荊の墓標 34

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 初めこそ飽きるかと思われるほどに互いの唇を貪るくせに、一度行為が始まれば快楽を得る方に意識が集中してそんな甘ったるい時間はとっていられなくなる。要はがっついているんだろう、典型的な子どものやり方だ。シェリダンはそう思った。
 そうして一たび熱を解放してふと我に帰ると、なんとも言えない気分になるのだ。
「ロゼウス……」
「ん……何……」
 吸血鬼の少年の滑らかな白い肌には傷一つつかない。正確には、ついても瞬く間に癒えてしまうのだ。それに対して、シェリダンの鎖骨の辺りには幾つか紅い花が散っている。
そのあとを指で軽く撫でながら、ふとシェリダンはこれまで気になっていたことを尋ねた。
「そういえばお前、どうして首筋から血を吸わないんだ?」
「え?」
 一戦終えて、それからすぐの話題としてはどことなく不適当なような、そうでもないような……吸血鬼は夢魔、淫魔と呼ばれる魔族とも繋がりがあるので、艶めいた話題と言えなくもないが。
「なんでいきなり? ……そう言えば、腹減った」
 シェリダンの唐突な問に思わずきょとんとした顔をしながら、次の瞬間ロゼウスはこれまた唐突に腹を押さえた。互いにまだ裸で寝台に横たわっている状態なのだが、毛布の中で身を起こす。皇帝領の季節は穏やかな春の終わりの気候を保たれているので、凍えるということはない。
「はいはい。待っていろ。いや、それとも先程の話の続きになるが、物語などではあれだろう、首筋に牙を立てて、という形だろう? あれでなくていいのか」
「その話の前に、いつものやり方で血をくれ……今日は力を使いすぎたから、いろいろな意味で補充しておかないと」
「もしかしてお前、今日は珍しく自ら誘いをかけてきたのはそれで……」
「ふふふふふ」
 ロゼウスがにやりと笑う。いいように使われたのだと知って、シェリダンは憮然とする。一瞬このまま血をやるのはやめようかと思ったが、続いた言葉に気を変えた。
「半分はね。でも、後の半分は、本当に、触れたいって思ったからだよ」
「ロゼウス」
 白い手が伸びてくる。
 ロゼウスがその肩口に顔をうずめるようにして、シェリダンを抱きしめたのだ。
 そしてゆっくりと顔をあげ――。
「!」
 その一瞬に感じた異様な感覚に、シェリダンはぴたりと動きを止めた。肩に、何か鋭いものが当たっている。それがロゼウスの牙だと理解した瞬間、感触は離れていった。同時に、身体もほっと何かに安堵したように動くようになる。
「血、ちょうだい」
「あ、ああ」
 枕元のチェストの上に置いておいた小刀を使い、指先に刃を滑らせる。ぷくりと血の珠が膨れ上がった指先を、ロゼウスが口に含む。
「ん……」
 たった一滴。今のローゼンティア人というよりも、物語に伝えられる恐ろしい魔族、魔物である吸血鬼の伝承ではこんなものではない。魔族よりも数段下級の存在である魔物であった頃の吸血鬼は、人の喉首に喰らいついて鋭い牙で大量の血を啜る化物だと聞いたのだが。
 生温い舌で指に滲んだ血を舐めとったロゼウスが満足気に顔を離す。こういうときの彼の態度は人間と言うよりも、獲物を頭から喰らいきって満足した獣のようだ。
 その紅玉のような鳩の血色の瞳がそう思わせるのかもしれない。紅い瞳なら他にバロック大陸のネクロシア人がそうだが、彼らの瞳を見ても人外だなどと感じない。この深紅は、ローゼンティアの吸血鬼、それも一部の者に特有のものだ。
「ごちそうさま」
 ぺろりと口元を舐める様子が淫らなほどに鮮やかだ。
「で、さっきの質問の答は?」
「ああ、あれ? 今シェリダンが感じたことでたぶんあってるよ?」
「?」
「俺に牙を突きつけられたとき、怖くなかった?」
 その言葉に、シェリダンはハッとして先程の感覚を思い返した。自分の身体の動きを止めさせた、あの何とも言いがたい、感覚。その正体を、今ようやく知る。
 あれは、恐怖だったのだ。喉元に何よりも鋭い武器を突きつけられた時と同じ。
「ロゼウス……?」
 だが、その言葉だけではそれ以上何を言いたいのかわからない。そして、その言葉だけでは微妙にシェリダンの問に答えていないような気がする。まさか、こちらが怖がるから首から血を吸わないとでも言う気か?
「ヴァンピルが相手の喉首に喰らいつくのは、それが獲物である時だけだ」
「だから、何を」
「わからない? シェリダン、人は獣をどうやって食べる? 生きたまま喰らうのか?」
 古来より人は狩りで得た獣を、止めを刺して息の根を止めてから調理して。吸血鬼と人間の関係は、それをそのまま、人間を獣の位置に置き換えただけだと。
 生き物の食事は大体が、殺した他動物の死骸を喰らっているものだが……。
「つまり、お前たちが相手の首筋から血を吸うのは、同時に相手を殺すことを意味するわけか」
「そういうこと」
 ふわりと柔らかく微笑んだまま、ロゼウスは再びシェリダンに身を寄せる。首筋に唇を寄せられても、今度は怖くなかった。ロゼウスは肌に牙を立てるのではなく、シェリダンの首筋をただ舌でなぞっている。
「なぁ、吸血鬼のその殺し方だと、相手はやはり苦痛を覚えるのか?」
 またしても好奇心に刺激されたシェリダンの問いかけに、ロゼウスは考え考え答える。
「さぁ……? ええと、でも、ずっと最期の瞬間まで死ぬほど痛いってことはないと思うけど……? 何しろ俺も同族に血を吸われたことはないしなぁ。でも、吸血鬼の牙には即効性の毒というか媚薬と言うか麻酔と言うか、そういうのが含まれてるから死ぬまでに多少の時間があっても、相手が痛みを感じるのは最初の一瞬のはずだ。だってほら、相手に痛い思いをさせていると、暴れられるだろ? 俺ぐらいならともかく、小さい力の弱い吸血鬼だと獲物に逃げられるかもしれないから」
 言わば上手く相手から血を奪うための仕組みだ。自然とはよくできているものと言うべきか。恐ろしいというべきか。
「吸血鬼、とは言っても実際には相手が干からびるまで血を吸うわけじゃない。ただし、血を飲むと同時に肉も喰らう。吸血鬼は夢魔の親戚で甦った死体の成れの果ての一族って伝説があるからかな、死体を喰らって力にする」
「干からびるよりは損壊死体の方が絵的に……いや、どっちも同じか」
 思わずその様を想像して、イヤな顔をするシェリダンだ。
 その首に、もう一度そっと触れてきたロゼウスの指が辿る。そして口づけを落とすと、また一つ紅い痕が残った。
「今、無防備だっただろう、シェリダン」
「そうだな」
「ここで俺がちょっと首筋に牙を立てて血を吸うだけで、あんたは死ぬ」
「そうだな」
 お返しと言わんばかりにシェリダンもロゼウスの鎖骨に噛み付く。少し強めに、それこそ血が出そうなくらい強く噛んだのにロゼウスは少し顔をしかめるくらいだ。そして何事もなかったように話を続ける。
「そんな簡単に殺せるのに、あんたは俺たち吸血鬼にとっては、餌の一人でしかないのに」
 ロゼウスがシェリダンにつけた痕は鮮やかなのに、シェリダンがロゼウスに残した痕はすでにゆっくりと消え始めている。染み一つない美しい白い肌。
 その時、予感がした。
「なのに、あんただけは殺せない」
 白い肌に落ちる透明な涙。けれど口元は微笑んでいる。いつかこの儚い笑顔のために全てを失うだろうと。
鬱血した痕はすぐにでもわかる接吻の名残だが、これも傷と言えば傷。こうしてシェリダンの身体には傷が残っても、ロゼウスは美しいままだ。
 種族が違うのだから当たり前だが、その当たり前が、酷く、悔しい。きっといつかシェリダンが傷ついて傷ついて襤褸雑巾のようになっても、それでもロゼウスは綺麗なままなのだろうと。
「おいていかないで」
 それはこちらの台詞だと思った。

 ◆◆◆◆◆

 ――お願い、兄様、負けないで。どうか……あなた自身の運命に。
 ごめんね、ウィル。
 その願いは聞けないよ。

「おいていかないで」
 自分では止められない涙を流しながら、ロゼウスはシェリダンに縋り付いた。裸の胸に、形のない恐怖が忍び寄ってくる。
 その冷たさを少しでも振り払いたくて、シェリダンの胸に顔を寄せる。少年にしては白くきめ細かい肌をしているとはいえ、シェリダンの肌はあくまでも人間としての白さ。新雪そのもの真っ白な肌をしたロゼウスとは違い、血の通ったやわらかな色合いをしている。
伝えられる温もりにほっとしながら、過去と、今をようやく見据えた。いや、そんな大層なことではない。ただロゼウスは、気づいてしまっただけだ。
 ――お前が、お前さえ生まれて来なければ!
 かつて、泣きながら自分を殴る兄の姿に、自分は生まれてきてはいけなかったことを知った。
 ――ごめんなさい。兄様ごめんなさい。ごめんなさい。
 生まれてきてごめんなさい。
生きていてごめんなさい。
 ドラクルが先代ローゼンティア王の息子ではなく、その弟フィリップ=ヴラディスラフ大公の子として生まれてきたのは、彼自身のせいではない。
 子は親を選べず、自分で自分が生まれてくることを選べる生き物などいるはずがないのだ。もし選べるとしたのなら、いずれ全てを失い絶望に叩き落されるためだけのそんな生を、彼は決して選ばなかっただろう。両親のことや自分と兄の真の関係については知らずとも、その兄の哀しみだけを感じ取ったロゼウスは、いつも心の中でそう思っていた。
「全部俺が悪いんだ」
 そう信じていた。
「俺さえいなくなれば兄様は幸せになれる。わかってたのにのうのうと生きてた」
 兄の哀しみに対し理由のない罪悪感を覚えても、それを昇華する方法を知らなかった。だから彼から与えられる暴力や蹂躙に、平気な顔をして耐えていた。
 俺は兄様が好きだから、だから何をされても大丈夫。そんな風に自分を誤魔化して。
「俺が全部我慢すれば、何事もなく平和でいられるんだから」
 辛いなんて、痛いなんて、悲しいなんて思ってはだめ。
 自分ひとりが耐え続ければそれで片付く問題ならロゼウスは幾らでもそうする。
「そうして、お前は耐えたのか。私との、ローゼンティアに関する契約も」
 自分一人が耐えればそれで済む問題だと言うのなら、ロゼウスはいくらだって耐えた。そして耐える気だった。
 けれど。

 ――俺は、お前だけは殺したくない!

 あの時、自分の本心を改めて思い知った。
「俺はウィルを殺したのに、お前を殺せなかった。酷い男、酷い兄だ。でも、だから気づいた……お前を愛している」
 愛している。誰よりも。
「弟より自分の好きな相手を選んだ。シェリダン、お前に生きていて欲しい。誰よりも。誰を殺しても……俺を殺しても」
 愛している。自分自身よりも。
 自らの残酷さを証明するのと引き換えにそれを思い知った。
「あんたに生きていてほしい。どうか、おいていかないで」
 十七年の人生で、本当に心の底から願ったのはただ一つ。いつも口では、ああなるといいのに、そう言っては叶わないのだからと受け入れて諦めてきた願いの中たった一つ、これだけは譲れないもの。
 吸血鬼と人間では寿命が違う。決して最期まで共には生きられない。だけど、一緒にいたい。
 生まれてきてはいけないのだと、知っていたのに願ってしまった。そして周囲を破滅に落とし込むこの存在自体が罪であることを知りながら、それでも今はここに生まれてきた何よりの幸福を思う。
「本当に身勝手なことだけど、俺は今自分がここに存在することを神に感謝する。――シェリダン、あんたに会えて嬉しい。あんたに会えて良かった。それさえあれば、他にはもう何もいらない」
 それが罪深いことだと知りながら、愛した。
 生まれてはいけなかった存在の辿る道が、明るいものであるはずがない。人を滅びへと導く者の行末が、安息などであるはずはないのに。
 それでも、更に願う。
「わがままを言ってもいい?」
「何だ?」
「カミラにこのまま、エヴェルシードを譲らない?」
「…………何を言っている、ロゼウス」
 先程の自分の質問の比ではない唐突なその言葉に、シェリダンは朱金の瞳を瞠った。
「それでお前は、俺と一緒に皇帝領に来てくれないか? この次代皇帝、ロゼウスのもとに」
 皇帝になる運命を、逃れられるはずもない。けれど皇帝になるからこそ、叶えられる願いもある。
 現皇帝デメテルが彼女の即位後に生まれた弟ハデスを帝国宰相として側に置くように、皇帝は気に入った人物に自らと同じく次代皇帝が生まれるまでの不老不死を与え、部下として扱うことができる。そうなれば、ロゼウスが皇帝として間違いのない治世を敷く限りは共にいられる。
 だが。
「――断る」
「っ! どうして!?」
「……皇帝の部下になるということは、人間を捨てるということだろう。私は、そんな道は選ばない」
「な……だって、そうじゃなきゃ、あんたは」
「ああ。私はお前より必ず先に死ぬ。……そうだな、いつかは必ずお前を置いていく。だがロゼウス。それでも私は、人間以外の何者にもなれない」
 弱く脆い人間、ロゼウスの言うとおり、彼が本気になればシェリダンなど一ひねりだろう。
 だが、この弱い身だからこそ知ることができた世界があるのだ。
 攫われ陵辱された少女から生まれた、呪われた王子。ロゼウスとはまた違った意味で、シェリダンも生まれてきてはいけなかった。だけど、だからこそ人より少しだけ多くのことを知ることもできた。
 それを、自ら異形の身と化すことでなかったことになどできない。
「……ッ!!」
 ロゼウスが悲痛に顔を歪めた。だが、シェリダンには自身の言葉を撤回する気はない。

「私は人として生き、人として死んでいく。それが、私の唯一の矜持だ」

 例え、国一つ巻き込む心中を目論んでも、後に狂王と罵られることになったとしても。それでも。
 どんなにロゼウスを愛していても、だからこそこれだけは譲れないのだと。シェリダンがシェリダンでなければ、彼らは出会うこともなかった。
「……別に、そう長い間離れ離れになるわけでもないさ」
「でも! 皇帝は自分の意志では死ななくて、俺は、あんたと一緒に生きる事ができなければ、一緒に死ぬことも、できないのに……」
 ぽろ、と紅い瞳から涙が溢れる。
 だが安易な口約束などシェリダンにはできない。ロゼウスと共に生きたいのはシェリダンだとて同じで、そしてこの絶対的な寿命の長さと言う問題に恐れを覚えるのも同じだ。
 だから、気休めにもならない言葉を口にする。
「別に、私が死んでそう長い間お前が残るというわけでもないだろう。ロザリーたちのようにお前の信頼している者はいるし、何より皇帝になるということは、お前の寿命も本来の法則から外れるということだぞ。始皇帝シェスラート=エヴェルシード……本当はロゼッテと言う名のあの男は三百年ほど生きたが、そうではない普通の皇帝はだいたい百年ほどの治世だった。今のデメテル帝だってそうだ。お前の治世だって、そのぐらいで終わるのかもしれない」
 だとすれば、人間であるシェリダンの寿命から長くても五十年と差はないだろう。そうシェリダンは口にするが、そんな言葉でロゼウスの不満が解消されるわけはない。腕を掴む手が離れない。
「ロゼウス」
「……ごめん。でも、でも……」
 それでも、共に生きると言って欲しかったのだと。
「俺が、皇帝になるまでにあんたの気を変えさせられたら?」
「その時はその時だろうな、もっとも、私の気が変わるとは思えないが」
「……変えさせて見せるよ」
 そしてこの先に待つ自身の運命を知らぬ少年は、もう一人の少年に宣戦布告の口づけを贈る。
「シェリダン、あんたを逃がしはしない。ずっと俺と一緒だ。絶対にその気を変えさせて見せる」
 シェリダンはなんとも答えようがなく、ただロゼウスのその強気な言葉に苦しげに微笑んでいた。

 ◆◆◆◆◆

 ――全部俺が悪いんだ。
 ――俺さえいなくなれば兄様は幸せになれる。わかってたのにのうのうと生きてた。
 ――俺が全部我慢すれば、何事もなく平和でいられるんだから。
「……そうだよ。わかってるじゃないか」
 苛立たしげに、少年はそう言う。
「お前は生きてちゃいけないんだ。お前がいるから、僕たちは死ななくちゃいけない。お前が生まれてきたから」
 ぎりりと握りこぶしを作ると、柔らかい手のひらの肉が爪で抉られて血を流す。紅い滴りがそれまで寝そべっていた寝台に零れ、敷布を染めた。
「お前さえいなければ、全てがうまくいくのに」
 ハデスは呪いの言葉を繰り返す。
 ようやく彼が目覚めたのは、デメテルがロゼウスたちを連れて戻ってくる直前だったミザリーとエリサはそのことを知っているが、彼女たちは彼女たちで弟であり兄であるロゼウスと顔を合わせないようにしているので、ハデスが目覚めたことはまだ他の誰も知らないはずだ。後は、上手く共犯者として抱き込んだジャスパーと。
 同じ建物の中に今、ロゼウスとシェリダンがいる。その会話をハデスは盗み聞いている。
「お前は、知らないからそんなことが言える」
 魔術を通じて流れ込んでくる声に、ハデスは強く唇を噛み締めた。
 ロゼウスの行動、発言、そのいちいちが彼の癇に障る。それどころか、ハデスは彼の存在そのものが嫌いだ。それはロゼウスによって現帝国の権力者という座から引き摺り下ろされるのだと言う恨みでもあるし、まったく関係ない事柄からでもある。
 望まれて生まれ、だが世界における道具の域を出ない存在。そこまではハデスとロゼウスは同じだ。しかし、そこからが重要だった。
 ロゼウスはその存在の重さに必要とされるだけの能力を、十二分に備えて生まれてきた。選定者のなり損ないであるハデスとは違う。
 その事実を思うたびに、ハデスは胸が苦しくなる。自分が人に自分の望むように愛されないことなど当たり前だが……だが、それでも。
「僕は、お前が嫌いだ」 
 その綺麗な顔立ちも、卓越した能力も、世界に望まれるその存在も、その全てが嫌いだ。ハデスのものさえ全て持っていくロゼウスが嫌いだ。
例え、その半分は自らが仕組んだことだとしても。
 預言者として名高く、予知夢で未来を知ることのできるハデスだが、自分の運命に関する事はほとんど見えない。そのため、可能な限り予知夢を分析して未来に手を加えようとするのだが、細かいことになればなるほど上手く行かない。
 何しろ現実には自分が介入して作り上げる状況などいくらでもあるのに、予言の能力ではそれらを全て見る事ができないのだ。どんなに望んだ未来へと誘導しても、他でもない自分の行動でそれがずれていく。腹立たしいと言ったらない。
 そして何より腹立たしいのは、それでもハデスは運命に介入することを止められないという自分自身の生き方だった。彼の目標は変わらない。
 ロゼウスを殺す。
「僕は諦めない。絶対に全てを手に入れてみせる」
 殺すと一口に言っても、相手は次代の皇帝になるほどの実力者であり、人間より基本能力が勝る吸血鬼。対するハデスは魔術こそそれなりに使えるがその身体はただの人間。どんなに冥府の魔物たちを地上に呼び出して力を借りようとも、術の使い手である自分自身を狙われたら勝ち目はない。それがわかっているからこそ、ハデスはこれまで真正面からロゼウスとぶつかることはしなかった。
 だが、ここに今、一つの可能性がある。
 もしも自身は十二分に魔術を使える環境下で、人質をとって戦えば?
 この場所、皇帝領だからこそ使える手段が、そっと彼の脳裏に忍び寄る。
 もっとも、基本的な身体構造が吸血鬼よりずっと脆弱なただの人間であるハデスにとっては、それでさえも命懸けなのだが。もう随分とたくさんの代償を、その運命を変えることのためだけに払ってきた。
ロゼウスを敵に回そうとさえしなければ味わわずに済む苦労を、ハデスは自ら買うのだ。
「だって僕は――」
 その言葉の続きは、闇に消えた。