荊の墓標 33

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 そして、呆気なく勝負はついた。
「ぐっ!」
 肌に爪が食い込むほど肩を強く掴まれて、ダンッと地面に叩きつけられる。衝撃と共に息がつまり、あばらが軋んだ。
 周囲を取り巻く炎の檻の勢いは衰えるところを知らず、けれど地面はすぐ側でこれだけの業火が燃えているとは感じさせない常温を保っている。どうやらシェスラートが意識的にそうなるよう調節しているらしい。ヴァンピルは炎に弱いのだという。けれど彼ほどの実力者であればその身一つを結界で守ることなど容易いだろうから、きっとこれはシェリダンをも含めての配慮なのだろう。煙も火の粉も全く流れてこない。
 長く、少しずつ、じわじわと彼を甚振るための。
「まだだ……」
 暗い灰色の空に、炎が燃えている。それを背景に、白い姿がゆらりと立つ。
「まだ……まだ、足りない」
 一度離した腕を再び伸ばして、シェスラートはシェリダンの前髪を掴んだ。苦痛に白い面を歪めるのを無視して、無理矢理顔をあげさせる。ぶちぶちと乱暴に掴まれた髪が引き抜かれる音がした。
「こんなものでは……まだ……」
 美貌の吸血鬼の口調は、人一人責め苛むこの瞬間にも淡々としている。その凪の水面のような穏やかさとは裏腹に、細い手足が繰り出す攻撃は機敏だ。
「がっ!」
 どこもかしこも痛めつけられて、体中の力はすでに抜け切っている。その脱力状態は良かったのか悪かったのか、鳩尾を鋭く蹴り上げた一撃にシェリダンの身体はさしたる抵抗もなく地面を擦るようにして吹っ飛んだ。新たにできた擦り傷から流れる血など気にも止まらないくらい、鳩尾への蹴りは衝撃的だった。横たわったままくの字に身を折って咳き込む。
「ぅ、ぐ……げほっ」
 鈍痛と鋭痛の両方を身体のあちこちで味わう。呼吸が荒くなるのに、肺までも痛くてろくに息ができない。意識が掠れそうになる。
 強い。
「こんなもので終わりか?」
 強い。
「もう、立つ気力もない? 軟弱だな?」
 その魂は始皇帝候補だったというシェスラート。そして身体は次期皇帝ロゼウス。どちらにしろ相手はこの世で最強の存在、皇帝であるということだ。
 強い。
 強すぎるほどに強い。ただの人間ごときに、敵うわけがない。彼に命を狙われた時点でこうなることなどわかっていただろう。しかも相手はこちらを憎んでいる。
「俺の恨みは、こんなものじゃ晴れないよ? ロゼッテ……」
 激しい痛みに遠のきかける意識を懸命に引きとめながら、シェリダンは考えた。けれど諦め悪いそのくせが、思考を勝手に続けさせる。
 そうなのだろうか?
 本当に? 憎まれているのは私なのか?
 シェスラート。ロゼウス。シェスラート。
 ロゼウスは私のもの。呪うようにシェリダンはそう繰り返す。呪うように――祈るように。
 ロゼウスに関してのことなら、その責を、痛みを、全てを負うのは自分であるべきだ。しかし今目の前にいるのは誰だ。
 シェスラートなんて知らない。
 自分が必要なのはロゼウスだけだ。譲れないそれだけを口にしようとせめて唇を動かしかけたその時――。
 ドスッ
 鈍い音が、身体の中心辺りで聞こえるのがわかった。肉を裂く音。しかし骨も内臓も極力傷つけず、ただ刺しただけ。理解したその瞬間にも灼熱のような痛みが生まれる。
「――ッ!」
 剣で串刺しにされたその苦痛に声にならない叫びをシェリダンが上げる中、またしても淡々とした声は降ってくる。
「足りない。まだ……」
 ずる、と身体から何かを抜き取られるような不快な感触と共に、鉄の刃が傷口から引き抜かれる。栓を失って腹部の傷から、先ほどのウィルのように溢れんばかりの血が流れ出てきた。剣の抜ける一瞬びくりと身体が痙攣する。
 叶うなら怒鳴りつけたかった。しかし、激しい痛みにままならない。
 シェスラートはシェリダンを一息に殺すだけの実力がありながら、彼を嬲るためだけにわざと急所を外したのだ。その分苦痛が長く続く。どくどくと心臓の拍動に合わせてその一瞬ごとに傷口から血液が流れ出していくのが、わかる。
 このままでは放っておいても遠からず出血多量で死ぬだろう。人間とは脆い生き物だ。
 けれど、このままですむはずがないこともシェリダンはわかっていた。シェスラートはロゼッテの生まれ変わりであるシェリダンを、恨んで恨んで恨んでいるのだから、可能な限り苦しめて殺すのだから、こんな程度で済むはずはないだろう。事切れる最後の一瞬まで、意識を失うことも許されず甚振られるに違いない。
 その証拠に飢えた声はまだ降ってくる。
「足りない。こんなものでは。まだ……どうして」
 痛めつけられているのはこちらのはずなのに、いっそ悲痛なほどの響さえその声に宿してシェスラートがそう言った。剣を無造作に地面に放り出して、彼はシェリダンのもとへと屈みこむ。否、膝を着いて乱暴にシェリダンの顎を掴むと、苦痛に呻く顔を自らの方へ強引に向けさせた。
「お前を痛めつければ少しずつ楽になっていくかと思ったのに、全然だ。全然足りない。こんなものではまだ満たされない」
 もどかしい苛立ち交じりの声音がかけられる。激痛に表情を歪めながらもシェリダンは何とかそちらの方を見ようとする。無理矢理とはいえ、向けられた視線が絡んだ。殺気と憎悪に瞳が煌き。
「憎い。お前が憎いよ、ロゼッテ。お前はいつだって俺から全てを奪っていくんだ。俺は何も、何一つお前に望まなかった。いや、望んだけれど、お前は応えなかった。俺はその後、お前にそれ以上の何かを求めたか? ただ、変わりなくそこにいさせてもらえれば他には何もいらなかったのに、お前はそれすらも俺から奪った」
 シェスラートの紅い瞳。
 縫いとめるようなその色に、心が軋んだ。
「憎い。誰よりも、お前が。一度は必要だと言って見せて、飽きたら簡単に棄てるのか? 優しい顔も穏やかな声も全部その日のための嘘だったっていうんだろう? お前は嘘つきの卑怯者だ」
 表情こそ微かに眉をしかめる程度。けれど彼と同じロゼウスの顔をよく見ているシェリダンには、それが痛みを堪える表情だとわかった。
「返してくれお前に奪われたものを。そうでなければ俺は満たされない。それがないと、この穴を塞げないんだ」
 満たされないと繰り返す、彼のその瞳に焦燥がある。何かが欠落した深紅。シェリダンはその色を知っていた。
 その紅い瞳は、魂につけられた深い傷口を映したような無惨な鏡。
 瞬く間に、これまでさんざん苦痛を与えられた相手に対する疑問と理解が渦を巻いて広がっていく。一つ湧き上がってはああそうだったのだと答の与えられる問の中で、ここにいてここにいない存在が叫んでいる。
 ああ、どうして!
 シェスラートの――ロゼウスのものであるその瞳に鈍い光が走った。自ら顔を向けさせたシェリダンの顎から手を離し、その代わり襟の高い服から伸びた首筋に指が触れる。
「ぅ――ぐぅ!」
 骨を折るかと思う勢いで、首を絞められた。本当に折らないのは、またじわじわと苦痛を与えるためだろう。あくまでも人間の力の範囲内で、じわじわと絞め殺していく。かに思えた。
「……駄目だ」
 その手も、すぐに離される。解放された瞬間に咳き込むと、傷がまた凄まじく疼いた。激痛に目元に涙が浮び、止める事ができない。
 咳き込みながらも、空ろなシェスラートの声を聞く。ゆるりと狂気に堕ちていくその心。
「扼殺死体なんて中途半端に醜いだけ。そんなのお前には似合わないだろう? 始皇帝様。どうせなら、とびきり残酷に、無慈悲に、醜悪に」
 シェリダンの身体の方ももう限界だ。ただでさえ出血が酷いのに首まで絞められて、意識が朦朧としているどころじゃない。気を抜けばすぐにでも別の世界へと旅立ってしまいそうな中、彼はただ一つの言葉を言うために崩れ落ちそうな精神を繋ぎとめる。
「ロゼウス……」
 相手がぴくりと反応し、ついで眉をひそめる。目の前にいるのは彼の前世であるシェスラート。けれどシェリダンは、それしかこの存在を呼ぶ名など持たなかった。
 最後の力を振り絞って視線を相手に向けると、シェリダンは精一杯の笑みを作る。額に脂汗さえ滲んだその顔はしかし美しく、唇からはただ真摯な言葉を零す。体中の力を抜いてもこの言葉だけはその限りではない。
 いつだって真剣で、彼にだけはいつも本気だった。だからこれも紛うことなき本心だ。
 全身全霊の祈りを込めて、告げる。
「私は、お前になら殺されてもかまわない」

 ◆◆◆◆◆

 忌まわしい吸血鬼。
 人喰らいの化物。
 自分たちの姿が人に近いだけに、食人の習慣がなおさら人間たちの恐れに拍車をかけるのだということを、シェスラートは知っていた。
 向けられる敵視。
 ひそひそ声の陰口。
 仕方がない。人間は吸血鬼と違って、か弱い生き物なのだから。しかもそれは彼らのせいではない。吸血鬼がその食人の習慣を変えられないように、人間も拳で岩を軽々と砕くような強さを、もともと持つようには作られなかったのだ。
彼らのせいでないことを、責めるわけにはいかない。……例え彼らが吸血鬼のことをわかってはくれなくても。だからあの頃の吸血鬼族は、大陸の端の山奥でひっそりと暮らしていた。
 その生活から良くも悪くもシェスラートを引っ張り出したのは、当時栄華を誇っていた暴虐の大国ゼルアータだった。一部の魔力を持った能力者を上手く使い、ゼルアータ国王ヴァルターは飛躍的に自国の力を増していた。それまでは人間たちの争いを横目に慎ましくも日々を送っていた吸血鬼族の日常を、直接的に壊したといえば彼のことだ。
 黒い髪に黒い瞳の、整ってはいるがどこか冷たい目つきの男。何かを諦め冷え切ってしまったような、そんな眼差しの。
 けれど、その冷たい氷の奥で燻っているものがあることもシェスラートはわかった。その瞳がシェスラートを求め、呼んだのだ。自分のもとへ来い、と。
 黒の王。
 暗黒の末裔。
 魔族であり生態から人間と違う吸血鬼族とは、また異なる理由で人間でありながら人間に差別されてきた一族の王は、酷薄だがある意味ではとても公正だった。
 本当に行くの、と泣きそうに顔を歪めて引き止める家族や一族の者たちを振り切って、その頃勢力を増したゼルアータに吸血鬼族への暴虐だけは見逃してもらう代わりにと、シェスラートは彼のもとへ侍った。
 征服者の顔の通り、あまり良い噂を聞かなかったヴァルターのもとで過ごした日々は、確かに身体的な安らかさは勿論心の穏やかさともほど遠い。けれどふとした瞬間に暗黒の王の見せる寂しげな表情は、幾度もシェスラートの行動を躊躇わせた。
 魔力持つ者が多い一族とはいえ、所詮相手は脆弱な人間。ゼルアータの傲慢な支配体制に不満を持つ国家も多い。案外かの王とその下に仕える王城の人間辺りを皆殺しにすればもっと早くにあの暴虐の大国に巣食う澱を、洗うことができたかも知れないと言う考えを実行に移せないほどには、シェスラートはヴァルターに惹かれていた。
 高慢で冷酷な、征服者の王。けれど彼の瞳に宿る孤独は、いつかどこかで見た事があるもの。彼を救うことも殺すこともできないまま時は過ぎて、王の狂気は進み、ゼルアータに虐げられた人々の不満は募り、運命の日はやってくる。
 向けられた刃。
 シェスラートにとって、ヴァルター王はどうしても殺すことのできない相手だった。
 しかしヴァルターにとっては違ったらしい。解放軍と名乗る、ゼルアータの暴虐に苦しめられかの国を憎む人々の集団が城下に攻め込む直前、ヴァルターは身近な者たちを斬り殺し自ら破滅の道を選んだ。
 シェスラートすら道連れにしようとした彼に、その時、最初で最後の抵抗をシェスラートはした。それまでどれほど身体を弄ばれても、酷い言葉に心を引き裂かれても黙って受け入れ耐えていた彼が、それだけは拒んだ。
 俺はあなたを殺せないのに、あなたにはそれができるんだな。想いは等量などではないと、知っていたはずなのに勝手に傷ついた。それを恥じる心があったから、銀髪の少女が同じように懐かしいような瞳で黒の王のことを語りだすその日まで、誰にも口にできなかった言葉。
 報われないのに捨てられないのか。そして縋る、叶わない片想いに。せめて彼がそう望んだように、その亡骸を抱いて朽ちれば少しは満たされるかと炎の中で終焉を待っているとき、ふいに光は訪れた。
 ロゼッテ=エヴェルシード。
 蒼い髪に橙色の瞳の、典型的なザリューク人。穏やかな風貌をした青年は、解放軍の首領やザリューク王家の人間であることを除けば、あるいは取り立てて特筆することのない人間なのかもしれない。
 だけど彼は優しくて……仲間である吸血鬼以外から、それは初めて得た優しさだった。あんな場所にいて王に侍り、最後は王を殺したシェスラートを、何故かロゼッテは受け入れてくれた。
 嬉しかった。
 とても。
 嬉しかった。
 その後、故郷と違って吸血衝動を抑える薔薇の花など滅多に手に入れることができない戦時下の行軍の途中耐え切れずに死体を喰らい、その姿を見られた時もロゼッテはシェスラートを見捨てなかった。ますます嬉しくて……彼を好きになってしまった。
 愚かな、今思えば本当に愚かな自分。脆弱な身体と短い寿命、それ故に強く弱い心を持つ人間に惹かれて最後に裏切られる痛みなんて、ヴァルター王の時に懲りておけばよかったのに。シェスラートはそう嘲笑う。叶わなかった二度目の恋。
 求めても拒絶されて、最初から諦めていなかったと言えば嘘になる。絶望的な想いに報われることなどなくていい。それでも好きだった。せめてその気持ちのまま、ロゼッテの側にいられれば、シェスラートはそれで幸せだったのだ。
 故郷の村の様子、ゼルアータでヴァルター王の側に侍る日々、解放軍の粗野だが気のいい連中。
 それなりに楽しく、穏やかに見える日々も争いと戦いの中も駆け抜けてきた。だけど本当の意味で満たされたことはない。
 吸血鬼族のため、仲間のためにとヴァルター王に身を売り、それすらも無駄になって今度は解放軍に。一部の人には認められたが、ロゼッテを推すというだけでなく、シェスラートを吸血鬼だからという理由で排斥したがる人間も多かった。喜びと哀しみは常に隣合わせだ。
 それでも許される限りは側で力を貸せればそれだけでいいと、ささやかな願いすらをロゼッテはうち砕いたのだ。報いてくれない彼を恨むよりも他の相手と心通じあうことができたらそれが一番いいのだと、ようやくサライと幸せを得ようとした、その後で。
 ――赦さない。
 決して、赦せはしない。
 あんな風に最後に殺すつもりならば、どうしてあの時ヴァルター王と共に死なせてくれなかった!
 お前も俺をいらないと言うんだな。泣きたい気持ちで見上げた彼はけれど精一杯の告白を断った時と同じように泣きそうで。
 あの時、どうして殺せなかったのか……。弱く脆く、吸血鬼からすれば突けば容易く死んでしまいそうに儚い、人間と言う存在。どんなに屈強な大男でもそれは同じ。流れる年月の中でいつも自分だけが一人。
 それでも生きてそばにいたかった。
 ただ、あなたの側で生かせて欲しかった。
 彼自らの手で刃を見舞われた時、襲ったのは絶望だった。必死の言葉も届かず、無理矢理ヴァルターに斬り付けられた時と同じ痛み。
 ああ、お前も俺をいらないと言うんだな。
 俺を必要としてくれる者なんて誰もいない。シェスラートはそう思う。人間とは違う吸血鬼、人ぐらいの忌まわしい化物と嫌われる存在。族長の息子としてヴァルターのもとに赴いた時は、村の者たちにも反対された。いつだって賛同は得られないで、しかしそれで事態が少しでもよくなるならと、この身を差し出すことしか彼は知らない。できない。
 ロゼッテだけは、そんなことしないと思っていたのに。
 ただ側にいたかっただけなのに。
 お互い別の相手を選び、一番近い位置にはいられずとも、それでもただ、一緒に生きていたかっただけなのに。
 生きて側にいられればそれでよかったのに。

 ロゼッテの側にいたかったからこそ、死にたくなんてなかったのに。

 どんな望みをこの胸に抱こうとも、全ては生きているからこそ。なのに彼は自分を必要とせずに拒絶しただけでなく、殺すことによって全ての未来の可能性全てを奪っていったのだ。側に居ることすら赦さず、シェスラートに与える幸福なんて何もないとでもいうように。シェスラートを選んでくれたサライの幸せさえ纏めて奪っていった。その先シェスラートができるはずだった全てのことをその手で消し去った。彼の思考構造はシェスラートには理解できない。
 いつだって本音を見せてくれなかったロゼッテ。最後の最後に早口で矢継ぎ早に言われた言葉。あれは本心だったのか。
 わからない。知る術すらロゼッテが消した。側で一緒に悩み苦しんでそれでも求め合う関係を、彼はシェスラートに求めない。一緒に生きることどころか、シェスラートの存在すら認めないのだ。それが最も傷ついた。
 だからせめて、手ひどい裏切りの返礼に今度は自分が彼を殺せば、少しは気が晴れるだろうかと……。

「私は、お前になら殺されてもかまわない」

 心のどこか望んでいたはずの言葉を聞いた時、けれど同じように魂の奥底に封じ込めて眠らせたはずのものが震えた。
「いやだ!!」
 自分ではない自分の声が悲鳴のように迸り、そしてシェスラートの意識は、彼のロゼッテに向ける憎しみを凌駕するほどの強い想いによって暗転する。

「俺は、あんただけは殺したくない!」

 ロゼウス=ローゼンティアが叫んだ。