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「やれやれ。だからあなたたちは馬鹿だっていうのよ。男なんて、みんなそんなものかも知れないけれど」
「サライ……」
いつの間にか、炎の檻の中に銀髪の少女がいた。懐かしいその面差しに、シェスラートもロゼッテも目を丸くする。
「お前……実体じゃないな」
ロゼッテが驚いたように言う。サライの身体は、半透明に透けていた。
シェリダンたちと出会った時こそ巫女の力によって実体のようにその姿を保っていたサライだが、シェスラートたちのように転生者の器に甦るどころかそもそも生まれ代わりすらしていない。それはつまり。
「そうよ、私は幽霊。何よあんたたち、人がずっと待ってたって言うのにさっさと生まれ変わってその相手の身体乗っ取るなんて、反則よ」
「ご、ごめん」
何故それをこの場で彼女に謝るのかはともかく、その達者な口に負けて思わずシェスラートは謝った。昔から口では彼女に勝てない。シェスラートよりもっと勝てないロゼッテなどは、もう沈黙するしかないのだが。
「サライ……お前も残っていたのか」
「ええ。もちろん。どうせその子の身体を通して知っていたんでしょう?」
ロゼッテとサライが睨み合う。この二人は昔から気が合わなかった。ロゼッテがシェスラートを殺して皇帝になってからは、特に。
それでもサライはシェスラート亡き後、他の誰とも結婚しないまま皇帝ロゼッテの補佐に努めた。皇帝は神の代行者と言えども、はじめから帝国がその形を成していたわけではない。代々の皇帝たちの行動によって、少しずつ代わっていったものだ。
サライの行動によってロゼッテの治世は保たれたのも確かだ。だが彼と彼女の仲に男女の甘い空気など微塵もあるはずはなく、その様子はまるで。
「ロゼッテ=エヴェルシード……あんたは本当に最後の最後まで、どころか死んでさえ忌々しい男ね!」
サライとロゼッテは、シェスラートをとりあうライバルだ。
「俺もやっぱり、死んでからもお前は気に食わない。サライ」
射殺す……も何もすでに死んでいるが、そんなようなサライの眼光は、シェスラートの身体をしっかり抱きしめるロゼッテへと向けられている。
三千年前のあの頃のロゼッテだったら、サライからそんな視線を向けられるのに耐えられず、気まずげに腕を離しただろう。
だが彼も、こうして時を経て甦り本音を晒し、自分自身の想いと選択と向き合うことによって変わったのだ。
「だが俺はもう、お前からも、シェスラートと向き合うことからも逃げないよ。お前にはすまないが……俺は、シェスラートが好きなんだ」
「知ってるわよ。シェスラートもそうだってことも知ってるわよ。でも私もこの人が好きなのよ」
心底呆れたといった表情で、サライはロゼッテの宣言をそう流した。彼女の視線の先で、シェスラートがロゼッテのはっきりとした態度にいささか目を瞠りながらも自分でしっかり彼に抱きついているという光景が繰り返されているのだから尚更だ。
「……本当に馬鹿ね」
両想いだとわかっていたのなら、どうしてあの時もっと早くはっきりと行動しなかったのだ。サライが交じることにより多少は妙な感じになったかもしれないが、それでもロゼッテがはっきりとした態度でいたならばあんな結果になることはなかったはずだ。
けれど良くも悪くもこのアケロンティス帝国世界の歴史は、そうやって紡がれてきたものである。彼らの悲劇すら踏み台にして、人は前へと進む。
「……二人とも、もうそろそろ眠りなさい」
本当に馬鹿な男たち、サライは心の中で、三度目のその言葉を繰り返す。
「すでにロゼウスやシェリダンという、新しい命の形を得てしまったあなたたちには、当然昇天なんてものはないわ。普通ならここでそして二人は一緒に天に昇りましためでたしめでたし、ってなるところだけど、あんたたちにはそんな未来ないんだから覚悟しなさい」
シェスラートもロゼッテもそれぞれ言い分はあるとはいえ、どちらもすでに死んだ身であり、そして生まれ変わった魂でもある。転生後の人格は本来前世を引きずるものではないが、この場合は特別だ。皇帝と言うものの力は、それだけ強いということなのか。
生まれ変わった後の人生は、同じ魂ではあるが、あくまでも違う人間のものだ。それを短い間とはいえ奪って使用した罪は重い。例え彼ら本人が赦したとしても。
だから、シェスラートとロゼッテは眠るのだ。
「吸血鬼に棺桶はいらず、私はロゼッテより先に死んじゃったけれど……でも、今でもあなたたち二人の意識を元通り今の人格の最奥に封じ込める手伝いくらいはできるわ」
普通の人間であればそんな風に魂から前世の意識を目覚めさせたり封じたりすれば現世の人格に影響が出そうなものだが、ロゼウスは次期皇帝であるしシェリダンも決して心弱くはない。一度封じてしまえば後はおそらく、大丈夫だろう。
「サライ……お前まさか、そのためにそんな姿になってまで、この世に残ってたのか……?」
一度は自分の妻になったはずの人を、シェスラートは見つめる。彼女が生んだ自分の子が子孫を残しやがてローゼンティア王国を作った。つまり、ロゼウスはシェスラートの子孫だ。
シェスラートの言葉に、サライは微笑んで返した。当時世界で一番美しかった少女の笑みだ。その美貌は今の世でも子孫であるミザリーに受け継がれている。
「さぁ、そろそろ柩に釘を打ちましょう。今度こそちゃんと弔ってあげる。今度こそちゃんと、私たちは終わりましょう」
自らの子孫の身体の中に甦ったシェスラートを見つめ、サライが歌うように告げる。死んでいる者は、死んだ方がいいのだと。
「思い出を振り返るなとは言わないけれど、やはり過去に囚われては駄目よね」
「……ああ」
シェスラートは万感の想いをこめて頷く。
「そうだな」
シェスラートはロゼッテを好きになってもヴァルター王を忘れたわけではなくその存在を比較してしまったし、ロゼッテはロゼッテで両親の最期がトラウマになっていた。シェスラートを殺して皇帝になったロゼッテは文字通り永遠に彼のことに囚われたし、今ここに彼らがいること自体、サライも含めて全員が過去を後悔し囚われた結果だ。
だがやはり、転生者のその人生はその人自身に任せた方が良いのだろう。
シェスラートもロゼッテも、それぞれの生まれ変わりの言葉に少なからず影響を受けた。やはり死者の妄執と、今生きている者の覇気は違う。
だからそろそろ本当に、柩に釘を打とうと。
その昔人々の世界では、吸血鬼は棺桶で眠ると信じられていた。そうして朝をやり過ごし、再び自分たちの時間である夜が来るまで待つのだ。
けれど、彼らの眠りはただのそれではなく、死者の眠り。
せめてこの生が終わるまでは、死者は目覚めないように、その柩に硬く釘を打つべきだと。
サライが微笑んで促す。彼女の誓言に導かれて、シェスラートとロゼッテは最後まで硬く抱き合った。その終わりの瞬間にはお互いの存在を魂で感じたまま――ゆっくりと眠りについていく。
相手への言葉にならない執着も火のような憎悪も氷の愛も、何もかもが意識の奥底に沈められていく。それと同時にサライの身体も光のように輝き出し、砂のように風に乗って崩れ始めた。
三千年にわたる悲劇の結末から、ようやく解放されるのだ。
「ただ一つ気になるのは……遺されたこの子たちのことね……」
お互いの身体にもたれるようにして仲良く一時的に意識を失っているロゼウスとシェリダン、それぞれシェスラートとロゼッテの生まれ変わり。
あの時の彼らに負けず劣らず、この二人もなかなか数奇で、そして世界に影響を与える運命の持ち主だ。
さらに彼女の不安を煽ることには――似ているのだ、彼らは昔のシェスラートたちに。
もちろん性格や人格がそのままというわけではなく、むしろ表面だけ見たらまるで違う。そしてどちらかと言えばロゼッテの優柔不断さがロゼウスに、シェスラートの意地の強さがシェリダンに影響を与えている気がする。
それでもどこか、何故か彼らは三千年前の二人に似ていると感じてしまうのだ。
ヴァンピルと人間、ローゼンティアの吸血鬼と、エヴェルシード人。そして《皇帝》。
運命が絡み合い、どんな結末を連れてくるのかわからない。だから。
「あなたたちは、どうか間違えないでね」
がらがらと炎の向こうで廃教会が崩れ落ちる。彼らの魂の柩に釘打たれた者たちを除けば、歴史の奥、時代の闇に取り残されていたものたちが今、こうして消えて行く。
「あなたたちは私みたいにこんな姿で地上に残っても、さっさと生まれ変わってその相手の人生を乗っ取ったりしても駄目よ」
消えかける寸前、サライは美しく優しく微笑みながら、儚い祈りだけをそっとおいていく。
「ねぇ、ロゼッテ。特にあなたのことは私嫌いだから、そんな早くに天の国になんて、来ないでね」
長生きしてくれなきゃ、駄目だからね。
◆◆◆◆◆
炎の檻は消え、結界の向こうで廃教会が崩れ落ちる。燃え尽きていく薪のように、黒く焼かれて一瞬で風化していく。
あの建物も、三千年前の妄執に巻き込まれていたのだ。死者であるがためにこの地上で過ごすこと叶わず海に逃れていた巫女姫ともども。
その物語も、やっと終わりを迎える――迎えた。
過去に囚われ正しき生を営むこともできず、甦って罪を重ねる。死んでいるものは、死んでいた方がいいのだろう。
世界はその時生きている者のためにある。
だから。
「ぅ……う、ん」
雪のように白い瞼を震わせて、ロゼウスが目を覚ました。紅い瞳を彷徨わせて状況を確認するようでいて、その実探しているのは一人だ。
「シェリダン……」
「う、……ロゼウス?」
お互いにもたれるようにして崩れ落ちていた二人は、ようやく目を覚まして相手の姿をとらえた。
「シェリダン……」
「ロゼウス……」
先程までは必死で気づかなかったが、二人ともあちこち泥まみれ煤まみれだ。シェリダンに至っては服が切り裂かれ血で染まっている。ロゼウスもその返り血で濡れている。悲惨な状態ではあるが、本人たちはとりあえず無傷だ。
シェスラートとロゼッテの分まで含めて、こんなに喉を酷使したことはないと言うほどによく喋り叫んだ日。結界が解けたために頭上は薄灰色の曇り空へと戻っていく。
離れた場所にクルスやアンリたちの姿も見えるが、今はそれ以上に。
「おかえり」
シェリダンが口を開く。
エヴェルシード王城の襲撃から、セルヴォルファスや海洋航路など、長く離れ離れになってきた。
腕の中にいるのは、間違いなく本物のロゼウス。改めて感じる。ようやく戻って来たのだと。
「おかえり……ロゼウス」
「うん」
ロゼウスの瞳から、涙が溢れる。
「ただいま」
◆◆◆◆◆
炎が消えた向こうに、二人の少年の姿が見える。
「ロゼウス! シェリダン!」
「シェリダン様!」
「ロゼウス兄様!」
「陛下! ロゼウス!」
ロザリーやエチエンヌたちは、二人のその雰囲気に、驚異が去ったことを知る。涙を流して抱き締めあう二人には、妙な威圧感などない。いつも通りのロゼウスとシェリダンだった。
炎の檻は消え、廃教会は崩れ落ちた。結界が解かれてこの土地も自然の時の流れに去らされやがて全てが消え行くだろう。
そして死者たちの心は封じられた。
「これで、ようやく終わったのね……」
二人の無事らしい様子を眺めて自分も瞳に涙を浮かべながら、ロザリーがそう呟く。
「……そうだろうか?」
だが、アンリはそれに単純に頷く事はできなかった。
そうだろうか、本当に。
◆◆◆◆◆
「みんな、無事よね……」
皇帝領薔薇大陸。
宮殿に残されたミザリーとエリサは、ロゼウスと戦いに赴いた他の兄妹たちの無事をあんじていた。アンリとロザリーのことはもちろん、今は複雑な事情によって敵対してしまっているが、ロゼウスとジャスパーだってミザリーの弟であり、エリサの兄であるのだ。どちらも無事であればいいと思うし、もともとは敵であるとはいえ、エヴェルシードの元国王シェリダンにも彼の部下たちにも借りがある。彼らも含めて、全員が本当に無事であればいいのだが……。
そして、ウィル。
もともとアンリたちは彼を助けに行ったのだ。剣の腕に秀でた、正義感の強い末の王子。
「ウィルにいさま、大丈夫かな……」
末の王女であるエリサは年齢の近い彼と一番仲が良い。兄を心配する妹の姿に、ミザリーは慰めの言葉をかける。
「大丈夫よエリサ。アンリ兄様たちが向かったのですもの」
名指しで呼び出されたのはシェリダンとはいえ、アンリも、ロザリーも一緒に現場に赴いたのだ。無事でないわけがないではないか。
しかしその気遣いの言葉も、呆気なく揺らされる。
「それはどうかな」
「ハデス卿――」
これまで重傷を負って伏せっていた、漆黒の帝国宰相が二人の王女の前に姿を現した。
◆◆◆◆◆
シェスラート=ローゼンティアはロゼウス=ローゼンティアの中で、再び眠りについた。
魂だけで現世に残っていた巫女姫サライの厳重なる封印を受けて、もはやロゼウスの生に彼が甦ることはないだろう。
シェスラートと言う名の、始皇帝になり損ねた男の物語は、ようやく終わったのだ。
「おかえり、ロゼウス」
「ただいま、シェリダン」
シェスラートの存在は封じられた。ロゼッテももうシェリダンの中で甦ることはないだろう。皇帝になるはずだった男と、皇帝になった男、彼らの存在は確かに今生を生きるロゼウスたちにとって驚異であった。
しかし、ロゼウスが次期皇帝の宿命を背負うのは、決して彼がシェスラートの生まれ変わりであるためではない。
「これで、ようやく終わったのね……」
本当に?
「みんな無事でいるといいのだけれど」
その結果は……
シェスラート=ローゼンティアの物語――神聖なる悲劇は、確かにここで終わりを迎えた。
だがしかし。
ロゼウス=ローゼンティアの物語は、ここから始まったのかもしれない。
《続く》