荊の墓標 33

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 パチパチと火の粉が弾ける音だけが聞こえる赤の静寂の中で、その叫びは灰色の空を切り裂く。
「ロゼウス……?」
 瞠目するシェリダンの前で、彼はその表情を先ほどとは一転させる。血のような深紅の瞳には大粒の涙が溜まり、髪と同じ白銀の眉が、心の底から傷ついたように下げられて。
 強いように見える彼の、本当は脆い心の奥底を見せた姿――ああ。
「ロゼウス……お前なんだな」
 一度強く瞳を閉じ、ロゼウスはこくりと頷いた。俯いた拍子に目元に溜まった雫が零れて頬に炎の照り返しを受けて輝く紅く輝く光の筋を描く。
「シェリダン……」
 シェスラートは彼をシェリダン=エヴェルシードとしては見ない。その唇からは久しく呼ばれることのなかった自らの名を聞いた時、シェリダンの胸に言葉にならない感情が広がった。
「ロゼウス、お前――」
 たまらず開こうとした口を、けれど思ってもみなかった言葉に塞がれる。
「どうして、あんなことを言うんだよ!」
 これまでの儚げな表情からさらに一転して眉を吊り上げたロゼウスがシェリダンを怒鳴りつける。言われた方は訳がわからずに、思わずその凛々しい面差しに似合わぬきょとんとした無防備な表情を見せてしまった。
「俺になら殺されてもいいなんて……俺に、お前を殺させるなんて!」
 大きな瞳をさらに大きく吊り上げて憤慨するロゼウスの瞳からは、しかし同じように流れ続ける涙もよく見えた。怒りながら泣いている彼のそのどちらの感情も、ただ一人シェリダンにだけ向けられたものだ。
 シェリダン=エヴェルシードにだけ。
「俺は……あんただけは殺したくない! 他の誰を殺しても、お前だけは……」
 シェスラートがシェリダンの首を絞めるために近づいた距離は近い、すでに息も絶え絶えな彼の傍らに座り込んだロゼウスはその肩に手をかけながら震えている。ロゼウスの細いが力強い指に掴まれた部分の服に皺ができる。
「ロゼウス……」
「生きていて。お願いだから……頼むから、生きていて……」
 滑らかな頬を滑る透明な涙。炎の紅を受けて染まる紅涙は血を思わせる。
 脆く弱い人間、命永いヴァンピルからすれば、儚いほどに短いその寿命。
 死に急がなくたって、いつか別れの日は来る。けれど、こんな形でそれを望むわけじゃない。
 強さはある。多少のことでは、生半な相手にはやられはしない。危うい破滅願望を見せながら、その裏に生きる意志もある。あると思っていた。
 だけど、シェスラートの意識を通してシェリダンのあの微笑を見たとき、ロゼウスの中で何かが弾けた。甦りの力を持ち、特にその能力の強いノスフェル家の者であるロゼウスにとってはいつもどこかで薄い膜一枚を隔てていた死の実感が、急激に襲ってきた。
 怖い。
 死は怖い。死ぬのは怖い。
 自分が死ぬのはどうでもいい。ただ、シェリダンが死ぬのが怖い。彼を永遠に失うかと思うだけで、気が狂いそうになる。
 それだけは何があっても許せないし、赦せない。例えシェリダン自身がそれを許し望んだとしても耐えられない。
 ましてや、自分が彼に手をかけるなんて。
「お願い……お願い、死なないで……嫌いになってもいい。俺を殺してもいい。あんたがどんな酷い人間になっても俺がどんなに酷いやつだと言われようとも構わない……他には何も望まない……生きていて」
 それだけだから。願うのはただ、その一つ。それさえ叶えばあとのものは全部諦めてもいい。これ以上に欲しいものなんてない。願うことなんてない。
 シェリダン以上に大切な存在なんてない。
 弟のウィルは見捨てたくせに、と罵られてもロゼウスは構わない。なんて酷い男だ、自分で自分の薄情さはわかっている。それでも。
「愛している……本当に。だから、生きていて」
 愛しているからあなたに生きていてほしいのだと。
 情と言うよりもむしろ純粋に自らの欲から出た言葉。だからこそ重みがある。
 しかし、ロゼウスが自由に言葉を紡げるのもそこまでだった。
「ぅ……うう!」
 突然、彼は自らの手で顔を押さえながら苦しみ始めた。それまで涼やかだった白い顔のこめかみに汗が浮く。
「黙れ……ロゼウス、黙れ……」
 兄と信じていた相手に長年虐待され続けたせいか、ロゼウスの心はどこか未発達だ。それまでは自覚していなかった事実を、ロゼウスもシェリダンに指摘されてようやく気づいた。彼の心は、いまだ弱い。
「弟は見捨てといてこの男だけは生かしたいなんて……大層な御身分じゃないか……」
 脂汗を浮かべて苦しみながらもせせら笑うその表情はロゼウスではなく、シェスラートのものだ。精神的なものはロゼウスよりも彼の方が強い。再び、ロゼウスの意識は前世の人格であるはずの彼に乗っ取られようとする。
「ロゼウ……ス、ッ!」
 変化に気づいて彼の名を呼んだシェリダンは、起き上がろうとして動いた拍子に走った激痛に息を止めた。あまりの驚きに忘れていた痛みが甦る。流れすぎた血がまた溢れる感触と同時に貧血で目の前が暗くなった。
「……シェ、リダン……」
 最後の力を振り絞って、ロゼウスがそちらに目を留める。いまだシェスラートと戦い続ける精神の消耗が肉体に現れ、手も足も小刻みに震えている。だが。
「!」
 横たわり瀕死のシェリダンに、ロゼウスは素早く口づける。それだけを終えると、地面に手をつくようにして一度がくりとその身体が崩れた。
「くそ……」
 毒づきながら再びその身を起こすのはもう彼ではない。
 しかしロゼウスの意識を封じ込めてその身体を乗っ取ったシェスラートは、身を起こした自らの下にいるシェリダンの様子にも舌打ちする。
 ロゼウスの最後の力で、先ほどシェスラートがつけたはずのシェリダンの怪我が完全に治っていた。従来の治療魔術では傷を塞いでも失った血液は戻らず、疲労の回復もできないはずだが、それらが完璧に成されている一段高等な魔術だ。これで事態は振り出しに戻った。
「くっ!」
 顔を歪めるシェスラートの隙をつくようにして、シェリダンがその身体を思い切り突き飛ばした。少しでも距離が離れた隙に身を起こす。武器である剣はとっくに弾かれてしまって近くにはない。
 だが彼に殺されてやるわけにはいかなかった。何故ならロゼウスは、それを望まないのだから。
 シェリダンの眼差しに宿る、先ほどとは違う光に気づいたシェスラートは苛立ちを増すようだった。美しい面を歪めながら吼える。
「忌々しい! さっさと死んでしまえ!」
「断る!」
 威勢が良いのは形だけ。シェスラートはそう判断していた。体術での取っ組み合いなら必ず自分が勝つと。
 けれど二人の距離が近づいた時に、シェリダンの腕がシェスラートの身体を引き寄せた時には驚いた。この身体では少しだけ相手の方が背の高いその胸に抱き寄せられて、思わず硬直してしまう。
もつれた足のせいで地に再び崩れる。中途半端に膝を着き座ったままの体勢で、それでもシェリダンはシェスラートの身体を抱き締める手を離さない。
「ロゼウス!」
 耳元で呼びかける声が熱く、その熱に痛みを覚える。
「戻って来い! 一度はできたことなら、次もできるはずだ!」
 決して自分の名を呼ばないその声。シェリダンと呼ばれる彼は、ロゼッテの生まれ変わりのはず。魂でそう判断して確かにシェスラートも彼をロゼッテの生まれ変わりとしてしか見ていなかったのだから人の事は言えない。だけど。
「……どうして」
 人間であれば、折れそうなほどに強くと言っていいほど抱きしめられた腕の中で力を抜き、シェスラートは呟く。それまで必死にロゼウスに呼びかけていたシェリダンがその声音に反応して、耳を傾ける。
 炎に包まれた静寂。紅い照り返しを受けるシェスラートの白い髪。シェリダンの身体は傷こそ癒えたが服は破れ切り裂かれ血みどろだ。場所はあの廃教会の前で。
「どうして誰も、俺を必要としてくれない……」
 魂の叫びは、声に出されればかように力ないものであるのか。抱きしめた姿勢を変えず腕の中にシェスラートの細い身体を閉じ込めながら、シェリダンはゆっくりと瞬きしてその声を聞き取る。
「忌まわしいこの身が、愛される資格がないことはわかってた……でも、それでも……」
 恐ろしき人喰らいの化物。吸血鬼という魔族の習性。それでありながら人の世に暮らすというこの苦しみ。人の世界にあれば忌み嫌われ、けれど同じ一族の者たちにも、ヴァルター王のもとに侍った決意と覚悟はわかってもらえなかった。
 見返りを求めていたわけじゃない。どんなに胸が痛んでも、それで仕方ないものだと思っていた。自分の身を差し出した自己犠牲などと言って酔う思惑はない。だから自分が差し出し味わった痛みに、苦しくても切なくてもわかってもらえなくても、耐えてきた。
 それでも、やはり心のどこかでは、シェスラートは誰かに認めて欲しかったのだ。愛して大切にしてくれなんて、そこまでわがままは言わない。でもせめて、嫌って蔑んでこの身を否定までしないでほしかった。
 そこにいていい、と言ってもらえればただそれだけで良かった。
「ロゼッテ……お前は最後まで、俺を信じてもくれなければ、必要ともしてくれなかった……」
 愛している。だから生きていてほしい。先程ロゼウスがシェリダンに向けた言葉はシェスラートにも通用する。愛している相手には生きていてほしい。
 けれど、ロゼッテはシェスラートを殺した。それは言葉にはされなかった一つの答。
 憎しみの裏返しは、愛と哀しみ。
 炎の熱気で一度乾いた頬に再び透明な筋が描かれる。ロゼウスとシェスラート、同じ魂を持つ二人が同じように涙を流した。
 ――わかっている。自分は吸血鬼。人の世にはこの存在自体が決して許容されない忌まわしい化物だということは。でも……
 ――ごめんなさい。兄様ごめんなさい。生まれてきてごめんなさい。俺の存在自体があなたを苦しめていることはわかってる。だけど。
 だけど、叶うなら愛されたかった。
 自己の存在を否定する裏で愛を求める醜い強欲。しかしその感情はシェリダン自身にも覚えがある。
「それでも、それでもお前が俺を嫌うと言うのなら」
 どんなに望んでも得られないのなら。
「今度こそお前を殺して、その命だけでも手に入れてやる」
 心は手に入らない。だが私がお前を殺せば、お前は私のものになるのか……?
 その感情にも、覚えがある。同時に唐突な速さで目の前のシェスラートの想いにも、彼を殺したという自分の前世、ロゼッテ=エヴェルシードの行動の理由にも理解が広まった。
そしてシェスラートの抱える矛盾にも気づいた。彼は自らの行動と感情の結びつきに齟齬が出ていることを自覚していないのだ。
 やはりロゼウスの前世だな、こんな時なのに、少しおかしくなる。そして――。
「お前は俺を愛してくれない。それでも構わない、俺は――」
「……違うんだ、シェスラート」
 声はそれまでと変わらない。だがどこか口調と抑揚が違う。え、と思わず顔を上げたシェスラートの瞳に映るのは、こちらを見ているシェリダンの橙色の瞳――。
 橙?
 それはエヴェルシード人、旧ザリューク人には当たり前の色だが、目の前の少年には当てはまらなかったはずだ。だが今確かにそこにあるのは、あの特徴的な炎の朱金ではなく、ありふれた、けれど懐かしい夕焼け空の瞳。

「ロゼッテ……」

 三千年前と同じ舞台に、ついに役者が揃ったのだ――。

 ◆◆◆◆◆

 ――頼む、代わってくれ。
 何故愛してくれない、シェスラートの悲鳴のようでいて、静かな祈りを含んだその言葉を聞いた時、心の奥底から誰かが縋るように囁きかけてくるのをシェリダンは知った。
 ――どうか。シェスラートを救えるのは俺だけだ。頼む、代わってくれ。
 「救う」という言葉は一見傲慢に思えるがその声に込められたのはむしろ痛いほどに強い贖いの気持ち。まさか私ごとその命を差し出すなどと言うつもりではないだろうな、と思いつつそれでも声の必死さには抗えなかった。
 ――代わってくれ。どうか。
 言い残した言葉がある。どうしても伝えたい言葉がある。声の調子からからそのことが伝わってきた。それを、酷く後悔していることも。
 他人に意識を明け渡すなんてまっぴらだ。
自分は例え心が切り刻まれ血を流そうとも最期まで自分でいる。思想は命よりも重い。そこまで考えるシェリダンにとって、それは本来なら到底受け入れられないはずの頼みだった。
 だが。
 ――仕方がない。少しだけだぞ。
 そんな風に思った瞬間、落ちていく自分の心の代わりに誰かが浮上してきた。

 ◆◆◆◆◆

「……シェスラート」
 自らの名を呼ぶロゼッテの声を、シェスラートは信じられない思いで聞いた。自分とロゼウスと違って、体格が良く雄々しい男だったロゼッテと、妖艶さと清らかさを併せ持った美少年であるシェリダンに、容姿の相似はほぼないと言っていい。それでも瞳の色が、何よりそこに浮かぶ光が、彼が紛れもなくロゼッテ=エヴェルシードであることを示していた。
「ロゼ……お前、どうして……」
 炎の熱風に髪を揺らされながら、シェスラートが呆然と問いかける。二人の距離はいまだ抱きしめあったままだ。お互いの睫毛の長さまで見て取れる近さで、その顔を悲しげな色に染めながらシェリダンの身体に甦ったロゼッテが口を開く。
「……逢いたかった。シェスラート」
 諸々の事情や経緯に関する疑問も興味も感慨も、その言葉に散らされる。
「どの面さげて、そんなこと!」
 できるなら思い切り殴りつけて怒鳴りつけたかった。
 もとのシェスラートの身体と比較しても遜色のないロゼウスの身体能力。彼が全力で殴れば、人間など呆気なく血の詰まった袋に代わるだろうという力。シェスラートの思ったとおりに殴っていれば、今頃転生者の身体を借りたロゼッテとの会話は成立しなかっただろう。だが。
 実際に動いたのは口だけだった。それもほとんど戦慄いて声が揺れ、迫力など全然ない。
「わかっている。俺にそんなことを言う資格がないことは……でもこれだけは、本当だ。お前に逢いたかった、シェスラート」
 そして彼は瞳を閉じて口を開き。
「愛している、シェスラート」
 瞼の裏に映るシェスラート本来の面影と腕の中の魂の波長を重ね合わせて、告げる。
 シェスラートが目を見開く。
 鳩の血色の瞳が、ロゼッテの表情を映しこむ。
 その色づいた果実のように紅い唇が、震え。
「ふざけるな!」
 殺すほどの力ではない。だが強く、彼の華奢な見た目どおりほどの力で突き飛ばした。
「ふざけるな……! 今になって、何を言い出す! お前が……お前が俺を殺したんだろう!?」
 愛しているというのなら、どうして自分を殺したりしたのだ。シェスラートには、まったくもって理解できない。
 だが突き放されて距離が開いたにも関わらず、ロゼッテの瞳は変わらない。彼はシェスラートを、シェスラートだけを強く見つめ続ける。
「ああ、そうだ。俺はお前を殺した」
「!」
 てっきり生前のように言い訳をするものだと思っていたシェスラートは、開き直ったようなロゼッテの言葉に驚く。言い訳されたらされたで怒りを覚えただろうが、予想通りに進まなかったこともそれはそれで忌々しい。
 ロゼッテは言葉を続ける。
「俺はお前が欲しかった。だからお前を殺した。俺はそんな方法しか知らなかったから。それを……今では愚かだとは思っている。だがそうまでしてお前を手に入れたいとあの時の俺は思っていた。そのことは、もう否定しない」
 悲しげな苦しげな、言葉で言い表せないような表情であの日シェスラートの細い体を剣で抉ったロゼッテ。
 そんな顔をするなら何故……、そんな風に思わなかったわけではない。迷いや戸惑いを捨てきれないロゼッテのその表情が受け入れられなかった。
 優しいけれどともすれば優柔不断。解放軍首領であるくせに押しに弱い。そんなロゼッテの姿は、時折彼の仲間を不安にさせた。シェスラートが皇帝になるという予言をサライが出した時にもとのリーダーであるロゼッテではなく彼の方を指示した一派がいることは、そう言った理由も関係していた。
 それでも最後の最後には様々な人々の意見を取り入れた決定案を自ら作り出すロゼッテの姿は指導者としてのあるべき理想だったが……その彼がたった一つだけ明確な答を出さなかった問題がある。
 それはシェスラートへのこと。
 結局あなたはシェスラートを愛していたのですか? そうではないのですか? それは彼の元婚約者であるフィリシアと後に結婚して夫婦共々ロゼッテに仕えた腹心であるソードにもわからなかったらしい。
 シェスラートが彼を恨んだまま死に、死してなおその恨みを捨てられないのも無理はないと言える。
 だがそれから三千年経った今、ロゼッテはようやくその心の内を、はっきりと言葉に露にした。
 シェスラートが死んだのは、皇歴が始まる前。本来皇帝になるはずの運命を持っていた青年は、その役目を最も愛し憎んだ、自分を殺した男に無理矢理託して死んだ。
 そしてその後、ロゼッテはシェスラートに押し付けられたその皇帝の職をよくこなしたのだ。これ以上失うものもなく、シェスラートが最期にかけた呪いによって三百年以上もの寿命を得たロゼッテ。鬼気迫る勢いで計画を遥かに超えた早さで二つの大陸を統一し、世界帝国アケロンティスを築いた。
 ロゼッテの人生において、シェスラートと過ごした日々よりも彼が死んだ後の方が長い。シェスラートを決して忘れることなどできるはずもないのに、シェスラートのいない日々を過ごした。
「お前にとってどう思われようとも、俺は、お前を愛している」
 言いながらロゼッテは一歩を踏み出す。シェスラートがぴくりと反応するが、後退しようとした足はそこが自らの魔術によって作られた炎の檻の中だと気づいた。迂闊に逃げる方が危ない。
そして一歩一歩ゆっくりと、ロゼッテはシェスラートに近づいてくる。
「愛しているよ。シェスラート。言葉にすることなどできなかった。好きだといくら口で言ってもこの想いをお前に上手く伝えられなかったし、お前は俺を信じられなかっただろう。……俺がお前を信じていなかったから」
 あの時のロゼッテはたぶん、ただ好きだという言葉を免罪符に自らの弱さをシェスラートに押し付けただけ。
 それを感じ取っていたからこそ、シェスラートもあの場面になって「好きだ」という彼の態度を信用できなかった。
 強い執着、上手く言えないけれど確かに気になる。その瞳が自分以外の誰かに向けられるのが気に入らない。サライと共に笑い合っている姿を見ると、胸が痛んだ。
 だけどそれは、愛ではなかった。幼い独占欲は、愛などと言えるほど高尚なものではなかった。
「それを、お前が死んでから……お前を殺してから知った」
 一度は死ぬほど後悔してみなければ、知る事ができないことはあるだろう。
 一度は殺したいほど誰かに強い想いを抱かねば、わからない境地もあるだろう。
 けれど、それでもその過ちは大きすぎた。他でもないシェスラート自身に皇帝の役割を与えられた以上あとを追って狂うことすらできないほどに、シェスラートという存在はロゼッテの人生に影響を及ぼした。
「シェスラート……あの頃の俺は、お前を殺せばお前が俺のものになると思っていた」
 幼い、と言うには齢を重ねすぎていたが、少なくとも大人ではなかった。どうしようもなく愚かだった。
 ロゼッテの両親は、父親が母親を殺した後自害するという末路を辿った。浮気な母を手に入れるには、父にはそれしかなかったのだ。だからロゼッテも愛する者を手に入れるには殺すという方法しか知らなかった。婚約者であったフィリシア相手には思わなかったそんな感情を起こさせたというほどには、シェスラートに向ける想いは強かったのだろう。だがそんなのは言い訳にすぎない。
 ゆっくりと歩み寄ってきたロゼッテが再びシェスラートに触れる。細い肩をつかみ、向き合って瞳を覗き込む。
「シェスラート……お前を殺した後、俺は皇帝になった。そして、世界を治めた」
 シェスラートがそう望んだからだ。だけど。
「お前のことを一時も忘れたことはなかった」
 三千年越しの告白がなされる。
「何をしていても思うのは、考えるのはお前のことばかり。お前の髪お前の瞳お前の肌お前の身体。その外見も性格も初めて出会った時のことも最期のあの日のことも、何度だって繰り返して思い出した。酒や女や享楽の限りに溺れるなんてものじゃない、そもそもそんなことを試してみようとも思えないほどにずっとお前のことばかりを考えていた。俺が生きているのはお前を思うためで、俺が皇帝になったのはお前の遺した言葉に従ったからで、俺の信用した仲間はお前を知る連中で、俺が作った全ての建物も法も全部お前のことを考えながら、お前だったらそうするだろうと思いながら作ったものだ。お前の同胞である吸血鬼族に逢うたびにお前と関係がないか確かめお前の面影がないか探さずにはいられなかった。お前に繋がるものは何一つ処分できずに血の染み付いた剣すらそのまま残していた。生きることの全てがお前に繋がっていた。死にたいと一番強く思うのはお前を思い返すときだった。お前は魔力を使い果たして死ぬんじゃなくほとんど自らの意志で死んだようなものだからその消滅は緩やかだった、お前の身体が少しずつ灰になっていくその様を俺は三日三晩ただ見つめていた。柩のいらないお前の骸たる灰を瓶に入れていつも懐に持っていた。お前を知る仲間たちから聞き集めた情報で、何をするときもお前の望むような行いができるように常に気を張っていた。サライのことはもちろん、お前がもともと愛していたヴァルター王ですらもういないのに俺はずっと嫉妬していた。俺の中で一番はっきりしているのは最期の時に俺を赦さないと言ったあの言葉、あの言葉を何度も何度も反芻した。お前の笑みも俺を呪う声も何もかもが俺を苦しめた。お前を思いお前に繋がる全てが苦しいのに俺はそれを求めずにはいられなかった。俺の生きる時間の一瞬一瞬にお前は存在していた。……ようやく気づいたんだよ、シェスラート」
 相手を殺せば、自分のものになるのか? その問はずっとロゼッテの胸の中にあった。どうすれば愛しい人を永遠に、誰に奪われることもなく手に入れられる。どうすれば。
 殺せば自分だけのものになるだろうと思い、ついにはそれを実行してしまった。シェスラートがそれをどう思うかも考えず短絡的に自らの浅はかな慾望を遂げ……だが彼のいない日々を過ごすうちに気づいてしまった。
「俺がお前を永遠に手に入れたんじゃない」
 愛していた。だから、永遠にあなたを手に入れたかった。自分のものにしたかった。誰にも渡したくなかった。だけど。
「お前が俺を永遠に手に入れたんだ」
 シェスラートは永遠になったけれど、その存在はロゼッテ一人のものではない。サライはもちろん、ソードもフィリシアも彼を覚えていた。殺してもシェスラートはロゼッテだけのものにはならなかった。
 囚われたのは、むしろロゼッテの方だった。
 何をしていても思い返すのはシェスラートのことばかり。存在の全てをシェスラートに縛られていた。三百年もの間、ロゼッテはシェスラートだけのものだった。他の誰も目に入らない。
 殺してしまい、どんな言葉を発してもそれが返って来ることがないからこその永遠。嫌いになるどころか、諦めることもできない。
 本当に、なんて、愚かだったのだろう。
「愛している、シェスラート。今度は嘘じゃない」
 三百年かけて出した答の全てを、お前に捧げる。
「ロゼッテ……」
 ぽろ、とシェスラートの紅い瞳から涙が零れた。
「俺も……お前が好きだった。好きだったからこそ、殺されて悲しかった。お前も俺をいらないっていうのかと」
「違う。愛していた。今も……愛している」
 そうすることで何を得られるというわけでもないのに、ただ愛している。それだけ。
 たったそれだけのことが、ずっと欲しかったのだ。シェスラートも、ロゼッテも。
「――ぁああああああ!!」
 ロゼッテの腕の中で、シェスラートが崩れ落ちた。追うように膝を着いて、ロゼッテがシェスラートを抱きしめる。
 地に手をついてシェスラートはむせび泣く。欲しかった真実がようやく手に入ったはずなのに、それでも満たされない。理由はわかっていた。
 どんなに言葉を尽くして愛を語っても、彼らは本来死んでいるのだ。この世に残っていてはいけないはずの存在。破滅願う復讐すら虚しかったが、今更愛を得たところで何になろう。
 もうどうしようもないのに。
 三千年にわたる擦れ違いにようやく決着をつけた今だからこそ思う。やっと実感できた。
「俺たちは……」
 どうすればいい。どうすれば……。
 その時、炎の檻の内側にいるはずの彼らの傍らに、一つの人影が姿を現した。