荊の墓標 35

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 祭壇前に集まってきている魔物たちをロザリーやアンリが吹き飛ばす。
「ハデス!」
 一方この一連の事態の首謀者のもとにはシェリダンが飛びかかっていった。
「シェリダン! お前か!」
「ああ! さっさとミザリー姫を返してもらおうか!」
 どうせ姿形の大きな異形の魔物たちと戦えば人間であるシェリダンたちの体力などすぐに尽きてしまう。それでもエチエンヌやローラ、リチャードにクルスはロザリーたちの援護へと回したが、ハデスの足止めをするなら、シェリダン一人で充分だ。
 無事に神殿前でアンリたちと合流できたロゼウスたちは、魔物たちを弾き飛ばしながら一目散に祭壇へと向かった。ここまで来たなら小細工はいらない。
 ラダマンテュスのように人間の姿形に近い高位の魔族がいるならばもう少し複雑な対策を練らねばならないだろうが、見たところハデスの周囲には彼以外に人間の姿も、人間に似た姿もない。そうなれば後はろくな知能を持たない下等な魔物だけが相手で、彼ら相手に高等な作戦はいらないだろう。そんな時間があったらとにかく叩き潰すのみだ。
 そしてこの場で唯一野放しにしていてはいけないハデスには、シェリダンが向き合う。
 薄灰色の神殿は、すぐに彼らが巻き起こした別の色で染まった。魔物たちの紫色の血と、緑の体液だ。少し小高い丘に立ち目の前に緑柱石色の湖がある神殿だが、その湖にロザリーやエチエンヌたちが遠慮なく魔物たちを叩き落している。
 シェリダンの長剣での一撃を、ハデスはどこから取り出したのか、丸腰だったにも関わらず宙から引き抜いたらしき短剣で防ぐ。獲物の長さと強度を考えれば命懸けのその防御から一転して、ハデスは素手の右手でシェリダンに反撃した。
 獣が相手を爪で引き裂くように伸ばされた右手。シェリダンはその一撃を難なく避けるが、その際に不思議な違和感を覚えた。
「!」
「ちっ」
 交わされたことにハデスが苛立った舌打ちをするが、シェリダンはそれが肌に掠りもしなかったのに背中に冷や汗を流す。
(今のは……)
「ハデス、お前それは……」
「ああ。さすがに君ほどの武術者ともなればこれの威力が肌で感じられるってわけ? そうだよ。これは冥府の魔力をつぎ込んだ爪」
 にい、と唇を歪めたハデスが追撃する。
 たかが爪での攻撃などに、長剣を持つシェリダンが後ずさりした。
「勘がいいね、だけど!」
 ハデスははじめにシェリダンの攻撃を防いだ短刀も持ち出して斬りかかって来る。しかしシェリダンも負けてはいない。
「いくら八十年以上生きた帝国宰相だろうと、この軍事国家の王にその程度の腕前で勝てると思うか!」
 ハデスの右手の爪がどんな力を秘めているのかはともかく、それがとてつもない力を持っているものだということはわかった。
 ならばそれを使わせなければいいだけだ。シェリダンはそう判断すると、すぐにいつもの調子を取り戻して自分から相手に仕掛ける体勢になる。
 爪を魔力で強化したとはいえ、それが生えている指も腕もハデス自身のもの、脆弱な人間の体にそぐわないその武器をつけたハデスはそうである以上必死だ。爪でなら剣を受けとめられるが、目測を誤って腕を落とされてはたまらない。
 シェリダンは見た目に似合わぬ力で剣を振るい続ける。爪ではその攻撃を受け止めきれず、防御が完全でない以上反撃もできないと悟ったハデスは爪を使うのを諦める。
「このっ」
 再度の舌打ちと共に今度は空中からシェリダンの扱う武器に見合った剣を取り出した。これでようやく両者の備えは互角だ。
「異形の力に頼りすぎではないのか? ハデス。いくら人間が魔物や魔族に比べてしまえば脆弱な種族だろうと、知恵を凝らせばその差を埋めることもできるはずだ」
 かつて人間の身でありながら、ドラクルの手引きがあったとはいえ吸血鬼の王国ローゼンティアを滅ぼした少年は言う。
 相手の力、そして己の現状と真剣に立ち向かえばできないことなどないはずだ。シェリダンはそう信じている。その意味が他者には充分負け犬の遠吠えに見えるような結果であったとしても、本人が納得できればそれでいいではないか。
 だがハデスは納得できないのだという。
「ほざけ! お前に何がわかる!」
 ハデスとて伊達に帝国宰相として長い時を生きてはいない。大人の姿の時ほどではないが、この少年時の姿でもそれなりの実力は有している。
「ハデス! 今ならまだ間に合う! 抵抗をやめて、ミザリー姫を返せ!」
「やなこったね!」
 鍔迫り合いの際にシェリダンはそうハデスに呼びかけるが、ハデスはシェリダンの言葉を一笑に付して、その一撃を打ち払うと共に距離をとった。
「わからないの? シェリダン? 僕はもうローゼンティアを簒奪するドラクルの計画にも手を貸したし、エヴェルシードを君から奪ってカミラ姫に渡した。ミカエラ王子も殺したし、ヴィルヘルムを唆して結果的に死に導いたのもこの僕だ。僕はもうどうやっても、この血濡れの道以外を進むことはできないんだよ!」
 最後は叫ぶような調子でハデスは語気を強め、それと同時に大振りの一撃を隙なくシェリダンに浴びせた。咄嗟に防御の姿勢をとったシェリダンは、奥歯を噛み締めながらそれに耐える。
 お互い一歩引いて距離を取り直して、また向かい合う。ハデスはこうしている間にも他の者たちがどんどん自分の計画を邪魔しているのがわかっている。だが。
「ハデス」
 シェリダンの言葉から身をそらすことができなかった。理性はこのままシェリダンを無視すれば背後から斬りつけられるからだと言っているが、だが、そういったことよりも……。
「それは、姉君のためか」
 脳裏を過ぎる寂しげな微笑と、甘い声と。
 その残酷な裏切りの夜と。
 ぎりりと唇を強く噛んで舌に錆びた鉄の味を乗せながら、ハデスは苛立ちのままに怒鳴りつける。
「うるさい!」
 叫ぶというより、むしろ悲痛なその声にシェリダンは一瞬目を瞠り、そして告げる。
「ハデス! 例えロゼウスが次の皇帝になったとしても、お前やデメテル陛下を無闇に殺したりなどしない!」
「そういうことじゃない! 例え本人がどうであれ、運命は変わらない! 次代皇帝は先代の皇帝を殺すために生まれてくる!」
「そんな運命、どうして信じられる! 納得ができないものならば、変えて見せればいいだろう!」
「だから今……変えようとしているんだろうが!」
 叫ぶと共にハデスはシェリダンの剣を払い上げるように一撃を加えた。
 得物を弾き飛ばされるのをなんとか堪えたシェリダンは、しかし後退せざるを得なくなる。その様を皮肉げに笑んで見遣ってから、ハデスはこれまでとは打って変わって無防備にシェリダンへと背中を向ける。
 祭壇を背にして戦っていた彼の背後では、ロゼウスがミザリーの縄を解いていた。ハデスもそれに気づいていなかったわけではない。
「!?」
 いきなりのことにぎょっとするロゼウスにそれを告げる。
「いいことを教えてあげる。ロゼウス。お前もこれまでさわりくらいは聞いたかもしれないだろうけど、きっとちゃんとした預言者がそれを教えてくれることはなかったんだろ? じゃあ僕が言ってあげる。これがお前の運命だと!」
 ハデスの口ぶりにハッと何かに気づいた様子のシェリダンが顔色を変えて叫ぶ。
「やめろハデス! 言うな!」
「黙れ! いいじゃないかシェリダン。僕はお前のためを思って言ってやるんだよ」
 預言者の唇は絶望を放った。

「ロゼウス=ローゼンティア! シェリダンを殺すのは、お前だ! お前はシェリダン=エヴェルシードの命を糧に、皇帝という至高の座を得る!」

 ◆◆◆◆◆

「姉様!」
 ハデスはシェリダンに、魔物の軍勢はロザリーたちに任せ、ロゼウスは祭壇に縛り付けられているミザリーのもとへと駆けつけた。
「ロゼウス、あんた……」
「姉様、無事?」
 冥府への生贄にされかけていたミザリーは、ロゼウスの顔を見て何故か呆然とした表情を見せる。
「遅くなってごめんなさい。今、縄を解くから」
 四肢を祭壇に固定されているミザリーの手元の縄をまずロゼウスは外す。縄と言ってもここはさすがハデスというところか、対ヴァンピル策は怠らない。銀を織り込まれた縄は吸血鬼の力を奪うものだ。
 右手、左手……それでも織り込まれた銀のせいでまだろくに動かないミザリーは自力では固く結ばれた縄を解くことができず、両足の縄もロゼウスが外すのを待つ。
 ようやく全てを外し終わった時には、くっきりと赤い痕が残ってしまっている。しかしそれもいったん縄さえ外してしまえば、すぐにヴァンピルの再生能力でもとへと戻るだろう。
「姉様、怪我は……」
 ロゼウスが見たところ、ミザリーの身体にこれと言って目立つような傷はない。だが、裸に布一枚かけられていただけの彼女の全身を隈なく見たわけではないので、細かいことはわからない。
「ないわ。別に」
 今はもうほとんど影響ないが、あの行為の後下肢を鈍く苛んでいた痛みを思い出してちりりとしたミザリーは、しかし首を横に振る。
「よかった……」
 その答に安堵したロゼウスが息をつくのを聞く。ふと気づいたように彼は、着る物のないミザリーへと自分のコートを差し出した。ロゼウスが着て膝まで届く長さのあるコートだ。対して身長の変わらないミザリーが着ても同じくらいの長さとなる。
 しかしこういうところにすぐに気づかないで一拍遅れて気づく辺りがロゼウスだ、ともミザリーは思った。身体こそ、まだどこか華奢な印象が残るとはいえ男の体型になってきた弟は、しかしこんなところばかり昔と変わらない。変わらないのだとミザリーは思っていた。だが……。
 ロゼウスがふいに表情を張り詰めさせ、一点を見た。
 何故かシェリダンと手合わせしていたはずのハデスがこちらを振り向いている。二人の決着はまだついたようではないのに、ハデスには余程叩きのめされた様子も、その逆もない。
「!?」
 いきなりのことにぎょっとするロゼウスに構わず、残酷で、それでいてどこかが欠けた歪な笑いでハデスはそれを告げる。
「いいことを教えてあげる。ロゼウス。お前もこれまでさわりくらいは聞いたかもしれないだろうけど、きっとちゃんとした預言者がそれを教えてくれることはなかったんだろ? じゃあ僕が言ってあげる。これがお前の運命だと!」
 ロゼウスは怪訝そうに眉を潜めたが、それまでハデスと相対していたシェリダンはそのハデスの口ぶりにハッと何かに気づいた様子で、顔色を変えて制止を叫んだ。
「やめろハデス! 言うな!」
「黙れ! いいじゃないかシェリダン。僕はお前のためを思って言ってやるんだよ」
 そのハデスの言葉と共に、絶望が叩きつけられた。
「ロゼウス=ローゼンティア! シェリダンを殺すのは、お前だ! お前はシェリダン=エヴェルシードの命を糧に、皇帝という至高の座を得る!」
「――え?」
 何、を。
 言われているのかわからない様子で表情を失くすロゼウスへと、更にハデスは言葉を叩きつける。言葉で人が傷つけられるならば、これほど簡単なことはないとでも言うように。
「言葉の通りだよ! 薔薇皇帝。お前が真の皇帝となるのに必要不可欠な条件は、シェリダンの死だよ。それも、お前が殺すんだ」
 まぎれもなく、はっきりと、「ロゼウスが殺す」。
 そう言い切ったハデスの言葉に動揺し、ロゼウスは動けなくなる。せいぜい口を使うのが精一杯だ。
「な……何を言っているんだ! 俺がシェリダンを殺すなんて……そんなこと、あるわけない!」
「あるんだよ、実際に。僕はこの目で未来を見た」
 剣を持っていない方の手で片目の瞼に軽く触れるハデスは、ロゼウスの言葉を一笑に付す。
「嘘だと思うなら僕以外の預言者にでもなんでも聞いてみればいいだろう? だけど僕は知っている。いつどんなことで変わるかわからない未来の中で。これだけはいつも不変だった。お前はこの先、何がどうあったってシェリダンを殺すんだよ!」
「嘘だ!」
「嘘じゃない」
「そんな……そんなこと……」
 確かに吸血鬼は人間の血を吸う生き物。
 だがそんなことがあるはずがない。
 そんなことをロゼウスが自分自身に許せるはずがない。あのシェスラートがシェリダンを殺そうとした時でさえ、ロゼウスは一時的にその力を封じ込んで抑えた程なのだ。その彼も消えた今、これから先何があったって、シェリダンをそんな目に遭わせることなどあるはずがない。
「本当に?」
 しかしロゼウスの葛藤をまるで手に取るように理解していると言った様子で、ハデスは追い討ちをかける。
「自分の敵は自分自身なんだよ、ロゼウス」
「――その言葉、あなたにもそっくり返されるようだけど?」
 ロゼウスを嘲笑うハデスに向けて、弟の代わりにミザリーが言った。
 背後からの殺気に気づき振り返ったハデスは、間一髪でシェリダンの剣戟を受けとめる。
「ハデス……お前!」
「なん、だよ! シェリダン! 本当のことだろう。それに、お前はその様子だと自分に起こることを知っていたみたいじゃないか」
 ハデスの言葉に、シェリダンはぐっと詰まった。かつて古代の巫女姫サライに言われた言葉が、そんなことあるはずがないと思いながらも心のどこかに引っかかっている。
 そして今、これまで遠回しにロゼウスに関わることを忠告してきたハデスの口からも、同じ言葉が飛び出た。
 だけど、だが……それでも。
「それでも私はロゼウスの側にいる」
「殺されても構わないってのか?」
 声には出さず小さくシェリダンは笑った。
 忌々しげな舌打ちと共に、ハデスが力押しでシェリダンの剣を押し返す。
「シェリダン! ……ごめん姉様、俺」
「行ってきなさい。そろそろアンリ兄様たちも来るし、私は大丈夫」
「ごめんなさい」
「うっさいわね。さっさと行け」
 ロゼウスはミザリーの傍らから飛び出し、シェリダンへと加勢する。
 流石にハデスの力が増すここは冥府と言えども、ロゼウスとシェリダンの二人を相手取った剣での戦いはきつい。ハデスはいったん二人から、そして戦場全体からも距離をとり、体勢を立て直す。一振りで表れた黒い杖を振り、魔術で応戦しようとする。
 しかしそれもロゼウスが本気を出せば無駄だ。
 二度目の舌打ちをした冥府の王は、神殿の屋根に飛び上がると、何かの呪文の詠唱を始めた。不穏な力は黒い光の塊となってハデスの掌上へと集まる。
「何をする気だ!」
 ロゼウスが追撃して攻撃しようとも、さすがに杖に魔力を帯びさせた武器で跳ね返してしまう。ならば直接屋根に上り物理的に攻撃をしかけるまでだとロゼウスが飛びあがったところで、ハデスの呪文が完成した。
「お前を貶める手段は、何も直接殺すことだけじゃない」
 陰惨な微笑を浮かべたハデスは、ロゼウスに向けて放つかと思われた光の塊を、まったく明後日の方角に向けて振りかぶり放った。
「何……?」
 ロゼウスには咄嗟に、その意味がわからなかった。ハデスが狙ったのは本当に誰もいない場所で、しかもかなりの遠距離だ。ロゼウスとは別の方向に光を投げるとはいえ、別に仲間の誰を狙ったわけではない。
 しかし、神殿の下から屋根上でのその光景を見ていたシェリダンは顔色を変えた。こちらの動向に気づいた、これまで魔物の相手をしていたアンリも同じように事態に気づく。
「えぇっ!」
「しまった!」
 叫んだシェリダンにロゼウスは戸惑いながら尋ねた。
「な、何」
「あの方角、私たちがここへとやってきた扉のある方角だ! まさか、それを――」
 そこに来てようやくロゼウスもハデスが何をしようとしていたのかに気づいて顔面蒼白になる。
 冥府への移動は、定められた扉からしか行き来できない。それを破壊されてしまえば、地上へと帰る手立てがない。
「まさか……」
 愕然とするロゼウスの耳に、自暴自棄になったようなハデスの言葉が響く。
「お前たちはこの死者と魔物の園で、せいぜい絶望すればいいんだ。アーハハハハハハ!」
 魔物たちをあらかた倒し終えてやってきた他の者たちの耳にも、その耳障りな哄笑だけは鮮やかに届いた。