荊の墓標 31

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 選定者は皇帝のために生まれ皇帝のために死ぬ。
 一つの時代に選定者が二人存在することはなく、けれどここにこうして、証である選定紋章印をもつ者が二人存在する。
 それは即ち、皇帝の代替わりを示す。
「え……ええ?」
 今上帝はハデスの姉デメテルであり、ハデスは彼女の選定者だ。そしてジャスパーが同じ証を持つということは、彼が選んだ者が次の皇帝と言うことだ。
 現皇帝の、デメテル帝の時代が終わる。
 そんなことは、この世界の誰もが予想していなかったことだろう。
「あれが、選定紋章印……」
 選定者は普通、皇帝の身内から生まれると言われている。若干の例外はあるが、大概は皇帝の家族が選定者となる。これは、絶対に裏切らない者だと言う前提から成り立っているらしい。どの程度の近親かはともかく、家族から選定者が生まれる場合は多い。もっとも生まれるとは言っても、地上に誕生したその瞬間から選定者の宿命を背負っているわけではなく、また皇帝もそう定められて生まれてくるわけではない。
 あくまでもその皇帝候補、選定者候補がどういう人物であるかが重要だ。皇帝の選定とは明らかに後天的なものである。
 だから今回の事態も、結果を纏めれば全てが「偶然」で括られる出来事なのだろう。
 しかしそれにしては、タチが悪い。
 ジャスパーに斬られた右腕に素早く治癒の魔術をかけながら、ハデスはこの場にいる人物の中、ただ一人を睨んだ。自分を斬りつけたジャスパーではない。同じ選定者の立場にあるこの少年も憎いが、それ以上の憎悪が彼の中には存在する。
「選定者は皇帝のために生まれ、皇帝のために死ぬ」
 代替わりは、前任の皇帝と選定者の死を示す。
「だから、同時代に二人の選定者はいない」
 ジャスパーはいまだ選定者ではない。ハデスの右腕にかなり薄くなっているとはいえ、まだ選定紋章印は残っている。それが完全に消えたとき、彼は選定者の資格を失いジャスパーがその後を引き継ぐ。
 そしてその瞬間は、とりもなおさず現皇帝デメテルの死と、次代皇帝誕生のその時だ。
「次の皇帝が誕生した時、僕は死ぬ。選定者は皇帝に殉じる生き物だから」
 だからハデスはこれまで画策していたのだ。
 死にたくないから。
 険しい目つきでハデスはその人物を睨み、指をさした。あたかも選定者が皇帝を選ぶかのような光景だが、役者が少し違う。ハデスはあくまでも彼の前の皇帝の選定者。
 ハデスにとって、彼は憎んでやまない存在だった。自らを、そして姉を、死においやる存在なのだから。
 この場にいるハデスとサライ、そして次代皇帝と選定者当人を除く全員が皇帝の代替わりと呼ばれるその事象に対して驚愕を露にしているのは訳がある。皇帝の代替わりとは、本来その皇帝の力が衰えた時に発生するものだからだ。
 力、というものが何を示すのかは定かではない。実際、表向きには問題なく世界を治めているように見えた皇帝でも突然資格を剥奪されて崩御した先例はある。けれどそういう人物は影で道に外れた行いをしていたという報告もある。そしてそうでない皇帝たちは、大概が傍目にもわかるほど統治能力を失い、その衰えを世界にそれとなく知らしめて自然と崩御の流れになるのだ。
 結局どうあがいても老いと言うものから人はのがれられないと言う事なのか。皇帝には不老不死が与えられるが、それでも精神まで若々しいままでいられるものは少ない。皇帝がその皇帝たる資格を失って人間性を失った時に代替わりは行われる。たいていは悪法を乱発したり自らの欲望のままの行動を行い、その頽廃ぶりが誰の目にも火を見るより明らかとなってから新皇帝への代替わりは起こる。
 しかし。
「デメテル帝が、もう代替わり?」
 第三十二代大地皇帝デメテル。彼女は即位してまだ百年程度の皇帝だ。その治世は短くもないが、長すぎるということはない。そして問題なのが、彼女が今すぐ退位になるようなことを何もしていない点だ。
 内部事情こそ知らないとはいえ、デメテル帝が平生どのような人物かについて、特に問題のある噂は聞かれなかった。皇帝と言っても所詮人間であるし、もともと皇帝となるような人材は変人ばかりで多少のことなら見逃される。デメテルに関して囁かれるのは、せいぜい実弟であるハデスを選定者として、そして愛人として囲っているくらいだ。
 その彼女を代替わりさせる要因。
 それこそ、ハデスが次代皇帝を憎んでやまない要素でもある。魔術一族《黒の末裔》の出である、能力的にも歴代最高の力を持つデメテルがすでに代替わりを迎える理由。
 それは、現れてしまったからだ。
 彼女よりも力を持つ皇帝が。
 ――憎い。
「いい度胸だな。ひとを指さしちゃいけないって、お姉様から教えられなかったのか? ハデス」
 指さしたハデスの厳しい視線の先で、彼は笑う。本来彼のものではない記憶と能力をいいように使って引き出した情報でからかいを口にする。
 その笑みはハデスが自身の予言能力で見たものとは多少異なっている。これまでの関わりで、少しずつ運命は捻じ曲げられている。だけど、足りない。まだ足りない。
「ひと? お前がひとだとは知らなかった。ただの薄汚い魔族だろ?」
 ハデスは全ての憎悪をもって、その相手をねめつける。
 お前さえ、お前さえいなければよかったのだ。その身は荊の墓標。ドラクルが彼を憎んだ理由がよくわかる。
 自分ではなく、他者にあらゆる死と破滅をもたらす運命の存在。
 後天的に選ばれるべき皇帝でありながら、その能力値と宿命だけは生まれながらに基準を満たしていた者。
 そしてこれから、皇帝になる最後の要件を満たそうという者。
 ――憎い。
 その身に与えられる名は「薔薇」
 薔薇の皇帝。

「第三十三代皇帝、ロゼウス=ノスフェル=ローゼンティア」

 時が、止まる。
「え?」
「な、何を……」
 シェリダンも、クルスも、アンリもロザリーも。
 頭がついていかない。
 そんな彼らを哀しそうにサライが見ている。全てを知っているような彼女のその目を、シェリダンはどこかで見た事があると思った。決して消えない哀しみを湛えた目。
「サライ……」
 彼女はハデスの言葉を肯定する。
「ええ。その通りよ」
 ジャスパーが剣を腰の鞘に戻した。その彼を背後に控え、次代皇帝は不敵に笑う。
 ただの旅装束とそれに相応しいマント。それだけ。金糸銀糸の刺繍も宝石もない。なのに、何故か必要以上に堂々として威厳があるように見える。
さらさらと風になびく白銀の髪。嫣然と細められたのは鳩の血色の極上の深紅の瞳。笑う顔立ちはロゼウスのもの。けれど表情はロゼウスとは違う。
 今ロゼウスの中にいるのは誰だ? 
 あるいはそれこそが、次の皇帝だとでもいうのか?
 わからない。何も、わからない。
 シェリダンはただロゼウスを見つめた。そのシェリダンをちらりと一瞥して、ハデスはロゼウスを再び睨みつける。再びというより、もはやハデスはロゼウスに対しては睨みつけることしかしていないが。
 ――ああ、憎い、彼が。
 この世界を支配せしめ、そして世界から全てを奪うはずの皇帝。
 お前など。
「消えてしまえ!!」
 叫んだハデスの掌から生まれた光が、次の瞬間恐ろしい熱量の塊となって辺りを襲った。

 ◆◆◆◆◆

 不意打ち。
「うわぁああ!!」
「きゃあ!」
 ハデスの掌から放たれた光の球はまっすぐにロゼウスを狙っていた。しかし、周りにいる者たちもその爆発の影響は受ける。
「ちっ」
 シェリダンとクルスは咄嗟の判断で、ロゼウスやジャスパーの捕獲を断念してハデスの攻撃から周囲の者を庇い身を伏せた。シェリダンはロザリーを、クルスはエリサを、ミザリーに関してはアンリがいまだ抱え込んで護っている状況であるし、サライにはそんな守護など必要ないようだった。
「サライ、お前……」
 爆風から身を庇った様子もないのに、かすり傷一つ負っていない巫女姫をシェリダンは見上げる。攻撃に備えて殆どの者が伏せている間も、彼女は微動だにせずもとの位置に立っていた。
「言ったはずよ。私はすでに死んでいるのだと」
 平然とした表情の彼女をなんとも言えない面持ちで眺めていたのだが、続く第二撃の破壊音に振り返った。
「ロゼウス!」
 ハデスはいつの間にかその手に黒い剣を持っていた。明らかにこの地上に存在するものではないその材質は、魔力で作り上げたらしい。それを持って、彼はロゼウスに斬りかかっている。
 しかし、ロゼウス自身は得物を抜いていない。彼は素手でハデスの剣を受けとめていた。
 黒い刃を撫でるように添えられた白い指。
 絵画的なまでに美しく、悪魔的なほどに残酷だ。
「くっ!」
 ロゼウスが剣を止めているのとは逆の腕を上げたのを見て取り、ハデスは自ら刃をなぎ払うようにして後方へと跳ぶ。ロゼウスから距離をとって、剣を構えなおす。
 無駄のない動きで地を蹴り、渾身の力を持って刃を叩きつける。全てが受けとめられ、せめて反撃されぬようにと素早く距離をとり、離れては詰めて。
 剣豪と呼ばれるほどではないが、ハデスも相当な使い手だ。手合わせをした事のあるシェリダンもそれは知っている。
 けれど、今のロゼウスとでは、素手と剣ですら相手にならない。
 明らかにハデスの分が悪い事が、シェリダンにもわかった。
 彼自身に問題があるというより、相手が悪い。サライによって『シェスラート』と呼ばれた今のロゼウスは、剣を振るっていてもその感情が全く顔に表れないのだ。何を考えているのか、さっぱりわからない。真剣に闘っているようにも見えない。だから次の手が読めず、一度でも捕まれば何を仕掛けてくるかわからない。
 だからこそハデスは必要に応じて距離を詰める他は、離れてその攻撃をかわすことに注意を置いていたのだが。
「もういいだろう」
 それまで戦っている間、恐ろしいまでに無表情だったロゼウスがようやく表情らしきものを浮かべる。
 人形めいた面差しが一気に人間らしくなる。呆れたようなその顔。
「――え?」
 次の瞬間には、すでに勝敗は決していた。ハデスはいつの間にか地面に叩きつけられ、首根っこを押さえ込まれている。
「ハデス!」
 思わず、敵だということ、彼が自分をはめたのだと言う事も忘れてシェリダンは叫んだ。
「ぐ……う、ぅう」
 一度は地面に引きずり倒したハデスを、ロゼウスは片腕一本で今度は首の根を掴んだまま持ち上げた。首吊りと首骨折の両方の危険の只中にあるハデスは、必死にもがいてロゼウスの腕を外そうとするが、うまくいかない。
 そうたくましくもないロゼウスの腕が軽々とハデスを地面に足が届かない位置まで吊り上げ、苦しめる。骨にかかる負担も尋常ではない。
「か、はっ……!」
 みしみしと嫌な音がする。引きつれた皮膚に皺が刻まれ、ロゼウスの爪で傷つけられた肌は血を流す。視界は赤と青と黒のまるで雷が交互に音をさせずに光っているように明滅し、息ができない。舌を出してハデスは喘ぐが、ロゼウスが手を離す気配はない。口の端から唾液が零れて顎を伝う。
「もう、いいだろう?」
 先程と同じ台詞を、ロゼウスは今度は、殊更に抑揚をつけて繰り返す。
「先代の選定者だかなんだか知らないが、俺はお前などどうでもいい。お前がなんでロゼウスを目の仇にしているのかはよくわからないが、ロゼウスの敵なら多分俺にとっても敵なんだろうな」
 だから。
 囁いた唇がにぃ、と酷薄な笑みを刻むのと同時に、ハデスがそれまで苦しげに細めていた瞳をカッと見開く。
 そして同時に、ロゼウスがその首を掴む手に力を込めたのがわかった。
「――ッ!?」
 声にならない断末魔を聞いて、シェリダンが叫ぶ。二人の元に駆け寄ろうとするが、ジャスパーに阻まれた。
 あくまでもロゼウスの邪魔はさせまいとする少年と取っ組み合いになりながらも、声だけでも、とシェリダンは叫ぶ。
「やめろロゼウス!! ハデスを殺す気か!? 何のためにそんなことをするんだ!」
 それまでシェリダンの存在を意にも介していないように見えたロゼウスが、この時初めて反応した。
「……っ」
 虫の息のハデスをその手から離すと、ロゼウスは視線をシェリダンの方に向けた。その右手は血に濡れている。ハデスの血だ。だが、そんなものどうでもいいような様子で、彼はただシェリダンだけを見つめる。
「何のために?」
 冷ややかな――ただ冷ややかな眼差し。紅く凍てつく瞳。
「決まっている。邪魔が入らないようにするため」
 ロゼウスは最初から、ハデスのことなど気にも留めていなかったのだとわかる、そのあっさりとした態度。
 シェリダンを押さえ込んでいたジャスパーが離れた。抵抗がなくなり、しかしシェリダンはそれに気づかない。ただロゼウスだけと相対する。他の誰の存在ももう目に入らない。紅い視線に串刺しにされ、その場に縫いとめられる。
 時が止まったようだった。先程ロゼウスが次の皇帝だと知らされた時とはまた違う感覚。
 これまでシェリダンはまるで、自分の存在をロゼウスが全く気にしていないのだと思っていた。シェスラート、という古代の皇帝と同じ名の人物がどうのこうのと言われている今のロゼウスの、自分に対する態度はあまりにも無関心に見えた。それにサライのように生まれ変わりだの、始皇帝だのと関わりが深くないただの人間である自分には、話がさっぱり見えてこない。
 けれど違う。そうではないことにようやく気づく。
 無関心どころか、無関係どころか、ロゼウスの視線は真っ直ぐにシェリダンを見つめている。これ以上はないと言うその強さで。彼の目的は、他の誰かではなく最初からシェリダンだったのだ。
「ロゼウス……」
「誰にも邪魔されたくないんだよ。お前と話すときには」
 ひたりとこちらを見据えるロゼウスの眼差しに込められた感情の意味。彼以外の他の誰かからそんな視線を向けられるのは慣れていた。けれどロゼウスから、シェリダンはこんなにも強くその感情を向けられたことはない。
 そう、ローゼンティアを滅ぼしたその日でさえ、ロゼウスからこんなにも強い憎しみを向けられたことはない。
 その憎悪の瞳の強さのまま、彼は艶やかに唇を吊り上げるのだ。
「今度こそ――お前を殺してあげる」
 シェリダンの背筋に、ぞくりと痺れが走った。恐れ? 不安? それとも……。
 どくん、と心臓が一つ鼓動を打つ。何かに応えるかのように。
炎に引き付けられる羽虫のように、思わず一歩を踏み出したその時だった。
「「シェリダン様!」」
「陛下!」
 三つの声が彼を呼んだ。その内の二つは、完璧に息が合っている。どれもよく聞き覚えのある声だ。
「エチエンヌ! ローラ! リチャード!」
 あのエヴェルシード王城での混乱の最中別れたまま久しく顔を見ていなかった部下たち。突如としてこの空間に現れた彼らにその場の人々が気をとられている隙に、黒い影が動く。
「お前!」
 ロゼウスの苛立ちを含んだ声に反応して再び視線を戻せば、彼は背後を睨んでいた。先程打ち捨てた瀕死のハデスの傍らに、彼を抱きかかえるようにして一人の女性がいる。長い黒髪に黒い瞳で、その面差しはハデスによく似ている。
「大地皇帝!」
「この場は退くわよ」
 事態を把握などする暇もない。
彼女のその言葉と同時に、シェリダンたち一同はロゼウスの前から忽然と姿を消した。

 ◆◆◆◆◆

 未来を知るということは、幸せなことなのであろうか?
 ハデスはその謎について、よく考える。そして、何度でも同じ答を出す。
 絶対に、良いに決まっている。その方が幸せに決まっているのだ。
 だから彼は夢を見る。所謂予知夢。彼の予言能力の根源となる、未来の事象を知る術だ。
 未来を《見る》と一口に言ってもその方法は術者によって異なる。この先に起こる光景を映像情報として見ることのできるハデスにとっては確かに《見る》であるが、他の術者にとってはそうでないかも知れない。
 例えばハデスの能力にしても不完全なもので、彼の場合映像情報を見る事はできるのだが、それに音声が伴わない。なので、時折一連の光景を全て目にしても、そこに音声が伴わないために事態の経緯がさっぱり理解できないことがある。
 そういったときには、その未来映像に出てくる人物がどこの誰であるか、どのような状況に置かれているどんな性格かなど把握し、映像に出てくる人々の唇を読んだりして何とか切れ切れに情報を集めるのだ。そこには大層な努力が必要とされるのだが、彼のその影の汗に気づく者は少ない。
 その原因はハデス自身というよりも、彼の姉である今上帝、大地皇帝デメテルの負うところが大きかった。何しろアケロンティスにおいて皇帝は全知全能の存在だ。彼女が指を一振りするだけで世界の全ての事象が意のままに動く様を見慣れているその家臣たちは、ハデスの能力をさして優れたるものだとは思わなかったらしい。
 それでも、それは皇帝となったデメテルが特別なだけであって、ハデスが無能かと言えばそういうことではないのだ。むしろ、彼は相当の努力を代償に一般的な黒の末裔でも滅多に届くことのない領域にまで到達している希代の魔術師だ。
 しかし、この黒の末裔という存在がまた曲者だった。
 世界《アケロンティス》帝国に存在する三つの大陸。そのうちの一つは皇帝領薔薇大陸、もう二つが普通の人々の国家が存在する大陸で、北にシュルト大陸、南にバロック大陸が位置する。
 三千年ほど前、後の世に神聖悲劇と呼ばれる大戦が起こった。大戦として語られるそれの実態は、革命戦争だと言う。
 シュルト大陸は皇歴三〇〇三年の現在において九つの国に分かれているが、皇歴が定められる以前はほぼ一つの国が大陸を牛耳っていた。その国の名はゼルアータ王国。彼らは黒い髪に黒い瞳を持ち、その民には魔力を持つ者が多かった。
 魔力を持つとは言ってもまさか民の全員が全員そんな優れた才能を持っているわけでもなく、何もできない者も多かったのだが、それでも魔術と呼ばれるような力とは通常縁のない人々にとっては驚異だった。ただそこに存在するだけであれば何ら害のないようなそれを、優れた支配者が上手く使えば尚更だ。
 もともとの王の技量と魔術の力により、黒の民ゼルアータはかつてシュルト大陸のほぼ全域を支配した。彼ら自身シュルトでもバロックでもないどこか別の土地からやって来た移民だという言い伝えもあるが、定かではない。世界が神の力により皇帝の支配する帝国とされた時に、それ以前の時代に関する書物の一切が焼かれ、文化的なものも長きに渡った革命戦争とそれ以前のゼルアータ支配下での忍従の暮らしから解放された民衆の歓喜と興奮と強欲と憎悪の中で失われていったのだ。戦争が起これば敵対国やその属国を訪れた兵士が略奪を行うのは当然のことであり、ゼルアータ人は国の権力者は残らず殺害され、見逃された民も全てを奪われて大陸を追われた。
 曰く、このシュルト大陸にもはやお前たちの居場所はない、と。
 そこで、全てを失ったゼルアータ人はシュルト大陸を追い出されてバロック大陸の端の端、最東端の気候的に最も厳しい土地へと移り住んだ。しかし一つの大陸で栄華と同時に暴虐を極めた異能の力を持つ集団に対し世界は優しくない。バロック大陸に移り住んだ彼らを待つのは、迫害の道であった。
 自業自得なのかもしれない。当然のことなのかもしれない。他者を虐げその血を啜ってきた一族にはお似合いの末路と言えばそうだろう。しかしその罪科は、その時代に他民族を迫害した当人たちが負うべきではあっても、そんな事実の全てが遥か時の彼方に忘れ去られようとしている今現在の元ゼルアータ人……黒の民が負うべきことではないはずだ。
 はじまりこそ自分たちを虐げた民族に対するシュルト大陸の民衆の復讐であったその蔑視は、三千年と言う長い年月を経ていつしかその性質を変化させた。それも、良い方ではなく悪い方へ。
 黒の末裔に対する蔑視は、いつしか彼らの行状ではなく、その得意な能力の方へと向けられるようになったのだ。黒の末裔は世界で最も多くの魔術師を輩出する民族。彼らに対する偏見の眼は厳しく、強い。
 かつては世界の繁栄を意味した《黒》というその名も、ほとんど奪い取られてしまった。黒の末裔の黒はもはや意味をなくし、シュルト大陸においてはゼルアータの滅亡、帝制成立後に建国されたセルヴォルファスが黒の国と呼ばれているほどだ。
 黒の末裔、それはもはや世界においては差別の対象にしかならない。だが魔術師の能力は確かに一定の階級以上の人々の役には立ち、彼ら権力者に取り入るように黒の末裔は汚れ仕事に手を染めることをほとんど生業のようにして生きてきた。なんでもした。なんでも請け負った。
 それでも彼らの国を滅ぼした存在の象徴である《皇帝》がこの地上を収めている限り、決して自身が権力を握る立場にはつけない黒の末裔。
 しかしその均衡を、一人の少女が崩す。
 世界の常識が覆された理由は、彼女の父親に選定紋章印が現れたことだ。選定者は身内から生まれる。少女は父に選ばれて皇帝となった。
 それが第三十二代皇帝デメテル=レーテ=アケロンティス。
 皇帝にも向き不向きというものはあるのだが、どうやら魔術師と皇帝の力は近いらしい。皇帝は必ず魔術を使えるようになるというのだから当然ではあるのだろう。それらの事情も幸いして、もともと魔術的な才能に優れていたデメテルは歴代の皇帝の中でも最強と呼ばれる力を手に入れた。
 決して表立って権力を握ることができない、旧ゼルアータ人という立場でありながら。
 かつて始皇帝と呼ばれたシェスラート=エヴェルシードが滅ぼした国の民の血を引く者が、今は最強の皇帝となっている。そんな馬鹿なことがあるものかと、落ち着かなかったのは周囲の方だった。
 皇帝を選ぶのは選定者だが、その選定者を定めるのは神の意志。皇帝の所業に対して滅多なことでは家臣は口を挟めはしないし、何よりデメテルはあらゆる意味で強い。
 魔術師として戦闘力にも知識にも優れ、政治的な思惑に関しては感情を全く読み取らせない。服飾品や美食にさほど興味があるわけでもなく、特に趣味と言えるものもない。おまけに男にもなびかない。彼女に取り入りたい相手にとっては全く隙のない厄介な相手であり、彼女を煙たく思う相手にとっては忌々しいことこの上ない相手である。
 もっとも神もそんな彼女だからこそ皇帝に選んだのであろうが、人の感情とはそう素直に納得の行かない現状を受け入れたりはしないものだ。
 そして彼ら、デメテルに取り入り媚を売りたい輩にしろ、黒の末裔としての彼女を蔑む輩にしろ、皇帝の周囲に集う者たちが最終的に辿り着くのが彼女の弟であった。
ハデス=レーテ=アケロンティス。
 皇帝デメテルの実弟にして、その愛人としても知られている帝国宰相。そして、今では大地皇帝の選定者でもある。
 彼の運命は、生まれたその瞬間から、いや、生まれる前から姉であるデメテルの手の内にあった。彼女が望み彼女のために生まれてきた彼女の弟。父親の腕から紋章の入った皮膚を剥いでそれを弟の腕に移植した皇帝はその後両親を殺害する。彼の出生の理由も彼の選定者、愛人、帝国宰相という身分や待遇も、周囲は歓迎しなかった。むしろ他のことについては常人には真意の読み取れない笑顔でそつなくこなすデメテルに関して、それだけは明らかな失策と周りの者たちは考えている。
 その苛立ちの捌け口となるのは、彼らが逆らえない皇帝デメテルではなく、彼女によってこの世に存在させられ全ての身分と立場を与えられたハデスだった。選定者であることはもちろん、帝国宰相につけられたことも贔屓だと周囲の者たちは口さがない。そして、それは事実でもある。
 そんな環境で育ち、ハデスが何を考えると思うのか。誰だとてすぐにわかるはずだ。到底幸せには程遠いだろうと。けれどハデス自身にはどうしようもない。自分に最も合っている魔術の才すらどんなに磨いたところでデメテルに届かない。彼女に叛意を持つ者にしろ、従順故にその存在に完璧性を求める者にしろ、全てのデメテルに翻弄される人間たちの中で、もっとも彼女に支配されているのは、他の誰でもないハデスなのだ。
 だから彼は答える。
 未来を知るということは、幸せなことなのであろうか?
 ハデスはその謎について、よく考える。そして、何度でも同じ答を出す。
 絶対に、良いに決まっている。その方が幸せに決まっているのだ。
 未来さえわかっていれば、こんな目に遭わずに済んだ。何もかもを知り引き返せないところまで来る前に、逃出すこともできたのに、と。
 古代の神話がある。人が未来を知りすぎるとろくなことがないという教訓話。確かに先の出来事を知りすぎれば人は未来に希望を持てなくなる。先にある絶望を知ってしまえば生きていけなくなる。だから未来を知るということは、一概に幸せとは言い切れない。
 けれど、それでもとハデスは思う。
 あの時にこうなることがわかっていれば、必ず逃出したのに。予言の能力を僅かなりとも手に入れてから思った。あの時に、あの時にこの力があれば最悪の事態を回避できた。こんなことにはならなかったはずなのに。
 だからハデスは今日では《預言者》と呼ばれるほどに予知能力を鍛えた。手に入れるためにあらゆる代償を支払い、力を手に入れた。そして惜しみなくそれを使う。一秒前の未来でさえ見たい。知る事は知らないことより幸せなのだと、そう信じて疑わない。
 二度と間違わないようにと手に入れた力で、彼はその中に白銀の髪に紅い瞳の少年を見る。彼が自分に仇なすものだから殺そうとした。でも敵わない。
 瀕死の身体に遠くなる意識。遠くで声が聞こえる。

「ハデス!」

 黒髪の、黒い瞳の皇帝は自らに叛意を持つ弟をさも当たり前のように助けに来る。
 いつだってハデスを支配してやまないのはただ一人。何度も繰り返し見た夢も、吸血鬼の少年と炎の少年を通して結局は彼女へと繋がる。
 姉さん。
 あの時は、あの時までは、確かにあなたが好きだった。

 未来を知るということは、幸せなことであろうか?