168*
ミカエラが寂しいと思うとき、その人は何故かよく会いに来てくれた。
――ミカエラ。調子はどう?
――兄様、そこは調子ではなく、具合を聞くところだと思います……。
――細かいところは別にどうだっていいじゃないか。あ、さっきアン姉様がクッキーを作ってくれたんだ。一緒に食べよう。
――お菓子作り……ミザ姉様とロザリーも一緒って聞いていたんですけど。
――……えーと、麗しきお姉様と可愛い妹の名誉のために、俺は黙っておくことにするよ。
――また失敗したんですか? ふふ。相変わらずですね。
優しい、というのとは少し違う。ロゼウスは自分に対して興味がないこと、ミカエラは知っていた。
ロゼウスの瞳はいつも、ドラクルだけを追っていた。いつもいつも。一途に焦がれるような眼差しであの長兄を追っていて、そこにミカエラの入れる隙間はない。
中庭を歩く二人をよく見ていた。ローゼンティアは薔薇の王国だから、どこにでも薔薇が咲き乱れている。朝焼けの薔薇園で、何事か話しながら二人はよく顔を合わせていた。
ミカエラは、それをよく部屋の窓から見下ろしていた。二人が中庭の奥の方へと行ってしまうとわからないけれど、手前の一部分はミカエラの部屋から見ることができるのだ。ローゼンティアの治安は穏やかで、空気の綺麗な上階にミカエラの部屋はある上に窓際に寝台を置いている。飾り棚の植木鉢の薔薇の花越しに二人を見ていた。
ロゼウスは、基本的に他人にあまり興味のない人だ。優しい笑顔を常に浮かべていられるのは、あんまりその相手に興味がないからだろう。それも知っていた。長兄ドラクルが一番大事で、後の相手にはそれほど強い執着を見せてはいないように思える。すぐ下の妹であるロザリーのことはとても気に入っていたようだけれど。ミカエラは普段はあまり気にかけられていなかった。
なのに、どうしようもなく寂しい時に限って側にいてくれる。
うんと幼い頃、ミカエラは高熱にうかされて、意識不明の重体になったことがある。
もとより体力のない彼はもう、耐えられないのではないかと周囲に言われていた。このまま命を終えるのだろうと見限られて、周囲の人たちは国葬の話をしていた。……聞こえていた。熱にうかされて意識は途切れ途切れなのに、そんなことばかりよく聞こえてしまう。
ミカエラ王子はもう駄目だ。そんな諦めの声を聞くたびに、まだ生きてる、と叫びたくなる。なのに、乾いた喉ではそれすらもできない。苦しいとも怖いとも悲しいとも寂しいとも言えないまま自分が死んでいくのかと思えば、何よりもそれが怖かった。苦しいのにはもう慣れたけれど、それを誰にも知られないまま、思われないまま死んでいくのは嫌だった。せめて、せめて誰かにそれを知ってもらえたら。
――ミカエラ。大丈夫? 痛くない? 苦しくない?
泣きながらミカエラの看病をしてくれようとしたのは、第三王女ミザリーだった。だがすぐに侍従や部下たちによって部屋から追い出された。
そこまで死にかけるほど重症になったのはみかえらの身体がもともと弱いからだが、その時の高熱の原因は流行り病だった。国一番の美姫であり政略結婚の要、その気になれば国を傾けることもできるだろうと言われているミザリー姫に、死にかけの何の役にも立たない王子の面倒なんて診させられない、と。
母親も同じ理由で入室禁止を言い渡されたようだった。気の弱い彼女は周囲に流されて、一度も見舞いには来てくれなかった。王族たるもの、それで当然だ、仕方ないとは思っても、寂しさは消えない。
広い部屋にただ一人残されて孤独が煽られる。
今死んでも、きっと誰も気づかない。少ししてから人が入ってきてそれでようやくわかるのだろう。僕は独りだ。それを、ミカエラは悲しいほどに強く感じた。ミザリー姉様たちでさえそれなのだから、同母の弟であるウィルやすぐ上の姉であるロザリーが来られないのも仕方ないのだと、自分を納得させた。
そんなときにひょっこりと、あの人は現れたのだ。
――ミカエラ。
熱で途切れがちになる意識。あるいは夢かもしれないけれど、重ねられた手のひらの感触を今でも覚えている。重い瞼を開けたミカエラに優しく微笑みかけたのは、すぐ上の異母兄、ロゼウス王子だった。
笑顔が、夢のように美しかった。本当に夢かもしれない。
口を開けても声が出ない。喉が嗄れ、声は掠れて身体が罅割れそうに痛い。察してくれたのか兄は枕元の水差しを手に取り、ゆっくりと飲ませてくれた。
――ロゼ兄様……。
せめてこの人にだけでも何か聞いて、覚えていてもらえればと、周囲の言うがままにもう死を覚悟していたミカエラは彼に言葉を残そうとした。けれど。
――駄目だよ。ミカ。
その唇で、掠めるようにこの唇に触れられた。病気で熱を持つミカエラとは違う、正常な温かさ、人間からしてみれば少し低いのだと言うそれが酷く心地よかった。
――遺言なんて聞いてあげない。生きるんだよ。
どうしてそんなことを言うのかわからなかった。彼は、もうすぐ死ぬかもしれないのに。死にそうなのに。
ただ、涙が溢れてきたのは覚えている。
自分でもどうしようもない流れるそれを、ロゼウスが拭ってくれた。肌がかぶれるといけないからと言って、最後に濡れた布で綺麗に拭う。また別の布を濡らして、額に当てた。すぐに熱が移って温むそれを感じながら、腫れた瞼を癒すように白い手が塞いだ。
――おやすみ。
夢を見ていた。幸せな夢だった。
夢を見るくらいに、幸せに生きていた。
その後ミカエラはなんとか持ちなおし、ここまで生き延びることができた。どうせ早いか、遅いかの違い。影でそう囁かれいつ死ぬのかと危惧されていようとも、それでも、ここまで生きていた。
あの時のことは、後でロゼウスに聞いてみた。夢ではない証拠ににっこりと笑ってくれて。その後ロザリーから事の顛末を聞いてますます兄が謎になった。
だってよく考えてみれば、あの時ミカエラの部屋は入室禁止を言い渡されて看病の侍女たち以外は出入りができないようにされていて、警備の衛兵が立っていたはずなのだ。ミザリーやロザリーを追い返した時のようにロゼウスのことも追い返そうとした兵士たちを、彼は軽く気絶させると言う力技に出たらしい。
あれは確か九年前、ロゼウスが八歳、ミカエラが六歳の頃。末っ子のエリサなど生れて一年も経っておらず、ドラクルだってまだ十代だった。
衛兵たちも、まさか優秀なノスフェル家の血を引く王子とはいえ八歳の子どもに負けるなんて思っていなかったのだろう。
でもわからない。あの時、何故ロゼウスがそこまでしてくれたのか。初めからそんなに親しかったわけでもない。
僕のことなど、どうでもよかったのではなかったの?
ミカエラにとって、ロゼウスとは愛しいと同時にひたすら謎な人だ。
優しくないのに優しくて、穏やかそうに見えて実は強引で。
そしてどこか、ミカエラには知れない翳りをその瞳に抱いている。だからこそ今、願う。
せめてあなただけは、どうか幸せになってほしいと。
エヴェルシードに侵略された時のように、外的要因で死んだ場合、ヴァンピルはそのまま生き返ることができる。《死人返り》の一族と呼ばれるノスフェル家ほどそう簡単にはいかないけど、それでもミカエラだとて、一度エヴェルシード人に殺されたにも関わらずここにこうしている。
だけれど、ミカエラの生れつきの病弱は変わらない。病気に危うくなるほど弱いそれは天命だ。定められしものは覆せない。
寿命が五百年ほどもあるヴァンピル。けれどミカエラは、どうせ最初から二十年生きられるかどうかだと言われていたらしい。今回の蘇生、故国への隣国の侵略。家族の死去。限界だと、自分でもわかっていた。
だからせめて、僕は誰かのために死んでいこう。
それがローゼンティアの民や国のためならこの命にも、少しは生れてきた意味があるかもしれない。
それが少しでもロゼウスのためになるならば、自分はとても幸せだ。
ドラクルはドラクルで辛かったのかもしれないけれど、ミカエラはやはり、ロゼウスの肩を持つしかできない。
王に、君主に、ふさわしいのはロゼウス=ローゼンティアしかいない。
だから。
「兄様、どうか……」
部屋の外から、扉を軽く叩かれた。
◆◆◆◆◆
ああ、彼も疲れた顔をしているな、と思った。
「ルイ」
入室の許可をする言葉と同時に扉を開けたのは、ミカエラをここまで送ってきてくれた人だった。エルジェーベト==ケルン=バートリ公爵の弟であるルイ=ケルン=バートリ。ミカエラは彼に頼み込んだ。エヴェルシード女王への目通りを願いたい、と。公爵の弟である彼の権力あってこそ、ミカエラのその願いは叶えられたようなものだ。
先程、カミラ女王にミカエラの願いを話した。
まだ返事はもらっていない。「考えさせて」と難しい表情をしていた彼女はすでにドラクルと内密に連絡をとれる手段を持っているのだろうか。それとも持っていないのだろうか。それによって全然話は違ってしまう。あのドラクルが、ミカエラごときの策に騙されてくれるものか。
どちらにしろ勝負は早いほうがいいと思って、あの後さらに脅しをかけておいた。自分はこんなにもすぐに死にそうなのにあなたの決断が遅れて講和が成り立たなくなったらあなたのせいですよ、と。遠回しに。更に言えば、エヴェルシード国内で理由もなくローゼンティア王族のミカエラが死亡したら、真っ先に殺害容疑をかけられるのはカミラ女王自身であり、そのためにローゼンティアがエヴェルシードに戦蜂起するかもしれない、と軽く脅迫しておいたのだ。
答は長くても数日中に出されるだろう。
つまり自分の死は、もう眼前に迫っている。これがなくても死ぬんだから、どちらでも同じと言えば同じかも知れないけれど。
しかしミカエラはどうせならローゼンティアやロゼウスのために死にたい。カミラ女王を上手く誘導できるように願っている。
「ミカエラ、起きたんだって? で、なんですぐに私に知らせず女王様の方にいくかなぁ……」
「だって、そのために来たんだし。言えないまま終わるのも嫌だから」
「……ミカ」
「軽い気持ちで言っているわけじゃないよ」
ルイが溜め息をついた。
寝台の上を動かないミカエラに合わせて、彼は先程カミラ女王が座っていた椅子をさらに寝台近くまで引き寄せて座る。
「……本当に、言っちゃったんだ」
「うん。言ったよ」
「……平気なのか?」
「大丈夫」
大丈夫。
僕はもう決めたから。自分に出来ることの中で、一番いい方法を選べたんだから大丈夫。
しかしルイは納得していないようで、ミカエラの身体には触れないまま、寝台に手をついて詰め寄って畳み掛けてくる。
「怖くはないのか? 痛かったり苦しかったりするのかもしれないんだぞ? カミラ女王だってまだそうするとすぐに答えられたわけじゃないんだろう。今ならまだ引き返せるよ。ミカエラ。わざわざ自分から苦しい道に飛び込まなくたって、穏やかにその日を迎えれば……ッ!」
「ルイ」
ミカエラは彼の名を呼んだ。
いつかロゼウスが自分にしたように、その唇を自らの唇でかすめるようにして塞ぐ。
いくらヴァンピルとはいえ弱りきった子どものミカエラと、人間の大人の男でかなりの武人であるルイ。どちらの腕力が強いかなど一目瞭然だが、ルイは凍りついたように動かなかった。
でも、その唇は熱い。人間は命をその身体の中で燃やして生きているからだと言う。ミカエラらのように、人間からその血を奪い取って冷たい体の中に取り込むヴァンピルとは違う。
ここは炎の国エヴェルシード。ならばそこに住む人々は、なおさら他の国の人よりも熱いのだろうか。
ミカエラは知らない。世界を見る前に、この命を潰える。故国であるローゼンティアと隣国にして敵国であるエヴェルシード。これだけしか知らずに逝く。
「決めたんだ。もう」
「――ッ!」
「そんな顔するなよ」
目の前でルイの顔がくしゃりと歪み、ミカエラはミカエラでどんな顔をしていいのかわからなくなる。
「大丈夫だよ。怖くない」
「……嘘だ。本当は、怖いんだろう」
顔を上げたルイは、強い眼差しでミカエラを睨んできた。
「怖くて怖くて仕方ないんだろう? ミカエラ。死ぬのが怖くない人間なんて、いるわけないじゃないか……そんなにロゼウス王子が好きなのか? そのために命を投げ出せるくらい?」
「……ルイ」
ミカエラは彼の胸に身を投げ出すようにして抱きついた。
「……お願いがあるんだ」
耳元で、小さく囁いた。
◆◆◆◆◆
「あ……、んっ、うぁ……」
衣擦れの音が響く。
その中に、ぴちゃぴちゃと乱れた水音が交じる。
「は……ぁ、ああ……」
肌を熱い手がなぞる。優しくやわらかく、まるで壊れ物を扱うように。その手が、酷く熱い。
「あ……そこ、もっと……」
「ここ?」
「アッ!」
幾ら弱っているとは言っても、すぐに死ぬなんてことはない。ヴァンピルの取り柄はとにかく頑丈だと言う事。
こちらの身を案じて渋るルイをこれくらいなんでもないからと誘って、ミカエラは今彼と肌を重ねている。
これから極めて短い間だろうが何かとこの城で世話になるにあたって、肌に痣を残す事はできない。処刑前に死に装束に着替えさせられたところでそんなものを見せてしまっては、面目と言うか体裁が悪い。
けれど、胸に鮮やかに色づく赤に、男の唇が寄せられる。きつく吸われて、妙な声が漏れる。痕が残ると困る場所は、吸われて赤い痣を残される代わりに、舌先でツツ……と撫でられた。そのもどかしいような刺激に、背筋にぞくぞくとした感覚が走る。
前を弄っていたルイの指が、ふとそれを弄んでいたのを止める。
その代わり、尻を鷲掴むようにして滑った。そのまま後の孔を広げようとする。
「ミカ」
「ん……」
差し出された指を素直に口に含んだ。丁寧に舐めしゃぶって、唾液で濡らす。充分に濡れたその指を、後へと差し込まれた。
「ああッ」
熱い指が内壁を抉るようにしてかき回す。直腸を擦られると、たまらなくなる。奥を入り口を行ったりきたりして彷徨うその指の感覚を、思わず全身で感じてしまう。
「ミカエラ。力抜いて」
「あ……でも……ふぁ、あああ」
いいところを探し当てていた指が一点を突くと、堪える事ができなくなった。ルイの肩にしがみつく。
頃合を見計らって、ルイが中から指を引き抜いた。
「……挿入るよ」
一瞬圧迫感が消えて物足りなさを感じる場所の入り口に、圧倒的な質量と熱を持ったそれがあてられる。充分にとろかされた場所に、じわじわと差し込まれた。
「あ……っ!」
快楽が殆どである強い刺激に耐え切れず、ぽろぽろと涙を流した。決して乱暴ではないのに、行為の上なら当然の激しい動きは、確かに体力を奪う。
昇りつめると、頭が真っ白になった。どろりと、中に吐き出されたそれの濡れた感触を味わいながら、ふと頬に落ちる雫を知る。
「……ルイ?」
「ごめん」
ぽたぽたと連続して降ってくるのは汗ではない。一言だけ謝って、彼は寝台に手をつき身体を支える一方の手を持ち上げて目元を拭った。
「……いいのかい? ミカエラ」
「……ん?」
「最後が、私で」
全てが終わり、荒い息遣いもまだ整わない。熱の残滓は体中を支配している。けれど、頭の中は怖いくらいに冷静で。
「うん」
本心から頷いた。
「お前がいい」
「そうかい」
離れる前に額に口づけが送られた。肩をつかまれ、強く抱き寄せられる。彼はミカエラの肩に目元をきつく押し当てた。
「ありがとう、ルイ」
わがままを聞いてくれて。願いを叶えてくれて。
これが僕からあなたにできる、最初で最後の礼だ。