荊の墓標 34

192

 コンコンと扉を遠慮がちに叩く音が聞こえて、寝台に突っ伏していたミザリーは顔をあげた。
「……誰?」
 今は、気軽に誰かと離せる心境ではない。気に入らない相手だったら追い返そうとする彼女の耳に、意外な声が届く。
「ミザリーお姉様……僕です、ジャスパーです……」
「ジャスパー?」 
 ロゼウスと一緒に戻ってきた、もう一人の弟の方だった。珍しい、とミザリーは思う。彼女とジャスパーは繋がりが薄いがそれは二人が特別仲が悪いなどという理由ではなく、大人しい性格のジャスパーはもともと他の兄妹ともそんな頻繁に、積極的には喋らないのだ。その彼がわざわざどうしたのだろう?
 ミザリーはウィルのことでロゼウスを怒ってはいたが、そのロゼウスと一緒に行動をしていたというジャスパーのことにまでは気を回していなかった。
ただ普段は自分とほとんど口を利かない、影の薄い弟が何の用かと純粋に不思議になって扉を開ける。
 しかしそこにいたのは、ジャスパー一人ではなかった。
「こんばんは。ミザリー姫」
「ハデス卿!」
 悲痛な顔をした弟の背後に立つ人影を見て、ミザリーは声をあげた。

 ◆◆◆◆◆

「きゃぁあああ!」
「姉様!?」
「ミザリー!?」
 突如聞こえた悲鳴に、ロゼウスやアンリたちヴァンピルはいっせいに部屋を飛び出した。聞きなれたあの声は、ミザリーのものだ。
「どうしたんだ!?」
 ロゼウスと共にいたシェリダンも、新しいズボンに軽いシャツを一枚羽織っただけの姿で彼の後を追って飛び出してきた。廊下で鉢合わせた面々は、みなとるものもとりあえずと言った風体だ。
 時刻はすでに真夜中、間違ってもふざけて大声をあげるような時間帯ではない。
「ロザリー、何があった?」
「わからないの。でもミザリーの悲鳴が聞こえて。姉様弱いから、何かあったなら助けに行かないと!」
 先陣を切って駆け出したロゼウスとアンリの二人を追って、一同はミザリーの部屋へと走る。 
 そこで見たのは、夜空を切り取った窓枠に足をかけ、気を失っているミザリーを抱えて飛び降りようとしているハデスの姿だった。
「ハデス!」
「やぁ、シェリダン、久しぶり」
 重傷の昏睡状態から目覚めたかつての友人はこの状況で場違いなほど普通に挨拶をする。
 だがそれを返す余裕がシェリダンにあるわけはなく、ハデスもそれっきりシェリダンに注意を向けない。
 彼の眼差しは、憎悪を湛えてロゼウスに向けられていた。
「一足遅かったね、ロゼウス。これで陣が完成した」
「陣って……」
「そう、僕の遊び場へ繋がる魔方陣――姉姫を無事に取り返したければ、追ってくるんだな!」
「待て! ハデス!」
 気絶したミザリーを乱暴に抱きかかえたまま、ハデスはそれだけを告げて窓の外へと飛び降りた。皇帝領の夜の闇にその姿は消えていたが、途中で地面が青白く光る。それが彼の言う魔法陣なのだとロゼウスたちにはわかった。
「ミザリー!」
「姉様!」
 慌ててロゼウスやアンリたちも軽く建物五階分はあるその距離を飛び降りてみるが、ハデスとミザリーの姿は見当たらず、魔法陣もどこにも存在しない。
「どうすればいいんだよ……」
 驚く暇も与えられず解決の糸口もわからない、その素早い一連の出来事に、ロゼウスはただ呆然とするしかなかった。

 ◆◆◆◆◆

 姉姫を無事に取り返したければ、追って来い。
 ハデスはそう言って、闇の中に浮かび上がった魔法陣へと消えた。一瞬だけ青白く円を描いたその図形は、今は跡形もない。
「ねぇ、さっきの何!?」
「ロザリーにもわからないの?」
 ミザリーを抱えたハデスが消えた辺りの地面を必死にロゼウスが探る横で、恐慌状態に陥りそうになっているロザリーが叫ぶ。その言葉に、エチエンヌが反応した。
「とにかく落ち着いて」
「落ち着けって、だって!」
「大丈夫だよロザリー。追って来いって言うぐらいなんだから、ミザリー姫は人質扱いで、恐らくは無事だ。もしも何か罠を仕掛けてくるとしたら、僕ら奪還班の方にでしょ」
「そ、そうね……」
「そうだよ。方法は必ずある。後は戦って取り戻すだけだ。できるだろ?」
 エチエンヌの言葉に落ち着いて、ようやくロザリーは身体の震えを止める。
「……ごめん、私らしくないわね。ちょっと、驚いちゃって」
「いいよ。驚くこと続きだし。それに、僕らは魔術のことなんかわからないからね。ロザリーにはわかるの? あれって、いつもハデス卿が使ってる移動魔術とは違うの?」
「そう……みたい。なんだかよくわからなくて、凄く怖い感じがした……」
 ロザリーが不安げに今は闇に沈む地面を見つめる先では、ロゼウスとアンリが必死で地面を捜索していた。
「アンリ兄様、何かわかる?」
「いいや……ロゼウス、お前の方は?」
「俺にも、これ、よくわからない。普通の魔術じゃないみたいだけど……」
 先程の青白い魔法陣が消えた辺りを、二人は懸命に探っている。しかし、当然ながら何も出てこない。光が消えた後はただの地面に戻り、叩いても虚しい音が響くばかりだ。
「あれは、何かの移動魔術だろうか……よくわからないものだった。吸血鬼の使う術式にはないものみたいだったけど……」
「ロゼウス、アンリ王子」
「シェリダン」
 言葉の途中で名を呼ばれ顔を上げると、念のためにと周辺の森を探っていたシェリダン、クルス、リチャードたちがちょうど戻って来たところだった。
「何か手がかりはあった?」
「いや……人の姿はまったく見当たらなかった。やはり、先程の魔法陣と言ったか、その中にハデスとミザリー姫は消えてしまったのではないか……」
 ロゼウスたちは魔力で、シェリダンたちエヴェルシードの人間は研ぎ澄ました感覚で近くにある気配を探る。しかし、ミザリーのものもハデスのものも感じられない。
「追って来いって言ってたな、俺に」
「ああ。……ハデスはデメテル帝の選定者だ。彼女が死ねばハデスも用無しとして殺される。それを回避するために、奴はお前を殺したいんだろう……」
「シェリダン……」
 かつての友人の行状の真意を知ってしまったシェリダンは、苦しげな顔をする。
「大丈夫だ。それよりも今は、お前の姉の心配だろう」
「うん」
 同じ城内には幼いエリサもいたのに、何故ハデスはミザリーの方を連れて行ったのか。それについても謎だ。彼はただ単にロゼウスに対する人質としてミザリーを連れて行ったのか。そもそも何故、ロゼウスに「追って来い」などと言ったのか。ここでは戦えないわけでもあるというのか? ハデスの真意がわからない。
 膠着状態に陥るロゼウスたちを救ったのは、艶やかな女性の声だった。
「あらあら、大変なことになってるわね」
「デメテル陛下!」
 ローラとエリサの二人が、皇帝デメテルを連れて来たのだ。
「とりあえずこんな表で立ち話もなんだし、一度中に戻ってくれない?」
「ですが陛下、ミザリーが……」
「って言っても、あなたたちにはそのミザリー姫を攫ったハデスの行方がわからないってこの子たちに聞いたわよ? いいから中に入りなさい。オケアノスの間ね」
 この場で唯一ハデスの行き先に関して手がかりを持っているだろうデメテルの言葉を無碍にも出来ず、一同は彼女の言う部屋の中へと入った。
 そして、その途端に目を瞠る。
「何……これ……」
「魔法陣よ。あなたたちのお望みの場所、エレボス、タルタロスへの道を開く扉」
「エレボス?」
「タルタロス?」
 デメテルの口から出てきた言葉に、一同は怪訝な顔をする。耳に馴染みのない言葉だ。
「そう。こういえばあなたたちにもわかるかしら……地下世界、冥府」
「冥府……そうか、ハデスの通り名、冥府の王というのは」
「そうよ」
 シェリダンの言葉に、デメテルが頷く。
「あなたはあの子とそれなりに付き合いがあるから聞いたこともあるでしょう、エヴェルシード王。あの子の称号は《冥府の王》。それは言葉の通り、冥府の魔物たちと契約を交わし、彼らを従える能力者のことよ。これに関してはハデスの実力の方が上で、細かい冥府の決まりに関しては私でもよくわからないわ」
「皇帝陛下でもですか?」
 世界の全てを支配する神の代行者たる存在が不可能を口にするその様子に、ローラが不思議そうに尋ねた。
「ええ。そうよ。皇帝が治めるのは、あくまでも地上の人間世界のことだけだから。吸血鬼や人狼の一族はこの帝国の土地で暮らしているから私の管轄だけれど、それ以外の魔族や魔物たちに関しては、皇帝でもわからないの」
「そんな……」
 世界で最強の力を持つ皇帝、そのデメテルでも詳細がわからないという冥府。
「簡単に説明するとこうね。まず、ハデスは冥府にいると力が増すの。ハデスの魔術はそのほとんどが冥府の魔物との契約によるものだから、彼らの力が無尽蔵に引き出せる冥府でのあの子は強いわよ」
「だから、ロゼウスを冥府におびき出そうとしているのか」
「ええ。それと、一口に冥府って言うけど、あなたたち、冥府がどういったところかわかっている?」
全員が首を横に振った。
「そう。まず……地下世界は、三つに分かれているっていうことは知っている?」
「三つ?」
「そう。一つは楽園。一つは幽界。一つは地獄。まず、死者が最初に行く世界がエレボス。そしてそこで裁かれ罪人と判断された者が落とされる地獄がタルタロス」
「地の奥底……」
「そうよ。そしてハデスは、恐らくこのタルタロスにいるわ。そこに魔物たちが住んでいるから」
「そのタルタロスに向かう方法は」
「ここに魔法陣があるでしょう。これは私が以前、永い年月をかけて描いたものよ。私は冥府の中で直接行動することはできないけれど、そこに扉を開いて、あなたたちを送るくらいならできるわ」
「だったら、俺たちを送って欲しい! お願いします、デメテル皇帝陛下!」
 皇帝の言葉を聞き、早速アンリが懇願を始めた。ロザリーとエリサもそれに便乗する。
「私たちからもお願いします、陛下!」
「こうていへいか!」
「はいはい。わかったわよ。わかってるわよ。せいぜい頑張ってきなさい」
 アンリたちの懇願にデメテルが極あっさりと頷いて、冥府へ向かう方法はこれで安泰かに思われた。
 だが、一人だけ、納得できない顔でデメテルを見つめている者がいる。
「デメテル=レーテ=アケロンティス陛下」
「なぁに? ロゼウス=ノスフェル=ローゼンティア王子」
 安堵の息を吐こうとしていた室内でただ一人ロゼウスは険しい顔をして皇帝を見つめる。
「あなたの目的は、なんだ」
「目的?」
「そう」
「おい、ロゼウス、そんなこと」
「だっておかしいだろう。あなたとハデスは皇帝と選定者ということで運命を共にしている。同じ時に、同じように俺のせいで死ぬはずなのに、どうして俺を殺したいハデスと違って、あんたは俺たちの味方をするんだ?」
「皇帝と選定者は必ず仲良しこよしじゃなきゃいけないなんて決まりはないわよ。それに、それを言うならあなたの選定者はどうだというの?」
「そういえば、ロゼウス、ジャスパーは?」
「……あの子は、呼んでも多分無駄だ」
 ロゼウスがますます目元を厳しくする。
「何を企んでいる、世界皇帝」
「企むだなんて人聞きが悪いわね。次期皇帝。私はただ、一つだけ願うことがあるだけよ」
 ロゼウスとデメテルは睨み合う。そういえばこの二人は、直接顔を合わせていたことがほとんどない。なのに何故か、どこか言葉にならない部分ででも通じ合っているかのように、お互いの言いたい事がわかるようだった。
 もっとも、言いたい事がわかるのと考えているのがわかるのとでは少し違う。
 ロゼウスはデメテルの真意を気にする。ドラクルにハデス、これまでにもヴィルヘルムなどと渡り合ってきたロゼウスだが、今目の前にいる相手の実力は桁外れだ。できれば正面衝突したくない相手だが、それだけに放置するということもできない。
 彼女の真意が重要だ。どう考えても自らの命を死に近づけるだけだというのに、何故次期皇帝であるロゼウスを助けるような真似をする?
 流石に彼のことは誤魔化せないと思ったのか、しばらくしてデメテルが肩を竦めて息を吐いた。降参、と小さく呟いて、告げる。
「では言いましょう、ロゼウス帝。私はあなたに、今のうちに恩を売っておきたいのよ」
「恩?」
「ええ。そう、恩よ。あなたが皇帝になった時のために」
「だけど、俺が皇帝になったら、あなたは……」
「ええ、そうよ。普通ならあなたが皇帝になっている頃というのは、私が死んだ後の話よね。でもね、私は世界で初の、黒の末裔生まれの皇帝なの。この意味がわかる?」
「まさか、死を免れる方法があるとでも?」
「そう思ってくれてもいいわ。だけれど、それでも私が退位してあなたが即位するという運命までは変えられない。だから、あなたが皇帝になってもせめてこちらの望みのために、恩の一つも売っておこうと思って」
「……」
 ロゼウスはデメテルの漆黒の瞳に視線を注ぎ、その胸の奥底まで暴こうとするように真意を探る。
「一応本当の話よ? まぁ、あなたがどう思うかは勝手だし、私に借りを作りたくない、とあなたが思うならそれもあなたの勝ってだわ。さぁ、」
 どうする?
 しばらくそのままデメテルを睨んでいたロゼウスが、とうとう折れて、詰めていた息を吐き出した。
「……わかった。あんたを信用する」
「それはよかった」
 全然よくもなさそうな平然とした表情で、デメテルが頷いた。