荊の墓標 30

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 予想外の展開になって、ミカエラもしばし呆然としていた。
「その処刑待ったぁああ!!」
 聞き覚えのある声が叫んだ。同時に、広場を囲む建物の影から複数の人影が飛び出してくる。処刑台の上と言う、人より数段高い場所にいるからこそよくその光景が見えた。
 ミカエラのすぐ隣には使い込まれたギロチンがある。幅広の刃が鈍い光を放ち、木製の枠には黒ずんだ血が染みている。見ているだけで不吉な道具。処刑道具なんて何を持ち出しても穏やかでないことは確かだけれど、これは一等恐怖を煽る。
 それでもミカエラは、この申し出を引き下げるわけにはいかなかったのだ。
 病弱な身体。尽きかけている命。才能に乏しく、人を魅了するだけの何かも持っていない。何の取り柄もない自分がせめて最後に一つ役に立つためには、今回の処刑はどうしても必要なことだった。
 初めに危惧したよりもずっとカミラは単純で、本来なら何かと理由をつけて拒否したり情報を隠蔽することで隠し通すことができたはずのミカエラの処刑による講和という問題をあっさりと引き受けた。それが実行されればエヴェルシードとローゼンティアの間にはしばらくの間だけでも、決定的な亀裂が入る。
 ミカエラはそれに賭けていた。今のままのローゼンティアの状態はまずい。このままドラクルの思い通りにことを運ばせることはできない。それならばどんな手段を使ってでも、この状況を打開しなければならなかった。
 少しでも時間稼ぎができれば、きっと後はロゼウスがなんとかしてくれる。ミカエラはそれに賭けていた。 
 ロゼウス兄様。あなたでなければならない。ドラクルは優れた人間だけれど、彼では王にはなれない。ローゼンティアを見事に治めることなど到底できはしまい。だからミカエラは彼を何とか廃して、ロゼウスに玉座に昇ってもらいたい。けれどミカエラ自身がそのために役立つのは無理だから。
 せめて何かしたかった。兄のために。それがどんな些細な、過ぎ去ればすぐに忘れてしまうような小さなことでも構わない。大事なのは、自分がロゼウスのために何か一つでも役立てないかということ。
 病弱で非力。取り柄と言えるようなものは皆無。自分は本当に駄目な王子で、そんな自分に対してもあの国はずっと優しかった。もちろん厳しい人や心ない相手もいたけれど……それでも、だからこそ、その玉座には国のためになる人に座ってほしい。
 ドラクルにはきっとできない。あまりにも深い愛情と憎悪と哀しみに囚われている、あの兄には。だからミカエラは自分の希望を、ドラクルではなくロゼウスに託したかった。
 そのためなら、死んだって構わないとずっと思っていた。
 でも。
「ええい! お前たちも救援に駆けつけろ!」
「ですが閣下、それではこちらの警護が手薄に」
「向こうを突破されたらどちらでも同じだろうが」
「しかし奴らの目的はこの王子を奪うことなのでは……」
「いいからさっさと行け!」
 兵士の忠告も聞かずに、貴族の一人が彼らを広場の中央で闖入者たちが暴れているのを止めるようにと威圧的に命じて送り出した。
 剣を振り回す者たちに恐れをなして、集まってきた民衆の波が蠢き引いていく。
 広場に乗り込んできて暴れているのは、ローゼンティアの兄妹たち。フード付のローブに顔を隠していてもわかる。壇上からだとその光景はよく見渡せた。あそこで威勢よく警備兵たちを叩きのめしているのは、きっとロザリーだ。他二人はエヴェルシード人のようだから、一人は多分シェリダンだろう。ロザリーたちは、彼と合流したのか。そんなことを思っていた矢先。
「ミカエラ!」
 自分の名を呼ぶ声が聞こえた。
「良かった。無事だったのね」
 心底からの安堵を向けられてミカエラは瞬く。綺麗な笑顔は充分見慣れていたはずなのに、とても懐かしくて胸が痛んだ。
「ミザリー……姉様、アンリ兄様」
 ロザリーやシェリダンたちが暴れているおかげで手薄になったこの場所に、その二人がやってきた。第二王子アンリと第三王女ミザリー。ミカエラたちと一緒にいた兄妹の中では年長者二人だ。
 ミカエラが目を向けると、まだ数人は残っていた警備の男たちを、アンリが殴り倒して気絶させていた。
「ミカエラ! そこから降りてきて! 一緒に逃げましょう! 帰るのよ、ローゼンティアへ!」
 処刑台は遠くからでも見渡せるように高く作られている。ミカエラの位置からだと、ミザリーの頭も足元だ。その遥か下から、姉は必死に叫んでいた。
「帰りましょう! 今なら大丈夫よ!」
「姉様……」
 ミカエラと同じく取り柄がないなどと言われながらも、その美貌は世界で最も美しいと言われる姉が懸命に手を伸ばす。届かないとわかっているのに飛び上がって、彼が降りてくるようにと促す。
「ミカエラ! 助けに来たぞ!」
「アンリ兄様」
 全ての男たちを縛り上げ、二番目の兄がミカエラの方へと向かって来る。ミザリーの隣に並んで、手を差し伸べた。背の高い彼が腕を伸ばせば、ミカエラがそちらへと近づけば何とか抱えておろしてもらうことができる。だけど、だけど。
「兄様、姉様」
「ミカ」
「僕は……戻りません」
 アンリが驚いた顔をした。ミザリーが見る見るうちに蒼白になる。
「何を言っているのよ! ミカエラ!」
「そうだぞ、馬鹿なことを言わないで、早く戻って来い。俺たちと一緒に帰ろう」
 ミカエラはその場から動かないまま、ぶんぶんと首を横に振った。勢いをつけすぎて気分が悪くなる。ここ数日ずっと良くならない体調は慢性的な頭痛や眩暈と結びついていた。
「戻りません。僕は自分の言葉どおり、ここで死にます」
「ミカエラ!」
「もう、それしかないんです。僕が役立てるようなことは」
 アンリはよくわからないというような顔をしている。けれど、ミザリーがミカエラの言葉に反応した。
「ミカエラ」
 彼女と自分はある意味では同士だった。王家の兄弟姉妹の中でも、能力のない、利用価値のない王族仲間だった。
 ミザリーがミカエラによく構いたがっていたのは、それが理由だろう。ミカエラがいなければ彼女は王家で唯一の無能者になってしまうから。
 けれどだからこそ、彼女だけはミカエラの言いたい事がわかったらしい。
「馬鹿なこと言わないで! ミカエラ」
 宝石のようだと讃えられる赤い瞳に涙が浮ぶ。
「そんなことをしたって、ロゼウスは喜ばないわよ!」
「姉様」
「それともあんたは侮ってるの!? ロゼウスを! そんなに大事なお兄様が、あんたを犠牲にでもしなければドラクルに勝てもしないなんて!」
 美人は怒っても美人だと言う言葉を証明しながら、かつて見た事がないほど険しい表情で、彼女はそう言い放った。
「あなたがロゼウスを大事に思ってることは知ってる。ロゼウスのためなら何でもできるって。でも、本当にこんなことでロゼウスの奴が喜ぶだなんて思っていたら、それは大間違いなんだからね! 本当にあいつが大事なら、その力を信じてみなさいよ! あんたのやってることなんて、全然無駄なんだからね!」
 ミザリーの言い様には、ミカエラどころかアンリまで驚いていた。
「ミザリー、お前」
 第三王女は第四王子とさほど友好的な仲でもなかったはずだ。ロゼウスは自分からそれをひけらかしたりはしないけれど確かに才能溢れる人物で、ミザリーとは正反対。彼女はそれを嫉んでいたはずなのに。
「あんたが死んだって、何も変わらないわ! そんなこと考えないで! 戻ってきなさい! ミカエラ!」
 強い言葉。
 決して強くはないはずの人なのに、魂の込められた言葉。
「ミカエラ……お前は、本当はどうしたいんだ?」
 アンリが真摯な眼差しでミカエラを見上げて問いかける。
「本当にお前は、ここで死にたいのか? そんなことないだろ? お前、本当は生きたいんじゃないか? 生きて、俺たちと一緒に帰って、ロゼウスに会いたいんじゃないのか」
 自分より弱いものの、弟妹と言った存在の願いを叶えずにはいられない兄はそうミカエラに問いかけた。
 アンリ、ミザリー、二人の言葉がミカエラを揺さぶる。
「帰ろう、ミカエラ」
「帰りましょう」
 ローゼンティアへ。故郷へ。家族のもとへ。
 あの懐かしい日々へ。
「あ……」
 もしも、過去へと戻れるならば。
 ロゼウス兄様――。
 ふわりとやわらかい笑顔が瞼の裏に浮ぶ。思わず一歩前へと踏み出し、アンリの差し出す手に従って処刑台から離れようとしたミカエラは――。
 一瞬、強い光が広場中を満たした。灰色とも銀ともつかないそれのせいで、目を開けていられない。彼らだけではなくそこにいた全員が例外なく、目を瞑ってこの予期せぬ事態に困惑を表わした。その中で。
 視界が暗転する。
「え……」
 遠い正面に翻る黒衣。その手に弓は構えられているのに、矢がつがえられてない。鋭い切っ先が皮膚を裂き肉を抉る感触と共に、赤が広がった。
 破魔の銀の力が、全身へと染み渡っていく。
「ミカエラ――――!?」
 最期に聞いたものは、ミザリーの絶叫。
 
 僕の人生は、ここで終わった。

 ◆◆◆◆◆

 それは、圧倒的な光の洪水と共に起こった。
「くっ」
「う」
 シェリダンもカミラも、思わず目を瞑ってそれをやり過ごす。瞳を開けてなどいられない。反射的に瞼を閉じてしまうほどの、圧倒的な光。
 熱もなく音もなくこれならば、まさか目晦ましか? それにしては規模が大きい。相手の眼前でやるならばともかく、こんな広場一帯を包み込むような範囲で。
 けれどそれをできそうな人間が、知り合いの中に一人二人といる。
 まさか……
「ミカエラ――ッ!」
 女の悲鳴が響き渡る。ミザリーが弟の名を絶叫した。
「な……」
 一体、何が起こったんだ。
 光に視界を奪われていた数瞬の間に、何事か起こった。慌てて処刑台へと視線を向ける。もう戦いどころではない。シェリダンもカミラも、別の場所で警備兵を相手にしていたクルスやロザリーも、その他の人間たちも、誰もかれもが皆視線をそこへと向けて。
 愕然とした。
「な、に……」
 離れた場所で剣を取り落とす音がする。きっと必死に弟を助けようとしていたロザリーだろう。わかっても視線を離すことができない。その緋色の光景に釘付けになりながら、ゆっくりと自分の中で血が下がっていくのを感じる。
 処刑台の上が血に染まっている。シェリダンたちは何もしていない。首切役人たちでさえも動いていない。警備兵の使う刃もギロチンも、濡れてはいない。
 しかしミカエラの身体からは大量の血が流れている。これまでも何人もの血を吸ってきた処刑台が新たな血に染まり、木製の台は黒く変わった。端の方から血が滴って、赤い細い滝のようになる。それが石畳を真紅に染め上げた。惨劇の画は惨劇により描かれる。
 倒れ付したミカエラは苦悶の表情を浮かべていた。
 その命を奪おうとしているのは、一本の矢だった。
 その尾に黒い、鴉の羽根を使った矢。シェリダンはそれに見覚えがある。けれど妙だと思ったのはその矢が銀色に輝いていることで、わざわざ羽根までつけているというのに、木でできてはいない。何かの金属。あの輝きは、銀。
 ヴァンピルには動きを封じ、身体能力が人間を上回る頑強な肉体を持つ彼らにとって例外なく大きな負荷を与える事ができるという、銀だ。
 そんなものを身体に打ち込まれれば、あの吸血鬼の王子がどうなるか。
 そして矢の位置から、シェリダンは恐らくそれを射たのだろう者の場所も知った。
「ハデス――」
 黒衣が翻る。
 処刑台の正面、とは言っても広場の広さの分だけ離れた場所、街並みがまた始まる最初の建物の屋根に上り、彼はそこにいた。
 ただ白いだけでない肌はわずかに黄色味を帯びている。それに映えるのは黒い髪と黒い瞳で、際立った美形と言うわけではないが、誰もが認める端正な面差しだ。その面に、今は怖いぐらいの無表情を浮かべている。
 常態がそうだというのではない。今のハデスの顔は、明らかに作っている。これからのことに備えて。これからのこととは、何。
 彼自身が名を馳せて有名と言うより、有名なのは彼の姉である皇帝陛下だ。けれど帝国宰相という名だけが一人歩きしている感のある彼のことを、皇帝を知る者が見れば一目でわかる。彼はそのぐらい姉に良く似ているから。
 民衆はその名を知らないかもしれないが、少なくともここにいる者たちの中には彼を知る者が多くいた。
「ハデス卿?」
「あの方が、どうして!」
 カミラが眉根を寄せ、クルスが困惑して叫ぶ。
 すらりとしたその身に纏うのが黒い衣装というところはいつもと同じだが、普段とはどこか趣が違う。これまでは魔術師的なローブを羽織っていることが多かったのに、今日はマントと活動的なチュニックなど身につけているからだろう。何のためのその衣装かはすでにわかっていた。
 彼の手にすでに弓はないが、あのハデスのことだ。魔術ですでに隠したのだろう。
「ちょっと! どういうことなの!?」
「一体何が起こったんだ!?」
「処刑されるはずの王子が、すでに殺されているぞ!」
「誰がやったんだ!? 何があった!」
 ミカエラのことに、民衆も気づいてざわめき始めている。それを治めるべき立場にいるカミラ自身も何が起こったのかわからず困惑しているのだ。鎮静できるわけがない。
 これまで弟を助けようと必死で動いていたローゼンティアの者たちは身体から力が抜け、地に座りこんでしまっている。ロザリーが警備兵に取り押さえられようとするのを、クルスが慌てて止めに入った。サライが走ってきて、民衆に紛れていたが今の状況に衝撃を受けて動けないエリサを路地裏に回収して行った。
 シェリダンは処刑台の方へと目を移し、その光景を見つめた。アンリとミザリーは、人の頭より高い位置にある台に必死で手を伸ばしている。それに反応して、ミカエラが僅かに手を伸ばした。まだ生きているのか!? 先程のぴくりとも動かない様子から死んだものだとばかり思っていたシェリダンは驚き、そして。
「え――」
 処刑台の上にうつ伏せに倒れていたミカエラの身体が、指の先から灰となって消えていく。
「いやぁああああ!!」
 兵士に取り押さえられながら、ロザリーが叫ぶ。
「ミカエラ!」
 兄姉たちが呼ぶのも虚しく、彼の姿は白い灰となって跡形もなく消えてしまった。そんな場面になってようやく、シェリダンは今日、この場所に吹く風が案外に強いことに気づいた。ミカエラ王子が灰となった先から、風に流されて散っていく。
 あとには何も残らない。
 以前ロゼウスに言われたことを思い出した。馬鹿だな、シェリダン。最初の戦いについてのことだ。シェリダンがエヴェルシード王としてローゼンティアを侵略し、王侯貴族を残らず打ち倒したという辺りで。
 あんたたちは俺たちの身体を切り刻んで息を止めたつもりなんだろうけど、詰めが甘い。ヴァンピルは死んだら、灰になって消える。身体が残っているならまだそれは、復活の可能性が十二分にあるということ。
 では、もう生き返る見込みのないヴァンピルは灰になって消えてそのままだというのか。問うと、なんとも言えない顔で、その時ロゼウスは頷いたのだった。
 ミカエラは死んだ。
 そして彼はもう、目の前のカミラのように、誰かが命を与えれば生き返るなどということはない。もう二度とかえらない。
「なんだ……あれは……」
 驚きざわめいていた民衆たちからは畏怖の込められた声があがる。いいや、これは畏怖などというものではなく。
「死体が消えたぞ! 一体どういうことだ!?」
「化物! やはりヴァンピルなどと関わるべきではなかったのよ!」
「これが、ローゼンティアの……」
 動揺させられているのはシェリダンたちだけではない。エヴェルシードの民衆たちも同じだ。
 彼らが感じているのは、未知のものへと覚える純然たる恐怖。
 恐れは人を容易く狂気に突き落とし暴走させる。このような状態にある民衆を扇動する事は、ある程度の能力を持った為政者ならば容易い。
 彼にはそれがあった。
「聞け! この場にいる全ての民よ!」
 張りのある声が響き、全員の視線がそこへと集まった。シェリダンやカミラは反射的にそちらを向き、ロザリーやアンリたちは絶望に打ちひしがれながらものろのろと顔をあげる。
 聴衆の耳目を集めたハデスは、ゆっくりと腕をあげる。
 その腕の先は、はっきりとシェリダンへと向けられていた。彼とカミラが戦っている周囲には人がいない。誰かと間違えるはずもない。
 ハデスは高らかに宣言する。
「今回の事は、そこにいるエヴェルシード先王、シェリダンが起こしたこと」
「な……」
 一体何を――!
「和平を申し出たローゼンティアの王子処刑の意志を蹂躙し、玉座簒奪という我欲のために彼を殺害し、カミラ女王の御世を貶めようとした。シェリダン=ヴラド=エヴェルシード! 貴様こそ二国間の平和を脅かしこの大陸、ひいては世界に仇なす大逆の徒なり!」
「ハデス!」
 彼は一体何を言っている!? その言い様では、まるでシェリダンが全てのことを計画してこの国もローゼンティアも、全てを貶めようと……。
 シェリダンはハッとして目を見開く。そうだ、とハデスが言いたいのだということがやっとわかった。
 彼は私に全ての罪を着せようとしているのだ。
「馬鹿なことを言うな! 一体何の根拠があって!」
「では何故貴様はそこにいる。エヴェルシードを追われた人間が、この国にどんな手段を用いてでも返り咲く意志がなければ、戦乱を止めるならまだしも講和を邪魔する必要はないだろう?」
「――ッ!」
 咄嗟に、言葉が出なかった。
 それはまさに、この処刑場に乱入する前、クルスと話していたことだった。ここで上手くできれば、玉座を奪い返せるのではないかと。
 そう一瞬でも考えてしまった。それがシェリダンの敗因となった。
「皆の者! このエヴェルシードの民よ! 聞け! シェリダン王こそこの国を転覆する大逆人ぞ!」
 ハデスが言う。それに乗じて、カミラも言葉を発した。
「そうだ! 国に仇なす逆賊、シェリダン=ヴラド=エヴェルシードを殺せ!」
「カミラ!?」
「大逆人を許すな! 現国王カミラ=ウェスト=エヴェルシードが命ずる!」
 あらん限りの声を出して叫ぶ。

「シェリダンを殺せ――!!」

 ヴァンピルという未知の存在に対する畏怖と恐怖を持ち、揺れていた民の心がそれによって纏め上げられる。数ヶ月前までは、他でもないシェリダンの手により治められていた民が。
「そうだ! シェリダン王を殺せ!」
「このような事態を招いた全ての災厄の元凶、シェリダン王を殺せ!!」
 はっきりと向けられる敵意、敵意、敵意。
 なんだ、これは。
 なんだ、この状況は!
「シェリダン様!」
「シェリダン!!」
 動揺のあまり、背後から斬りかかられたのにも気づかなかった。呼び声に反応して咄嗟に刃を跳ね上げて受けとめる。クルスとロザリーが周囲の警備兵たちをもはや手加減なしで倒し、こちらへとやってきてシェリダンに加勢する。舌打ちしたカミラが彼らから距離をとる。数瞬のうちに、目まぐるしく事態は動いた。
「撤収するぞ! 全員急げ!」
 指示を出せないシェリダンに代わるようにアンリ王子が叫んだ。目の前で弟の死を見て蒼白な彼は、けれど泣き叫ぶミザリーを抱えあげると、周囲が荒れ狂う民衆によって塞がれる前にと、一路広場の出口を目指した。ロザリーに手を引かれ、クルスに背後を守られながらシェリダンもそれに続く。それでもまだ頭が動かない。
 どうして、どうして、どうして。
 かつては友人とさえ思った男の酷い裏切り。彼が敵だとはわかっていたはずなのに、それでも心のどこかで甘えがあったのだと知った。
 ハデスは最悪の形で、自分を罠に嵌めたのだ。
「……ょうッ」
 唇を噛み締めると、血の味がする。
「畜生ッ!」
 どんなに叫んだところで、過去へは戻れない。