荊の墓標 31

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「久しぶりだな、サライ」
 銀髪の少女に微笑みかけるその顔。
 違う。これは違う。誰だ。
 白銀の髪、血のように紅い瞳。人形のように、少女めいた美しい面差し。それらはどれも彼の知るロゼウスそのものだ。
 だが違うのだ。
 これは、ロゼウスではない。
「ロゼウス!」
 シェリダンが呆然としている間に、ミザリー姫を抱きかかえながらアンリが叫んだ。その声にハッと我に帰ったのはシェリダンや、同じく呆然としていたロザリーであり、名を呼ばれた当のロゼウスはまったく彼に反応しない。彼らの言葉は耳にとどいているようだが、それが心にまで届いている様子がないのだ。彼が無反応なのは、シェリダンたちの存在に対してだ。
「ああ……」
 どこかぼんやりとした様子で彼はアンリを見つめる。そして口元に指をあてると、何かを思い出すような仕草でようやく兄の名を呼んだ。
「第二王子アンリ、兄様か」
 その様子には、シェリダンだけでなくその場の全員が違和感を覚えたようだった。
「ロゼウス……? どうしたの?」
 ロザリーが不安そうに尋ねるが、その様子にもロゼウスは反応しない。
 彼の右手には、まだ傷を負ったウィルが無造作に掴まれている。早く生き返らせてやらなければならないのに、この異様な空気に皆、動くことができない。
「ロゼウス様!」
 その緊張を破ったのは、この場にいるシェリダン以外の、もう一人のエヴェルシード人だった。
「クルス?」
 ユージーン侯爵クルス卿。彼はシェリダンの側近ではあるが、ロゼウスに対しては主君の大切な相手という以上の認識を持たない。しかもその認識もどちらかと言えばシェリダンがロゼウスを気に入っている、というもので、ロゼウスがシェリダンを愛し敬い支えている、というものではない。
 つまり、シェリダンの部下として彼を敬い護ることにこそ価値を置くクルスにとって、ロゼウスとは微妙な間柄の相手であった。シェリダンがロゼウスをとても大切に思っている事はわかる。だが、ロゼウスは「シェリダンの有益な部下」ではない。一方が愛しているからと言ってもう一方がそれに必ず応えねばならないという法はなく、お互いの立場を考えればロゼウスがシェリダンに対してそのような感情を抱く方が奇跡だ。
 ロゼウス自身に対しては一切含みなく、ただシェリダンという存在を介してロゼウスと繋がっているクルスは、だからこそこの場を代表して声をあげることができた。
「答えてください! ここで何があったのか? ウィル王子を殺したのは、あなたなのですか!?」
 単刀直入すぎるその問に、ロゼウスは困惑も憤りも怯む様子もなく、これも率直に答えた。
「ああ」
「――ッ!!」
 その言葉に、アンリもミザリーも、ロザリーもエリサも、ローゼンティアの者たちが一斉に言葉を失う。
 がくり、とあの気丈なロザリーが膝を折る。先程まではなんとかウィルのもとへ駆けつけようとしてクルスに押さえ込まれていたエリサは、いつの間にか大人しくなっていた。
 シェリダンも動けない。
 ロゼウスのその酷薄な様子。別に彼が聖人君子だなどと思ったことは一度もないが、だからと言って、ここまで平然と弟殺しを告白できるような、そんな性格だっただろうか。
何かが違う。何かがおかしい。
そうは思うのだが、どこがおかしいのかわからない。それを口にしてしまえば、全てが終わりそうな気がして言葉にできない。
「ロゼウス、お前――お前は、」
 お前はダレだ?
 言葉にできないその問を耳にしたかのように、静かに答えたのはロゼウスの背後に立ちこれまで一言も喋らなかった少年だった。
「この人は、ロゼウス兄様じゃないよ」
「え?」
「何?」
 ジャスパーの言葉に、顔を上げたのはアンリとロザリーだった。
 その瞳には必死な光が宿っている。ああ、とシェリダンは思った。彼らは縋っているのだ、一縷の希望に。弟を殺したのが、同じ兄妹であるロゼウスではないことを。
 ひとの心は弱い。ひとではないヴァンピルもどうやら同じらしい。自らの身内が手を汚すことに平然としている者などいない。ドラクルの時には、まだ特殊な事情があった。王位継承権を本人にどうにもできないところで剥奪されて先王を憎んだ、という。けれどロゼウスがウィルを殺す理由などどこにもないのだ。だからこそ彼らは、そうではないことを願っている。
 けれど状況だけ見れば、どう見てもロゼウスがウィルを殺したようにしか見えない。それどころか先程のクルスの問に、彼ははっきりと頷いたのだ。自分が殺した、と。
 では目の前の人物がロゼウスでないというのは、どういうことなのだろう?
「その通りよ。だけど、あなたたちが考えているのとは、少し違うと思う」
 ジャスパーの言葉を、サライが補足するように肯定した。
「……どういうことだ?」
 低い声で尋ねたシェリダンに、サライは変らず悲しげにロゼウスの方を見つめたま説明する。
「彼は確かに、あなたたちの知るロゼウス=ローゼンティアではないわ。けれど、間違いなくそのロゼウス自身でもあるのよ」
「意味がわからない」
「生まれ変わり、って知ってる?」
「ラクリシオン教の教えか? 生憎と私は無宗教者なんだ。宗教なんぞと言う古代人が人心を救いのためだか単なる支配制の助けなんだか知らぬが言いように操るために作り出した体制なぞ興味ない」
「巫女である私の前で神の教えを冒涜しようとはいい度胸ね。あなたと宗教論議を交わしている暇はないわ。だから、これだけ聞いて。生まれ変わりはあるのよ。魂は次の生にまた引き継がれるの」
「とうてい信じられないな」
「でも真実よ――彼は」
 サライはそこで一度言葉を切り、ロゼウスから離れなかった視線を、一瞬だけシェリダンへと向けた。
「彼は、《シェスラート》の生まれ変わりよ」
「そんな人物知らな――」
 言いかけて、ようやくシェリダンも気づいた。
「……ちょっと待て、シェスラートというのは、あのシェスラートか?」
「ええ。私が知っているシェスラートは一人……いいえ。ある意味二人とも呼べるけれど、それだけよ。そしてシェリダン、あなたが何を言いたいのかも予想がつく」
 シェスラート。聞いたことがないなんてものではない。その名には、確かにシェリダンも覚えがある。この世で最も有名でありながら、普通に生活している普段には意識するはずのないその名。
 始皇帝、シェスラート=エヴェルシード。
 けれど、違和感は拭いきれない。目の前のロゼウスの典型的なローゼンティア人の顔立ちと、シェリダンの中での始皇帝シェスラート=エヴェルシードの印象がそぐわないからかもしれない。始皇帝はその名の通り、蒼い髪に橙色の瞳のエヴェルシード人だった。エヴェルシード建国の祖でもあるその男と、目の前のヴァンピルの少年は決して同じ名で呼ばれるはずなどない存在だ。
 だが、生まれ変わりなどというものが本当にあるのだとすれば、人種の違いなど些細なことなのかもしれない。
 それでも、到底信じられないことには変わりはない。
「嘘だろう?」
「本当よ。って言っても、あなたが知っている事情と私が知っている事情は大分違うけれど」
 サライが無情にも断言する。
「ロゼウス=ローゼンティアは、シェスラートの生まれ変わり、ただし――」
 ただし、今度は何なのだ。すでに混乱の極みだというのにまだ何かあるのか。
 ロゼウスもジャスパーもろくに説明する気はないようで、彼らは何をするでもなくその場に立っているだけだ。アンリやロザリーは一応まだ正気は保っている様子だが、ミザリーとエリサは完全な放心状態。この中で一番事態への衝撃度が少ないクルスも、この状態でどう動くのが最適か、読みきれないでいる。
 こんな状況でサライは更に何を伝えてくれようとするのか。思ったものの続きを待つシェリダンの耳に、彼女ではない者の声が届く。
 パキ、と空気に亀裂が入るような音がして、その存在が唐突にその場に姿を現した。しかも彼は、サライの言葉をまるでこれまでの会話を聞いていたかのように引き継ぐ。
「ただし、シェスラートと言うのは歴史に残る皇帝シェスラート=エヴェルシードのことではなく、本来彼の代わりに皇帝になるはずだったシェスラート=ローゼンティアのことだけれど」
 冥府の王ハデスが、全てを知る者の顔でそう告げた。

 ◆◆◆◆◆

 一つだけわからないことがある。
 俺は、あの男を果たして愛していたのかどうか。
 黒い髪、黒い瞳。人間でありながら、強い魔力を持った者を他民族より比較的多く生み出すというその一族。いつしか力を持ちだしてザリュークをはじめ大陸中の国を征服していった、その支配国家の、最後の王。
 俺は、彼に取引によって一族から連れてこられた奴隷だった。あの男の慾望を叶え、その願いを聞いて手を汚す代わりに一族の安寧を得た。少々卑怯な取引だと言う事は俺にも自覚があったし、結果的にそれが何の役にも立たなかったということも、知っている。
 こんなにも自分は無力だったのだと自覚したあの日。あれ以来、俺の運命は変わってしまった。……いや、本当は、彼から引き離されたその瞬間に全てが変わってしまったのだろうけれど。
 ゼルアータ国王ヴァルター。
 変わり者の王だった。一筋縄では測れない男。残酷に見えて、その残酷さには理由があった。その裏に潜む彼の底知れない哀しみについても、大体わかっていた。
 憎み、嫌いきることはできなかったと言ってもいい。立場的には唾棄してやまない敵のはずなのに。愛していたのかどうかはわからない。でも嫌いじゃなかった。それだけは確かだと言える。俺は彼を……。
 ふざけた話。愚かな感傷。遅すぎる後悔。
 彼はもういない。それは当たり前だ。けれど、俺がロゼッテたちと行動していたあの時ですら彼はもういなかった。そう、
俺は死に逝くヴァルターを見捨てて、一人だけ生き残ったのだから。
 ヴァルターではなく、ロゼッテを選んだ。あの男のために、死んでやれなかった。
 約束というのとは少し違うけれど、一緒に果ててやる気くらいあったのにな……。自分でも言葉にならない感情が胸を塞ぐ。
 自分以外の者を救う取引をして城に連れてこられて、その代償に抱かれる。ああ、そう言えばロゼウス、この関係はたぶん、お前とシェリダン王にも似ているよ。

 ◆◆◆◆◆

「ロゼウス=ローゼンティアは、シェスラートの生まれ変わり、ただし――」
 サライの言葉の後を、亀裂の入った大気の隙間から現れた少年が引き継ぐ。
「ただし、シェスラートと言うのは歴史に残る皇帝シェスラート=エヴェルシードのことではなく、本来彼の代わりに皇帝になるはずだったシェスラート=ローゼンティアのことだけれど」
 黒い髪に黒い瞳。相変わらず黒い衣装を身に纏っている。その手には滅多に使わない彼の杖があり、口調はいつも通りだが表情は険しい。
「ハデス!」
 シェリダンは叫んだ。そこにいるのは、見慣れた友人、いや、友人だった男だ。
 黒の末裔と呼ばれる、魔力に突出した人間を多く送り出す一族の裔にして、強大な力を持つ魔術師。その姉であるデメテルにこそ敵うことはないが、それ以外の相手に対しては魔力でハデスが劣ることはない。伊達に冥府の王と呼ばれてはいない。
 その彼が厳しい顔つきをして、ロゼウスを見つめる。
 ロゼウスの肉体に甦ったかつての皇帝候補、シェスラート=ローゼンティアを。
 しかしそんな事情は露知らず、むしろハデスに関してはもっと重要な用件を抱える陣営もここにはいるのである。
「帝国宰相ハデス卿!!」
「おわっ」
 怒髪天の勢いで叫んだのは、ユージーン侯爵クルスだ。
「よくもシェリダン様の前にその顔を出せましたね! 一体どういうつもりなんですか!?」
 この事態も非常事態ではあるが、ウィルのことに関してはクルスはほとんど興味もなければ、手立てもない。そしてヴァンピルは灰にならない以上まだ救える手立てがあるということで、多少楽観視もしている。更に言えばクルスはロゼウスの人格にさほど信頼を置いていないので、そう言った意味での衝撃も他の面々より少ない。
 それよりも彼がシェリダンに忠誠を誓う者として気になるのは、ここに現れた帝国宰相その人がシェリダン罠にかけたという事実の方であった。
 罠にはめられた当の本人であるシェリダンも、厳しい顔をしている。
「ハデス、お前は一体何を考えている?」
 かつての友人に投げる彼の言葉は鋭い。だがその鋭さに一欠けらの曇りがあることも、親しい者であればこそわかる。
 確かにハデスはドラクルたちに協力する素振りを見せ、もとより裏切り者として動いていた。けれど、ミカエラ王子を直接手にかけ、シェリダンにその罪を着せるなど、そこまでやるとは誰も思っていなかったのだ。
甘い考えと言われればそれまでだが、少なくともローゼンティア王家の因縁に絡めとられた形のシェリダンたちの戦いは、国や民をこれ以上巻き込むのではなく、彼ら当事者だけで繰り広げられるものだと思っていた。もっともドラクルが簒奪のためにエヴェルシードにローゼンティアを侵略させた時点で、必要なまでに多くの血は流れてしまっているのだが。
「今のお前が何を考えているのか、私にはわからない」
そのシェリダンの言葉に、ハデスは皮肉に唇を歪めることで答えた。
「今の僕が? じゃあ聞くけど、昔なら君は僕が何を考えていたかわかっていたって言うのか? 今も何も、僕はもともとこの瞬間のために君に近づいたんだよ、シェリダン」
 シェリダンはハデスの瞳を見る。言葉は確かに人の意志と思想を表す鏡だ。だからこそ言葉により人は人の人格を判断する。その言葉には、その人がどんな論理を持ってどんな行動を選んだのかが自然と込められている。
 けれど言葉に表されることがない本当の奥底の感情まで、瞳は表すのだ。
「僕はもともと、君を利用するために近づいたんだ。僕の目的のために」
 怖いくらい透明にハデスの声は澄んでいてそこには真実の響がある。しかしそれと同時に、彼の瞳は悲しげで苦しげだった。
 彼を信じる事はできない。現にハデスはすでにミカエラを手にかけている。けれどその行為がどんな感情の元から行われたものかを、シェリダンに断じることはできない。
 そしてシェリダン自身にも、選ばなければならない道がある。
「……ならばお前は私の敵だ。帝国宰相ハデス=レーテ=アケロンティス」
「ああ。元エヴェルシード国王シェリダン=ヴラド=エヴェルシード」
 訣別はこんなにも呆気なく訪れる。
 その頃になると、アンリやロザリーもようやく事態に頭が追いついてきた。
「あ……ハデス、卿。あなたが、ミカエラを殺し……」
 気丈に意識を保ちながらもどこか空ろな目をしていたロザリーが、蒼白になりながらもハデスを睨む。
 その視線を、ハデスは並一つない水面のように静かに受けとめる。
 一触即発の緊張状態を、しかし一つの声が破った。
「ゼルアータ人……」
 ポツリと落とすように呟かれた声はロゼウスのものだ。張り詰めた空気の中にそれは響く。全員が一斉に彼を振り向いた。
「黒髪黒い瞳……ヴァルターと同じ……ああ、そうか、お前がロゼウスの記憶の中にある帝国宰相ハデス。今は黒の末裔と呼ぶんだったな」
 何かに納得するようなその仕草は明らかに不自然で、先程の「生まれ変わり」という言葉についてもよくわからないシェリダンにとっては、その反応にどう返していいのかわからない。ハデスはロゼウスの言葉に少し意表を衝かれた様子を見せたが、すぐに表情を引き締めた。
「そう……現皇帝の帝国宰相か」
 口元に指を当てて何事か考え込む様子を見せた後、ロゼウスはあっさりとその言葉を口にした。
「邪魔だな」
 無造作に存在を断じるその一言。
「!」
 次の瞬間、その傍らから飛びだした影が、一直線にハデスへと斬りかかった。

 ◆◆◆◆◆

 剣戟の音が響き渡る。
「くっ」
 正確には、それは剣と剣の打ち合いではない。一方は金属製の杖だ。目にも止まらぬ速さで斬りかかって来たジャスパーの一撃を、ハデスが受けとめる。
「ジャスパー!」
「ハデス!」
それぞれの名を、誰かが叫ぶ。事態はここに来て混乱の頂点に達したようだ。先程からミカエラの処刑、ロゼウスによるウィル殺害、ロゼウスが皇帝シェスラートの生まれ変わりというものであるとの話。これ以上驚くことなんて他にあるかという経験ばかりを積んでいるのに、その上が更にあるとは。
これまでほとんど喋らなかったジャスパー。ローゼンティア第六王子。今年で十四歳の彼は、少女めいた面差しと言われるロゼウスよりも更に儚げな顔立ちをしている。髪につけた飾りの宝石が特徴で、体つきはまだ幼いだけあってぱっと見には年頃の少女と区別がつかない。
 しかしその剣の腕はなかなかのものだった。これが剣豪と呼んで差し支えのない腕前であるロゼウスやシェリダン、剣聖とすら呼ばれるクルス相手ではまた違ったろうが、普段は肉体の酷使より魔術を使うことが多く護身術は人並み程度にしか身につけていないハデスを相手するのには充分だ。
 断っておくならば、ハデスも決して弱くはない。何せ見た目こそ十六歳の少年だが、帝国宰相として生きてきた年月が違う。少年姿のこの時はまだしも、彼は大人の男性に姿を変えることもできるので、その時であればジャスパーに負けはしないだろう。
「この! 調子に乗るな!」
「それは、あなたの方だと思いますが」
 はっきりと苛立たしげな顔をするハデスに対し、ジャスパーは淡々と返す。ヴァンピルの少年は、感情がまるで抜け落ちてしまったかのように表情がない。
「人間風情、それも後は衰退してゆくだけの皇帝の選定者が、僕に勝てるとお思いですか?」
「お前ッ!」
 ジャスパーの挑発の言葉に、ハデスが激昂してますます手を強める。剣のように斬ることはできずとも、金属製の杖は充分な攻撃力がある。打ちかかってくるその手を受けとめながら、それでもまだジャスパーは無表情だった。
「ね、ねぇ、兄様……姉様……」
 ローゼンティアの王族兄妹たちは、もはやこの状況にどう動いていいのかわからなくなってしまっている。ジャスパーは確かに兄弟で、帝国宰相ハデスは同じく兄弟の一人ミカエラを殺した敵。けれどロゼウスがウィルを害した事実も忘れてはならず、ジャスパーはそのロゼウスに与する人間だ。どちらを助けていいものかわからない。ジャスパーを助けたい気持ちはあるのだが、目まぐるしく動く事態に、足が地に縫い付けられたように動かなかった。
 そして不本意ながらも状況を傍目で見る方にばかり回ってしまった彼らは、不意に気づく。
「ジャスパー、様子がおかしくない?」
 ロザリーがアンリとミザリーに尋ねる。アンリは微かに顔を上げたが、ミザリーは反応しない。すっかり理性を失ってしまっている。ミカエラを特に可愛がっていた彼女にとっては、もう全ての出来事がどうでもいいのかもしれない。ウィルが一時的とはいえ殺されてしまったエリサも同様だ。
 けれど彼女ほど全てを捨ててしまえないアンリとロザリーは、ジャスパーの様子を見ていてそれに気づいた。
「ジャスパー……」
「おかしいよ。最近確かにいつもちょっとずつおかしかったけど、あれはおかしい」
 表情が違う。態度が違う。気弱で剣さばきもどこか相手に対して遠慮があったはずのジャスパーが、あんなに人を傷つけることに躊躇いなく剣を振るう姿なんて、国にいた頃は想像もできなかった。
「ロザリー?」
「シェリダン、ねぇ、聞いて。ジャスパーがおかしいの。それに、ロゼウスだって」
「ああ……第六王子のことはともかく、ロゼウスのことは私もそう感じている。だが」
 ロザリーの言葉を受けて、シェリダンはちらりとサライに視線を送った。しかしその視線に気づいているだろうに銀髪の美少女は、悲しげな表情をしたままこれ以上の事態の説明をする気はないようだった。
 ロゼウスが始皇帝の生まれ変わり、いや、後にハデスが言った言葉も含めて考えれば、もっと複雑な運命の中の住人であるらしい。それはすでに聞いたが、この事態は本当にそれだけなのだろうか。そう言った疑問がシェリダンの中に浮かぶ。
 ジャスパーのことについて、シェリダンはそれほどよくは知らない。だがかつてエヴェルシードの奴隷市場で買い上げ、王城に連れ帰ってきた時にわかった。彼のロゼウスのへの執着具合。それは確かに、弟が兄に向けるものを越えていた。だからこそシェリダンは当面の敵であるドラクルと得体の知れない威圧感を漂わせるルースを除けば、ジャスパーをローゼンティア王族兄妹の中で最も警戒していたのだ。
 この子どもは、放っておけば何をやりだすかわからない。
 しかし今のジャスパーには、あの時感じたのとはまた別の怖さがある。あの時は小さな竜巻のような威勢を自分に対して恨み罵る声をあげるジャスパーに感じたものだが、今の彼は嵐の前のようにひたすら静かだ。
 それが恐ろしい。
「シェリダン様、僕たちはどうしますか?」
 放心状態で動く様子のないエリサを放して、クルスがシェリダンの元へと近づいてきた。ジャスパーとハデスの戦いはまだ続いているし、ロゼウスはそれを傍観している。ローゼンティアの王族兄妹はほとんどが使い物にならないし、サライは厳密には敵か味方かも不明だ。
 行動を起こせるとしたら、シェリダンとクルスの二人しかいない。
「……私たちには、知らないことが多すぎる」
「ええ」
「できれば、事態を把握するためにハデスは生かして捕らえたい。ロゼウスも今はわけのわからぬ様子だが……殺すな」
 ハデスのことははっきりと敵対関係が明らかになったが、ロゼウスに関してはまだウィル殺しの理由を何も聞いていない。あの不自然な態度に関しても。一度情報を全て整理するためには、ハデスもロゼウスも生きて捕らえる必要があるだろう。
 もっとも、そんな言い訳を作らなくとも、シェリダンにロゼウスをここで殺すなどという選択肢がとれるはずはない。
「はい。ジャスパー王子は?」
「……あのロゼウスは何を言う気もないようだから、情報を聞くならジャスパーの方がいいのだろうな。だが、無理だと思うなら生け捕りは諦めろ」
「――了解しました」
 いつも穏やかな風貌のクルスが、人の良い貴族の青年から一転して王命に従う冷徹な部下の顔になった。その彼と簡単に機を測って、シェリダンたちは動き出そうとする。目標はロゼウスとハデスの捕獲。
 しかし二人が動き出す前に、事態にまたもや変化が訪れた。
 剣と杖で打ち合っていたジャスパーとハデスの戦いは、両者ともに相手に決定打を加えられないことから長引いていた。
ハデスの得物は杖なので、相手にそれなりの負荷を与えるには攻撃を直撃させなければ意味がない。だが、身の軽いジャスパーはそれを悉く避けていた。一方そのジャスパーの身の軽いという長所は弱点ともなりうる。体重の軽さゆえに攻撃に威力が加わらないジャスパーの剣の一撃では、ハデスの杖を斬ることも、得物を弾き飛ばすこともできないのだ。ヴァンピルと人間という差はあるが、その差はハデスの魔術で多少埋められる。
 膠着状態に陥る戦況を打破したのは、それに関しては年の功というべきか、ハデスの方だった。
「!」
 ハデスが杖の手元を捻ると、その先端から刃が現れた。仕込み杖だったというわけだ。直前で刃に気づいたジャスパーがそれを跳ね上げるようにして一撃を喰らわせた後、追撃されないよう後方に距離をとる。
 血が流れた。
「最初からこれが狙いだったんですか?」
 ジャスパーの能面のようだった表情にここで初めて苛立ちが表れた。腰の辺りを斬られた彼の肌に紅い痕。一見傷に見えたそれが、そうではないことに一拍遅れて周囲は気づく。ハデスによって斬られた傷自体はジャスパーにとっては浅いものらしく、すぐに癒えて消えてしまった。だがその腰に刻印されたような紅い痕は消えない。
 そして彼に攻撃を仕掛けたハデスの方も、ジャスパーの剣に右腕の辺りを切られていた。薄く肌が切れてその傷も残っているが、彼の腕にも同じような痕が見える。
「え……」
「なんだ、あれは……」
 見慣れぬそれに驚いて、彼らを捕らえようとしていたシェリダンとクルスはその動きを止める。ジャスパーとハデスはお互いに睨み合っていた。その紅い刻印を。
 まるで肌を刻んで描いたかのように紅い紋様。細部は違うのに、全体的によく似たその図形。
 それは――。
「選定紋章印」
 サライが告げた。
「皇帝となるべき者を選出する、それが唯一の資格よ」
 選定者は皇帝のために生まれる。
 そして一つの時代に、選定者が二人存在する事はない。