荊の墓標 35

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「さて、私の心情と目的に納得していただいたところでこれからの話に入ろう」
「ああ」
 とまれかくまれラダマンテュスの話はようやく締めに入るらしい。
「まず、ロゼウス陛下。私はあなたに協力する。どうせ今回もこんな絶好の機会だというのにハデス卿は私に仕事を振ってくれなかったわけだし」
 よっぽどこの男に借り作るの嫌なんだろうなぁ、ハデス……とロゼウスは思わないでもなかったが、敵のことはどうでもいいので無視する。
「ハデス卿は、地上からあなたの姉上を攫ったのだったね。その姫君は、これから冥府の生贄に捧げられる」
「え!?」
「おや、不思議かい?」
「聞いてないぞ! そんなこと!」
「誰も言ってないからね。だから私が今説明しているんだろう」
「それはそうだけど……」
「疑問がないなら話を続けさせてもらうよ」
 パンパンともともと二人しかいない空間であるのにわざわざ注目を引くために手を叩いたラダマンテュスを睨み、ロゼウスはその言葉を一言も聞き漏らさないようにとする。
「ハデス卿は皇帝の座を巡ることで、あなたを酷く恨んでいる。ロゼウス陛下、あなたを殺す事が目的だ。あなたさえ殺せば、とりあえず彼の憂いは全て取り除かれるからね……次代皇帝を奪うことで世界をどんな混乱に落とし込むかなんて、彼には関係ないだろうからねぇ。もともと産んでくださいと頼んだのでもないのに道具として襤褸雑巾のように使い捨てられるために作られた彼に、他者を気遣う余裕などないし」
「そんな……」
 自分が皇帝となること、それに実感はさっぱりわかないロゼウスだがラダマンテュスの言葉に感じるものはある。
 世界皇帝は神の意志により、その時の世界に最も必要な人物が選ばれる。その皇帝を殺せば、世界は歪む。
 ハデスがロゼウスを殺したいだけならともかく、それに世界を巻き込んでもいいと言うのなら問題だ。確かにロゼウスの即位と同時に死ぬとされている彼に他者を気遣うことまで求めるのは酷かもしれないが……だが、しかし。ドラクルやカミラと違って、ハデスは唯一ロゼウスが皇帝になる運命を持つとしっていてその存在を消そうとしている。だけど、自分が彼に憎まれると言う事もわかるから……。
「ラダマンテュス卿」
「なんだい? ロゼウス陛下」
「あなたはさっき、俺がハデスと戦って負かしてもそれは気にしないと言った。それは、どういう意味だ? もしかして、俺が皇帝になってもハデスを生かし続ける方法はあるということか?」
「その通りだよ、陛下。この世の中に絶対はない。抜け道などどこにでもあるものさ。私はそうやって彼を手に入れたい」
「あ、そうか。ここでハデスを生かしても結局あんたに陵辱され拷問され隷属する運命が待ってるのか……」
 ラダマンテュスの言葉を聞いて、ロゼウスは自分の一瞬考えたことは無駄かもしれないと思った。
 その考えを正確に察したのか、ラダマンテュスが苦笑するように相好を崩す。冥府の魔族である彼にしては、それはとても人間らしかった。
「ハデス卿を生かしておく気があるのかい? ロゼウス陛下。君の弟の仇だろう?」
 ハデスの射る銀の矢に貫かれて絶命したミカエラ。
 彼のことを忘れたわけではない。それでも。
「そうだな。あいつは俺にとっては仇だし、全ての元凶でもある。でも、だけど」
 それでも世界のためなら一人の人間の存在理由から歪めて使い捨てのように死を与えていい理由にはならないから。
 償いと権利は別物だ。過ちに罰は必要だけれど、罪を犯せば全ての権利が剥奪されるわけではない。
 それすらもただ世界のためなどという言葉で奪うのが正当だというのなら、ロゼウスは皇帝の存在に何の意義も見出さない。
「優しいとは言わないよ、ロゼウス陛下。あなたのそれは優しさに見える、形を変えた残酷だ。けれどまぁ、敵であるハデス卿にそこまで考えを及ぼせるのは……別に立派でもないか。弟の恨みより自分の考えを優先させただけだから」
 生きるという事、そして他者を生かすという事はとても難しいのだと、冥府に生きる魔族が言った。
「ま、それでもあなた様の場合、これからことが進めば絶対にハデス卿を赦せなくなるのだろうけどね」
「え?」
「今はそれでも……いつかは」
「それ、どういう意味……」
 ロゼウスがラダマンテュスにその言葉の真意を問いかけようとした時、どこからか鐘の音が聞こえてきた。
 ゴーン、ゴーン、ゴーン、ゴーン……
「な、何これ!」
 咄嗟に彼は耳を押さえる。この何もない暗闇の空間に突如として鳴り響いたその鐘の音は気のせいなどというものではなく、むしろ耳を塞ぎたくなるほどの大音量で鼓膜に響く。
「ああ、鳴り始めたね。儀式の鐘が」
「儀式?」
「君の姉上を冥府の生贄にする儀式だ。ハデス卿の魔術は冥府の魔物の力を使うもの。つまり、その魔物たちに彼らの気分を喜ばせる美しい生贄を捧げれば彼の力は飛躍的に上がる」
「姉様が!」
「ではさっさと話を終わらせよう。よく聞きたまえ。私があなたたちに協力的なことはもはやあの強壮剤入りの食事でわかっているだろう? ハデス卿のいる場所は灰白色の石作りの神殿だ。目の前に大きな湖があることが特徴だ。この屋敷から出る道をその神殿へ直結させておこう。ただし、橙色の花を植えている線から出てはいけない。そこが私の領地の境目で、領地内にいれば私を恐れて他の魔物は近づかないが、私の領地を一歩出ると他の魔物が飛びかかってくるよ。ハデス卿のことに関して話はこれくらいだ」
 そしてラダマンテュスは立ち上がり、マントをばさりと翻す。
「ではここから出よう。お仲間ともすぐに合流させる」
 それを合図に、暗闇に包まれた空間が歪み始めた。ラダマンテュスの姿がその闇に飲み込まれていく。
 全てが消え終わる直前、声が聞こえた。
「そういえば、このことを忘れていたね」
 何かを思い出したようなラダマンテュスの声に、すでに心はシェリダンたちとの合流やミザリーを救うことに向かっていたロゼウスは彼の方へと意識を引き戻される。
「ハデス卿やドラクル王など、ご自分の敵方でも救いたい者を救おうとするのはいいけれどね、ロゼウス陛下。だからといって、これまでにすでに踏みにじってきた者のことを忘れてはいけないよ。死者には何もしてやれないけれど、彼らにだって権利は確かにあったのだから」
「え?」
「可哀想な狼を一匹、この冥府に落としただろう。彼も確かにあなたの行動においては邪魔者だったろうが、それでもあなたの兄上やハデス卿に利用され操られていたに過ぎないのにね……」
 ラダマンテュスがマントを払う。
 その布地の影に、人がいることにロゼウスは気づいた。微かに見えたその影。薄茶色の獣の耳の生えたその影はただの人間ではない。
 しかし確かに見覚えがある。
 ――可哀想な、狼……。
 顔までは見えない、けれどあれは。
「まさか……ヴィルッ!?」
 その名を呼び、思わず手を伸ばそうとしたところで世界が途切れた。

 ◆◆◆◆◆

 儀式の時間は迫っている。
「もうすぐで、君の命が終わる」
 祭壇の上に縛り付けたミザリーの頬をハデスは撫でる。
「君は冥府の生贄となり、僕の力となる。どう? もうすぐ死ぬ気分は」
「最悪」
 首だけを動かして、ミザリーはハデスを睨みつける。
 ハデスの言う事によると、自分はこれから冥府の魔物たちに嬲り殺され死体を食い尽くされるのだとか。
「一応ロゼウスをおびき寄せる為の人質とはいえ、こっちの儀式も結構重要なんだ。始めさせてもらうよ。弟さんが助けに来なくて残念だったね」
 ハデスの言葉に、ミザリーは皮肉に笑った。
「この臆病者」
 ぴたり、とハデスが動きを止める。
「卑怯者とは言わないわ。弱い者が知恵を凝らすのは当然だもの。だけど、あなたは臆病者よ」
「何……?」
「あなた、そうやっていつも罠を張り巡らすばかりで、でも正面からロゼウスと向き合ったことがあるの?」
 ロゼウスと、正面から。
「ドラクルがあの子を敵視しているのはわかる。あの兄にはわかりやすい理由があるからね、王太子の座を奪われる、と。けれど、あなたは何なの? 何故そんなにロゼウスが憎いの? あの子はあなたに何もしていないのに」
「……ロゼウスが皇帝になれば、僕と姉は前皇帝とその選定者として殺される」
「そんなの、わからないじゃない。ロゼウスは権力欲で相手を殺すような子じゃないわ。それを美徳とは言わない。自分以外の人間に関心がないだけだもの。でも帝国宰相、あなたは何なの? あなたはロゼウスのことを何も知らずに、ただ敵対心を抱いているだけじゃないの。どうしてあの子と向き合おうとしないの? 喧嘩を売るのは、その後にすればいいじゃない」
「わからないの? 僕だってドラクルと同じだよ。ロゼウスがいれば無条件でこの存在を抹殺される。死にたくないと思うのに理由がいるかい?」
「本当に? 嘘でしょう? あなたの思惑は、もっと別のところにあるんじゃないの? あなたはそれが上手くいかないからって、ロゼウスに八つ当たりをしているんでしょう。あの子にあなたを理由もなく殺す気概なんて良くも悪くもないわよ。あなたがあの子に何かしない限り、ね」
 ミザリーは皮肉に笑ってハデスを嘲り、ハデスはハデスでその漆黒の瞳を酷薄に細める。
「……何とでも言えばいいよ。囚われのお姫様。どうせ君は、ここで死ぬ」
ハデスが視線をやった方を見遣ると、そこにはまだ遠目だが、目を疑うような魔物の大群がこちらへと向かってきていた。段々とその足音と振動がこの場所まで伝わってくるようだ。
「うるさいんだよ。お前も、姉さんも、あの男も。誰が何を言ったって、僕の心は変わらない。ロゼウスと姉さんを殺してこの世界を奪う」
 そしてハデスは口を開くと、滅多に使わない呪文の詠唱を始めた。彼ほど高位の魔術師になると、生半な魔術で呪文など必要としない。これは、ハデスが真剣であり、それほどこの魔術が重要であるという証だ。
 滅びの時間が迫っている。

 ◆◆◆◆◆

 ざわざわと何かおぞましいものが地を這う気配がする。
「我が声に応えよ、我が言葉に集えよ、タルタロスの魔物たち、我が望みのために、ここに冥府の生贄を捧げる」
 ハデスの呪文が終わらないうちに、神殿を目指して魔物たちが集まってくるのが祭壇に縛り付けられたミザリーの眼にも見える。最初は灰色の影からはじまり、今ではその畸形がヴァンピルの視力を持つ彼女にははっきりと見て取れるようになった。遠目に赤い点としか見えない魔物たちの眼が、爛々と輝いている。
「さて、儀式の始まりだ」
 カッチリと隙なく黒服を着込んだハデスの方は、その言葉と共に、祭壇から離れる。
「君は冥府の生贄だ。これからこの魔物たちに犯しつくされ、殺されて死体を食べられる」
 冥府に住まう生き物の生態は地上の生き物とは本来違う。
 生き物とは言っても本来死者の行く先と言われる冥府に彼らが棲むからには、そこには条件があるわけだ。冥府の魔物たちは本来食事を必要としていない。実体があってその生命活動を維持するという生物の形態を保っているわけではないので、定期的な食事などは必要がないのだ。
 では何故その冥府の魔物が人間を喰らうのかと言えば、それは彼らの魔術に関係する。
 魔力は無尽蔵にそこに溢れるものではなく、一定条件の下では有限な資源である。例えば人間や地上の魔族が持つ魔力は、その本人が食事を摂り睡眠を取り日常生活を送る中で熱分を作り力に変えるように使ってはまた作られるその人物が生きている限り半永久的なサイクルの中にあるが、冥府ではそうもいかない。
 食事も睡眠も本来必要としないという魔物の生態は本来この環から外れている。彼らの魔術の使い方は、自分の近くどこかに在る魔力を使うというものだ。しかし人間や魔族の身体の中にある魔力と違って、見えない箱の中に入れておいた魔力量には限りがあるのだ。大きな術を使うときにその不足分は自分自身で生み出すか、あるいはまたどこか別の場所から補わねばならない。
 その魔力を補い、または生み出す儀式が「生贄」である。
「ロゼウスは来ないね。まあ僕には好都合だけど」
 ハデスの言葉に、ミザリーはほとんどそうと気づかれないほど僅かに眉を歪めた。
 魔物たちはすでに人間の視力でもその姿形がわかるほど彼女たちの間近に迫っている。大きな百足のようなもの、目がいくつもある兎、逆に一つ目の豹や鱗の生えた獅子、蜥蜴の頭にサイの体を持つような生き物、翅の生えた大蛇、巨大な蜻蛉、言葉では説明しがたい、地上のものではない姿形をしている魔物たち……。
 あれに殺されるどころか、触れられると考えただけでも気が遠くなってくる。いっそひと思いにここで死にたいぐらいだ。どれだけ傍若無人でも人間であるハデスならまだしも、あんな化物に触れられるのは嫌だ。
 だが、祭壇に縛り付けられ、身動き一つとれないミザリーにはなす術がない。そして例えこの身が自由であろうとも、もともとヴァンピルにしては無力なミザリーにはあんな魔物の大群に対抗できる力はない。
 私はここで死ぬの? エヴェルシードに祖国を滅ぼされた時よりも強い絶望が襲う。あの時も一方的な暴力に一度命を奪われたけれども、ここまで理不尽な思いは感じなかった。
 ここでミザリーが死んで魔物たちの餌と成れば、それはそのままハデスの力を上げることとなるのだという。つまり、ロゼウスを不利にさせてしまう。ミザリーがロゼウスを貶めるのだ。
 無力な自分が恨めしい。これが他の兄妹であれば、こんな無様なことにはならなかっただろう。先日死んだウィルでさえ、腕力ならばハデスには負けないはずだ。末っ子のエリサだってそうだ。隙を衝けばハデスとせめて互角には戦えるだろう。それができないのは、ミザリーだけだ。
 その弱さのために、ミザリーはここで死んでいく。
 そう確信した時に脳裏に想いうかべたのは一人。死に際に人ならば神の名を呟くと言う。シュルト大陸で普及しているのはラクリシオン教がほとんどで、ローゼンティアも魔族の国だがその例には漏れない。しかしミザリーが思い浮かべたのは神ではなかった。
 すでに亡くなった両親でもない。無能な自分をいつも冷たい眼で見ていた長兄ドラクルでもない。優しいが多少優柔不断と言われる第二王子でも、すぐ下の第三王子でも、美しく覇気があり芸術に優れる第一王女でも影の薄い第二王女である姉たちでもない。すでに亡くした弟であるミカエラやウィルたちでもなければ、ロザリーやエリサ、気の弱いメアリーのような妹たちでもない。
 こんな時に、絶体絶命の時に、神の代わりに叫ぼうとした名はただ一つ。
「―――ッ!!」

 その存在は、世界における神の代行者。

「姉様!」
 次の瞬間、迫り来ていた魔物の一群が吹き飛ばされた。