荊の墓標 28

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「がっ! ぐは!」
 圧倒的な差だ。戦いにすらならない。
「なん……でっ!」
 なんで、なんでここまでロゼウスが強いんだ!?
 左脇腹を狙った蹴りに対し、ぎりぎりで避ける。かわした先を読まれて、右肩に打撃が来た。
 剣などとうに折れて庭の片隅に打ち捨てられている。ヴァンピルとワーウルフなら、素手でやりあう方が攻撃力は大きい。そして攻撃力が大きいと言う事は。
 殺す気だ。
 ヴィルヘルムが持っていた武器は短刀だったが、すぐに弾き飛ばされた。ロゼウスの長剣もへし折って、これで状況としては互角。
 肩、右の太腿、一度決められた鳩尾、じくじくと痛みを訴える各部位を無視して、痺れた手足を動かす。
 ヴィルヘルムのほうもロゼウスに全くダメージを与えられていないわけではなくて、彼の白い頬にはヴィルヘルムの爪で切り裂いた紅い筋が走っている。
 迷いない足取りで向かって来るロゼウスの首筋を狙って、また爪を繰り出した。
「チッ!」
 向こうの膝蹴りを横に飛んで避ける。ヴィルヘルムの爪はロゼウスの首を僅かに掠り、紅い鮮血が黒い土に散った。
 吸血鬼の一族は出血に弱い。逆に人狼は出血は勿論、あらゆる怪我や負荷に強い。一対一で戦えば、いくらヴィルヘルムがそれほど優れた人狼ではなくとも、そんなあっさりとは負けないはずだった。
 さすがにかすり傷でも急所である首の傷は気になるのか、ロゼウスは片手を先程の傷に当てている。出血に弱くとも傷の再生能力は人狼を遥かに上回るヴァンピルだから、時間を与えればあの程度の傷、すぐに塞がってしまうだろう。
 ロゼウスが動かない間に、ヴィルヘルムの方から今度は攻撃を仕掛ける。ヴィルヘルムの方は殺すつもりはなく、けれど相手は死の淵からも甦るというヴァンピルだからこそ、殺してもいいやというような気分でやっている。いいや、むしろそうでもなければ、確実にこちらが殺されてしまう。
 それほどに、今のロゼウスは強い。
「でやあ!!」
 腹部を狙った蹴りはあっさりとかわされた。もう血は止まったらしく、首から手を離して彼のほうも襲い掛かってくる。伸びた腕を逆につかんで、その勢いを利用して放り投げた。地面に叩きつけようとした勢いの方は上手くロゼウスに殺され、拘束が弱まった瞬間に逃出される。駄目だ。向こうの方が断然器用だ。
 速さで勝負するなら、本当は狼の姿に戻った方がいい。だけどそうすると、人型同士ならある程度読めるお互いの急所に関する認識が変わってしまって、逆に相手がヴィルヘルムの身体のどの部分に攻撃を入れたいのかが読めなくなる。
 さらにもとからロゼウスより小柄なヴィルヘルムの体格では、狼型になるとさらに小さくなってしまい腕力が乗らないのだ。ロゼウスは女のような細腕のくせに、怪力を誇るヴァンピルの一族だけあってもとから力が強い。今まではそれをどこに隠していたのかと思うくらい――強い。
 考える間にも、相手の魔力で伸ばした鋭い爪が迫っていた。爪も牙も、種類こそ微妙に違えど何もワーウルフの専売特許ではない。短い舌打ちに次いで今度は鋭い手刀が振り下ろされる。横にかわし、回転をかけた蹴りを屈みこんで姿勢を低くすることで避けたヴィルヘルムは、一瞬ロゼウスの表情を見た。
 ぞくり、と背筋に嫌な震えが走る。
「ロゼウス……!」
 削られた体力。自分ではそんなに軟弱でもないと思っていたのに、今のヴィルヘルムはもう力を使い果たそうとしている。荒い息で名を呼んだ。
 息一つ乱さず、顔色一つ変えないロゼウスは冷ややかな眼差しをしたまま。
 ああ、これが彼の本性なのか。ヴィルヘルムはようやく悟った。ドラクルの恨みを買い、ハデスが必死で殺そうとしていたわけ。これが、この残酷さがロゼウス=ローゼンティアの神髄。
「ロゼウス!」
 必死で名を呼んだけれど、ロゼウスにはまるで聞こえてもいないような感じだった。自分は目の前にいるのに。ここにいるのに、どうでもいいみたいに。それがむしょうに悔しくて情けない。だから。
「俺は、あんたなんかに負けるわけにはいかないんだよ!」
 だって自分はこれでもセルヴォルファスの王だ。ワーウルフを取りまとめるもので、この国を治める者だ。何でも手に入れることができると言われた存在が、たった一人すら自分のものにできないなんて滑稽もいいところだ。
「これで終わりだ!」
 ありったけの力を込めて、攻勢に転じる。
「ああ、そうだな」
 しかしそんな涼やかな言葉と共に、ロゼウスはあっさりとヴィルヘルムの攻撃をかわした。目にも留まらぬ速さで死角に回り込むと予想外の方向から次の打撃を加えてきた。予想できず、さらにはその状態に備えることもできず一瞬呆然としたヴィルヘルムは、まともにその攻撃を喰らって吹っ飛ばされた。
 胸から腹にかけてを思い切り蹴り飛ばされて、地に転がる。最後の方は、背中と身体の脇で地面をこする形になった。服も破れ皮膚が擦りむけ、じんじんと痛む。けれどそれよりも。
「がっ! ごほっ! ……ぐっ」
 吐き気なんてものではない。吐いたのは大量の血だった。蹴られた箇所を中心に、どこの骨が折れた? どれだけの内臓が潰れた?
 痛い。苦しい。気持ち悪い。寒い。全ての感覚が入り混じり、視界の奥で赤と青の光点が点滅して周囲の景色がぼやける。焼け付くような痛みが腹部から胸部を襲った。
「ごふっ……! けほっ」
 あまりにも濃い血の味に眩暈がしそうになる。粘性のそれのせいで、喉が詰まりそうになった。酷く渇いている。
その間も折れた肋骨が肺を突き破り、息ができない。どす黒い血を吐くたびに傷口が広がって、なおさら苦痛を増長する。
手足と背中が痺れ、意識が、全ての感覚が闇に呑まれそうになる。
「どうなることかと思ったけど……そろそろこの身体にも慣れてきたな」
 ロゼウスの言葉も、もう耳に入らない。音を聞いても、それを言葉と判断するほどの力が戻ってこない。
 だから、ヴィルヘルムがわかったのは、たった一言だけ。
「ぐぁあ!」
 身体を不自然に折り曲げて蹲ったまま血を吐いていたヴィルヘルムの身体を、ロゼウスが首を引きつかんで無理矢理引き上げる。怪我の痛みと絞首による窒息の苦しさで、今度こそ本当に意識が飛びそうになる。
 でもそんな心配は無駄だったのだと、この一言で最期に知る。
「さようなら。ヴィルヘルム」
 うっそりと笑って、ロゼウスは言った。
 ヴィルヘルムの首を締め上げたまま、その手が伸びてヴィルヘルムの胸に触れる。ヴァンピルの爪が魔力で刃のように鋭く尖り、磨き上げられている。それを、思い切り左胸に突き立てた。
「―――――ッ!!」
 そしてヴィルヘルムは自らの身体の中で、無理矢理心臓の握りつぶされる音を聞いた。

 ◆◆◆◆◆

 誰かが、呼んでいる。
 それは封じられた名。今は奥底に押し込められた、魂の名。

 絞められた首から、声無き断末魔が響く。
 肉に食い込んだ右手が生暖かく濡れた。魔力で伸ばし鋭く研いだ爪の間に血と肉片が入り込む。これまで鼓動をうっていた心臓は、今は赤黒い肉潰れた肉の塊だ。直前に折った肋骨は腕を突っ込んだ自分自身の手にも引っかかり、不愉快な感触を残す。けれどそれも、もう終わり。
「さようなら。ヴィルヘルム」
 自分は人狼の少年の心臓を握りつぶした手を、その身体から引き抜いた。首を絞めていた左手も離し、無惨な肉塊に変わったそれを無造作に地に放り投げる。
 ヴィルヘルムの穴の開いた左胸から、どくどくと紅い血が流れていた。血だまりなんてかわいらしいものではなく、紅い紅い血の池ができる。流れる血液はその赤い腕を伸ばし、黒い土を染めていく。
 ヴィルヘルムの柔らかい茶色の髪も、耳も、みんな血に濡れてしまっている。人狼は吸血鬼と同じく再生能力に優れた一族だが、不死でも甦りのなせる存在でもない。
 ここまですれば、まず助かることはないだろう。
 足元の砂を蹴り、一度は捨てたそれへともう一度歩み寄る。痙攣する身に、屈みこんで囁きかけた。
 人間なら即死の大怪我でも、人狼にとっては違う。少しだけ長く、息が続いてしまう。もっとも肺を潰され肋骨を折られ心臓を握りつぶされて首の骨も絞めていた影響で折れている身としては、そんなものあるだけ苦しみが長引くだけだろう。
 呼吸すらままならず、ただ苦痛だけを感受する時間を引き延ばされている哀れな少年は、空ろな瞳で彼を見ていた。
 いや、空ろではない。今にも瞳孔が開ききりそうなその灰色の瞳には、ひたすらに疑問が浮かんでいる。
 何故。どうして。なんで。嘘だ。
 どうして自分がこんな目に遭わねばならない、今にも死にそうで、避けられないものとしてその運命を受け入れなければならない。ひたすらにそれを疑問に思い、その答をただ一人知っている自分へと説明を求めるでもなく視線を向ける瞳。どうして。見つめれば答えるとでもいうように。
 いつだって殺戮は理不尽だ。どんな理由があろうとも殺された側が殺した相手を許すことはない。殺される者は自分が何故そうされるのかもわからぬまま、その不条理に身を浸していく。
「かわいそうに」
 その言葉に、少しだけヴィルヘルムの瞳に力が戻った。怒りとなる前の激しい感情が一瞬だけ瞳の灰色を揺らがせるが、それでも持続しきれずに途中で力尽きる。
 彼は涙を流すわけでもなく、ロゼウスの記憶から得た情報を元に言葉を降らせる。
「お前は可哀想な子になりたくなかったんだね。王様になれば何でも与えられると聞いて、どんな者でも幸せになれるのだと聞いて、だから自分は幸せなんだと思い込もうとした。だって王様になっても幸せになれなかったら、お前は兄たちを一度に失った自分の悲しみと向き合わねばならないから」
 ロゼウスの目から見るこの少年は、ただひたすらに哀れで、愚かだった。心を守るために自分を誤魔化し続け、その虚像に他者をも巻き込みたがる。世界は味方なんだと思いたがって、だからハデスやドラクルのような、信用に足りない相手にさえも縋ってしまう。所詮この世に味方などいないのに。
 本当に自分の身を案じてくれる忠臣には我侭を言い放題で、暴言ばかりを吐いた。彼らがヴィルヘルム自身のことを思って口うるさく言うのも知らず。その一方で、自分に対し甘い言葉ばかりを吐く相手を信用した。
 王の権力を我が物とし、自らも能力がそう優れたものでないことを自覚しながらも他者に頼るために権力を分け与える事はなかった。全て自分の物である代わりに、なんでも自分でやりたがり、決して国王という立場を人と共用したがらなかった。誰の苦言も耳に入れず、自分の欲望にだけ忠実で。
 それはロゼウス自身の生き方とも似ている。嫌なもの辛いものは目に入れたくなくて自分の殻に閉じこもる。だからなおさら、ロゼウスはこの少年を気にしていたようだ。けれど、そんなこと彼には関係ない。
 だって幸せになりたいのなら、他人を構っている余裕などない。幸福は有限なのだから、手元にないのならば、奪え。そう――余すことなく、徹底的に、最後の一欠けらまで。
 奪え。
 他者の命も誇りも涙も何もかも。誰かのために行動なんかしたって、結局相手は報いてなどくれないのだから。だったら欲しいものを手に入れるためには、ただひたすら奪うしかない。
 この子もそうであれば良かったんだろう。自らの欠落を認めて、補うために他者から奪う。それならば歪みが生じることはなかったのだ。けれど彼は自らの痛みから逃げた。寂しい自分の心に気づけず、そのために、他者を嘲笑うたび、自らに跳ね返る言葉に気づかなかった。
 可哀想な子ども。
 けれど、それを導いたものは間違いなく彼自身の愚かさだ。だからこそ、救われない。
 自らの痛みから逃出したものは、いずれそのツケを自分自身で払うことになる。
 その想像を絶する苦悩を味わう前に冥府へと送ってやる事は、彼にとっては慈悲の一種とも言える。
 ――まぁ、どうでもいいのだけど。
「ヴィル」
 声に柔らかさを乗せる。ロゼウスが普段弟妹に向けるような慈しみさえ篭もった声音で、彼は瀕死の少年王へと話しかける。
 これは呪い。
「俺は、お前なんてどうでもいい」
 ぴくり、と痙攣なのか彼の言葉に反応したのか、一瞬ヴィルヘルムの狼の耳が震える。
「どうでもいいんだよ。ヴィルヘルム。お前を殺したくらい、俺の中では痛くも痒くもない。お前が死んだって、俺は困らないし、お前に惚れているわけでもない。だから」
 思い知ればいい。自分だけでなく、世界の他の生き物も。思い知れ。世界はこんなにも醜く絶望的で、生きとし生ける者はその絶望の中から逃れること叶わないと。
「さようなら。可哀想なヴィルヘルム。結局他者をかわいそうかわいそうと嘲笑うお前こそが、全部滑稽な一人芝居に踊らされていた、かわいそうな役者だったんだよ」

「――――ッ!!」

 魂の咆哮に、空気がびりびりと震えるようだった。声無き声で、今この瞬間、絶望と言うものを知らされたヴィルヘルムが絶叫する。
 それを見て、彼は込み上げてくるものを止められなかった。
「くっ……くくく、ハーッハハハハッ、ハハッ! アハハハハハハ!!」
 嘲笑、哄笑。
 戦っている間や他の日常生活を行っている間はまだ久しぶりの生身の身体に慣れきっていなくてこの戦いも最初はこんなか弱い人狼相手に梃子摺ってしまったけれど、いざ完璧にこの身を使いこなせればなんということはない。
 ヴィルヘルムの瞳から、苦痛や生理的な理由以外での涙が後から後から零れて血で汚れた頬を濡らした。
 もうすぐで普通に死ぬだろうけれど、せめて最後の情けだけでもかけてやろうか。
 けれどその瞬間、ゆらりと足を踏み出した彼の魂に直接呼びかけるかのように、誰かの声が響いた。
 ――ロゼウス兄様!!
「うっ……!」
 ズキリ、と頭に痛みが走る。思わず額を押さえ、その場に蹲った。今のは一体何だ。思う暇なく、身体の奥でもう一人の自分がざわめいた。
「チィッ……! ロゼウス、お前はまだ、眠っていろ!」
 血塗れた両腕で彼は自らの肩を抱きしめる。けれど、先ほどの呼びかけに反応したのか、眠っていた子どもが魂の奥底から起きだしてきた。舌打ちする間にも、意識が入れ替わろうとする。
 だけどもう無駄だ。
 絶望の涙を流したヴィルヘルムの瞳の中、瞳孔が広がっていく。澄んだ灰色が濁って光を失っていく。
 お前が何をやったところで、もう無駄なんだよ、ロゼウス。

「ヴィ、ル……?」
 ふと、気づけば仰いだ空から雨が降り始めていた。

 ◆◆◆◆◆

 酷い夢を見た。
「――ッ!!」
「ミカエラ!?」
 叫んで飛び起きると、温かい腕に支えられた。低いヴァンピルの体温ではなく、人間の体温。
「ルイ……」
「どうしたんだ? 凄く魘されていたよ?」
 心配そうな表情で、エヴェルシード人の顔なじみの青年が覗き込んでくる。ミカエラは自分でも真っ白な顔をしている事がわかった。血の気が失せて、青褪めているはずだ。
 毛布を硬く握り締める手が白い。力が入って、骨が浮き出ている。青白い血管も透けている。
「今、夢で、兄様が……」
「それって、第四王子のロゼウス殿下?」
「え……」
「名前、読んでたよ。ロゼウス兄様! って……シェリダン陛下の王妃になった方だよね……何かあったの?」
 いつもはふざけた喋り方で人をおちょくることしかしないルイが、珍しく真剣な顔で問いかけてくる。どうやら本当に自分は、相当酷い顔色をしているらしい。
「よく、わからないんだ……夢で、その……とても酷い、夢を見て……」
 ロゼウス兄様。
 あれは確かに、ロゼウスだった。よく似た顔立ちのロザリーでもドラクルでもなく、ミカエラのすぐ上の兄だった。どこかわからない場所、殺風景な岩壁に囲まれた空間で、誰かと対峙している。相手の顔はよく見えない。ただ、乾いた風だけが鮮明な荒野。
 そこで兄が、血に濡れていた。――酷薄な笑みを浮かべ。
 ミカエラは思わず、夢の中で彼に呼びかけた。理由などわからない。あれが何だったのかなんて知らない。それでも、止めなきゃ駄目だと思ったのだ。自分はロゼウスの弟だから、ロゼウスが望まないことを行うのを止める義務がある。
「それより、ルイ、僕が眠っている間に、何か情報はあった……?」
「残念ながら、さっぱり。アンリ王子たちから出航の報せがあったきり、何も連絡は無いよ。姉さんが派遣している諜報部員からも、音沙汰はなし……ごめん、ミカエラ」
「ううん。謝られるような、ことじゃないから……」
 アンリやロザリーたちが海路からローゼンティアに向かうと決めた際に、身体が弱くて足手まといとなるミカエラは置いていかれた。一人くらいなら匿うのもそんなにたいしたことはないと、バートリ公爵エルジェーベトがヴァートレイト城にてミカエラの面倒を見てくれている。
 とは言ってもミカエラはあの女公爵と直接顔を合わせる事は少なく、大概話をしてくれるのは、この公爵の弟であるルイだ。本来なら彼のような身分にある者は侍従の真似事などしないのに、状況が状況だからか、ミカエラの世話は公爵の弟閣下である彼自らが行ってくれている。
 与えられた広い部屋の天蓋付の寝台で日がな一日寝て過ごしていた。最近、エヴェルシードによるローゼンティア侵略から一度の死亡と蘇生、それにドラクルの裏切りと、度重なる情勢の激変に心労が続いたせいか、また一段と具合が悪くなった。
 自分でももうわかっている。
 自分は、もうあと何年も生きられない。下手をすれば、あと数ヶ月……もたないだろう。たぶん、ローゼンティアが彼らヴァンピルの……裏切り者のドラクルではなく、正しいローゼンティアの血筋に取り戻されるところを、自分はこの目で見る事は無いだろう。
 刻一刻と、自らの身体から命が滑り落ちていく感覚が、意外とよくわかるものだ。幼少の頃からいつ死ぬかいつ終わるかと周囲から危惧されていたこの命も、ようやくあともう少し……。
 だけどできるならば、せめて最後に一度だけ、誰かの役に立ってから死にたい。
 生まれてから病弱な身体のせいで人に迷惑をかけるだけかけて、一度も誰かの役に立ったことのないミカエラの、それだけが願いだ。
「ねぇ、ルイ……」
「ん? なんだい? ミカ」
 ふいに、誰かにこのことを話してみたくなった。誰かと言っても、この空間にはミカエラ以外にはたった一人しかいないのだが。
 寝台の脇からミカエラの身体を支えて再び寝かしつけてくれたルイが、毛布を整えると寝台横に椅子を引き出してきて置く。彼はそのままその椅子に座り、毛布から出したミカエラの手を優しく握った。
「昔ねぇ、姉さんがよくこうしてくれたんだよ。君と一番上のお兄さんほどじゃないけど、僕も姉さんと少し年齢が離れてるからね」
「ああ。七歳くらいの、差だっけ……?」
「うん。だから俺は姉さんにとってはいつまで経ってもよっぽど小さい子どもに見えてたんだね。熱を出して寝込むと、枕元にいてこうして手を握ってくれてたんだ」
 ここにいるよ、と。眠りの中では一人きりでも、眠るその側には必ずいるから、と。
「ルイは、お姉さんが……バートリ公爵が好きなの?」
「真正面から言われると、いくら家族愛だとしても照れくさいね。まあ、《殺戮の魔将》なんて呼ばれてるおっかない姉さんだけど、俺にとってはただ一人の姉さんだからねぇ」
 そりゃあ家族は大切だよ、と苦笑するルイに、ミカエラも表情を緩めた。
 繋げられた手から温かな体温が伝わってくる。
 昔、自分もよくロゼウスにこうしてもらったことを思い出す。
「僕も、兄様や姉様たちが、大好きだよ……ドラクルのことも、今でも」
「ミカエラ」
 横たわり手を繋いだままのミカエラの言葉に、ルイの顔から笑みが消える。眉を曇らせた彼の様子に構わず、ミカエラは言葉を続けた。
「そりゃ、ローゼンティアを裏切ったことや、父様たちを殺したことは怒ってるし、許せないけど……でも、家族、だから」
 ミカエラはドラクル=ローゼンティアという人間を知っていた。いつも澄ました顔をしているようでいて、本当は兄妹の中で一番努力家だった尊敬すべき長兄。それが父の実の子ではなく、自分やロゼウスとも血が繋がっていないからだと知った今では寂しさが増すばかりだけれど、それでもミカエラはそんなドラクルの姿に、寂しさと共に憧れを抱いていたのは事実だ。
 ドラクルの方はミカエラの扱いに困っていたことも知っている。病床では人間観察くらいしかすることがなくて、自分に関わる人々のいちいちの仕草などをよく見ていたから、顔に出ていないことまでわかってしまう。ドラクルは病弱なミカエラの扱いに困っていた。不愉快を示すわけではないが、腫れ物に触るようにしていた。寂しかったけれど、憎くはなかった。
 本当に優しいと言ったら、たぶんこのルイのような人なのだと思う。ミカエラの世話は面倒だろうに、文句の一つも言わずにたわいないからかいを口にするルイの手はいつも優しい。
 ローゼンティアではミザリーも優しかったし、アンもそうだった。ウィルやエリサの年少コンビはやかましかったけれど、でも純粋に心配してくれているのは伝わってきた。同い年のメアリーとはよく喧嘩もしたし逆に意気投合したりもした。一つ年上のロザリーは気が強いと恐れられているけれど、あれで案外世話焼きだ。
 ルースやジャスパーはよくわからない。あの二人は大人しくてほとんど積極的に動く事はなくて、兄妹の中ではあんまり話したことがない部類だ。なんとなくの性格はわかるけれど、二人とも本質は巧妙に包み隠して見せないようにしている節もあった。 
 アンリとヘンリーは優しかったけれど、それと同時に確かに現実を見る人でもあったから、身体の弱いミカエラがいかに政治的に役に立たないかも十二分に理解していたのだろう。無茶を言ったりやらせたりしなかったけれど、逆にその分期待も全然かけなかった。ドラクルのような腫れ物に触る扱いと、究極的にはそれは同じなのだろう。
 そして、ロゼウスは……。
「ねぇ、ルイ」
「……なんだい?」
「頼みがあるんだ」
 ミカエラがそう口にすると、ルイが怪訝な顔をした。首を巡らして彼の方へ視線をやると、先ほど額に乗せてもらった、水で濡らされた布が落ちる。それに構わず、ミカエラはルイの橙色の目を真っ直ぐに見つめて言った。
「僕を、エヴェルシードの国王居住地へ……シアンスレイト城のカミラ王のもとへ連れて行ってほしい」
「ミカエラ!? 君、一体何を言って……」
「お願いだ。必要なことなんだ、これは……」
 もしも願えるのならば。
「僕は……僕だって、ローゼンティアの王子だ。だから、僕にできることをしたい」
 自分は誰かの……ロゼウスの役に立って死にたい。ロゼウスの憂いを、取り除いてあげたい。
 大好きな兄様。
 思いつく方法はただ一つだけだった。何かを為すために、無力なこの身が差し出せるものも、たった一つだけだった。
「ミカエラ。でも、アンリ王子たちが戻ってくるまで、ちゃんと大人しく待っているって約束だっただろう?」
 ミカエラの言葉に不穏なものを感じとったらしく、ルイが必死に呼びかけて考え直すように言ってくる。その気遣いはとてもありがたいものだとわかっていたけれど、ミカエラは枕に乗せたままのかぶりを振る。
「うん。そうだけれど、でも僕は、ドラクルやロゼウス兄様とは、まだ約束していないから」
「ミカエラ」
「お願いだ、ルイ……」
 もしも、願えるのならば――。
「僕にできることをしたいんだ」
 繰り返されるやりとり。やがて、とうとう強情なミカエラの姿勢に折れたルイが、悲壮な顔をして頷いた。