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「来るのは二度目だが、相変わらず陰気な国だ」
シェリダンが正直な感想を口にした瞬間、後頭部に衝撃が来た。
「失礼ね! 人の故郷を」
「素直な感想を言っただけだろうが。お前の馬鹿力でそう簡単に人を叩くな」
「何ですってぇ~」
「ロザリー、俺たちは潜伏中なんだけど……」
アンリ王子がロザリーの襟首をひっつかんでシェリダンから引き離したところで、このやりとりはいったん終わった。
船は港などという上等な場所にはつかず、入り組んだ入り江を足がかりにローゼンティア国内に潜入することを決めた。シェリダンたちはトリトーンの港で海賊たちと別れ、小船でここまで泳ぎ着くことにした。
港に来るまで行動を共にし、ついでに船にまで乗せた元山賊たちの行く末については……まぁ、なるようになったと言っておこう。今は船で元気に海賊と言う名の漁師稼業に精を出していることだろう。一度シェリダンに決闘で負け、呪いの洞窟までその目で見てしまった海賊の船長などは、これまでのやる気、もとい殺る気を急速になくして隠居したくなったらしい。もうヤツラはいっそ皆で穏やかな漁師生活でも送るといいのだろう。
それはともかく。
船から下りたシェリダンとクルスのエヴェルシード勢、呪いの洞窟から取り付いてくるかのようにやってきた巫女姫と名乗るサライ、海上で再会したロザリー、アンリ、ミザリー、ウィル、エリサのローゼンティア王族勢は、入り江から隠し洞窟を通り、国内に潜入した。
エヴェルシードの王城シアンスレイトは国の中央部よりやや南東に存在するが、ローゼンティア城は国土のちょうど中心部にある。ヴァンピルは人間と違い一つの血筋、つまりは王族を過剰なほどに崇拝するために、王がこの国の中心であることを名実共に象徴しているらしい。だからローゼンティア王国ローゼンティア王城のローゼンティア家、なのだそうだ。
薔薇の国、白の王国ローゼンティア。
吸血鬼の住まう国。魔族の国。
そのどれもがローゼンティアを表わす言葉であり、そんな言葉で表しきれない独特の空気がこの国には宿っている。
それはいつ見てもシェリダンたち人間の心を掴んで揺さぶる。今年のはじめ、この国を侵略しようとした際、国に一歩足を踏み入れた際兵士たちが凍りついたのを覚えている。隣国ではあるが王城を中心に町が取り囲み、その町の風景すら深い深い森林に隔てられて外からは窺えないこの国の現状は、足を踏み入れたものにしかわからないものだろう。
シェリダンは直接訪れたことはないが、北方の人狼ワーウルフの国セルヴォルファスもこのような有様だという。魔族の国は人間の世界との交流を拒むかのように、こうして森に隔てられ、訪れた者を異次元に誘い込むかのようだ。
シェリダンもエヴェルシードの軍人王として軍事的な見解を述べさせてもらうなら、この構造は決して利点とは言いがたい。神秘的と言えば聞こえはいいのだが、要は外から中の様子がわからず、逆に中からも外の様子を掴みにくいということだ。常に他国の侵略を警戒した要塞造りならまだしも、森林に視界を隔てられただけですぐにも攻め込める構造で武力的警戒を怠っているなど、滅ぼしてくださいと言っているようなものだ。
シェリダンは横目でロザリーたちローゼンティア王族の様子を窺った。滅ぼしたシェリダンと滅ぼされた彼らローゼンティア王族が共にいる、この異常な光景はなんなのだろう。彼らの面持ちからその心の内までは覗けない。
今はそれを余計に気にしても仕方がないと、深呼吸をしていつも通りの自分を取り戻す。目の前の光景に飲まれてはいけない。森林を越えたところでその光景に目を奪われた足が止まったあの日もこうして自分を奮い立たせた。自分は、前に進まねばならないのだ。前へ、前へ、ただただ前へと。願う未来のために。
「僕はこの前の戦争に参加しなかったので、ローゼンティアは初めてなのですが……」
シェリダンたちは王城が見渡せる崖の上に立ち、眼下の光景を見下ろしている。クルスがその建物に目を奪われたまま感心したように漏らすので、シェリダンも同じようにローゼンティア王城に目をやりながら言う。
「ああ。見てわかるだろう。ここは《死神の眠る国》と呼ばれている。化物共の巣だ」
言った瞬間、またしても後頭部と背中に衝撃が来た。今度はロザリーに背中を押され、ミザリー姫に頭を叩かれた。
「崖際で、落ちたらどうしてくれる!?」
「知らないわよそんなこと。距離があるんだから大丈夫なんじゃない」
「シェリダン、あんたねぇ!」
彼女らは怒っているだが、シェリダンからすればもっともな意見だ。現に他国の様子をその目で見た事があるのだろう、アンリ王子は今度は何も言わず苦笑していた。シェリダンやクルスの視線が王城に集中していたことに気づいているからだろう。
「まぁ……人間にはわかりにくいだろうな、このセンス」
「お兄様!?」
シェリダンよりもとっつきやすいと見たのだろう、クルスの両側には年少組のウィルとエリサが張り付いて、逆に質問をしている。
「僕たちにはこれが普通だからよくわかりませんけど、他の国は違うんですか?」
「ちがうんですか?」
「ええと……その……エヴェルシードの王城を見ましたよね。あれが、たぶん普通、いや、軍事国家だから多少練兵場とか武器庫が多くてものものしいかもしれませんが、たぶんあれが普通だと思いますよ」
クルスが告げると、二人は驚いたように目をぱちくりとさせた。
「え! そうなの!?」
「あの灰色の石の地味なお城が普通なんですか?」
「まあ、そうだな。後は城や茶色がかった煉瓦作りもあるかもしれないが、大概はそういった落ち着いた色合いの石で組まれた頑強な城が多い。灰より白の方が多いか?」
「そうですね。エヴェルシードには王城以外にもそれぞれの貴族の居城がありますし、灰色が鉄を示すという意味で王城は灰、他の城砦は白や茶が多いんではないですか? ええと、うちのユージーン城は父上が侯爵を叙勲した二十年ほど前に建てられたばかりなので薄茶のやわらかい色合いをしていますが、イスカリオット城は白ですよね」
「ああ。公爵の時代にはそんなこともなかったが、ジュダの事件があったからあれだな、狂気の白と呼ばれるようになった城砦だろう。純白とはもちろんいかないが、イスカリオットはもともと富のある領主だ。血を流しどれほど汚れてもそれを完璧に取り繕ってしまえるそれが狂気だというのだろうな」
「ねぇ、シェリダン、ユージーン候。私、他のどこに国のどんな人たちに陰気だの化物の国だの悪口言われても構わないけど、あんたたちにだけは言われたくない」
「「ん?」」
ロザリーが呆れたような眼差しで、口を奇妙に歪めたままこちらを睨んでいる。
「まぁ、うん、エヴェルシードは……まあともかく、うちの国が変わってるのは確かだと思うよ」
そう言ってアンリ王子が指した先にはローゼンティア王城。
デザインが変わっているわけではない。人目を引くのはその色だ。漆黒のその外観。
黒曜石で積み上げられたかのようなその城。優美なその形を、漆黒の威圧が裏切る。更にその城は、世にも奇妙な銀と白の薔薇で取り囲まれていた。
「銀の薔薇……あれ、本物ですか?」
「うん、本物。死神の血に咲く薔薇だそうだ。本当かどうかは知らないけどね。ちゃんとした植物の一種だよ」
「それに、街の建物は赤いんですね」
「ああ。あれはただ単純に赤煉瓦を積み上げてあるからなんだけどね」
漆黒の王城を取り囲むのは赤い街並み。そしてさらに外側を、黒に近いような濃い緑の木々が囲む。その木々の合い間にも薔薇が多く、赤や白の花をつけている。
「黒と、赤と、白。この三色しかぱっと見眼に入らない。お前らだからこそ生きていけるんだろうな。私は、こんな国に住むのは御免だ」
「エヴェルシードだって灰色の白に赤い服、でも髪は蒼ってかなりの極彩色じゃないのよ」
シェリダンとロザリーはお互いにそれぞれの故郷をけなしあう。どうもこの辺りを考えると、人間と吸血鬼の間には、とても深い溝があるらしい。
そんなシェリダンたちを横目に、アンリ王子がふと感慨深げに呟いた。
「やっと帰ってこれた……」
彼らは辿り着いた。その深い闇、薔薇の闇の国へ。
◆◆◆◆◆
白い花の咲く並木道を歩いている。特に整備されているわけではないけれど、森の中に自然とできた花天井の道。花びらが雨のように降ってくる。
ここは確か……ウィスタリアの入り口に当たる場所。
そして彼らが目指すのはこの世界の果てであって、遠い。
「っていうか、エヴェルシードはシュルト大陸の東方の国ですよ。それが、バロック大陸の西にある薔薇大陸までって、どんだけ遠いんですか」
「仕方ないわよ、エチエンヌ。だってヴァンピルの皆様が、私たちとは行けないって言うんだもの」
エチエンヌ、ローラ、リチャードの三人は一路、世界の果てにある大陸、「皇帝領」を目指していた。
その発端はローラが言ったとおり、「ロザリーたちローゼンティア王族の皆が人間と船旅はできない」ということである。
「だからって、どうして僕らは皇帝領まで行くわけ? ねぇ、リチャードさん?」
ロザリーたちと別れた彼らは、リチャードの勧めにより皇帝領を目指すことになった。エチエンヌもローラもリチャードも、エヴェルシードではシェリダンの側近くにいた人間だ。あのままエヴェルシードにいたら危険だということは、よくわかっている。だからこうなったらローゼンティアの方に乗り込もうという話になった時、自分たちもついていくと言ったのだが、ロザリーやアンリ王子たちはそれを拒絶した。
『ローラ、エチエンヌ、リチャード。悪いけど、俺たちは君たちを連れて行くわけにはいかない』
アンリ王子からきっぱりとそう言い渡された。あのロザリーでさえも、決まり悪げに目を逸らしていた。
どうして――。
「他に宛てがないからですよ」
回想に浸るエチエンヌの耳に声が飛び込んでくる。リチャードが、疲れたように微笑みながらそう言った。
「宛てって……皇帝領に宛てなんてあるの? リチャード? それともまさか皇帝陛下に?」
ローラがリチャードにそう問いかける。
「デメテル陛下には、そうお目にかかったこともないんですが……」
「じゃあ、どうして?」
「私は《リヒベルク》だから」
だからかの地に行けばそこに住まう人々の誰か一人くらいは力を貸してくれるのではないかと、リチャードはそう言った。
エチエンヌとローラは手を繋いで歩きながら、同じタイミングで首を傾げる。
「いや、リヒベルクだからって、それがどうしたの?」
「……知らないんですね」
リチャードは説明してくれた。
「始皇帝の話、知りませんか? 始皇帝シェスラート=エヴェルシードには、腹心の従者がいたそうです。その人の名が、ソード=リヒベルク、妻はフィリシア=リヒベルクと言って元シェスラート帝の恋人だそうです」
「え? 主君の恋人寝取ったんですか!?」
「いや、その場合下賜された、とかそういう風に言うんじゃない?」
「二人とも……」
心持ちリチャードの肩が下がっているのはご愛嬌だ。
「……ともかく、私の家名はその通り、始皇帝の時代から続くその従者の家系なんです。ですから……たぶん、誰か力を貸してくれないかなー、と」
「結構いい加減なんですね……」
エチエンヌは呆れた。リチャードもあんまり考えていなかったなんて。
てくてくと花の降る並木道を歩きながら、彼らは話をする。というか、話をするぐらいしかやることがない。荷物が少ないのは幸か不幸か、路銀もさして多くはなく、不安が付きまとう。
「でも、実際、そのぐらいしか宛がないのも事実でしょう。シェリダン様はエヴェルシード王ですし、カミラ姫との問題はただの兄妹喧嘩ではすみません。もしも真剣にこの問題に介入できる人となったら……それだけの権威と力が必要なんです」
一か八かの賭けだと彼は言う。
「でも、そのくらいなら、ロザリーたちと直接ローゼンティアに乗り込んで、自分たちの力で人脈を開拓した方がいいんじゃないですか? あてになるともならないともわからないものを頼りにするより」
「エチエンヌ……」
「あんた、ロザリー姫に置いていかれたことをまだ根に持っているんでしょ」
ローラの指摘に、エチエンヌはうっと思わず呻き声をあげた。
「そ、そんなこと」
「ないとは言えないわよねー。だってあんたあれ以来ずっとロザリー姫のこと気にしてるでしょー。顔に出てるわよ、顔に」
「ローラ!」
エチエンヌは姉に詰め寄るが、彼女は弟をからかうのが楽しいらしくやめてくれない。
じゃれあう双子を一通り眺めた後、リチャードが少しいつもと違う声音でそのことを口にした。
「……仕方がないんですよ。あの場合。だって一緒に行けば、彼らは私たちを殺してしまうでしょうから」
「「え」」
彼の言葉に、エチエンヌとローラはお互いから視線を外して一端リチャードの方を見た。
「リチャード」
「さん?」
彼の笑みは陰影が深い。花の降る天井は白い花びらが埋めているけれど日の光なんてほとんど遮断されなくて明るいというのに、何故か彼の表情に落ちる影は深かった。
「……吸血鬼は人間の血肉を喰らって生きる存在です。一概に化物と断じるわけにもいきませんが、彼らが人間の血を飲まねば狂気に狂い、生きて行けないのも事実。海の上などという逃げ場のない場所、そして他に人間のいない場所で私たちと彼らが一緒にいたらどうなるか……もうわかりますよね」
『悪いけど、俺たちは君たちを連れて行くわけにはいかない』
リチャードの沈痛な台詞に、出発前に聞いたアンリ王子の言葉が重なった。そしてロザリーの、どこか苦しげな表情と。
「彼らが化物とは言いません。けれど、私たちとはかけ離れた存在です。なまじ、その外見が私たち人間に近いからなおさら恐ろしさを煽られるんでしょうね。そしてそんな人間たちの恐怖を敏感に感じ取り、彼らは傷ついてゆく。死体を食い漁る醜い姿など、普通見られたくはありませんから」
それが大切な人相手ならなおさら。
「でも、エヴェルシードとローゼンティアなんて、隣同士の国じゃない。そんな何ヶ月も航海するわけじゃなし、長くて数週間でしょ?」
「そうですよ。でも、向こうは五人、こちらは三人で、充分な栄養を取れるわけでもありませんし、船旅はとかく予想外の事故が付き物です。万が一、ということになったら」
「それは……・・あんまり考えたくないわね、でも」
「ロゼウスは?」
ローラの言葉に被せるようにして、エチエンヌは問いかけた。
「でもロゼウスは? あいつは、血を飲まなきゃいけないって言っても、せいぜい一週間に一滴とかそんなもので充分ぴんぴんしてたよ? なのになんで」
「それは、ロゼウス様だからですよ、エチエンヌ。彼以外のヴァンピルはそんなに耐えられませんよ。薔薇の花で凌ぐといっても、限界がありますしね」
「ロゼウス様だから、って、どういうこと? リチャード、あなたなんでそんなこと知ってるの?」
「それは……」
今日のリチャードは変だ。白い花が雨のように降る神秘的な並木道で、佇む彼はまるで別人のように見える。エチエンヌとローラはまた手を繋ぎ、息をつめてその問の答を待った。
「……なんでそんなこと知ってるんでしょう? 私は」
双子はずっこけた。
「いや、リチャードさん、聞いてるの僕らだから……」
リチャードは憑き物が落ちたようにきょとんとしている。もういつも通りのこの人だった。
「いえ……本当に。何故私はそんなことを知っているのか? 自分でもよくわからないんです。ただ」
リチャードは困惑したように首を傾げながらも、何かを労わるような声でそう言った。何か、吸血鬼に関して特別な思い入れのある人間のように。しかし二人はリチャードからもシェリダンからも、そんな話は聞いたことがない。
「ただ、何故か……吸血鬼とは哀しい生き物なのだと、脳裏に刻まれているような気がして……」
(ロザリー……ロゼウス)
彼の言葉に、エチエンヌの心はまた遠く離れた人へと飛んでいく。
はらはらと降ってくるのは白い花弁。けれど瞼の裏に映るのは、血のように紅い彼らのその瞳の光だった。