荊の墓標 32

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 死者は連れて行けないのね。
 自分以外の、多分仲間でくくられている面々が全てその場から忽然と姿を消した時、サライはそう悟った。
 このままシェスラートとジャスパーと激突するだけの力など、今の自分にはない。彼女はそう思い、デメテルの座標転移による瞬間移動が終了する間際に二人の前から姿を消した。あたかも今の移動で他の者たちと同じく運ばれていったように。
 シェスラートが彼にはじめ与えられていた運命の通り、皇帝の座に着いたならその小細工に誤魔化されることもなかっただろう。けれど、彼は後にその名を譲って『シェスラート』となったロゼッテのようには、皇帝の全てを把握しているわけではない。ロゼウスの中に眠る王者の資質としての力を自由自在には扱えるが、それだけだ。
 どんな理由があろうとも、運命はすでに捻じ曲げられてしまったのだ。いや、単にサライが読み違えただけで、元から彼の命運はあのように定められていただけなのだろうか。
 神の予言を聞くという巫女姫サライにも、その辺りのことはわからない。初めてそれを知った時は、確かにシェスラートが皇帝だと思ったのだ。彼こそが、この世界を治めるのに相応しいと。
 けれど現実には、与えられた運命は変わってしまった。シェスラートはロゼッテに殺され、ロゼッテは彼に呪いをかけられた。その呪いを受けて、ロゼッテは皇帝となった。
 運命は何故変わってしまったのだろうか。
 皇帝となるはずだったシェスラート。皇帝となったロゼッテ。
 そして、ずっと気になり続けていることもある。
「神よ……一体、何をお考えになっているのですか」
 今の皇歴、皇帝制度はサライもその参謀の一人となって、シェスラート亡き後のロゼッテの時代に作られたもの。皇帝となったロゼッテを、サライも、ソードとフィリシア夫妻も懸命に支えた。
 けれどそれでも、ロゼッテの心の孤独は癒されなかった。何かに憑かれたようにバロック大陸にまで侵略の手を広め、最後まで抵抗したチェスアトール王の首を刎ねて見事世界統一を成し遂げたその後も、彼が恐ろしいまでの力でもって帝国世界を作り上げ纏めたのは事実だ。
 彼が帝国世界の基礎を作り上げる。それと同時に、神が選定者に選定紋章印を授けて皇帝を指名させるという儀礼の方も出来上がっていった。シェスラートがロゼッテの選定者であることは、この原理から言えば特例だ。選定者は皇帝に殉じるものだというのに、シェスラートはロゼッテに皇帝位を預けてそのまま死んでしまった。
 神聖悲劇時代の帝国成立に関する事は、文字通り秘話だ。当事者以外誰も知らないし、例え聞いたところでそれぞれの命運を決定づけた彼らの感情の流れなど理解できはしまい。
 それは厳密に言えば今と同じであり、実は全然違う別物とも言える。神が皇帝を選び出し世界を統治させるというやり方を確かに初めに世界に打ち立てたのはロゼッテ=エヴェルシードだ。しかし彼とシェスラートの関係と、今までの皇帝と選定者たちの関係は違う。
 それが、不思議でならない。神は何故そんな風に、ロゼッテが帝国を作り上げるのと同時に世界の方針を定めたのか。何故、解放軍が、いやゼルアータが行動を起こす前の初めから、そうして世界を定めていてくれなかったのか。
 初めから神が全てを決定していてくれれば、そんなことにはならなかったのだ。運命はそんなものよと決定づけられていれば、誰もあがき苦しむことなんてなかったのに。いや……。
「むしろ、それこそが狙いだったというの?」
 草木深い道を歩きいつかのように辿りながら、サライはひとりごちる。
 初めから人間たちに全てを与えはしなかった神の行い。我らは試されていたのだろうか。何をすべきだったのかと。それとも。
「私たちが、運命を選べるというの」
 明日の運命を決めるのは今日一日の行いだ。けれどその日一日の行いで世界は変わるものなのか。
 例え神がそこにいたとしても、運命は……。
 そこでハッとサライは気づいた。
「だから、ロゼッテでなければならなかったの」
 だからシェスラートの死は必要だったとでも言うのか。
「……何だかね。私もちょっと困ったものだけれど、やっぱり重ねてしまうものだし」
 これまでに何度でも同じことを考えてきたはずなのに、今日ほどするすると糸を解くように頭が働いたことはない。これは、やはりあの二人のせいなのか。
 シェスラートの生まれ変わりであるロゼウス。
 ロゼッテの生まれ変わりであるシェリダン。
 生前の、あの悲劇の前の二人をどこか思い起こさせるような二人。本質は共通するものがあるのに、表に出てくる面は正反対で。
 それを考えたとき、ちくりと何かが胸を刺した。それは得体の知れない不安のようなもの。
「まさか……」
 サライの遠い視線の先には、廃教会で休むシェスラートとジャスパーの姿があった。

 死者は連れて来れないのよ。
「だが、それでも身体だけは持ってくるべきだったな」
 シェリダンが厳しい顔をしている。他の面々も似たようなもので、皆一様に険しい表情でその紙面を覗き込んでいた。
 ヴァンピルの一部は、使い魔と呼ばれる蝙蝠を使う。ジャスパーから届けられたその使い魔蝙蝠が運んできた伝言は、いたって簡潔なものだった。

 ウィル=ローゼンティアの命が惜しければ、シェリダン=エヴェルシードを差し出せ。

 かつて始皇帝と呼ばれるはずだった男との、因縁の対決が迫っていた。

 ◆◆◆◆◆

「指示は明日ね。わかったわ。送って行ってあげるわよ」
「まだ何も言っていませんが」
 誰が何を言う前に、まずデメテルがそう言った。しかし、世界で最も優れた頭脳を持つはずの彼女の言葉も、それが一番賢い選択肢だとは思わせなかった。思わず反論しかけたシェリダンの視線を、デメテルはスイと伸ばした指先で補正する。
 ここでウィルを見捨てるならただではおかない、と。そういう顔をしたアンリに。
「……」
「どうやら選択肢はないようよ。エヴェルシード王」
「別にまだ、見捨てると口にしたわけでもありませんが」
「じゃあ助けに行くのね」
「ウィル王子がどうなろうと私の知ったことではない」
 冷たい言葉にカッとしかけたアンリを、ロザリーが飛びついて引き留める。その間にシェリダンは宣言した。
「他の誰が何を考えていようと知らないが、ロゼウスは私のものだ。私は私のものを取り戻しに行く。それだけだ」
「そのついでにまぁ、ウィル王子とかジャスパー王子も盗って来るんですよね。なんたって我らの国エヴェルシードは、『戦って奪え』の国ですから」
 シェリダンの言葉の後を、それまで大人しく話を聞いていたクルスがにっこりと引き取る。呆気にとられたアンリに向かって、この日のために反逆者と呼ばれていた侯爵は言った。
「僕たちエヴェルシードの人間は、決して他人のためになんて動きません。自分で望み、自分で選び、自分で決めます」
 エヴェルシードの前身であるザリュークの民は、暴虐の大国ゼルアータによって搾取され続けたもとは敗者の国。少しでも隙を見せれば全てが持っていかれる強者の法律がまかり通る世界の中、生きる事は戦いそのものだった。
「いつかこんなことになるような気はしてましたが、ついにロゼウス様と全面対決ですね。シェリダン様、どうします?」
「どうもこうも。ロゼウスは私のものなのだから、取り戻す。もともと奴に選択権などない。拒むなら首に縄つけてでも引きずってくるまでだ」
 もともと、やられっ放しで大人しく引き下がるような面々ではない。
 過激な台詞を吐くシェリダンと、そんな彼をにこにこと見守っているクルス、エチエンヌ、ローラ、リチャードの四人。デメテルは口を挟む気はない様子で、アンリ一人がまだ呆然とした状態だ。
「ちょっと、どうしたの兄様? 大丈夫? これ何本?」
「あ、ああ。ロー。指は二本だ」
 ロザリーに話しかけられて、彼はようやく我に帰る。我に帰ったことでようやく、自分が混乱しきっていることを知る。
「~~~~~ったく」
「どうした? アンリ王子」
「あんたらなんでそんな堂々としてるんだよ……ロゼウスが、始皇帝候補の生まれ変わりだとか、シェリダン王、あんた自身が始皇帝の生まれ変わりだとかいろいろ言われてんのに」
「何しろ実感が湧かないからな。それに、ここでそれに悩んだところで事態が好転するわけでもないだろう。ロゼウスのことを差し引いてもカミラやドラクルや、問題は山積みなんだ。原因がわかっていることはさっさと解決するに限る」
「だからって……」
 あまりにもこれはこう……軽くないか? そんなアンリの疑問を読み取って、シェリダンは薄く笑う。
 それは穏やかな春のような微笑だった。
「!」
 軽薄そうに見えるが実直、軽いように見えて実は常識人であるアンリは、ドラクルほどの苦難もない代わりに王家の中ではそれなりに苦しんで生きてきた。今だってそうだ。先程の話を誰がどれだけ理解して意識しているのかこの様子では定かではないが、少なくともその全貌を真摯に受け止めて悩んでいるのはアンリだけのようだった。
 どうして誰も彼も、こんなに余裕の表情をしているのだろう。
「あんたたちには……怖いものとかないのか?」
 アンリにはよくわからない。相手はあのロゼウスであり、しかもあの可愛かったはずの弟は次の皇帝なのだという。更に厳密には敵は本当の彼自身ではなく、その肉体を乗っ取った前世の吸血鬼なのだとか。その吸血鬼も前世で始皇帝と因縁があった、それ以上の力を持つ存在で。
 簡単に聞いただけでも、事態はすでに彼らの手に負えないところにあるのではないか。なのに何故、シェリダンたちはこんなにもあっさりとしていられるのだろう。
「怖いものがない?」
 アンリの問に、シェリダンは不思議そうな顔をして答えた。
「怖いものだらけだ。私は」
「え……」
 皇帝とは神の代行者。対して、こちらはアンリやロザリーなどヴァンピルもいるとは言え、ほとんどがただの人間。現皇帝であるデメテルは次代皇帝であるロゼウスのことには口出しできないらしく、傍観を決め込むつもりだという。
 次の皇帝と呼ばれるだけの力を持つ存在と対峙せねばならないというのに、何故ひ弱なただの人間でしかないはずの彼らはこんなにも堂々としているのだろう。
(いや……)
 疑問を掘り進めるうちに不思議がる気持ちの根源に知らず爪を立ててしまったアンリは、そのザリリとした嫌な感覚にそれ以上考えるのを止めた。しかし、探り当ててしまった発掘物の一つはここまで来たらまた元通り埋められはしないと言わんばかりに、彼の心の表面へと浮かび上がる。
(彼らが強いんじゃない……俺が弱いんだ)
 やめろ。考えるな。
 少なくとも今はまだ、その時じゃない。
 気づいてしまったその心に暗いものを押し込めて、アンリはなんとか顔を上げた。
「……どちらにしろ、ウィルを助けなきゃいけないんだ。それにロゼウスと、ジャスパーとも話をしなきゃならない」
「そうよ、アンリ兄様」
 ロザリーがアンリの横に並び、その手を握った。彼よりも十歳年下の妹の方が、よほど強い眼差しをしている。
「もうしばらく力を借りるぞ、エヴェルシード王」
 しばらく、その言葉に果たして今の時点ですでに意味があるのかどうかも疑わしいが、アンリはそう言った。
「ああ。もともとこれは、私が売られた喧嘩だしな」
「ウィルは俺たちが助け出す。ロゼウスだって俺の弟だ」
「ウィル王子とジャスパーに関しては知らないが、ロゼウスのご指名は私だ」
 とりあえずそんな形で、アンリとシェリダンのこの場での静かな対決はいったん閉幕となったようだ。
「話は纏まったところで、じゃあ明日移動するのね。今日はもう解散しましょう」
 デメテルがそう言った。
「そういえば皇帝陛下、少し気になっていたのですが」
「何? まだ何かあるの?」
 これでようやく終わり……いや、明日を思えばむしろこれからが始まりにすぎないのだが、とにかく頭を疲れさせるだけの話し合いなど終わりだと一同が安堵しかけたところで、これまで無害な無表情で部屋の隅に控えていたリチャードが声をあげた。
「あの魔術での移動のことなのですが。確か皇帝にしか使えない方法があるのだと仰っていませんでしたか?」
「ああ。そんなことも言ったかしらね」
「どういうことだか、少し伺ってもよろしいでしょうか。いずれは皇帝になるというロゼウス様の相手をするにも、情報は多いに越した事はないと思うのですが……」
「まだ必要はないと思うわよ? とりあえず、私は明日は死なないわ。そのぐらいはわかっているもの。そして私が死なない限りロゼウスは皇帝にはなれない。まだ皇帝の力は使えない。むしろその方が厄介だと言えるかも……」
「どういう意味でしょう?」
「皇帝は万能ってよく言われるでしょ? でも、あなたたち聞いたことがある? 皇帝が死人を甦らせたって話」
「そういえば……」
 全知全能の力を持つという皇帝のはずなのに、死者を蘇らせることができるとは一度も聞いたことがない。
「皇帝の力っていうのは、一言で言えば『真理を知る』こと」
「真理?」
「ええ。そう。つまり、この世って言うのは定められた熱量が常に保存されている世界であり、皇帝はその熱量を計算することによって人が《奇跡》と呼ぶ様々な現象を引き起こすことができるのよ。だからこの計算ができえるものが皇帝と呼ばれるの」
「?」
 デメテルの言葉に、思わず室内の彼らは一様に疑問符を浮かべて口を噤んだ。彼女が何を言っているのか、さっぱりわからない。
「ん~~どう言えばいいのかしら。だから……この前あんたたちをこの皇帝領に連れてきたっていうのも、厳密には連れて来たわけじゃないのよね。ハデスみたいに直接空間を移動したわけじゃなくて、私がすでに把握していたあんたたちの命とか意志とか身体とかそういう熱量の存在する座標をあの場所からこっちに一瞬で書き換えた、というのが正しいのよ」
「何が何やらさっぱりです……」
 彼女の言葉に追いつけず、彼らはすでに理解を諦めた。もともとたいして期待していなかった様子のデメテルも、そこで説明を放棄する。
「真理ってのは神様のようなものなのよ。人間の手には絶対に入らない。だから、皇帝は万能でありながらその力を制限されるの。皇帝は全ての計算式を知っているだけの人間で、私にもできないことはあるから……とにかく、ロゼウス王子の戦闘力だとかそういうことに関しては、あなたたちが知るそのままだってこと」
 最後の方はもう説明する方も聞く方も相互理解を諦めているのでぐだぐだになってしまったが、とりあえず彼女の言葉によって、まだ皇帝でないロゼウスはいきなり彼らの誰も知らないような変則的な攻撃を仕掛けてくることはないことだけはわかった。
 だから、体術、剣術、魔術と言った……予測できる範囲ないでならどんな変則的なことも仕掛けてくるだろうと思えるのが悲しいところだが。
「他に何か質問は?」
「皇帝陛下、あの―――」
「なぁに? シェリダン王」
 一つだけデメテルに聞こうとしたことがあり、シェリダンは思わず声をあげかけた。しかし、いざその黒い瞳に出会うとなると、何故か言葉が出てこなかった。
「いいえ……何でもありません」
「そう? じゃあ、今日はもう明日に備えて休みなさい。あんたたちがロゼウスをなんとかできないと、ハデスがまたあの子に関わって困るのよ」
 情報源として利用されながらも、そちらはそちらでシェリダンたちを利用する気満々のデメテルの言葉を合図に、一同は今度こそ本当に解散する。
 しかし、シェリダンの心には、一欠けらの何かが突き刺さっていた。それが何なのかまでは、まだ今のシェリダンにはうまく言葉という形にできない。
「ロゼウス……」
 知らず零れた名が、不安の只中にある。
よくない感じがする。戦場に出る前のこういった予感は存外当たるものだという経験が尚更シェリダンの焦燥を募らせる。
 胸の奥に引っかかっている不吉な言葉。

 ――皇帝は死者を蘇らせることができない。

 そして吸血鬼は、死者を蘇らせることができる。