荊の墓標 28

163

「あーあ」
 雨降る地に一人佇み、ハデスはそれを知る。
「やっぱり、こうなっちゃったか……」
 視線の先にある城はまだ遠い。荒野に建てられたというより岩壁を削り出して作ったような簡素なその王城は、自然と共に生きるセルヴォルファスの国の象徴だ。
 今はその王国から火が消えている。一見どこも変わりないようだが、明らかに活気がない。
 ヴィルヘルムが死んだ。
 ロゼウスに殺された。
「そうだね。やっぱりお前はそうして殺すんだ。初めこそ甘い顔をして見せるくせに、最後は結局、誰一人要らないなんて」
 可哀想な王様、ヴィルヘルム。彼は薔薇の覚醒を促すための、駒の一つ。世界を動かすために世界に翻弄され世界に見捨てられた。
「やっぱりお前は残酷だ。ロゼウス」
 この世界はロゼウスのために動いている。
 これまでの歴史上類を見ないその存在を誕生させるために、多くの者がその血を流す。ヴィルヘルムはその鮮血の舞台の幕開けを飾ったに過ぎない、これから先も、彼のためにますます人が死ぬ。
 ハデスは、それを知っていた。
「ごめんね」
 知っていてヴィルヘルムに教えなかった。
「ごめんね」
 知っていて、彼がいずれ必ずロゼウスに殺されることを見逃していた。
「恨んでいいよ。ヴィルヘルム。僕を、世界を、ロゼウスを。君にはその資格がある」
ヴィルヘルム=ローア=セルヴォルファス。運命に裏切られ続けた子ども。
 ハデスの能力は予言だ。そう遠くない未来を知ることができる。自分に関係あることの場合もあれば、関係ないことまで見えてしまうこともあるけれど、ヴィルヘルムのことは後者を前者に変えた例だった。
 ハデスは、彼を利用した。本来であれば幸せとは言えないまでもそれなりに平穏に生きて行けるはずだった子どもを、無理矢理ドラクルと面識を持たせ、ロゼウスに関わらせることによって破滅へと追い込んだ。
 この罪から逃れることはできない。
「愛する家族を失って、なりたくもない国王になり、たった一つ手に入れたかった本当に好きなものにまで選んでもらえなくて……恨めばいい。憎めばいい。呪えばいい。誰も君を責めないから」
 ハデスにとって彼はただの道具だった。ロゼウスを殺すにしても、一足飛びに命を奪うことなどできないとそれもまた予言で知っている。だからこそ彼を陥れるための罠を張るために、それだけの権力と力を持った手駒が必要だった。その一つがヴィルヘルム。彼の存在はあまりにも、都合が良すぎたのだ。ハデスにとっても、ドラクルにとっても。
 ロゼウスに関わることで彼の運命は変わってしまう。ハデスはそれをすでに知りながらも、あえてヴィルヘルムに教えなかった。玉座に即位した時ハデスが囁いた一言で未来を告げるハデスの言葉を純粋に信じきっていたヴィルヘルムに、あえてその道を進むよう仕向けた。
 直接ヴィルヘルムを手にかけたのがロゼウスならば、間接的にそうなるようにしたハデスも同罪なのだろう。ハデスは確かにヴィルヘルムをその道へと誘った。鋭い荊の群生地を甘い花畑のように偽って。
 ロゼウスの力を目覚めさせるには、生半可な生贄ではいけない。彼の怒りを煽り、彼に殺されることによってその実力を発揮させるための生贄に、人狼の王ヴィルヘルムはうってつけだった。
「恨めばいいよ。ヴィルヘルム」
 僕を憎めばいい。僕を、ロゼウスを、彼は憎めばいいんだ。
 僕は少しも動じないから。お前を死に追いやった僕は、その事実に傷ついたりはしないから。だってこの現実は、僕が望んだことなんだから。
 ――あのさぁ、ハデス卿。俺はこれでもあなたには感謝してるわけだよ。
 ――何? 突然。
 ――あなたがこの国のことについて、あらかじめ予言で教えてくれたから俺は今国王の座についている。
 ――ああ。でもあれはもともと、そういう運命だったというだけの話だからね。ねぇ、第二十六王子ヴィルヘルム。
 馬鹿なヴィルヘルム。僕はお前のためになんて、今までただの一度も行動したことなんかない。
 ――俺は、可哀想になんかならない。
 お前のその決意を知っていて、僕はお前を《可哀想な子》にした。全部わかっていてやったんだ。それを否定はしないし、悪意があったことも否定はしない。僕は完全に僕のためだけに、お前の命を使い捨てにした。本来お前のものである命を、僕のために使ったんだよ。だから、責めていいよ。
 僕はお前の死に涙なんて流さないよ。
 お前がいなくなったことを、悼んでなんかやらないよ。
 僕はお前がもういないことを、嘆きなんかしないよ。
 それを知っていたこれまでもそうだったんだから、今更その通りにお前が死んだからって、その死に何の感慨も覚えたりなんかしないよ。これは決まっていたことで、僕はとっくにその結果を受け入れていたんだから。
 だからお前は僕を憎めばいい。僕もロゼウスを憎むから。お前の憎しみを否定する資格もない。ただそうして憎んで憎んで、憎むことで少しでも救われるなら憎めばいいんだ。
 僕にはお前に償う資格がない代わりに、お前に赦されることも望まない。
 恨めばいい。償えはしないけれど。
 だから。
「……ごめんね。ヴィル」
 ヴィルヘルムの死に泣く資格のないハデスは、ただこの空に、白い弔いの花だけを手向ける。
 これだけは、このただ一度だけは、僕の行動はお前のためだけのものだよ。

 それでもロゼウスからのものでないなら、お前はきっといらないって言うんだろうね。

 ◆◆◆◆◆

 終わりはいつだって唐突に訪れる。それを、知っていたはずだった。
「大臣……」
「そちらは終わったのか。柩の用意は」
「はい。全て整っております。ですが……」
 背後で召し使いの一人が何か言いたげに口ごもる。それを知りながらも、男はあえて聞かぬ振りをした。
「そうか。では、各村の長に連絡して、葬儀の手配を。国政の事は当分、私たち大臣職にある者が交代で取り仕切ることとなる。次の王も選ばねばならぬ。休みをとりながら、各々無理のないように働いてくれ」
「は、はい……」
 柩の用意が整ったとの話を聞いたことで、これからやることが定まった。とりあえず雨振る地面に打ち晒しにしておくわけにもいかなかった高貴なる人物の姿を前に、男は動き出す。
「人を呼ばないとな。陛下の亡骸を、柩へと運んでもらわないと。そう、それに氷の用意も必要だな……」
 目の前の台の上には一人の少年が横たえられている。顔についた血を拭ったその屍は一見して眠っているようにしか見えない。無惨に潰れた胸部を隠すように、布がかけられている。そして眠るように目を閉じたその顔へと、今、男が目元を隠す布をかけた。
 滑らかな瞼がその下に隠されて、もう何も見えなくなる。ただ、屍として横たわる。目元一つ隠しただけで、自然とこの身体から命というものが感じられなくなった。
「ヴィルヘルム陛下……」
 かつて、最も王位継承権から遠いがゆえに誰からも敵視されることなく、利害の問題から縁遠いために誰からも愛され可愛がられた少年の姿はもうない。そこに横たわっているのは、いつしか道を間違えて自ら地獄への坂を下っていった暴君。いくら国内での無茶は自重していたとはいえ、よりによってヴァンピルの王子に手を出すなど、してはいけなかったのだ。
「……あなた様をお引止めすることができず、もうしわけございませんでした」
 これは彼らの罪だろう。ヴィルヘルムを止める事ができなかった。
 国王であろうとも一人の人間だ。間違えたならば誰かが正し、迷っているのならば手を引いてやらなければならなかったのだ。血筋以外の経験も何もかも、先を生きる自分たちは知っていたのだから。ただ先人として未熟なかの王をより良き方向に導くために心を砕いてやる事ができていれば……そんなことを今更言ったところで、ヴィルヘルムはもういない。
 これは自分たちの罪だ。
「あの……本当に、これでよかったのでしょうか」
「ああ……そうするしか、なかったんだよ」
 ヴィルヘルム一人止める事ができなかった自分たちに、あのヴァンピルの王子をどうして止めることができようか。こうするのが一番良かったのだ。この国のためには。
 王家の血筋が絶えた今、セルヴォルファスは滅びの一途を辿っている。彼ら魔族は人間の国よりも複雑だ。王族の血が尊ばれるには、それだけの理由がある。だからこそ早急に、次代の王を選ばねばならない。
 不甲斐なき我らをどうか責めてくださいヴィルヘルム陛下。あなたの死を悲しむ余裕すら、我らは持つことができませぬ。男は祈りを捧げた。
「さぁ。やることはたくさんあるんだ。他の大臣たちとも連携をとって、王国を――」
「閣下ッ!!」
 とにもかくにも国王不在の間の穴を少しでも埋めようと彼らが動き出そうとしたとき、その報告はもたらされた。
「我が国に侵略する勢力が見えます!」
「何! どこだ!? 一体、どういうことだ!」
 伝令の兵が報告する。ワーウルフは個々人の身体能力に優れた種族ではあるが、人間と言うひ弱な生き物相手でもその統率力ほど厄介なものはない。今のところヴィルヘルムがヴァンピルの王子とのことで個人的にローゼンティアと国交を複雑にしそうなことの他は、戦を起こされるほど緊張関係にある国などなかったはずなのだが。
 そして不吉を感じさせることに、まだ年若く野心溢れるだろうその伝令の顔からは、血の気が引いている。この年頃の若者が、戦う前から恐れをなすほどの勢力など……。
「エヴェルシードです」
「何」
「紅い旗に、鎧に身を包んだ兵士たちはいちように蒼い髪をしておりました。あの雲霞の如き大軍は、紛うことなきエヴェルシード王軍」
「何だと!?」
 あの軍事国家が、セルヴォルファスに敵対するなどと。
「何故だ? どういうことだ? 理由は――」
 しかしそんなことを問いただす暇はない。そしてこんな切迫した事態になって、そんなことを聞いて何になる。
 彼らの予想も何もなく、宣戦布告などもちろん発さずに攻めてきたのはこの大陸、いや、世界最強と名高い軍事国家だった。皇帝陛下の監視さえなくなれば、瞬く間に世界を征服できるだけの実力を秘めた戦闘国家。
 そんな国の、しかも大軍だと? こちらは王を失って統率を乱すばかりのこの状況だというのに――!!
「ヴィルヘルム陛下!」
 せめて、せめて王がいれば! 王さえいれば! 何故死んだりしたのです、ヴィルヘルム陛下、今のセルヴォルファスでは、エヴェルシードとの戦いに勝ち目はありません。王のいないこの状況では、降伏を選ぶことすらできません。いや、そもそもあの軍事国家相手に、生半な上辺だけの降伏宣言など通じるかどうか。我等魔族の流儀を、ローゼンティアと隣国であるかの国はよくも悪くも知っている。
 終わりはいつだって唐突に訪れる。それを、知っていたはずだった。それなのに。

「意外とあっけないわね。人狼の国、セルヴォルファス王国」

 皇歴三〇〇三年。永遠に閉じた春。
 シュルト大陸北方に位置する国、黒き大地の王国セルヴォルファス、滅亡。

 ◆◆◆◆◆

 伝令から、北の国を責め滅ぼしたという報告が伝えられた。
「意外とあっけないわね。人狼の国、セルヴォルファス王国」
 カミラは玉座についたまま、正直な感想を口にした。隣国であるローゼンティアをシェリダンが滅ぼしたときは七日かかった。なのに、こうして軍事に不慣れなカミラが移動だけで兵の消耗するセルヴォルファスを攻略するのに要した時間がたったの三日?
「そのことについてなのですが、カミラ陛下、奇妙な報告があがっています」
「聞きましょう」
「我々がかの国に足を踏み入れる前に、セルヴォルファスでは何事かあったようです。今はまだ正確な情報は伝わってきていませんが、噂によれば、なんでも我が軍の到着直前に国王の暗殺があったとか……」
「え?」
 国王の暗殺。物騒な言葉にカミラの頭は一瞬理解が遅れた。一拍遅れて、その暗殺された国王の姿に辿り着く。
「セルヴォルファスの王って……ヴィルヘルム陛下が?」
 親しくした覚えはないが、それでも一時は目的のために手を組んで、言葉を交わしたこともあるあの少年。カミラと同じ、まだ十六歳の国王が――。
「はい。何者かに殺害されたようですが、大臣たちにはそれを隠そうとする痕跡が見られました。葬儀の準備に追われているそこに、我々エヴェルシード軍が踏み込みました。ヴィルヘルム王は幼少時に即位して以来、暗愚な面が浮き彫りになってきたということで、最近はその傾向が特に酷く、それを憂いた内部の人間が王を暗殺したところではないか、と我々は考えております」
「そう……わかったわ。下がってよろしい」
 礼をして謁見の間から退出する兵士の背中を見送った直後、またしてもいつかのように背後から手が回された。
「ハデス卿」
「聞いた? ヴィルのこと」
「ええ……ロゼウス様ですか?」
「当たりだ。カミラ姫」
「……卿はもしかして、この事を知っていましたの? だから、いきなり私に、シェリダンを退けて軍部の評価をあげるために、セルヴォルファスを落とせなんて……」
 神出鬼没の帝国宰相、ハデスの指示に従いカミラはそうして北の黒き王国、セルヴォルファスを責め滅ぼした。たかだか人間の軍と人狼という世界で最強の身体能力を持つ一族。果してそう簡単に上手くいくものかと思ったのだが。
「それだけってわけでもないけどね。この国にはセワード将軍がいるし、エヴェルシードは軍事の天才が多く生まれる国だ。それに、ローゼンティアの時と条件が違うことに、ワーウルフってヴァンピルより更に数が少ない種族だってことがある。人口が王城近辺に集中してるから攻め込みやすいしね……でも、そうだね。やっぱり一番の理由は、ヴィルヘルムが死んだ混乱に付け込みやすいから、かな」
「……そうですか」
 何はともあれ、その作戦は成功した。シェリダンと同じく魔族の王国を、軍事に疎いカミラが攻略する。それによって、カミラの軍部での評価があがり、国内での政権の基盤がこれによって文武両方でできあがることになる。
 シェリダンがエヴェルシードに戻って来たところで、もはや容易に彼女からこの玉座を取り返せまい。
「……気になる事があるんです」
「何?」
「ロゼウス様、本当にヴィルヘルム王を殺害したのですか? あのロゼウス様が?」
 思い出すのは、優しい白い手。かつてカミラを死の淵から救いあげたその手の持ち主が、彼女と同い年のあの少年を、そんな簡単に殺せるのだろうか?
「別に、ロゼウスだって簡単にやっちゃったわけじゃないよ。彼はヴィルヘルム王に相当酷いことされてるし、ヴィルヘルムがいる限りあの国を動けない。それに――まあ、いろいろ事情があるけれど、いいじゃない。僕たちに有利に事が運んでいるなら」
「……ええ」
 有利に、ね。つい先日まで同盟者として遇していたはずの人の死に、有利、か。
 それがドラクルとハデスの考えならば、カミラも気を抜いてはいられない。いつ捨てられるかわからないのであれば、ますます身辺に気を配り警戒せねばならない。
 ロゼウス様……。
 愛しい人の姿を瞼の裏に思い描いても、その人は何も答えてはくれない。ヴィルヘルム王を殺した彼が今何を考えて、何を求めているのか知りたい。
 それが兄、シェリダンに繋がるというのなら、私は――。
「君はとにかくこのまま、エヴェルシードでの基盤づくりに励んで。カミラ姫」
「ええ。わかりました」
 ハデスの指示通り、カミラが頷いた。その時。
「カミラ陛下!」
 再び伝令が駆け込んできた。
「何事?」
 戦争関連の報告は順次あげるように指示してある。攻略が終わったのなら、それほど警戒する必要もない。こちらの目をかいくぐって逆襲の蜂起をすることができるような勢力がまだ残っているのなら警戒する必要があるだろうが、セルヴォルファスにはそんな勢力も残っていないと言うのが先程の報告だったのだ。
「へ、陛下にお目にかかりたいという者が、現れまして……」
「何? それがどうかしたの? 謁見に望むなら、どんな身分にしろ相応の手続をとるようにと」
「いえ、あの、それが……」
 ほとほと弱りきった先ほどとは違う顔の男に声をかけると、ますます困った顔をされた。彼は戦事に関する報告役ではない、国内の揉め事を処理するのが主な仕事で、戦事の報せも全て一度彼の眼を通して吟味されて王に伝えるような伝令の纏め役ともいうべき位置にいる。その彼がこんな顔をするなんて珍しい。
 その理由はすぐに知れた。
「お願いがあるのはわたしです。エヴェルシード国王、カミラ陛下」
 報告役の後ろから、細い人影が現れた。彼は役人をやんわりと押しのけ、謁見の間へと足を踏み入れる。
 その人は白い肌白い髪に紅い瞳。カミラよりももう少し幼い感じの、ロゼウスに似た少年。
 ローゼンティア王子、ミカエラ。
「少し、お話があります。カミラ陛下。わたしと、取引をいたしませんか?」
 そう言って病みつかれたような顔に真摯な眼差しを湛えたのは、ロゼウスの弟王子、ミカエラだった。

 《続く》