荊の墓標 29

166*

 いつまでもこの黒と白と赤の国を眺めていても仕方がない。眼下の景色はいきなり変わったりしない。ここで立ち止まっていたところで、何か状況を打破できるわけでもない。
 とにかく、動き出さなければ。
「それで、これからどうするんだ?」
「うん、まずは……」
 シェリダンがアンリ王子に問いかけたところで、振り向いた視線の先の彼の背後から手が伸びてくるのが見えた。
「アンリ王子!」
 叫ぶと同時に、彼自身も素早い動きで臨戦態勢をとる。しかしシェリダンたちの意表を衝くことに、突然現れたその人物は攻撃をしかけるでもなく、いきなりアンリ王子に飛びついてきた。
「アンリ王子お久~♪」
「そ、その声は!」
「それにこの行動、もしかして」
「はぁい。私ですよ?」
 この状態のシェリダンたち一行にやけに明るい声をかけてきたのは、一人の青年だった。もちろんこの国で現れる以上白い髪と紅い瞳のヴァンピルで、年齢はアンリ王子と同じくらいだろう。二十代半ばといったところか。
 王子に引き剥がされてようやく見ることのできた顔は、穏やかな表情を浮かべている。少し垂れ目の、温和そうな顔立ちだった。体格や姿勢も軍人や武闘家のものではなく、いかにも貴族の坊ちゃんと言った様子だ。
 しかし、この国ではそれが全くあてにならないこともすでにシェリダンは知っている。ローゼンティアのヴァンピルは一体どこに筋肉を隠し持っているんだというくらい、華奢な手足で強大な攻撃力を発揮する。ロゼウスがいい例だ。
 とにかくその人物は誰なのかと、シェリダンが問いかけようとしたところで―――。
「ひ、日和見ぃ!」
 ガシッ、と音を立てそうな勢いでアンリ王子がわざわざ自分からその男に抱きつき返した。
「……は?」
「日和見、ですか?」
 突如一行の前に現れた男はにこりと笑う。彼を呼んだと思われるその言葉に、シェリダンとクルスは思わずマヌケな声をあげた。日和見ってなんだ日和見って。どう考えても人名ではない上に、綽名だとしても奇妙だ。
「そうそう。私は日和見。日和見主義だからね。だからあなたたちと敵対するつもりなんてのも今のところないんだぁ。そこの彼、その物騒なものを下ろしてくれない?」
 異変に気づいた時点で腰の剣を抜いていたクルスを指して、彼はそう言う。
「シェリダン様」
「いい。クルス。引け」
「はい」
 シェリダンは自分に指示を仰いだクルスに頷いて見せてから、男へと向き直る。
「お前は何者だ」
「人に名を尋ねるときは自分から名乗れと言われなかったのかい? エヴェルシード元国王、シェリダン=ヴラド=エヴェルシード殿?」
「!」
 不満げに唇を尖らせて見せながら、男はそう言っていとも簡単にシェリダンの正体を言い当てた。再びクルスが剣を抜こうとするのを、ロザリーが止めている。
「やめて。この人はたぶん敵じゃないわ」
「たぶん?」
 ロザリーの不審な物言いに、シェリダンとクルスは説明役を怪しい青年本人からロザリーへと移そうとした。けれど他でもないその青年本人に、質問を封じられる。
「私の正体について知ろうとするのはいいんだけど、でもここにいたらさ、すぐに国王様の兵隊に見つかっちゃうよ。大分国内の様子が整ってきたとはいえ、まだまだノスフェラトゥの兵士はその辺をうろうろしているからね」
「国王様?」
 アンリ王子が今度は怪訝な顔をする。彼らの父親、あるいは養父にあたるローゼンティア王ブラムスは、すでに死んでいる。他でもないシェリダンたちエヴェルシードが殺したのだから覚えている。それなのに国王とはどういうことかと問いかける王子の視線に、日和見と呼ばれた男は事も無げに答えた。
「うん、ドラクル国王陛下だよ」
「!」
「お兄様……」 
 だいたいの人間が驚き、そして苦しげな呻きを漏らす。ミザリー姫が悲しそうに長い睫毛を伏せ、ウィル王子とエリサ姫は手を繋いで身を寄せ合った。
「残念だけど今のこの国は、ほとんどすっかりドラクル王のものなんだ。彼が来る前に一時期王権派とかいうわけのわからない集団と、反王権派とかいうドラクル王支持の一派が水面下で争ったりしてたんだけどねぇ。今はエヴェルシードの兵も引き上げて、見た目はいつも通りのこの国では、ドラクル王が全ての権限を握っているよ」
 まるで昨日の天気を語るようにあっさりとした口調で、日和見は説明する。険しい目つきをしたアンリ王子が、彼へと詰め寄った。自分より背の高い相手の胸倉を掴み上げる。
「日和見、これは一体どういうことだ? お前は俺たちの敵なのか? 味方なのか? 何の目的があってこんなことをしようとしている」
 その強い口調に年下のローゼンティアの兄妹たちは気の強いロザリーまでも含め、皆が顔を強張らせた。
しかし。
「え? 何が目的も何も、君らの方で私を呼んだんだろ?」
「は?」
「え?」
「日和見様、私たちは何もしてはいないのだけれど……」
 男の予想外の答に、シェリダンやクルスも含め皆が目を丸くした。呼んだとは、一体誰が……。
 そこで彼らは、これまでこの場所から極自然と姿を消していた存在に気づいた。
 わざと立てられた足音に、一同一斉に背後を振り返る。
「私よ。私がこの子を呼んだの。あなたたちに協力してくれると思ってね」
「サライ……」
 いつからいなかった、この女。
 シェリダンは絶句した。他の者たちも顎が外れているようだ。
「い、いないの気づかなかった。サライ、あんたそんなに存在感がな――」
「違うわよ失礼ね! ただ単に気配消すのが上手いだけよ」
 余計なことを言って頬を張られたアンリ王子を呆れた目で見遣りながら、日和見という男はシェリダンたちに提案する。
「なんだか面倒なことになっているようだけど、とりあえず場所移動しないかい? この場所、王城の近くが危険だっていう、そのぐらいは嘘じゃないとわかるだろう? 後の事は、そこの人が説明してくれるんだろう? 一度私の屋敷に来てくれないか?」
「……シェリダン、どうするの?」
 ロザリーが不安な表情でシェリダンの袖を引いてきた。彼はその顔に一度視線をやってから、日和見へと向き直る。
「いいだろう。どうせここにいても危険ならば、どこへ行ったところで同じだ。お前の屋敷とやらに案内しろ」
「うん。わかった」
 日和見はあっさりと頷き、極自然に歩き出して一行を案内する。
「ああ。そうそう、言い忘れていた」
 その彼がまた唐突にくるりと振り返り、私にしっかりと視線を向けてこう言った。
「ようこそ焔の王よ。この薔薇の国、ローゼンティアへ」

 ◆◆◆◆◆

 地面に敷いた布の上で、その身を絡めあう。
「あ……んぅ……うぁ、ああ」
「なかなかいい声あげるじゃないか」
 夜目にもはっきりとわかるほど、その肌は白い。自分を組み敷く美しい人の、眼前にある裸の胸を眺めながら、ジャスパーはあえかな声をあげた。
「あっ……や、め……ッ」
「ふふ。嘘だろう? ここはそんな風に言ってないじゃないか」
「ヒィ!」
 きゅっと悪戯に自身を握り締められて、思わず悲鳴が漏れた。それでも身体の反応は抑えられず、どろどろとした粘性の液体で彼の手を汚しながら、少年は身体を弄り回される。
「さぁ、言いなよ。ジャスパー。ローゼンティアの情報、お前たち王家の兄妹の情報、エヴェルシードの情報、お前が知っていること、全てを。俺がロゼウスの意識から読み取るには、限界があるんだ。何しろ深層心理の世界に叩き込んでしまったからな。こんなことなら半分は起こしておけばよかった。そうすれば、この身体でお前を犯す姿を見せつけてやれば、強情なあれも口を割ったかな」
 蝶をいたぶる猫のように酷薄な笑みを浮かべて、彼は両腕を背後の木の枝に縛り付けたジャスパーの身体を、好き勝手に弄ぶ。そうして苦痛と隣り合わせの快楽に人を落とし込みながら、拷問よりたちの悪い尋問で、ジャスパーから情報を得ようとする。
「あ……に、兄様……」
「中にいる俺はお前の兄様じゃないって、お前はすでに知っているはずだけど? ……ああ、でも、そう。お前はこの顔で、ロゼウスのこの身体で、無理矢理抱かれるのがそんなに嬉しい?」
「アアッ!」
 これまでじわじわと刺激されていたそれに、いきなり強い刺激が加えられた。その痛みすら快感と身体が認識して、堪えきれずに濁った液体を吐き出す。
「ふ……犯されて感じてイっちゃうなんて、無様だね。しかも、相手の顔身体は愛する相手ではあっても、中身は違う人間である俺だってわかってるくせにさ。それとも、それが男のサガだって言い訳する?」
「うう……」
「へぇ。泣くんだ。泣いてもいいよ。どうせ誰も助けになんか来やしない」
 目元に滲んだ涙は、生理的なものか心の痛みか。
「あ、痛ぅ!」
 考える暇も与えられず、今度は胸に手を伸ばされた。無造作な指先は赤い尖りを強く掴んで、玩具のように卑猥に扱う。
「いた、痛いッ、やめて……やめ、」
「まさか」
「ああっ!」
 乱暴に掴んだ手を離されたと思ったら、今度は歯で、血が出るほどに噛まれる。
「ひっ……ひっく……」
「ああ。そんなに痛かった? でもいいだろ。どうせすぐに治るんだし」
 乳首に滲んだ血をぺろりと舐めあげて、捕食者の笑みで彼は笑う。ロゼウスの綺麗な顔で、ロゼウスがジャスパーに見せたことのない残酷な表情で。
「兄様、兄様、ロゼウス兄様ぁ……」
「もぅ。そんなにロゼウスが好きか? まったく、俺が言うのもなんだけど、こんなののどこがいいんだか」
 どうやら生前もロゼウスとほとんど変わらない容姿と性格をしていたというシェスラートにとっては、ロゼウスは特に魅力的でもなんでもないらしい。あっさりとそう言い捨てて、再び組み敷いた少年の下肢を弄り出す。
「ふぁ……」
「ああ。ふぅん。いい具合だな」
 先程とは違い優しく扱かれて、痛みの余波じゃない素直な快感に身体が反応する。散々こうして飴と鞭を使い分けられて鳴かされてきたと言うのに、まだ足りないのか。
 ジャスパーはぽろぽろと涙を流しながら、その愛撫を受け入れる。どんなに自律自制しようと思っていても、身体は優しく触れる手に飢えている。
「んっ」
 後の方へと、滑らかな指がするりと一本差し込まれた。
「へぇ、こっちも特に腫れたりはしてないんだ。そう言えば吸血鬼なんだから当たり前だよな。死ぬ前は人間に交じって暮らしてた時間が結構長いから、もう自分の反応の方が異常なんだって理解し始めてさ。あんまり周りのヤツラがそうだっていう感覚なくって」
 シェスラートの言っている事はたぶん彼の感じている真実だろう。でも。
「もと、もと……あんたが僕をあんな風に、誰彼構わず抱かせたりしなければ、そんなとこが腫れるなんてしない……」
「はは! ああ、まぁ、そうだろうな」
 一文無しでセルヴォルファスを追い出された二人は、当然旅の資金もなかった。必要なものを揃えるのには金がいる。その費用を、シェスラートはジャスパーに身体を売らせることで手に入れた。
 もともとジャスパーだって一人で旅をしていた頃は、なりふり構わずなんでもやってきた。当然身売りなんて当たり前の手段だった。けれど彼がジャスパーに今回やらせたそれは、ジャスパーがそれまでやって来た方法よりもよほど狡猾だった。
 数人がかりで無理矢理押さえ込まれ、一晩乱暴に抱かれ続けることもあった。
 あるいは暇を持て余し金に飽かせた貴族の女のあそこを、手足を戒められた格好でずっと舐めるだけなんていうのもあった。どんな依頼でもシェスラートは巧みに相手から最大限の額を引き出す。復讐を諦めて、女衒にでもなった方がいいのではないかというほどの手腕だ。それでもどうしても金を払わないとか、値切り倒そうという客からは、殺して血を奪った。
「怒るなよ。こんなこと、生きて行くには当たり前のことじゃないか。他人を食い物にするなんて、誰だってやってる」
「ああっ」
 後に突っ込まれた指が、ぐちゅぐちゅと中をかき回す。散々吐き出させられた精液でぬめるそれが、異物感と快楽とないまぜになって背筋に痺れを走らせる。
「ん……ふぁ、ああ、いやぁ……」
 その指が身体の奥の一点を突くと、わかりやすく身体が跳ねた。にやりと口元を歪めたシェスラートが、そこを集中的に刺激する。
「はぁ……ふぁあああッ」
 もう少しで弾けるというところまで追い上げられ。
「えっ」
 前触れもなく、突然するりと指が中から引き抜かれた。異物感と圧迫感が急になくなって、楽になるよりも丹田に溜まった快感が取り残されて辛くなる。けれどそれ以来シェスラートがいっこうに動く気配がない。
「な……なんで……」
 彼はジャスパーの顎に指をあてて仰のかせると、視線を合わせて子どもに言い聞かせるように言った。
「ちゃんとイかせて欲しければ、俺に情報を教えるんだよ、ジャスパー。それを全部聞くまでは、お前の中に俺のものを挿入れてなんかやんない」
「そんな……」
「じゃあ言いなよ、まずは思い出しやすいだろうから、ローゼンティアの情報からでいいや」
「!」
 ジャスパーは必死で彼の視線から顔を背けた。半ば狂気に落ち時々記憶は途切れるようになって、最近まともに彼自身の理性が残っていたことなんて滅多にない。けれどこれは駄目だと思った。いくらもう祖国なんか関係ないと言っても、兄妹の情報を売るなんて。
「へぇ。抵抗するんだ? じゃあずっとそのままでいる? どうせ両手を縛ってるから自分で慰めることもできないだろうけど、いっそ根元を紐で縛ってイけないようにしたまま犯し続けるとか。むしろもう、これを斬りおとして目の前でどこかの獣に食わせるとか、そういう拷問方法、確かどこかになかったっけ……?」
 シェスラートの次々に述べる方法にざっと血の気が引く。それでもジャスパーは黙っていた。
「ちっ……そうだな、じゃああれをやるか」
「え? ……うあぁ!」
 突然何事か思いついた様子のシェスラートが僕の上に馬乗りになる。そうして彼は無造作に伸ばした手のひらで、ジャスパーの目元を覆うように頭を掴んだ。
「ああっ!」
「見せてもらうぞ、お前の記憶。全部はわからないけど、それでも一番強烈な弱点くらいはわかるものさ……」
 僕の、一番の弱点……?
「……ふ、くっくっくっく、あっははははは!」
 シェスラートは突然笑い出した。
「ああ! そうなんだ、そんなにロゼウスが好きなんだ。なるほどね……」
「な、何を」
「大好きなお兄様がとられるのが許せなくて噛み付いたら、シェリダン王に見事に報復されたってわけ! 目の前で大事なお兄様が男に掘られている場面を見るなんて、そりゃあ災難だよな」
「なっ……!」
 よりにもよってそんな記憶を。羞恥に赤面するジャスパーを、しかしシェスラートは思いがけず真面目な表情で見下ろしてきた。口元は微笑を形づくるけれど、目は笑っていない。
「ねぇ、ジャスパー。だったら、共犯にならないか?」
「え?」
「お前はシェリダンが憎いんだろう? 俺の目的も奴を殺すことだ。ローゼンティアのことは言えなくても、憎い仇の情報なら幾らだって渡せるだろう?」
「……僕はあの城ではずっと他の皆と引き離されて閉じ込められてたから、ほとんど何も知らない」
「ああ。それでいい。知ってる限りのことを話してくれ。どんな情報でもないよりはマシさ」
 そうして、シェスラートはジャスパーから情報を聞きだすと、腕の拘束を解く。
「協力しようじゃないか。お互いの目的のために」
 暗い夜空の下に、湿った音が再び響きはじめた。

 ◆◆◆◆◆

 袖を捲り上げて腕を見る。薄い。ほとんど色がない。
「くそ……ッ、まさか、こんなに早く……ッ!!」
 ハデスの右腕に刻まれているはずの選定紋章印が、もはやその意味をなさぬほど薄くなり消えかけている。皇帝が交代する証だ。ロゼウスの力が目覚め始めている。
「畜生……まだだ。まだ、何も上手く行ってなんかいないっていうのに……!」
 焦りばかりが募って、上手く物事が判断できない。このままではロゼウスに全てを奪われる。わかっているのに、ハデスにはどうすることもできないのが悔しい。
「どうすれば――」
 ヴィルヘルムはすでに殺された。ドラクルはこのことに関しては知らない。シェリダンはやはりあてにならない。使える駒は、どれだ。
「ジャスパーはシェスラートと協定を組むだろう。あの強かなガキなら、必ずやる。カミラにエヴェルシードを動かさせ――、いや、駄目だ。これ以上ことを大事にしたら他国に介入する理由を与えてしまう。でも……始祖皇帝が目覚めたら、僕に勝ち目なんてないぞ……!」
 苛々と爪を噛むが、何の解決にもならない。苛立ちが増すだけで、ハデスは指を離した。
「こうなったら、また冥府から魔物を呼び寄せてけしかけるか……? だが、始皇帝にどこまで通用するか」
 ハデスだとてこれでも帝国宰相として何十年も生きている。ロゼウスにあっさり負けるなんて思いたくはない。だが始祖皇帝が相手ならば話は別だ。
 遠見の術で覗き見た目に映る光景。
「畜生」
 この腕には薄くなった選定印。
 もう、時間がない。
「何してるの?」
 ハデスの苛立ちを増す声が、背後から緩くかけられた。あまやかな香りと共に、細い腕が背中から抱きついてくる。
「何でもない」
「そんな風にはとても見えないわ」
「何でもないって言ってるだろ!」
 彼はデメテルを払いのけた。今は何もかもが鬱陶しくて仕方ないと言うのに、その苛立ちの大元にもなっている相手に引っ付かれて嬉しいわけがない。
「カリカリしてるわね。ハデス」
「そういうあんたは、随分余裕だね、デメテル姉さん」
 もう何をこそこそする必要があろうか。どうせバレていることなんだ。今ここでぶちまけたところで何の問題があろうか。だからハデスは叫ぶ。
「お前はそんなに僕が足掻くのを見ていて楽しいか!」
「え?」
「何故何も言わない! 僕が皇位を狙っていることを知っているくせに、どうして何も言わないんだ!!」
「それは……」
 突然激昂したハデスの様子に、何故かデメテルが眉根を寄せた。歪むその顔が答を口にする前に、ハデスは先手必勝とばかりに叫ぶ。
「そういうところが気に食わないんだよ! 姉さん!」
 目障りならば消せばいい。
 邪魔になるなら殺せばいい。
 それすらも面倒ならば四肢をもぎ取って閉じ込めておく事だって、なんだってできるくせにこの人はやろうとしない。デメテルはハデスより力が強い存在、世界皇帝。帝国宰相如きの謀反など気づいたその瞬間に握りつぶせるくせに、何故今まで弟を泳がせた。
 それともハデス程度の力では、敵にすらならないと言うのか。
「あんたのそういうところが憎いんだよ!!」
「ハデス……」
 そうだ。憎くて、憎くてたまらない。気に食わないなんてまだ生温い。僕は確かにこの人が憎い。ロゼウスよりも。
 文机の上のインク壷やペンを全て腕で振り払って薙ぎ倒して、姉の方へぶつけてからハデスは部屋を出る。こんなことをしたところで何にもならないことは知っている。ただの癇癪だ。それでも止められない。どうしようもない。
 足音荒く、ハデスは部屋を飛び出した。
「あーあ……」
 床に散らばった書き物道具を見て、デメテルは溜め息をつく。女官がまた嘆くだろう。インク染みが絨毯について、これはきっと落ちない。そのままにしておくのと片付けてしまうのと、どちらが良いものか。
 とりあえずインク壜だけでも片付けようと手を伸ばしたところで、指が滑った。インクの中に指先を浸して、真っ黒になる。
「あ……」
 やはり私では駄目ね。ここ数十年ずっと家事など召し使いに任せきりで自分ではやってこなかったデメテルはそう思った。皇帝になる前は、一番身分の低い一族で、奴隷のような暮らしを当然としていたというのに。
 ハデスはあんな生活を知らない。だからこうして床にインクを零しても、それを嘆きながら片付ける侍女たちのことなど気にせず部屋を出て行く。
 床に落ちたインクやペン。
 零れたインクに浸した指先は真っ黒。
 黒は我らが色、黒の末裔の色。
 デメテルは先程ハデスに振り払われた手をそっと押さえる。
「何故、だなんて……」
 そんなの、決まっているじゃない。
「あなたに時間がないということは、私にも時間がないと言う事だわ」
 世界は、刻一刻とその様相を変えていく。