荊の墓標 31

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 細い体が銀の矢に射抜かれ、血に染まり倒れ付すのを彼はその眼で見ていた。空が憎いほどに青いその日、行われた死刑はもはやその形を保ってすらいなかった。
「すみません、通してください」
 常に身につけている高価な衣服からわざわざ平民用の粗末な身なりにやつしてやってきたのだが、間に合わなかった。ルイは人込みを何とか掻き分けながら、処刑台に近づこうとする。
「すみません、通してください。お願いします」
 エヴェルシード王国内で、二国間の講和のためにローゼンティア王子ミカエラを処刑すると言うその日。王都の広場には人々が集まっていた。新年のシェリダン王の即位以来、エヴェルシードの人々の心は常に不安に晒されていて、今回の処刑もその不安の中で行われるはずだった。
しかし様々な人の思惑と矛盾の隙間にうまく、黒い企みは差し込まれ、事態はある者たちにとっては最悪の方向へと向かおうとしている。
「シェリダン王を殺せ!!」
「あんな裏切り者を赦すな!」
「もともと、父親を幽閉して王になったようなヤツだぞ! 先王陛下を殺したのもあいつではないのか!?」
 ミカエラを処刑するはずだった広場に、突如として乱入してきた複数の影。それはルイにとっては馴染み深い者たちばかりだった。元エヴェルシード国王シェリダン陛下、ユージーン侯爵クルス卿、それにたぶんあの女性はローゼンティア王女ロザリー姫。兵たちや人々の目を引き付ける者の他に、ミカエラを直接助けに行った者もいたようだった。
 直接彼らに手を貸すことのできる立場にないルイは、せめて彼らの作戦がうまく行くようにと、それだけを願っていた。もちろん見張りの眼さえ盗めれば幾らでも協力は惜しまないつもりだったが、残念ながらそれは叶わなかった。
 広場の上空をまっすぐに切り裂いた一本の矢。
 帝国宰相ハデス卿は、何故か先王の時代からこの国と縁が深い。もともと黒の末裔の人間はそれほど溢れているわけではない。遠目に黒髪と判断できたその人の迫力に押され、民衆は彼の言う事を鵜呑みにしてしまった。
 すなわち、今回のことはエヴェルシードを追放された恨みゆえに、この国に仇なそうとしたシェリダン王の仕組んだことだと。
 ルイからすれば、何をばかげたことをと言いたい。しかし国民のほとんどは、シェリダンの人柄を知らない。
 華奢で小柄なカミラ姫との対照も悪かった。外見が人格を判断する全てではないが、兄と妹であれば妹の方が温和ととられても仕方がないだろう。男尊女卑の思想がここではシェリダンにとって仇となっている。
「シェリダン王を殺せ!」
「大逆人を許すな!」
 怒号が耳を打ち、人々はそこかしこで乱闘を繰り広げる。広場は荒れきっていて収拾がつかない。本来この場を収めるべきは女王カミラのはずなのだが、彼女も自らの計算のうちでこの事態を招いたわけではないので、全てを丸く収めるには技量が足りない。別にはっきりとそう聞いたわけではないが、挙動を見ていれば彼女がこの事態の仕掛け人でないことはわかる。そしてこの事態を仕組んだ当の本人であろう帝国宰相ハデスは、あの発言以来ちゃっかりと姿を消してしまっている。
 足もとに引きちぎられた布や木屑が散らばっていた。子どもは泣き出し、男たちは拳を繰り出す。
 処刑台の上で命を失った哀れな少年のことに関しては、誰も思い出さない。いや、あえて思い出したくないのか。
 ミカエラ王子は、銀の矢に射られて命を落とした後、灰になって消えてしまった。
 ヴァンピルは人ではない、魔族と言う名の異形。
 それを、人々は思い知らされた。それが更に事態を悪化させているようだ。
 だけど。
「すみません! 通してください!」
 人込みをかき分けて、ルイは広場中央の処刑台へと辿りついた。
「あの……お願いがあるんです」
 役人の一人に頼みこむ。
「先程の少年……王子の『灰』を、引き取らせてもらえませんか?」
「は?」
 ルイのその言葉に、役人は怪訝な顔をした。それはそうだろう。つまりそれは人間相手であれば死体を引き取りたいと言う事で、ましてやミカエラはヴァンピルだ。
「駄目だ駄目だ。だいたいあの王子の灰は、もう風に飛ばされてしまっている!」
「そこを何とか!」
「駄目だ! お前はなんだ? 怪しい商売者か? この国王陛下の名のもとに行われた処刑の遺骸にあたるものを引き取りたいなどと、気ちがいじみたことを申すな!」
 相手はルイが、国内最大の貴族バートリ公爵の弟であるルイ=ケルン=バートリだとは気づいてはいない。気づかれてはいけないのだとルイにもわかっている。だがこんな時こそ、姉の名を持ち出せないことがルイには歯がゆかった。
 ここでバートリ公爵の名を出せば、すぐにも姉のエルジェーベトはシェリダンを支持する一派として捕らえられてしまうかもしれない。気まぐれで高慢で知られたエルジェーベトは、すでにシェリダンの側近と知られているユージーン侯爵とは違いなんとか王城の疑惑を言い逃れている。そんな危険は冒せるわけがなかった。
「答えろ。この灰を何に使うつもりだ?」
 役人の質問はむしろ義務と言うより、好奇心に変わっている。先程の商売者という言葉もそうだ。世の中には死体や赤子の骨を粉にしたものを妙薬として売りさばく商売があるという。それではないかと役人は疑っている。
 いっそ、そう答えてしまおうかとルイは思った。少なくともミカエラ王子の死を悼みたいなどという理由よりは不審を招かないだろう。吸血鬼の死骸の灰を妙薬として売るなど、不謹慎として追い返されるかもしれないが、姉のエルジェーベトに迷惑をかけるよりはマシだ。
「わ、私は―――」
 意を決して偽りの理由を述べようとしたルイと、不審者を見る冷めた目つきで彼の対応をしていた役人の耳に、艶やかな女の声が届く。
「それは私の弟だけれど?」
「姉さん!」
 女は口元を歪めて笑う。
「誰だ?」
 役人は相当下っ端なのか、貴族に縁のない部署なのか、その彼女の顔立ちにも反応しない。
「あら? 私を知らないというの?」
けれど、いつもと同じく派手なドレス姿のエルジェーベトには彼以外の周囲の人々の注目が集まっていたらしい。こちらに視線を向けた別の役人の一人が叫んだ。
「バ……バートリ公爵!」
「何!?」
 広場の注目が一気に彼女へと集まる。エルジェーベトは意にも介さず、ルイをも素通りして名目上この場の中心人物である少女の元へと赴いた。
「ご機嫌麗しゅう。陛下」
「この状況は間違っても麗しくはないけれど。バートリ公爵。何故あなたがここに?」
「私の居城の一つであるリステルアリアがこの近くですのよ。広場で騒動が起こっていると聞いて、こちらに赴いたのですが……」
 確かに度派手な美女である彼女の登場で広場の雰囲気はいったん静まっている。威圧感がありすぎる《殺戮の魔将》には、さすがに高圧的な役人も酩酊しているかのような暴れ具合の民衆も文句がつけられないのだ。
 そんな風にエルジェーベトが人々の目を引いている隙に、ルイはこっそりと先程の役人と取引した。
 僅かな金銭を払う代わりに、風に散らされず残ったミカエラの遺骸である灰を譲ってもらう。その辺りにあった箱に適当に集められた灰がおさめられた。
姉がまだ女王の気を引いていることを確認して、ルイはその場から早足で姿を消す。
「ルイ様」
 エルジェーベトはあらかじめ馬車を待機させていたらしく、目立たない方へと逃れてきた彼の姿を、侍従がすぐに見つけてくれた。事態を収拾させたエルジェーベトも戻ってくる。
「で、うまくいったの? ルイ」
「姉さん……」
 手の中で崩れ落ちる灰を抱いて、ルイは静かに目を閉じた。

 ◆◆◆◆◆

 はらはらと花が降る。
 はらはらと花が散る。
 その様はこの深い緑の森の中において一種清浄で崇高だ。だが、だからこそ地上の惨劇が鮮やかに浮かび上がる。
 ドサ、と重い音がしてそれは地に崩れ落ちた。
 赤い血が傷口から流れ出て、見る間に広がっていく。
乱れ、散らばる白い髪。血の気を失う白い頬。
 ウィルはぴくりとも動かない。完全に死んでいるのがわかる。
 そして、死ぬとは言っても生命活動の停止でしかないこの状態が、本当の意味でヴァンピルの消滅でないことも彼らにはわかっていた。
「これで、もう戻れませんね」
「もとより戻る気などあったのか? ジャスパー」
「……いいえ」
 小さな声、首を振って否定する弟の頭を軽く撫で、ロゼウスの顔をした少年は地に崩れ落ちたウィルの身体を拾い上げようとする。
と、そこへ。
「ロゼウス……?」
 森の道の向こうから、待ち人たちはようやく姿を現した。
 
 
 エヴェルシード王都の広場でミカエラ王子殺害の罪を押し付けられたシェリダンたち一行は、とにかくエヴェルシードとローゼンティアの国境の森へと向かっていた。
 シュルト大陸最東端の国ローゼンティアと、その隣国エヴェルシード。二つの国の境には森がある。ローゼンティアは元々大森林によってその四方を囲まれた地形だが、そのローゼンティア領とエヴェルシードの領地を分ける、さらに中立地帯の森林が存在する地点があるのだ。大昔に二つの国で交わされた取引の名残らしいが、詳しい事は現代には伝えられていない。
 ロゼウスの身体を乗っ取った始皇帝候補シェスラートと、彼と手を組んだジャスパーがシェリダンとアンリたちローゼンティアの兄妹と待ち合わせた場所はその森の中だった。ローゼンティア領地と違って荊に閉ざされてはいない森の中、白い花が蝶のようにはらはらと彼らの頭上に降り注ぐ。
「ロゼウス……?」
 木々が生い茂り、そのてっぺんに近い場所に白い花をつける。高い位置から降ってくるその花は雨のようでもあり、蝶が飛び交うようでもある。そんな神秘的な光景の中、シェリダンたちの目には、数ヶ月離れていた程度なのにどこか懐かしい顔ぶれと、そして信じられない光景が同時に目に入ってくる。
 一体何が起こったのか。
「ウィルにいさま!」
 悲痛な声で叫んだのは、ローゼンティアの末姫エリサだった。彼女は四番目の兄の足下に転がる、自分と最も仲のよい末の兄の姿を見て悲鳴をあげる。
 ウィルの身体は血に濡れ、その瞼は硬く閉ざされていてぴくりとも動かない。彼女でなくたって、この場の全員が最悪な想像をする。
 そしてウィルを傷つけたと思しき人物を見つけようにも、その空間にはたった今やってきたばかりの自分たちを除けば、たった二人しかいないのだ。それも、ローゼンティアの王族にとっては間違いなく自分たちの兄妹であるロゼウスとジャスパーの二人しか。
 そしてロゼウスの手は血に濡れている。
 血まみれのウィルを助け起こそうとしたからと受け取るには不自然なその様子。
 一体何が起こったのか。
「ロゼウス……一体、どういうことだ、これは。何があった?」
 シェリダン、クルス、アンリ、ミザリー、ロザリー、エリサ、サライの七人はエヴェルシードの事件があって、必死にここまで逃げてきた。他の場所に身を潜めることも考えられたが、この機会を逃せばロゼウスたちと合流できる可能性がまた低くなる。それにロゼウスたちと待ち合わせたこの森は、主に盗賊や犯罪者の隠れ場所と呼ばれるくらい、身を隠すには絶好の場所だった。
 だからこそ、エヴェルシードの追っ手を引き連れてきてしまう可能性を覚悟で、ここまで来たのだ。先に使者としてロゼウスたちに会いに行ったウィルとも、この場所でなければ合流できないだろうことを見越して。もしも擦れ違いが起きれば、カミラに直接見つからずとも、今のエヴェルシードにローゼンティアのヴァンピルが戻るのは危険だった。
 それどころか、シェリダンの名を出すだけで危険だ。ロゼウスたちにもこの事を伝え、早く顔を合わせて打ち合わせをしないと。会って無事を確認したいという気持ちだけでなく、そんなことまで考えてここまでやって来たというのに。
「ウィル、まさか死……」
 ミザリーが呆然と呟いて、ふらりとよろめいた。それを、彼女の背後にいたアンリが支える。彼女たちの前では飛び出そうとしたエリサがクルスに押さえ込まれていて、こちらもぐしゃぐしゃの泣き顔だった。
 どういうことだ? 一体何が起きている? 何があれば、こんな事態になる?
 シェリダンも、アンリたちもそう言った心境だった。この光景は何だ? どう見てもロゼウスがウィルを殺したようにしか見えない。何故? その理由を考えられるほどに彼らも頭が働かない。
 無理もない。シェリダンたちはシェリダンたちで、すでにエヴェルシードでの衝撃を体験してきた後だ。
 何としても止めるつもりで向かった処刑会場の広場で、彼らは処刑を止めることができなかった。いや、それが正式なやり方に乗っ取った死刑ならば阻止できたのだろうが、彼らが追い込まれたのは到底予測できない事態だった。
 あの時、建物の屋根に乗り上げて銀の矢を射た帝国宰相ハデスの姿。彼はシェリダンにとっては友人であったはずだが、今は手強すぎる敵となっている。彼の放った矢により、ミカエラが死に至った。ただの生命活動の停止ではない、その身に宿る魔力の全てを使い果たしても再生が出来ない、本当の『死』。シェリダンたちはそれを止める事ができず、アンリをはじめとするローゼンティアの兄妹たちは目の前で弟が、兄が死んでしまうのを目撃した。
 ミカエラを可愛がっていたという第三王女ミザリーの嘆きようなど、それこそ語るまでもない。半狂乱になった彼女は無理矢理兄である第二王子アンリに抱えられてようやくここまで来たのだ。広場から逃亡するために走り出した直後では、普段は気丈で戦闘能力と言う点に関しても群を抜いているロザリーでさえ側にいたクルスの助けを必要としたほどだ。長い道のりを行く内にようやくロザリーは精神的に立ち直り、ミザリーもアンリに縋りながらなんとか自分の足で立つことだけはできるようになったかと思えば、この事態だ。
 はらはらと、花が降る。
 弔うように、白い花が降る。
 目の前の光景からはたった一つのことしか想像できないのだが、シェリダンも、クルスも、他のローゼンティアの面々もそれを口にできない。したくない。信じたくない。
 ミザリーが地に崩れ落ちる。その瞳の焦点は虚ろで、兄であるアンリが必死に声をかけながらも、体を起こす事ができないようだ。許容量を越えてしまったのだろう。誰だって、目の前で弟が処刑された直後に、弟が弟を殺したようだなんて知ったら正気ではいられない。
 対するロゼウスとジャスパーが、一見冷静そうに見える事が余計に恐れと不安を招く。彼らはこの事態に対して、何故何も言わないのか。シェリダンたちに先に口を開かせるつもりなのか。
 変だ。おかしい。
 ロゼウスたちが何の反応も返さないことが不気味だ。先程確かに、どこか疑うような確かめるような疑問形の声だったとは言えシェリダンはこの空間に辿り着いたその瞬間にもロゼウスの名を呼んでいる。
 なのに何故、彼はシェリダンに対して何の反応も示さないのか。
 何故、何で、という言葉ばかり繰り返す。もはやシェリダンたちにはわからないことだらけだ。誰もこの事態を正確に把握できる者などいないだろう。そう思われた中で。
「……―ト、シェスラート」
 ただ一人口を開いたのは、この場では唯一ローゼンティア人でも、エヴェルシード人でもない少女だった。
「シェスラート」
 小さいがはっきりした声で、彼女は何かを呼んだ。銀髪に紫の瞳のウィスタリア人サライは、ローゼンティア領海の沖に存在する祠に留まっていた古代の存在だ。その彼女が何かを呼ぶ。
 それは人の名なのだろうか。どこかで聞いた覚えがあるが、この混乱の最中、咄嗟には思い出せない。この場にいる人物は全員シェリダンも知っているはずなのに、そんな名の人物はいない。何故サライはそんな名を呼ぶのだろう。
 そう思っているシェリダンの目の前で、これまで無表情のまま何にも反応することのなかったロゼウスが目を動かした。
 シェスラート、と自分を呼んだサライの方へと。口元がゆっくりとつりあがる。
「久しぶりだな、サライ」
 そして笑った禍々しい顔は、シェリダンがこれまでロゼウスの上に見た事がない笑顔だった。