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「いい? こちらから開ける扉と、向こうであなたたちが自力で開ける扉は同じものよ?この形を忘れないでおいてね。扉はあなたたちが帰りたいと念じたら帰れるようにはしておくけれど、この魔術はそう何度も簡単に利用できるものではないわ。失敗したら、それきりよ? ――じゃあ、準備はいいかしら」
デメテルの忠告に真剣に耳を傾け、ロゼウスたちは最終確認に頷いた。冥府にはそう長い時間滞在できないらしいが、それでも新しく旅支度を整え、覚悟を固める。
「一口に冥府と言っても、ただ単純に死者が向かう世界、とは違うわ。死者が生前の罪によって裁きを受けるのはエレボスであって、あなたたちがこれから向かうのはタルタロス。そこは死者が罪の重さによって責め苦を受ける地獄でもあり、冥府の住人たちの居住区でもあるわ」
地下世界タルタロス。
これからロゼウスたちが向かうのはそれだとデメテルは言う。
「頼みます」
「皇帝陛下」
ロゼウスとシェリダンの視線を受けて、デメテルが深く溜め息で返した。
「一つだけ言っておくわ」
「?」
「私は、これからおきる出来事を知っているわ。あなたたちが冥府で何を体験するのか……でも、言わない方が良いのでしょうね」
「俺たちは、聞いた方がいいのか?」
「さぁ? 聞いて変えられる未来があるのなら。でも、予知見の能力は完璧じゃないから、中途半端な情報でまた未来が変わってしまうこともあるし……それに、夢にまで見るような未来なんて、どうあがいても変えられないものよ」
どこか諦めたような表情で言う彼女に、ロゼウスは訝るように眉を上げた。
「これ以上は言わない方がいいのでしょうね。もともと、私の弟の不始末だもの。そして、他でもない、あの子にそんな道を選ばせたのは私」
「デメテル陛下?」
「恨むなら私を恨みなさい。次代皇帝。そう、例えハデスがどんなことをしたとしても――あなたは間違いなく、私の次の皇帝となるでしょう」
これぞ予言という風情で厳かに告げるデメテルの餞の笑顔を見送り、ロゼウスたちは魔法陣の中心に立つ。
「開け、冥界の扉。三つ首の獣よその目を休めよ、憂愁の河の渡し守よその櫂を休めよ。大地皇帝デメテル=レーテの名において告げる。境の扉くぐりし者は常盤なる身にあらず、エリュシオンの守人の眼くぐらせ、その門を通せ」
途端、魔法陣が淡く光り出す。水底のようなその色は、ハデスが使った魔法陣と同じ輝きを放っていた。
青い光に包まれながら、ふとロゼウスはそれがまた別の何かに似ていることを思う。しばらくして気づく。それは、あの夢の中で見た、涙の湖に似ているのだ。
魔法陣によって現場に送られるというより、その場に光で扉が造りあげられていくようだ。浮かび上がった青い光が、硝子のように透明な門を形成する。
死者の涙で閉ざされた国。
「いってらっしゃい」
デメテルの声を最後に、世界が切り替わった。
◆◆◆◆◆
「う……」
「ああ。気がついた?」
彼女が目覚めた時、そこには見た事もない風景が広がっていた。
自分に声をかけてきた相手が誰とも明確に認識する前に、硬い寝台の上から上体を起こして辺りを見回す。まだ夢見心地の瞳に、薄紫の空が移った。
そこは建物の中ではなく。四阿のような場所だった。屋根を支える柱の間に壁はなく、彼女が寝かせられていたのは石の長椅子のようなものだった。飾り気のない灰色の石の神殿のような造り。そして、空の色は紫。
「ここは……」
思わず声に出して問うと、先程の声の主が返してくる。
「地下世界タルタロス。君たちの言うところの、《冥府》の一部だよ」
その声を聞いたところで、ようやく意識が覚醒する。
「ハ……ハデス卿!」
「そうだよ。ご機嫌いかが? ミザリー姫」
急速に甦ってくる、意識を失う直前の記憶。皇帝の居城の中、与えられた部屋に閉じこもっていたミザリーのもとを弟のジャスパーが訪ねてきた。不審に思いながらも扉をあければ、そこにいたのはジャスパーだけでなく、彼はこの黒衣の少年を連れていた。
そうして、そこから先の記憶がミザリーには、ない。
「な……なんで、どうして、ここは……」
「さっきちゃんと教えてあげたっていうのにもう忘れたの? 物覚え悪いね、お姫様。言っただろう」
芝居がかった動作で腕をあげ、ハデスは彼女の眼前に広がる景色を示す。
「ここは我が庭、死者と罪人と無数の魔物たちが暮らす世界、《冥府》」
絵画の説明でもするかのようにあっさりと彼はそう告げた。
「め、冥府って……私、死んだの?」
「まさか。君はまだ生きてるよ。ただ、肉の器を持ったまま僕が連れて来ただけだ」
思わず頬を抓って感触を確かめていたミザリーに、明らかにバカにした口調でハデスが言う。
「じゃあ、なんであなたは私をこんなところに連れて来たのよ!」
目の前にいる男は少年の姿をしているが、実際はそうではない。何十年も生きている帝国宰相で、自分たちを罠にはめた人間の一人で、しかも――。
「ミカエラを殺しただけじゃ……まだ飽き足りないって言うの!? あなたたちは、一体何がしたいの!」
ハデスはミザリー最愛の弟、ミカエラを銀の弓で射て殺した人物だ。
「答えなさいよ!」
ウィルを殺したというロゼウスのことは確かに許せない。だが、そもそも全ての事の元凶はこのハデスと共謀したドラクルなのだ。彼が何もしなければローゼンティアは滅びなかっただろうし、ミカエラだって死ななかった。ウィルだって。自分たちはずっと平和に暮らせたのに。
「私たちローゼンティアの人間が、あんたに何かしたの! どうして、あなたは私たちを目の仇にするのよ!」
「私たち? ああ、そうか。君はあの時にいなかったんだっけ。んー、いや、いるにはいたけど放心状態で僕の話を聞いてなかったんだっけ。まぁ、どちらにしろ」
近づいてきたハデスがミザリーの肩を掴み、石の長椅子に乱暴に押し倒す。
「僕を恨むより、もっと他に恨む相手がいるんじゃないの? ミザリー姫」
「え?」
「恨むならロゼウスを恨みなよ。あいつが全部悪いんだから。あいつの存在自体がね」
仰向けにされたミザリーの視界はハデスに塞がれる。黒髪の向こうに、明らかに地上とは違う紫の空が見えた。
「やれやれ。まだロゼウスたちが来るまで時間はあるし、ちょっと遊びながら教えてあげようか」
「え?」
次の瞬間、ハデスの唇がミザリーのそれを塞いでいた。
◆◆◆◆◆
ぐったりと弛緩した身体を石の寝台に預け、ミザリーはその見事な白銀の髪をハデスの男にしては細い指先にからめとられるままにしていた。
破られた衣服はもはやただの布切れとなっている。身を隠すものもろくになく、艶かしい身体が陵辱された痕もあらわだ。
切り出されたような石の台の上に散ったその髪を、ハデスは自身も軽く上着を羽織っただけの姿で弄び続ける。手に取っては梳いて、さらさらとした滑らかな手触りのそれが指から零れ落ちるのを楽しんでいた。
「そんなに、白髪が珍しいの……?」
「見る分には珍しくはないけど、これだけ長い髪を触るのは初めてかな」
ハデスは口元に小さく笑みを刻んで、ミザリーの髪を撫でる。
「姫の髪は猫の毛みたいにふわふわしてるんだね……姉さんの硬い髪とは違うんだ」
無意識のように漏れたその言葉から、ミザリーは重要な単語を聞き逃さなかった。
姉さん。
この帝国宰相ハデスは、その姉である大地皇帝デメテルと不仲のはず……世間では姉であるデメテルが一方的に弟を愛人にして権力まで与えて可愛がっているのだと言われているが、この様子だと……
「帝国宰相……」
「んー」
ミザリーの髪から手を離し、しどけなくあらわにされた首筋に口づけながらハデスが反応を返す。
「あなた、本当は皇帝陛下のことがお好きなのではないの?」
「……何故そう思う?」
先程の台詞に自覚がないのだろうか。
「姉と他の女を比べただけでシスコン? 単純な判断だ」
「女の勘を舐めないでくれない? あなたの声……聞く人が聞けば、すぐにわかるわよ」
やれやれ、と呆れたのはどちらだったのか。二人は束の間、視線を交錯させる。
「……身体洗ってあげるよ」
「結構よ」
「そのままの格好でいるつもり? ま、別に僕はそれでも構わないけれど」
つぅ、と先程の行為でお互いの混ざり合った体液に濡れるミザリーの太腿を撫で、ハデスは笑う。
屈辱に頬を紅く染めるミザリーの裸の身体を抱き上げて、ハデスは神殿側の泉へと向かう。自分も上着を脱ぎ捨てて、淡い緑色の水に抱き上げたミザリー共々浸かる。
ハデスに抱かれているというのは不快だが、肌を重ねた今では今更と言う気もする。ミザリーはそれまでなんとなくしか目にしていなかった冥府の景色に視線を移した。
「紫色の、空……」
「それに緑色の水、だよ。ここは冥府。地下世界タルタロス。人の手の届かない場所……」
冥府の空を見つめるハデスの様子は、気のせいかミザリーの知るものと違う。判断しようにも知り合って間がなく、しかも敵同士というためにほとんど情報がない。相手と向かい合って感じることが全てで、詳しいことなど何も知らない。
ミザリーにとってそれはもしかしたら、ハデスやシェリダンだけでなく、他でもない自分の家族であるドラクルやシェリダン、ジャスパーのことに関してもそうかもしれないが。
冥府の泉の水は、無理矢理開かされた身体の痛みを消していく。けれど、直接的な痛みよりも胸が疼くような、その傷の方が痛い。
もう、戻れない……。
「ジャスパーをどうしたの?」
「ちょっとつついてやっただけだよ。あの子は二重三重の裏切りを抱えて心が磨り減っている。追い詰めるのはわけない」
「ロゼウスを……どうしたいの?」
「苦しめて苦しめて殺してやりたいね。いっぺんの、慈悲すらなく」
呟くハデスの横顔を下から眺めて、ミザリーはその言葉に彼の本気が潜んでいることを知る。
「私を……これからどうするの?」
ローゼンティアが滅ぼされてから、さんざんな目にしかあっていない。ドラクルの裏切り、ヘンリーたちとの別れ。目の前でミカエラを失い、ウィルまでも殺されてしまった。しかもそれを成したのはロゼウスで、この現場にいたってはミザリーはその目にしていない。
このまま、何もせず、誰のためにもなれず死んでいくのか。今まさに自分を抱きしめる男の手の中に、ミザリーの命は握られている。
そもそも人質とするなら、ミザリーでなくとも、幼くかよわいエリサでもよかったはずだ。何故わざわざジャスパーを使ってまで、ハデスはミザリーを攫ってきたのだろう。
「……光栄に思うんだね、ミザリー姫」
湖から引き上げた身体を抱きなおし、ハデスは彼女を抱えたまま先程の神殿へと戻る。
そこでミザリーは、この世界に来てから先程まで、自分が寝かせられていた場所の全貌をはっきりと見た。
「……祭壇?」
「そう。あたり」
灰色の石造りの建物。四阿にも似たその建築の中央に作られた石の台。
それは捧げ物を置くための祭壇だ。
「君は、冥府の生贄だ」
ハデスが、冷ややかな表情で言ってミザリーを再びその台へと繋いだ。
◆◆◆◆◆
淡い青い光がその色を緑に変えて、魔法陣はその役目を終えた。陣の中心から現れた扉をくぐると、そこはすでに別の世界である。
「うわぁ……っ」
「な、なんですか? ここは」
ロザリーが感嘆の声を上げ、クルスが不安そうに辺りを見回す。
ロゼウス、シェリダン、クルス、エチエンヌ、ローラ、リチャード、アンリ、ロザリーの八人はロゼウスに向けられたハデスの挑発の言葉通り、彼を追って冥府へとやってきた。
音もなく魔法陣が消え、足下の光も消える。それでも行きに現れた扉は消えず、その場にあった。これはもともとこの場所に存在していたもので、デメテルの術はそれを魔法陣にくぐらせたものだったのだろう。
「ローゼンティアの景色も言葉通り人外魔境という感じだったが、ここはまさにその通りだな」
「ちょっと、うちの国が魔境ってどういうことよ」
「言葉通りだ」
常識人のクルスやリチャードは眉を潜めているが、シェリダンやエチエンヌは物怖じせずに辺りを眺めている。冥府・タルタロスの不思議な景色にも、動じることなく視線を走らせた。
シェリダンの言葉通り吸血鬼の住むローゼンティアは人外魔境だが、この冥府も意味合いとしてはあながち間違っていない。
薄紫の空に、遠くに見える湖は光の加減などではなくはっきりとした淡い緑色。木々は黒と銀色で、ローゼンティア王城の外壁に這っているあの銀の薔薇を思わせた。吸血鬼もかつては冥府の魔族の一種だと言うから、もともとここから持ち込んだのかもしれない。下生えは黒に近いほどの濃い緑で、ところどころに小さな橙色の花が咲いている。
ロゼウスたちが送られたのはどうやら小高い丘の上らしく、ぐるりと辺りを見渡せば周辺の様子がよくわかった。幾つか建物があり、それは灰色の神殿のようなものや、これもまたローゼンティア王城のように漆黒の館のようなものがある。貴族の館風の造りの建物を囲む虹色は、花畑なのだろうか。遠目に色彩だけでは判別できないような摩訶不思議な景色も冥府には存在している。
紫の空は明るく、昼とも夜ともつかない。そこに、紅い月がかかっている。
そこかしこに感じられる、生物の気配。だがそれは慣れ親しんだ地上の生き物とは違う。
「不気味だな」
冥府はエレボスとタルタロスの二層からなる。死者がはじめに訪れる世界はエレボスといい、そこで生前の罪を裁かれ世界の最下層であるタルタロスに落とされるか、楽園であるエリュシオンに行けるかが決まる。
今回ロゼウスたちが訪れた地下世界タルタロスとは、本来は生前重い罪を犯した死者を死後に懲罰を受けさせる場所である。
そして、もう一つの意味もある。
「冥府タルタロス。王の宮殿の近くは、魔物の棲家、か」
アンリがそこかしこに潜む生き物と言えない生き物たちの気配を探りながらそう言った。
「うじゃうじゃいるね」
「うじゃうじゃいるわね」
ロゼウスとロザリーも息ぴったりで頷く。
「ところで」
いつでも控えめな優秀な侍従、リチャードが遠慮がちに一同に声をかけた。
「皆様、これからどうなされるおつもりですか?」
「どうって?」
「ハデス卿の居場所を、どうやって探すのですか?」
ロゼウスがきょとんとして尋ね返すと、リチャードからもっともな言葉が帰ってきた。
「……そういえばハデスの奴は自分を追ってこいとロゼウスに伝えたきり、その行き場所が冥府であることも言わずに姿を消したんだったな」
シェリダンがすでにげんなりした顔で回想する。このこと自体だって、デメテルの協力がなければロゼウスたちは冥府に辿り着けなかっただろう。
だが、ハデスがそれを考えていないとは思えない。姉がロゼウスたちに協力体制をとっていると知っているのだから、それを見越した作戦を立てるものだろう。
デメテルは地上でもシェスラートとシェリダンたちの戦いに口を挟む様子はなかったが、それが実弟であるハデスとロゼウスの戦いになるとどうなるかわからない。ハデスが冥府を選んだのはそもそも、彼女が手出しをできない彼の領域、という意味ではないのか。
ここ、タルタロスは冥府の王と呼ばれるハデスにとっては己の庭も同然だろう。彼が優位になれる条件がそろった場所であり、罠にはめるのは容易い。
だが、進まぬわけにもいかない。なるべく早く辿り着かねば、恐らくロゼウスに対しての人質としてだろう、連れ攫われたミザリーの命も保証されない。
「とりあえず、誰かに道でも聞いてみる?」
ロザリーが言った。ハデスの称号が《冥府の王》というぐらいなら、その王様の居場所は誰でも、あるいは誰かが知っているのではないかと。
「そうだな。それ以外手はないか。聞き出そうとした相手にいきなり襲い掛かられない保証はないが、その時はその時で――」
だが、シェリダンが言いかけたまさにその時、彼らの周囲に異様な気配が近づいてくる。
「何だ!」
「あれは!」
彼らがいた丘の上に、無数の生き物たちが集まってくる。いや、それらを生き物と簡単に言っていいものなのだろうか。
「冥府の、魔物……!」
「くっ」
それは地上で言うなら巨大な虫の姿に似たものや、言葉では上手く言い表せないような姿のものもいた。どれもこれも酷く大きく、不気味な姿をした冥府の生き物たちだ。
「剣を抜け! 戦うぞ!」
「でも、この数ですよ!」
「相手できるものだけでいい! とにかく道を拓け! この丘から降りねば何もなるまい!」
ざわざわとたくさんの生き物が寄ってくる気配を感じながら、シェリダンがそう号令をかける。
魔物たちの目的はわからないが、なんとなく良いことではないのだろうと、それだけは全員がわかった。
『人間』
『生きた人間がここにいるぞ』
『どうしてだぁ……?』
『食べていいかな』
先頭の一団が飛びかかってくる。
「逃げろ!」
ロゼウスたち一行は、とにかく武器を抜いて無我夢中で走り出した。