169
このままではとにかくマズい。そう言ったのはジャスパーだった。
「何がマズいと?」
「ローゼンティアにこのまま入るわけにはいかない。ロゼウス兄様はドラクル兄様の恨みをかっている。見つかったらただじゃおかないだろうし、最重要人物として指名手配されているはずだ」
ああ、とシェスラートは頷いてロゼウスの記憶の中からそのことを引っ張り出す。
「長兄との王位継承問題か……別に、ロゼウスにその気はないんだろ」
ヴァンピルの体力は人間とは違う。途中途中休息をとりながらも、セルヴォルファスから歩き続けてそろそろローゼンティアに入ろうというところまで来た。かの薔薇の国には、きっとロゼッテの生まれ変わりであるあのエヴェルシードの少年がいる。そのためだけにシェスラートはローゼンティア……かつての我が名が冠された国へと向かっていた。
夏が始まろうとしていて、森の中には花が咲き乱れている。薔薇の花も道のところどころに見える。だからこそ人がさほど通らないこの道でものんびりと歩いていることができた。路銀は前の街でジャスパーに稼がせ、懐は暖かい。憂えることもなく、この弟とは同盟を結び、行く道は順調に思えていたのだが。
「指名手配など関係ない。見咎められたなら、強行突破してしまえばいいだろう」
「そういうわけにもいかない。あなたの目的がシェリダン王にあるのはわかったけど、ドラクル兄上を甘く見ない方がいい」
「ふぅん」
ロゼウスの兄、正確には長い間兄だと思っていた男、ドラクル。
柔らかな物腰に際立つ知性。ローゼンティアの王家の十三人の兄弟姉妹の中では、一頭抜きん出て優秀だとされていた男。本当は先王ブラムスの血を引いていない男。
「けど、あれは……」
「え?」
「いや、なんでもない」
あの男の目的は、なんとなくわかる。多分これは自分がロゼウスであってロゼウスではないからなのだろう。長い間涙の湖底でロゼウスと同化しながら世界を見ていたときには気づかなかったが、改めて第三者の視点で状況を判断すると、何をそんなにくどくどしく悩んでいるのかと言ってやりたいようなことばかりだ。何故本人は気づかない。
……いや、気づいているのか。
ロゼウスは本当は、全て気づいているのかも知れない。知っていて、ああいう態度をとるしかできなかったというわけか。
何度生まれ変わっても、何度生を重ねても。
「人の愚かさなど、変わらない……」
「シェスラート?」
「なんでもない。それより、ジャスパー。お前はそれでいいのか?」
「何?」
「お前としては、紛い物の俺と大事な兄を区別したいのはわかる。だが、他の兄弟姉妹の前でもそう言うのか? ……その手紙、ローゼンティアの他の兄妹たちに出すんだろう」
ジャスパーの手元に、先程切り株を使って彼がしたため、封筒もないから折りたたんだだけの簡素な手紙がある。
シェスラートの読みが正しければ、それは十中八九、彼がローゼンティアの他の兄妹へと向けた手紙だ。当面の味方は少ない。民衆を操り軍隊を動かすなんてこと、いくら王子とはいえ今の自分たちには不可能だし、誰か貴族に頼るといっても、第一王子として長く人々に実力を認めさせ信頼されたドラクル以上の立場になど、いきなりなれるわけはないだろう。この事情をわかっていて、シェリダンと繋がりがあって、ローゼンティアへも影響力を求めるとなったら、他の兄妹に渡りをつけるのが最も手っ取り早い。
「その通りですよ、……兄様。アンリ兄上たちは生きていれば間違いなくローゼンティアに向かっているでしょうから、協力を願います。もしかしたら、すでに国内に潜入を果しているかもしれない」
自らの国であるのに潜入とは、滑稽もいいところだ。
ジャスパーは常につけている髪飾りの宝石をそっと手で弄った。一度取り外して何かすると、その手に黒い小さな塊が乗せられている。
「なんだ?」
「僕の使い魔の蝙蝠です。これに、手紙を運ばせます。……誰がいいかな」
ジャスパーの手のひらの上で、その黒い塊は徐々に姿を現した。豆粒ほどの大きさだったものが、空気に触れた途端膨らむように人の頭ほどの漆黒の蝙蝠となる。
「……ウィルに。僕の弟の、ウィルにこの手紙を届けて」
逡巡の末に、ジャスパーは自らの使い魔にそう命じた。
「末の弟か。どうしてそういう選択にした」
「……ウィルは剣の腕が兄妹の中でも、ロゼウス兄様とドラクル兄様に次ぐほどに優れています。子どもということで周囲の警戒心も薄れる。そして説得は他の兄妹に比べて容易い。呼んで得はしても損はないでしょう」
「ふうん」
ロゼウスと記憶を共有するとはいえ、その辺りの複雑な感情はシェスラートにはわからない。素直にジャスパーの判断に任せることにした。
黒い蝙蝠姿の使い魔が、四つ折の紙片を足にくくりつけて飛んで行く。
「ローゼンティア王国に、エヴェルシード王国か……」
シェスラートはそれをしばらく見送ると、ジャスパーを促して再び歩き始めた。
◆◆◆◆◆
連れてこられたのは、王城から程遠い土地にある一つの屋敷だった。エヴェルシードと違い、ローゼンティアには王城以外の城がない。その代わり各地方の領主たる貴族の館は、それだけで城と呼べそうなほどの豪邸だ。
日和見、とあまりにも胡散臭い名前を名乗ったその男がシェリダンたちを案内したのは、そういう屋敷だった。崖の上から国土を一望した時にも思ったが、この国では視覚の限界にでも挑戦しているのか、やはり建物は黒と赤を基調にしている。それを囲む荊の森は黒と見紛うほどに濃い緑で、薄紫の曇り空の下、異世界の景色でも見ているように薄暗い。
赤い煉瓦と黒い屋根のその建物の外観をさらに怪しく飾っているのは、壁面を覆う荊だった。この国ではそれが当然のことのように、どこに家にも薔薇の茂みがあり、壁には荊が這っている。王城にはこの地方にしか咲かない特殊な銀色の薔薇が繭のように世界を閉ざして覆っている。
「え? 薔薇がそこかしこに植わってる意味? 非常食よ」
ロザリーはあっさりとそう言った。
「……非常食?」
「うん。あれ? ロゼウスから聞いてない? ……わけないわよね。私たちの吸血衝動を薔薇で抑えられるってこと、あれを人間の血を吸う代わりに食べるの」
そういえばロゼウスもエヴェルシードに来た当初はそう言って薔薇の花をよく食んでいた。しばらくして慣れてからは、シェリダンの血を舐めるようにさせていたから忘れていたが。
「はーい、えーと、八名様ご案内~」
日和見の言葉で屋敷の中へと通された。これだけの豪邸だと言うのに、使用人が一人も出てこない。それどころか、人の気配がない。ここには誰も住んでいないのかと思わせるが、それにしてはそこまで荒廃しているわけでもなし、やはりここは日和見自身や誰かの別荘なのだろう。
案内された屋敷の廊下も、壁が黒く窓が高い位置にあって光が届きにくいために真昼だというのに深い影が落ちている。その中を、では明かりをつけましょうかと先頭を歩く日和見が燭台を持って歩くのだが、そのセンスがまた。
「……ハンドオブグローリー……」
「……シェリダン様、僕たちは度胸を試されているんですか?」
ローゼンティアを訪れるのは初めてとなるクルスが引きつった顔で問いかけてくるが、シェリダンたち以外は皆平然としている。この国で生まれ育ったヴァンピルたちはともかく、サライはウィスタリア人のくせにやけに飄々としていた。あの悪趣味な燭台を見てもそこかしこの魔界の景色を描いたと思われる絵画を見ても「あら、懐かしい」などとのたまっている。この女も立派に人外のくくりだ。
「あの……それって……本物、じゃ、ないですよね……」
怖いなら黙っていればいいのに、ただ歩いているのも怖いのか青褪めながらもクルスはついつい聞いてしまっている。アンリ王子が目の前にしているものの悪趣味さにそぐわない快活な笑顔で答えた。実際にそれを手にしている日和見は笑顔のままその《栄光の手》を振ってみせる。炎が揺らめいてまた怪しい影を作った。
「本物なわけないじゃん、ユージーン侯爵」
「そ、そうですよね」
「うん。まあ、死体の手がいい松明になるのは本当だけどな。ミイラは乾燥してるし、屍蝋を使う手もある。まあどちらにしろ、人間の身体は脂肪があるからよく燃えるんだよなー」
「……ッ」
快活に笑い飛ばしておきながら、アンリ王子は何気なく怖いことを言っている。一瞬安心しかけたクルスの顔が、また一瞬にして強張った。
しかもこの辺りで話題を打ち切ればいいのに、兄王子に続いて今度は末の王子が何事か言い出す。
「それにこれは真っ黒だから明らかに鉄でできた中に普通の蝋燭を埋め込んだ偽物で……あ、そうか。ユージーン候は本物の《栄光の手》を見たことがないんですね」
「え?」
見た事があるのか、ウィル王子十二歳。
「あのねー、ほんものは人間の手をそのまま使うからねー、ちょっとへんしょくしたこい肌色なのー」
見た事があるのか、エリサ姫十歳。
「は……はは。物知りですね、皆さん……」
「というか、貴様ら昔は実際にそれを使っていたんじゃないだろうな」
「あっはっは。イヤだなー。シェリダン王」
「しかも、『人間』の手というところにやけに先程から拘った言い方をしている。ヴァンピルの腕はハンドオブグローリーにはならず、外の国の人間の手を使ったのではないか?」
しかも位置関係から考えると不愉快なことに、このローゼンティアに一番近い人間の国は我らがエヴェルシード。ローゼンティアはシュルト大陸の東端にあるため、他の国家とはほとんど境界を接さない。
「知らない方が幸せなことってあるよね」
日和見がにっこりと笑った。これ以上聞いてはいけないような笑顔だった。
「……私はそれより、シェリダン王の言い方もさっきから気になるけどね。あなた、ユージーン候の驚きようとは違っているもの。《栄光の手》について初めから知っていたわね?」
青褪めるクルスのことはひとまず置いて、ミザリーにシェリダンの方も突っ込まれた。
「……ハンドオブグローリー《栄光の手》とは、黒魔術に使う呪具の一種。二種類ほどあって、一つは人間の手をそのまま蝋燭として火を灯すものと、もう一つは手を燭台にその指の間もしくは指先に蝋燭を立てるもの。ちなみに今、日和見が使っている燭台は前者がモデルだな。これを作るにはどちらにしろ、絞首刑で死んだばかりの殺人犯の死体から腕を斬りおとす。男でなければいけないというのも条件にあったか? 腕をそのまま使う場合中指だけを立てた状態にし、屍蝋化させる。先ほど人間の身体は脂肪があるからよく燃えるとアンリ王子が言ったが、その通りだ。人体の脂肪分が変性して死体が蝋状になるのを利用する。もう一つは死体の腕を液体に浸したり薬草を必要とするなどの煩雑な処理が必要で、その燭台に立てる蝋燭自体も殺人犯の髪や首を括って自殺した人間の脂肪などから作り上げる。後は、腕自体を単純に蝋に漬け込む方法もあるらしいな。効果は、その蝋燭の火を見た者の動きを封じたり、これを持つ者は他人の目に映らない、などと言われている」
シェリダンが話し終えると、途端に場が静まった。皆歩みは止めないので、暗い廊下に人の手の形をした燭台の明かりだけが灯り、コツコツと日和見の革靴の足音が響く。
「……シェリダン様……」
「シェリダン王……」
「あんたなんでそんなに詳しいのよ」
「聞いたからだ。友人、というか飲み仲間に」
クルスだけでなく、ヴァンピル王族たちまで妙なものを見るような目をしている。しばらくして微妙な声音で発された問にシェリダンが理由を答えると、ますます怪訝な表情が返る。
一人だけ、シェリダンの話す「友人」に心当たりあのあるクルスがぽつりとその名を呟いた。
「ハデス卿ですか……」
「ああ」
《黒の末裔》という特殊民族の子孫であり自らも最高級の魔術師である彼とシェリダンは、よく城を抜け出して城下町で遊んだ。遊ぶといってももちろんその内容が健全なものであるわけはなく。安酒を飲みながらハデスがシェリダンに教えたのは、ろくでもないような知識ばかりだった。
「ハデス……って、帝国宰相? シェリダン、でも」
「はい、つきましたよ」
彼はいまやシェリダンたちの敵となっている。
何事か言いかけたロザリーの言葉を遮って、日和見が到着を告げた。やはり人の姿はなく、調度こそ整っているがその部屋には何も用意されてない。
「いやー。すいませんねぇ。お客様をお呼びすると言うのに支度の一つもしていなくって。今お茶を淹れますから、ゆっくりしてくださいね~」
そう言うと、日和見は自ら茶の支度をするらしく部屋を出て行った。シェリダンたちはそれぞれ勝手に席に着く。先程から気になっていたことを、周りのローゼンティア王族たちに聞く。
「あの男、結局何者なんだ? これだけの屋敷なのに、使用人が一人も出てこないのはおかしくないか?」
「え? ああ。日和見のことはちょっと複雑だけど、召し使いが出てこないのは当然よ。だってこんな時間に押しかけて、警備兵以外はどこでも寝てるに決まってるじゃない」
「寝てる?」
「ヴァンピルは夜行性だもの」
……忘れていた。そういえば、当然のように真昼間の陽光の下を歩いてはいたが、彼らは本来真夜中に活動して昼間は息を潜めている種族だった。
「お前らはやはり棺桶で眠るのか?」
「そうすることもなくはないけど?」
ヴァンピルについてはやはりわからない。
「お待たせ。いやー、ごめんねー。雇用人が少ないからあんまり無理させたくなくてさー。はい、どうぞ。あれ? そちらの方はどうしたの?」
「い、いえ。なん、でも、ありません……」
戦場ではばったばったと敵を薙ぎ倒すクルスも目の前で黒檀のテーブルに血のような紅い獣の頭部を象りズラリと生え揃った牙が周囲を縁取る器に盛られたお茶請けの菓子を見ると涙が込み上げてくるらしい。心情的に物凄く食べ辛い。しかも困ったことに、人間と同じ食事をしなくてもいいヴァンピルたちには別の器に何か用意されているから、これは人間である自分たち用なのだろう。
シェリダンは苦悩する。
「ところで日和見、知っての通り、俺たちはこんなところで歓待されている場合じゃないんだ。君から何か話があるというのなら、早速本題に入って欲しい」
一口だけ薔薇の香りが漂うお茶を飲んで喉を潤すと、真剣な目をしたアンリが日和見にそう言った。
「できれば、この十数年間結局一度も教えてくれなかった君の本名やら、素性やらも交えて」
どういうことだ? この男の名はシェリダンたちだけでなく、アンリたちローゼンティア王族の面々も知らなかった? そしてそんな名前すら知らない人物を、彼らは信頼していたのか?
「ええ。わかりましたよ。アンリ王子殿下」
それまで優しげな面差しに底を覗かせない怪しい笑顔を浮かべていた日和見が、ふと表情を引き締めた。
シェリダンはそれを見て、ふと、ドラクルを思い出す。彼に似ているとなればロゼウスともロザリーとも似ているはずなのだが、そんな感じはしない。ただ、ドラクルと似ているな、と思った。造作と言うより、雰囲気の問題なのだろうか。
「話しましょう。あなた方のまだ知らない。我が兄の――ドラクルの真実を」
「兄、だと……?」
「ええ。ドラクル=ヴラディスラフは私の兄にあたります」
「ちょ、ちょっと待って! 日和見! そんなこと一度も聞いてないぞ俺たち!」
「うん、言ってないからね」
「だ、だってドラクルと兄弟ってことは!」
「うん。ここにいる何人かとも半分だけ血が繋がっているよ。我が父、ヴラディスラフ大公フィリップの血がね」
爆弾発言を平然とその場に投下した男は、真剣な顔を崩さぬまま薄く微笑んだ。その表情はやはり、ドラクルに似ている。
「なっ! ちょ、待てって! そんなはずないだろ!!」
「だって日和見、あなたは確かに後宮に出入りしていたけれど、でも大公閣下の子息なら名前が紹介されないはずが」
「ああー、うん。それには事情があってね」
「私たちには、何が何やらさっぱりだが」
ローゼンティア王族の者たち、特に年長組は悉く顔色を変えて驚いているようだが、部外者のシェリダンたちには事情がわからない。
「順を追って説明します。……まずは、私の素性から説明した方が早いでしょう。父はヴラディスラフ大公フィリップ、母はその侍女でした」
「ん? 侍女って確か……」
「そうだよ、アンリ王子。ドラクルを産んだのも、大公の侍女の一人。私と彼は同父母の兄弟なんだよ」
「本当の、弟」
「ああ、そういう言い方もできるかもしれませんね……ただ、知ってのとおり私はヴラディスラフ大公子息として世間にその存在を発表されてはいない者だ」
日和見はそう言った。ローゼンティア王族たちの視線が、その言葉によって揺れる。
「どういうことだ?」
「言葉の通りですよ、エヴェルシード王。私は私として、世間にその存在を認められていません。それは、ブラムス王によって阻まれました」
「父上に?」
「ええ。ロザリー姫。あなた方のお父上、ブラムス=ローゼンティア王に私が十歳になる頃にはドラクルの素性が知れていましたから。ブラムス王はそのうちドラクルを排してロゼウス王を玉座につかせ、ドラクルにはその血統どおりヴラディスラフ大公の椅子を与えるつもりだったのですよ。ですから、弟である私がそこにいると問題がややこしくなるので存在を隠されたのです」
「存在を隠されたというが、どういうことだ? お前が生まれたときからドラクルのことが先王に知られていたわけではないのだろう。すでに生まれている赤子の存在を隠すなど」
「ああ、それはですね、シェリダン王、あなた方エヴェルシードと違って、ローゼンティアの王族関係は魔窟です。どこの国でも多少はそうだと思いますが、この薔薇の国は特に酷い。王の直系の血を引く王族に有力者が生まれる事がはっきりしすぎているために、それ以外の者などどうでもいいように扱われる。となると、自らが権力を持つためにはどうしますか?」
「他の有力者の子を殺す……なるほどな。生まれたばかりで抵抗力のない赤子の存在をそのまま知らせれば、格好の餌食というわけか。だからある程度成長しきるまでその存在を隠しておくのだな」
「ええ。その通りです。下級貴族などはそれほど気にしませんが、ローゼンティアの上流貴族と王家にはまだそういう風習が残っているのですよ。存在そのものを隠す場合もあれば、出産の事実だけ宣伝してその奥方の領地に隠れ住む場合もある。それでも、今回はいつもよりはあけっぴろげな時代でしたけどね。一番多くの子を産んだとされる第三王妃アグネス様……ロザリー姫方の御母堂ですね。彼女は下級貴族の出身なので、その子どもである継承権の低い王族たちはさして暗殺の標的とされることもない。問題は第一王妃クローディア=ノスフェル様と第二王妃マチルダ=ライマ様なのですが、このお二方の場合は逆にどちらが先に第一王子を産むか争っていて……自らの家柄が上であることを示すためには王子が生まれなければ話になりません。ドラクルやアンリ王子は、生まれてすぐにそれを宣言されましたよね」
「ああ。とは言っても、第一王子が正妃の子で第二王子が第二王妃の子、の場合だと古来の伝統に則って俺の継承順位は二位だったわけだけど」
ローゼンティアは、さほど歴史が古い国と言うわけでもない。寿命が四百年も五百年もある種族にしては、建国千五百年はそれほど長い時間でもない。少なくともただの人間の国であるエヴェルシードが建国三千年近くを迎えることを考えれば。しかしその歴史の浅さを補うためか、もともとの風習なのか、この国はやけに王族の血統を重視し、伝統を大切にする。
正妃の血筋を重くうけとりそれによって継承順位が決まるローゼンティアでは、第二王妃の息子であるアンリが継承権第二位であることは特例なのだという。本来ならその位置に来るのは第四王子にして正妃の第三子で次男たるロゼウス、次が正妃の第二子ではあるが女性であるためロゼウスより継承順位の劣る第二王女ルース。その二人の前に、アンリ王子が食い込む形になる。
「まぁ、それはいいとしてさ。教えてくれよ。日和見。お前の知っていることを」
「ええ。お話しましょう。……と、このように私は次期ヴラディスラフ大公の座を追われ、隠し子として育てられました。もっとも隠したのが実父ではなく国王の思惑の方だったので、王自体には認識されていて、そのために皆さんがこれまで私を信用してくれた手形、王城の後宮に入る権利を与えられていたわけですが」
「どうあっても名乗ることはできない、日和見と呼んでくれ……あれは、こういう意味だったのですね?」
「ええ。その通りです、ミザリー姫」
これまで話し続けた日和見は、一口お茶を口にして喉を湿らせた。自らが大公家の人間であることは明かしたものの、いまだ彼は本名を名乗らない。名乗らないままで話を進める。
「私は、兄ドラクルがどれほどロゼウス王子……十七年間弟として育てられてきたあの方を憎んでいるか、知っています」
シン、と場に沈黙が降りた。
「自らに当然与えられるはずだったものを、目前で他者に奪われる恨み、それは一体どんなものなのでしょう?」
「それを言うのなら、日和見様。あなたも同じではなくて?」
「ええ。そうですね。私も与えられるべきだったものを奪われた、という形になるのでしょうね。けれど私は最初から知っていました。自らが大公の愛人たる侍女の子であることも、王太子であるはずのドラクル王子が兄であるということも。本当を言うのなら、ずっとあなた方が羨ましかったのです。私はあの方と二親同じ実の弟なのに、弟として、あの方に会うわけにはいかない」
ローゼンティアの面々がハッとした。それは恐らく日和見の本心なのだろう。やわらかいのに翳りを追う眼差しが、窓の外、この場所からでもよく見える、国の中央部に聳え立つ漆黒の城を見つめる。
彼はこの場所から何度もそれを見ていたのだろうか。血を分け合ったはずの人にも、酷く遠すぎて手の届かないその居城を。
「まぁ、どちらにしろ私たちには関係のないことだな」
「シェリダン」
「それよりも、話を進めろ。それとも話を進める必要がないとでも?」
「え?」
チャキ、と音を立てて男の首に剣が突きつけられる。
「ユージーン候!?」
「いつの間に!」
軍事国家の上層部、それも国で剣の腕の最高位を争う男を舐めてもらっては困る。テーブルの下、隣に座るクルスに指先だけでシェリダンが出した指示に従って、彼は日和見を拘束した。
そしてここから先は自分の役目。
「貴様の言い方だと、まるでドラクルを敬愛しているように聞こえる」
「うん。敬愛しているよ、兄だからね」
「ならば何故私たちをこの屋敷に招いた。罠にでも嵌めるつもりか。そちらがその気ならこちらもこのような手段に出るまでだ。不穏な動きを見せれば即座にその首掻っ切る」
「人質というわけかい? でも私がそれほど重要な人物に見える?」
「実の弟というだけで充分だろう。実際あの男はローゼンティア王族の中でも、自らに与する者を連れて行った」
「なるほどねぇ……でも、それはあなたがローゼンティアの内情を知らないからじゃないかな。エヴェルシード王。向こうにはヘンリー王子の友人のカルデール公爵がいるし、ルース王女はもちろんアン王女ももとからドラクル王子寄りの人だからねぇ。ああ、なんでかお城に幽閉されてるメアリー姫くらいなら仲間に引き込めると思うけど」
「メアリー!? 王城にいるのか!?」
アンリが顔色を変えた。シェリダンにはあまり馴染みのない名だが、話から察するに顔を合わせたことのない最後の王族なのだろう。
「うん。そう。知らなかったのかい?」
「一人だけ行方が知れなかったんだ。これで……」
後はロゼウスさえ合流すれば、ローゼンティアの十三人の兄妹全てが揃う。
だが、それについて言及するのは後回しだ。
「貴様の目的は何だ。私たちをわざわざこんなところまで連れて来て何がしたい。お前はドラクル側の人間なのだろう」
「うーん。正確にはちょっと違うねぇ」
言っただろう、と彼は目を細め、道化のように大仰に腕を広げる。
「私は日和見だと」
「……観察者を気取りか」
「いや、どちらかというと傍観者かな。今、この国は王権派と反王権派の二極に分かれている。そのどちらに与した方がいいのかを、私は私で見極めねばならないんだよ」
何せ私は日和見だからね。そう嘯いた男の表情には、シェリダンにはわからない何か深い感情の川が流れている。流れゆく世界を見つめるその瞳の中には、きっとこのことも他のことも皆すべてを飲み込み、すべてを記憶しているのだろう。
「お前は……」
言葉が続かず、シェリダンは口を閉じる。日和見は最後まで名を名乗らずにそれで通し、にっこりと笑った。
「もういいかい? 私にできるのは、ここまでだよ」
「日和見様」
「さぁ、私にできるだけのカードはすでに与えた。ゲームを始めるのは君たちだ」
日和見はシェリダンたちにありったけの資金と情報を与えると、この屋敷は好きに使えと言い残して何処かへと姿を消した。
その去り際、全員が見送りに出た屋敷の門前で彼は振り返り微笑んで、ローゼンティアの面々へと告げる。
「一つだけ、願ってもいいかな」
「……何を?」
「もしもできるならば、どうかあの方を救ってあげてほしい」
あの方? ドラクル?
「あの男に、救われる資格があるとでも?」
「ないだろうね。でも、もとはと言えば存在から策謀の内に作られ世界の全てに裏切られて傷つけられるほどの罪が、あの人にあったのかい?」
「……」
「ねぇ、頼むよ。できる限りでいいからさ」
それだけを言い残して。
「行っちゃった……日和見のお兄ちゃん、どこに行っちゃったの? どうして行っちゃったの?」
彼の後姿を見送り、シェリダンたちは屋敷に戻った。アンリとミザリーは厳しい顔をしている。ロザリーは事態がはっきりと飲み込めたわけではないのだろう、けれど本能的に何か掴んだのか、不安な表情をしている。クルスも事態はわかっていない。サライはアンリ王子たちと同じく厳しい表情をしている。一番幼いエリサが、誰にともなく尋ねた。
シェリダンはその身体を抱き上げる。
「彼は自分の道を選んだんだ。彼の望む場所へ行ったんだよ」
「のぞむばしょ?」
「ああ」
そして二度と、戻っては来ない。
「……この国は動き始めたんだ」
良くも悪くも、シェリダンたちは己がその駒の一部であることを知った。