港に辿り着くよりもよほど早く海に出たはずだと思うのだがな……」
「う、うるさいわね! 仕方ないでしょ! そうなっちゃったものは!」
「しかも、素人だけで航海しようという考えがまず無謀もいいところだ……いくらお前らが半分不死身のようなものでも、さすがに溺れたら死ぬだろう」
「だから、悪かったわね! あんたたちみたいに港で暴れて海賊脅迫するってそれもどうなのよ!」
 ロザリーの最後の台詞に、それまでマストの柱の影や船内へ繋がる入り口の隙間で様子を窺っていた向こうの船の海賊たちが揃って頷いた。
「とにかく落ち着け。事態を整理しよう」
「というか、船、進めないか? せっかく人手揃ったし……なぁ、俺たちももちろんローゼンティアに連れてってくれるんだろう? シェリダン王」
「アンリ王子……もちろん連れて行ってはやるさ……せいぜい私とクルスをしっかり案内しろ……」
「ああ。約束するよ。取引完了。じゃ、俺たちもこっちの船に移っていいか?」
 もう知るか。どうにでもなれ。そんな感じでシェリダンはロザリーの乗船を許可した。ちゃっかりと取引をつけたアンリを先頭に、ロザリーたちローゼンティア王家の者たちはは皆して、シェリダンが脅迫行為によって手に入れたという海賊船へ移った。
「で、実際問題、本当に俺たちは困ってるんだ。何しろあの時着の身着のまま出てきちゃったから、金がなくてさ」
「ああ、そうだろうな……途中で稼ぐとか考えなかったのか?」
「いや。そういう頭はなかったなぁ。そんなゆっくりしている時間もないと思ったし。あんたがエヴェルシード王城で俺たちに着せてくれてた服、あれが絹製で高価なもんだったからしばらくはそれを売った金で凌いでたんだけどね」
「それは良かったな……時間がないというのに、イスカリオットに足止めされて後から海に出てきた私たちに追いつかれたのか?」
「う! 痛いところつくなぁ。でも、本当に大変だったんだってば。何しろ――」
「シェリダン王」
 アンリとシェリダンの気の抜けるような会話に、凛とした一つの声が中断を入れた。
「サライ」
 銀髪に紫の瞳の、物凄い美少女がシェリダンに声をかけた。ロザリーたちもその人の姿に、思わず動きをぴたりと止めてしまった。こんなに綺麗な人は見た事がない。ミザリーは別として。
 だがそういえば、そのウィスタリア人の美少女は、どこかミザリーに似ているような気がする。
「どうでもいいから。さっさと船を動かすわよ。行くのでしょう? 薔薇の王国、死神の眠る国へ」
「あ、ああ」
 ロザリーたちが乗ってきたボロ船はシェリダンたちの海賊船の後尾に繋がれて行くこととなった。あの海賊船も、もとはどこかから奪い取ったものである(実はロザリーたちも人の事は言えない)。ただし海賊の船員込みではなかったから、ロザリーたちは本当に五人だけで海の上を進んでいた。それがシェリダンたちの船に移って、少しだけ余裕ができる。
 この船の上では細かい仕事は全部もとから海賊の船員たちがやってくれるとのことで、ロザリーたちはシェリダンと、これまでのことと、これからのことを含めた話に入る。
「そっちのチビどもは、随分疲れているようだな」
「え? ああ、まあ、長旅、だったからね」
 シェリダンの指摘に、アンリが苦笑を浮かべた。ウィルとエリサが疲れてもう動けない様子である理由は実際はそれだけではないのだが、大声で言うのは憚られる。
 ただ一つ言える事は、本来、ローゼンティア人、ヴァンピルの海賊などいないということ。ロザリーたちはそれをわかっていて、無謀にも海に出た。シェリダンたちと違って船を奪った際に人間の海賊たちまでも連れてこなかったのにも理由がある。
「船内で休んでいていいぞ? 部屋ならクルスに案内させる」
「ああ……ありがとう」
 アンリはエリサを抱き上げ、ミザリーがウィルの手を引いてユージーン侯爵の案内で船室へと向かった。ロザリーはぽつんとただ一人その場に残って、シェリダンと顔を見合わせる。
「あの、シェリダン……」
「なんだ?」
 頼みごとをするなら、この場合シェリダンが一番都合がいい。わかっているのに、ロザリーは躊躇った。
「シェリダン王~♪」
「わぁ!」
 その隙……隙にかどうかはともかく、またしても艶やかな声が今度はロザリーとシェリダンの間に割って入った。きらきらと光を弾く銀髪が軽やかに跳ねて、一人の少女がシェリダンに飛びつく。
 甲板の上でのやりとりに、辺りの海賊たちの視線が一度こちらに集まる。けれどその少女が手を一振りすると、男たちは見てはいけないものを見たかのように、そそくさと作業に戻っていった。
「何の用だ? 呪いの女神」
「呪いとは失礼ね。いいじゃない。私が私の子孫と話したくって何が悪いの?」
「だったら最初からロザリーに飛びつけばいいだろう?」
「あら。いきなりそんなことしたら吃驚するじゃない。ねぇ?」
「え? は、はい」
 その人物はとても綺麗だが、同時にどこか掴みにくい人だった。凛然としているのに奔放で、どこか人をひきつけずにはおられない魅力を持った女性。そんな女性が、今はシェリダンの隣にいる。ロザリーは少しだけその光景に、胸の痛みを覚えた。
 二人としてはこのまま二人の世界に入ってしまうつもりはさらさらないようで、サライと名乗った銀髪の少女はロザリーへと向き直った。
「初めまして。ロザリー=ローゼンティア。私はサライよ。逢いたかったわ」
「は、はじめまして。ロザリーですけれど……会いたかったって?」
「この女の言う事は気にするなロザリー。事態がややこしくなるだけだから、説明は後にしてくれ……」
「あ、うん」
 にこにこと笑顔で手を差し伸べるサライとは打って変わって、シェリダンはなんだか苦虫を噛み潰した顔をしている。ロザリーはサライに両手をとられ、その神秘的な紫の瞳に見つめられながら、彼女の言葉を聞いた。
「ここまで。よくがんばったわね。よく我慢してきたわね。偉いわ」
「え……」
 サライは声を潜め、ここにいるロザリーとシェリダンだけに聞こえるような声量で話す。
「海上では人間の血が調達できない。だから、ヴァンピルの海賊は通常存在しない。吸血鬼の性質くらい理解しているつもりよ? 何しろ、あの人がそうだったから。そのために船に人間の船員を乗せなかったんでしょ?」
「!?」
 ただの人間にこうもあっさりと事情を見抜かれたことにロザリーは驚き、一方シェリダンはハッと気づいた顔で彼女を見ていた。そうなのか、と小さく尋ねられて、頷く。
「うん……うん、そう、よ。でも、あなたは、どうして――」 
 ロザリーは困惑の眼差しを、シェリダンではなく目の前のサライと名乗った少女に向けた。けれど美しい、ミザリーに似た美しさとロゼウスのような性格を併せ持つ少女は答えない。
「じゃ、後は二人でよろしく。向こうのアンリ王子たちも大変だと思うから、シェリダン王、クルス卿を貸してね」
「え……あ、ああ」
 この場合の貸して、は「ユージーン侯爵を使わせて」というより「侯の血を飲ませてね」に等しい。ロザリーたちヴァンピルの一回の吸血量なんてほんの一舐めだからたいした量ではないのかもしれないが、普通の人間はこういう発想はまずしない。
「許せクルス……」
 半ばサライの勢いにつられて頷いてしまった感のあるシェリダンが、サライの後姿が船室に消えていくのを見送りながら十字を切る。
「ロザリー」
「へ?」
 あまりの事態についていけず、ぽけっとそれを見ていたロザリーは、ふいにシェリダンに名を呼ばれて我に帰った。そしてまた我をなくしそうになる。
「シェリダン……」
「必要なのだろう?」
 いつの間にか小刀を取り出したシェリダンは、それで自らの指の先を傷つける。白い指先に膨れ上がった紅い血の珠の鮮やかさと甘い香りに、ロザリーはくらりと眩暈を覚える。
「い……の?」
「ああ」
 掠れ声で尋ねたのに、普段どおりの頷きが返ってきた。伸ばされた指をロザリーは自らの唇に含み、その久方ぶりの味を堪能する。
 身体の奥深くで、今にも暴れようとしていた何かがざわりと蠢いてようやく落ち着く。恍惚として、一瞬に目が覚める感覚。舌の上に鉄サビの味が残った。
「ご、ごめんなさい……」
「いい。気にするな。そういう習性なのだから仕方ない」
 ロザリーがシェリダンの指を離すと、彼はその手をもう片手で拭うでもなくただ手首を押さえ込んで支えた。俯くその表情には翳りができていて、何があったのかと彼女は不安になる。自分は何をやったのかと。
「シェリダン……あの……」
 よくわからない羞恥だかなんだかで頬が熱くなるのを感じながら、ロザリーは目の前の少年になんとなく言葉をかけならければならないように思っていた。名前を呼んですでに話すことの尽きた内容を悟らせないままに、先にシェリダンの言葉によってそれは封じられる。
「……は」
「え?」
「ロゼウスは……今頃どうしているのだろうな」
 炎の色をした瞳の少年のその心を占めているのは、いつもただ一人。
 そしてその人は、ロザリーの大切な兄でもある。
「ロゼウス……」
 彼らは二人、遠くの人を思って海の果てに視線を移した。

 ◆◆◆◆◆

 もう、そんなこと、とっくに知っていた。世界は自分を置き去りに動いていく。それでも、何かできることがあるのならば。
「……っ、ロゼウスと、シェリダンは……」
 乾いた風が頬を撫でた。足元の暗緑色の輝きを放つ魔方陣が消えた瞬間、移動の際は軽減されていた重力が病みあがりの身体にのしかかる。苦しい。
 ここはだいたい、シュルト大陸ルミエスタ王国の辺りか。エヴェルシードともローゼンティアとも、少し距離がある。
 風の中に混じる魔力が針のように鋭く肌を刺す。ハデスに向けられた敵意でもないものが、びりびりと伝わってくる。
 辺りは暗く影が落ち、それは緑の葉の形をして揺れる。ここは木漏れ日も届かない樹海の中のようだった。
 魔物に送られ、冥府から地上へと戻った歯ですを待っていたのは、北の方で誰かと誰かが戦う気配だった。魔術師としての感覚を大陸全域に広げ、その気配を探る。あの方角にあるのは、人狼の国セルヴォルファス。争う二つの大きな気配は、どちらも知ったものだった。
「ロゼウスと、ヴィルヘルムが……」
 ハデスは袖をまくりあげ、自らの右腕を見た。露になったその場所には、これまでその存在を主張していた痣がかなり薄まって残っている。皮膚を移植されたためにそこだけ色の違う肌の上の黒い紋章。今はもう目を凝らさないと見えないほどになっている。やがて完璧に消えるだろう。
 そうなった時こそが、ハデスの真の戦いの始まりだ。
「これまでどんなにやっても、誰をどうけしかけてもあいつを殺す事はできなかった。まだ機会が来ていない……せめて、前皇帝が廃されないと、次の後継者は生まれないから……」
 これまで何度も、予言の能力を使ってその未来を見た。けれど、何をやっても、いつも結果は同じだ。ハデスの望みは叶わず、世界はロゼウスのものになる。
「そんなの許せない……許さない」
 薔薇の王子ロゼウス。どうしてだろう。その存在を知った時から、ハデスはロゼウスの全てが憎かった。その存在自体を全霊をかけて憎み、疎んだ。ロゼウスがハデスを知るずっとずっと前から、ハデスはロゼウスを憎んでいた。その燃える憎悪は、まるで激しい恋のようにハデスを縛り付けて解放しない。
 恋ならばまだ楽だったのだろう。
 どんなに心が遠くても、相手が自分を見向きもしなくても、それならばそれで、足元にひれ伏して身を差し出せばいい。踏みつけられて打ち棄てられる側でも特別になれれば、それで満足できるはずなのに。
 ハデスの身に巣食うこれは紛れもない憎悪だ。誰よりも自分がわかっている。だからこそ、ハデスはロゼウスがそこにいる限り救われることはない。
 ロゼウス=ノスフェル=ローゼンティア。
 薔薇の王国ローゼンティアの、第四王子にして真の王太子。この世で最も強い力を持つ王となるべく、選ばれた存在。
 彼の兄として育てられたドラクルは、ロゼウスを憎んでいる。何故ならロゼウスは、ドラクルのはかじるしだから。ロゼウスがいることによって、第一王子であったはずのドラクルはその存在価値を失う。生まれてきた意味もその命も、無駄なものとなる。その能力値において全てが彼を上回るロゼウスが生まれてきたから。
 彼の憤りを、ハデスは少しだけわかる気がする。なぜならハデスにとっても、ロゼウスは墓標だから。
 ロゼウスが《――》になれば、ハデスはその価値を失う。そのためだけに生まれてきた役割を別の人間に奪われ、何の意味もなさない人間となる。一度も自らの手で何かをなしたことがないまま。
 そんなのは御免だ。
「……やってるな」
 セルヴォルファスの方で、強い二つの気配が戦っている。ヴァンピルのロゼウスとワーウルフのヴィルヘルム。どちらもただの人間でしかないハデスにしてみれば、物凄い実力の持ち主だ。ハデスは間違っても、二人と正面から戦うなんてできない。それはロゼウスはもちろんのこと、優秀な兄たちを亡くして突然玉座が転がり込んできた未熟な国王、ヴィルヘルム相手でも同じだ。
 ハデスはヴィルヘルムや他の人々のように真正面からロゼウスと向き合う実力がないからこそ、何重にも罠を張る。
 魔方陣のあった場所から移動して、とりあえず歩いてこの地上で身体を動かす勘を取り戻しながら、これからの動きを考える。
 ロゼウスを止めなければ。なんとしてでも。彼が完全に自分の中に眠る力に目覚めてしまったら、もうどうしていいのかわからない。冥府の王の力は、所詮は《――》には遠く及ばない。悔しいことだけれど。
 ヴィルヘルムには悪いが、彼ではロゼウスには勝てないだろう。可哀想な狼王。彼に忠告をしてセルヴォルファス王になるよう仕向けた時には、ハデスにはまだその後の未来は見えていなかった。まさかヴィルヘルムがロゼウスに惚れるなんて、誰が予測できただろうか。何しろロゼウスは男だ。いくら見た目は綺麗だからって、欲情するなんて冗談じゃない。それでも、ヴィルヘルムは数年越しでも彼を手に入れるための行動を起こすほどに、ロゼウスに惹かれてしまった。
 あれは魔性だ。全てを引きつけながら、触れたものは皆その鋭い棘で刺し殺す。鮮やかな大輪の花を咲かせながら、いざとなると心は誰にも許さない。だからこそ、薔薇の王子。
 もしもこれから先、ロゼウスに干渉できる余地があるとしたら、その人物はきっと、ロゼウスにすら心を開かせるような人間だけ。
 唯一彼の魂に言葉を響かせた、シェリダン=エヴェルシードだけ。
 ふと傍の木の幹に手をついて立ち止まり、ハデスは再び魔力の探査網を伸ばした。意識を集中して、ロゼウスやヴィルヘルム、ドラクルなどの強大な力を持つ存在たちに比べればか細いほどに力のないシェリダンの気配を探る。力はないけれど、シェリダンの気配は特徴的だ。燃え上がるような朱金の炎のような生命力をしている。
 いた。海だ。それも、ローゼンティアに近い。そういうことか。
 シェリダンの位置と、彼の側にまた複数のヴァンピルの気配があることから大体の思惑は読めた。海側からローゼンティアに侵入し、まず奇策でもってドラクルを落としローゼンティアの王権を取り戻す気だろう。ロゼウスとどこまでそれを打ち合わせているか知らないけれど、野放しにしておいたら厄介なことになるに違いない。 
 何しろこの世界において、ロゼウスという存在に干渉できるのはシェリダンだけなのだ。逆に言えば、ロゼウスを直接害することができずとも、シェリダンの方を上手く誘導すればロゼウスを破滅させることができる。
 ハデスはもともとそのためにシェリダンに近づいた。笑顔を浮かべながら誰にも心を開かないロゼウスの運命に介入するには、それだけロゼウスの心の奥底に触れられる存在が必要で、それはシェリダンをおいて他にはいなかった。特筆して優秀でも高貴でもない、庶出のエヴェルシードの王が、どうしてそれほどまでに……。
「そして、それでも、僕は……自分の目的を諦めきれない」
 ヴィルヘルムがロゼウスに惹かれることを予測できなかったように、ハデスもまた、シェリダンごとロゼウスを罠に嵌めるためにあの炎の瞳の少年を利用することに対し、こんなにも苦しくなるなんて、考えもしなかった。